#20 人によって似合う場所が違う
紬はペンを指先でくるくると回しながら、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を口にした。
「……あの、紹介状って、作ってもらったことありますか?」
葉月はすぐに「私はないよ」と即答したが、沙耶は一拍だけ間を置いて、控えめに手を挙げた。
「……私、一回だけあります」
紬は身を乗り出す。
「えっ、どんなときに?」
沙耶は軽く息を吸ってから、静かに話し始めた。
「高校のとき……橋本病って診断されたんです。それで、最初に行ったクリニックの先生が、“一度きちんと精査しておいたほうが安心だね”って言って、甲状腺専門の病院へ紹介状を書いてくれました」
紬の表情が、ふっと引き締まる。
「精査って……どんな……?」
「エコーとか、詳しい採血です。甲状腺って、腫れと腫瘍の区別がつきにくいこともあるみたいで……がんの可能性がゼロじゃないから、専門の先生に診てもらいましょうって」
「……それ、かなり怖くない?」
沙耶は小さく苦笑した。
「はい。正直、すごく怖かったです。
『紹介状お持ちですか?』って受付で聞かれると……なんか、自分がクリニックでは対応できない“重大な病気かもしれない人”になった気がして」
一拍置いて、ぽつりと続けた。
「あの紙一枚、すごく重かったですよ」
その言葉に、葉月も静かに頷いた。
「紹介状ってね、患者さんにとっては“今の自分がどう評価されているか”を突きつけられるものなんだ。特に“除外診断”っていう考え方は、医療者にとっては日常でも、患者さんには相当な緊張になる」
沙耶は少し俯きながらも、落ち着いた声で続けた。
「結果は、ただの橋本病でした。腫瘍もなかったです。でも……“何かあるかもしれない”って思いながら、紹介状を持って別の病院に行くのって、本当に心細くて」
紬は、噛みしめるように何度も頷いた。
「……紹介状って、病院側の書類っていうより、患者さんの気持ちごと運ぶものなんですね」
葉月は淡々と、けれど優しく言葉を添える。
「そう。紙一枚だけど、すごく重い。患者さんの不安も、経過も、全部詰め込んで次の医師に託す――“橋渡し”の書類なんだよ」
紬は深く息を吐いた。
理解した、というより、腹に落ちたような表情だった。
そして、ふと首を傾げる。
「……でも、そんなに大事な書類が……紙なんですか?」
ぴたり、と葉月の動きが止まる。
沙耶もペンを握ったまま静止した。
「え……?」
「え……?」
紬は慌てて付け足す。
「い、いえ、その……医療って、もっとデジタル化されてるイメージがあって……紹介状も、ICカードとかアプリとか、そういうのかと……」
葉月は数秒沈黙してから、ため息をひとつ。
「――紙だよ。A4の。折るとシワになるやつ」
沙耶は肩を震わせて笑いをこらえ、紬は目を丸くした。
「えええ……!? がんの可能性もあるから精査、って話なのに……紙なんですか……!?」
「紙が一番確実なんだよ。病院ごとにシステムは違うし、外部と簡単にデータ共有できない。停電しても読めるし、壊れないし、どこの病院でも受け取れる」
「……紙、最強……?」
「紙、最強」
紬は衝撃を受けたままノートに大きく書き込んだ。
葉月はその文字を横目に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「だから、紹介状を扱う仕事は、ただの事務じゃない。“気持ちを落とさないように案内する”っていう、医事課の腕が試される場面でもあるんだよ」
会議室の空気が、静かに、しかし確実に現場の重みを帯びていった。
「……でも、葉月さん」
沙耶がふと手を挙げる。
「紹介状が基本ってなると、毎日すごい量を処理することになりますよね? 正直、紹介状の対応だけで一日が終わりそうな気がして……」
「うん、大変だよ。初診のときは特にね。内容を確認して、診療科に共有して、カルテに取り込んで……」
「しかも、まだ紙なんですよね? PDFで送れたら楽なのに、って思っちゃいます」
葉月は小さく笑って、首を横に振った。
「気持ちは分かる。でも、それができないのには理由がある」
声のトーンを落として、丁寧に続ける。
「紹介状には、病名、検査結果、服薬履歴……時には家族のことまで書いてある。
だから、簡単に送れる形にはできない。扱う情報が、あまりにも重いからね」
二人は同時に頷いた。
「じゃあ、紹介状って、全部“手で”病院まで持ってくるんですか?」
「基本はそう。でも、最近は一部の病院同士で電子紹介状のやりとりも始まってるよ。もちろん、専用のセキュリティシステムを通してね。でも、全国でそれが使えるわけじゃないし、まだ完全に普及してるとは言えないかな」
「全部の病院で使えるわけじゃないんですね」
「うん。だから今は、紙と電子が混在してる過渡期」
「ただ、将来的には、紹介状や検査情報のやりとりも電子化が進んでいくと思うよ。実際、“医療DX”って言葉が最近よく出てくるようになってきてるし」
「ディーエックス?」
「“デジタルトランスフォーメーション”の略。つまり、医療の現場をもっとデジタルで効率化していこうっていう国の方針だね。電子カルテの共有、オンライン診療、紹介状の電子送信……全部、その流れの中にあるの」
「じゃあ……将来的には、紙の紹介状がなくなる日も来るかもしれないんですね」
「うん。でも、情報の安全性と信頼性が確保されることが大前提。いくら便利でも、患者さんのプライバシーを危険にさらすような仕組みだったら、意味がないからね」
ホワイトボードの上段、空いていたスペースに、新しい枠が描かれる。
【医療情報共有ネットワーク(厚労省)】
・電子紹介状
・検査・服薬情報の共有
・全国連携を目指す制度
「あと、うちの病院にもあるけど、比較的大きな病院は“地域連携室”っていう部署が紹介状の窓口を担っていて、他の医療機関との調整をしてくれてるの」
「へえ……そういう部署があるんですね」
「うん。地域のクリニックや他の病院から送られてくる紹介状を受け取ったり、逆にこっちから紹介するときの調整をしたりする窓口で、一日に何十件もの紹介状を処理してるよ。ゆるく言えば“病院同士の受付”みたいな感じ」
「あっ……だから“地域医療支援病院”って紹介が多いんですね」
「そうそう。たとえば、近くのクリニックから“この患者さん、検査をお願いしたいんだけど”って依頼が来たら、その連絡を受けて、日程調整して、担当診療科に振り分けて……って全部やってくれるのが地域連携室。受付とは別で、対医療機関とのパイプ役なんだよ」
沙耶は「へぇ……!」と感心したように目を丸くした。
紬が思わず「裏方のプロですね……」と呟くと、葉月は笑って頷いた。
「まさにそう。でも、その“裏方”がいないと、大きな病院は回らないからね」
そして、ふっと空気を和らげるように言った。
「とりあえず、紹介状の説明はこんなところかな」
葉月はペンを置くと、二人へ向き直った。
「残りの時間……“水族館デートの話”、続ける?」
沙耶が即座に机を叩いた。
「お願いします!!!!」
紬は吹き出し、葉月はわずかに頬をかきながら、ほんの少しだけ肩を落とした。
「……やっぱりこうなるのか」
ひと息ついたところで、沙耶がすかさず身を乗り出す。
「じゃあ!! さっきの続き……っ! 最初のデートが水族館、アリですよね!?」
「……まあ、アリじゃないかな。木崎さんなら」
水族館。照明が落ちて、距離が近くなる場所。
そういう空間では、柔らかい雰囲気を持った人のほうが、自然と空気に溶け込みやすい。
(私みたいなのよりは、ね)
葉月はその考えを口に出すことなく、心の中で小さく肩をすくめた。
そのわずかな間に、紬はなんとなく察していた。
“木崎さんなら”という言い方の裏にあるものを。
「き、木崎さん“なら”……?」
沙耶の笑顔に一瞬ひびが入る。本人だけが自分の魅力に気づいていない。
そして、その微妙な反応を拾った紬が「お?」と目を丸くする。
葉月は特に悪気もなく、淡々と続けた。
「水族館って、暗くて、距離が近くなりやすい。ムードが出るのは……木崎さんみたいなタイプ。
沙耶の耳が一瞬で真っ赤になった。
葉月は淡々としている。褒めているのか、分析しているのか、判別できない声。
紬は「ほほう……」と、少し楽しげにその診断を聞いていた。
沙耶は両手で顔を覆いながら、かすれ声で尋ねた。
「……じゃあ……じゃあ葉月さんは? 葉月さんだったら、水族館デート……アリじゃないんですか……?」
葉月は少しだけ視線を横へずらし、自分の胸元を軽く見下ろした。
「私は選ばないかな」
沙耶は息をのむ。紬は目を瞬かせる。
葉月は、少し言いづらそうにしながらも、正直に言った。
「私は……暗いところに行っても、“ムードが出る”タイプじゃない。シルエットが細すぎるし、顔立ちも強いから」
一拍置いて、淡々と締める。
「つまり、水族館の“雰囲気づくり”に向いていないの。私は」
言い切る声はサバサバしていて、卑下でも自虐でもない。ただの事実報告のように冷静だった。
だが、聞いている側へのダメージは、わりと大きかった。
「……そんなこと……ない、と思いますけど……」
沙耶が小さく呟く。
「むしろ、葉月さんみたいな人のほうが、シルエットがきれいに見えて……なんか……その……大人っぽくて……」
言いながら、自分でも照れて視線をそらす。
すると紬がひそひそと近づいて、沙耶の耳元で囁いた。
「……沙耶ちゃん。水族館デートに誘うなら今だよ!?」
「ちがっ……! ち、ちがいますからっ!!」
顔を真っ赤にしてバタバタする沙耶を、葉月はぽかんと見ていた。
その様子を見て、少しだけ困ったような、でも柔らかい声で付け足した。
「……ただ、人によって似合う場所が違うって話をしただけだよ。水族館は“木崎さんの良さが出る場所”っていうだけ。私なら、別のほうがいいってだけ」




