#19 本当に必要なときには、ちゃんと例外がある
「……さっきの話の続き、どうなるんだろう」と紬が小声でつぶやくと、
「大丈夫よ、私が説明するから」と、落ち着いた声が返ってきた。
二人の前に立っていたのは、葉月さん。
長身で、細く華奢な手足。性別を間違われることもありそうなほど、どこか中性的な雰囲気をまとっている先輩だった。
紬と沙耶が静かに席へ戻ると、葉月は何気なくホワイトボードへ視線を向けた。
そこには、愛美が先ほどまとめていたらしい「紹介状」「医療機関の機能分化」などの文字が、やや下寄りに並んでいる。
愛美は背が低く、高いところには手が届かない。
そのせいで、ボード上部にはぽっかりと広い余白が残っていた。
葉月はペン跡を追いながら、淡々と呟いた。
「……なるほど。大体、どういう話をしたのかは分かるね」
内容を聞いていなかったはずなのに、字面と並び方で意味を拾っていく。
「こうやって“前の人の情報”が残るのは……紹介状と同じ。引き継ぎが効率的になる」
落ち着いた声でそう言いながら、視線を下に滑らせた。
途端に、葉月の目が細くなる。
ホワイトボードの最下段。他の医療用語とは明らかに違う文字が、無造作に並んでいた。
デート、水族館、1回目、夜
葉月はしばらく無言でそれを見つめ、やがてふたりのほうへ視線だけ向けた。
「……で。これは?」
穏やかだが、感情をあまり乗せないクールな声。
紬と沙耶は、簡単にそこに至る流れを説明した。
「……で、その……“患者さんがどの医療機関に行くべきかって、なんか段階を踏んでいく感じがデートに似てる”って話をしてたんです」
「それで……最初のデートが水族館ってアリかどうかって話になって! 暗いからムードがでるとか、距離感がどうとか。でっ……でですね葉月さん」
「……なに?」
「葉月さんは、どう思いますか? 最初のデートで水族館って、アリですか!? ナシですか!?」
身を乗り出す勢いに合わせて、視線まで吸い寄せられたように葉月をじっと見つめる。
その瞳はなぜか、ほんのりと潤んでいた。
“評価を聞きたい後輩”というより、“好きな人の答えを期待して待つ女の子”の顔に近かった。
葉月は、そんな沙耶の様子にわずかにたじろいだ。
ほんの少しだけ、眉が動く。
「……うーん」
手に持ったペンを軽く回しながら、視線を宙に泳がせる。
迷っているというより、慎重にタイミングを測っているような間。
紬は固唾を飲み、沙耶は胸の前で手をぎゅっと握りしめている。
「……まあ、水族館がアリかナシかはいったん置いておくとして、まずは紹介状の話の続きをしようか。必要な説明を終わらせないと、愛美さんに怒られちゃう」
葉月が淡々とそう言うと、沙耶も紬も、反射的に姿勢を正す。
「……は、はい!」
「お、怒られたくはないです……!」
二人がビクッとなる様子に、葉月がほんのりと口元を緩めた。
「まあ、実際に、愛美さんが怒ったところを見たことないけどね」
「時間が余ったら、デートの話をしよっか?」
葉月がそう言うと、沙耶が背筋をピンと伸ばした。
「……じゃあ、せっかくだし。紹介状で、まだ触れてない部分をいくつか補足しておくね」
声のトーンがすっと落ち着き、空気が自然と“勉強モード”へ引き戻される。
「まあ、デートの段階を踏むっていう例えは……あながち間違ってないかもしれない」
葉月は、ホワイトボードに向けていたペンをそっと下げた。
その表情は、さっきまでの柔らかさがすっと消えて、静かに、でもどこか現場の記憶を見つめるような目になった。
「……実はね、“医療の機能分化がなかったら崩壊する”って話……。コロナ禍のとき、実際に起きかけたの。」
葉月はふと、少しだけ真剣な表情になって2人を見つめた。
「ねえ、もし“医療機関の機能分化”がなかったら――病院ごとに役割を分けてなかったら、医療現場ってどうなると思う?」
沙耶が「うーん……?」と首をかしげると、葉月は続けた。
「コロナ初期、まだクリニックでは対応できないことも多くて……、結局、多くの患者さんが“念のため大きな病院へ”って集中しちゃった」
単なる風邪かもしれない人も、無症状だけど不安な人も、本当に重症の人も。
すべての患者が一斉に大きな病院へ殺到して、発熱外来に長蛇の列ができた。
救急車が来ても受け入れ先が見つからない。ICUが満床になって、重症患者の治療が遅れる。
「これが“医療崩壊”の一歩手前。実際、機能分化が不十分だった地域では、現場が本当に限界まで追い詰められた」
そのときだった。沙耶が、ペンを握りしめたまま小さく口を開いた。
「……あの、葉月さん。私……中学生のときにコロナにかかったことがあるんです」
葉月はすぐに沙耶へ視線を向け、続きを促した。
沙耶は一度息を吸い、あの頃を思い返すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「当時……家の近くのクリニック、どこに電話しても繋がらなくて。結局、“とにかく大きな病院の発熱外来に行ってください”って言われて……家族と車で向かったんです」
紬は黙って耳を傾ける。
「でも……診察まで、3時間くらい待ってました。駐車場に車がぎゅうぎゅうで、待ってる車が列になってて……窓も開けられなくて、暑くて、すごく心細くて」
沙耶の声には、少しだけあの時の体の弱さと心細さが滲んでいた。
「周りを見ると、同じように車で待ってる人ばっかりで……時々、防護服みたいなの着た看護師さんが、一台一台、確認に回ってて」
「そんなに……?」と紬が呟く。
「一番怖かったのは……その間、ずっと救急車が来ていたことです。何台も、何台も……サイレンが止まらなくて。でも、着いた救急車の患者さんがすぐ中に運ばれるわけじゃなくて、しばらく車の中で待っているのが見えると……」
喉が震えたように、沙耶は小さく唾を飲んだ。
「“え、救急車なのにすぐ診てもらえないの……?”って。病院が本当にいっぱいだったんだって……中学生でも分かるくらいでした」
葉月は静かに、でもしっかりと受け止めるように頷いた。
「……あの頃の現場を、そのまま見てたんだね」
沙耶は、小さく笑うというより“吐き出すように”息を漏らした。
「はい……。熱でしんどかったけど、それ以上に……“病院ってこんなに大変なんだ”って思って、怖かった。でも、今日の話を聞いて……“あれは仕方なかった状況だったんだ”って思えたんです」
紬は胸を押さえて、沙耶を見る。
「……沙耶ちゃん、そんな思いしたんだ……」
葉月は優しい目で言った。
「大きな病院に全部の患者が押し寄せるとね……救急も、病棟も、外来も、全部が限界になる。沙耶ちゃんが経験した“3時間の待ち時間”も、“何台も救急車が来ていた光景”も……あれはまさに、機能分化が不十分だった時代の象徴なんだよ」
沙耶は少しだけ視線を落とした。
「今日聞いて……なんか、少し救われた気がします。“ただ怖かっただけじゃなかったんだ”って」
葉月は微笑み、続けた。
「ニュースでは“病床が足りない”ばかり言ってたけど、実際には人が足りなくなっていた。患者さんは増えるのに、スタッフは感染や濃厚接触で減って……救急も受け入れ先がなくて、動けなくなっていった」
紬が「あ……」と小さく声を漏らし、沙耶は胸の前でそっと手を握った。
「そのとき私が勤務してた病院もね。何件も断らざるを得ない日が続いた。“病床は空いてるのに、入れられない”なんて日もあった。人が足りなくて……受け入れる余裕がなかったの」
沙耶が、力なく呟く。
「……そんなこと、あるんですね……」
「あるの。医療って、建物が大きいかどうかじゃなくて――人と、役割の連携で動いてるから」
そこでようやく、葉月は少しだけ柔らかい笑みを戻した。
「だから今の“紹介状”とか“機能分化”の仕組みって、ただのルールじゃないんだよ。“崩壊させないための仕組み”でもあるの」
紬はゆっくりと息を吐き、沙耶は胸の前で手を握りしめた。
その後、葉月は制度の説明に戻りながらも、沙耶の経験を何度も引きながら、丁寧に話を続けた。
紬は手元のノートにペンを走らせながら、ふと顔を上げる。
「……あの、葉月さん。大きな病院だと、選定療養費を取りますよね? たぶんあの頃の発熱外来を受診するときって、紹介状を用意してる場合じゃないですよね……」
葉月は少し間を置いてから、優しく頷く。
「そうだね。急に倒れた、意識がない、呼吸が苦しい……そういう状態の患者さんは、当然ながら紹介状なんて待っていられない。だから、“救急での受診”の場合には、初診時選定療養費はかからない」
紬の目が、驚きと安堵で大きく見開かれる。
「えっ、そうなんですか?」
葉月はホワイトボードのすみに、細めの丸文字で書き込む。
【補足】初診時選定療養費がかからないケース
・救急で受診した場合
・再診扱いとなる場合
・生活保護受給者、公費負担医療制度の対象者など
「つまり、“本当に必要なときには、ちゃんと例外がある”ってこと。国の制度って、いろいろ厳しそうに見えるけど、実はちゃんと“例外”も考慮されてるんだよ」
「よかった……。もし事故とかで救急搬送されたときに、『紹介状ないから3,300円です』って言われたら、たまったもんじゃないなって思ってて……」
「うん、それは大丈夫。制度は“患者さんを守るため”にあるものだから、緊急時に負担が増えるようなことは基本的にないよ」
沙耶は真剣にメモを走らせていた。
紬は手元のノートに「救急時は例外になる」としっかり書き込みながら、小さく頷いた。
「ちなみに、今の“救急の場合は選定療養費がかからない”っていう話。そこに、もう一つ大事な視点があるんだよね」
沙耶と紬が同時に顔を上げる。
「それが、救急車の“適正利用”っていう考え方」
沙耶が首を傾げる。
「てき……せい?」
「うん。本当に重症の人のために、救急車を無駄に使わないってこと」
葉月はペンを指先で転がしながら、説明を続けた。
「救急車って、ただの車じゃない。医療機器を積んで、救命のプロが乗ってる“移動する小さな救命室”みたいなもの。だから……必要なときに、ちゃんと空いていなきゃいけない」
紬は、当たり前のことなのに、なぜか胸に刺さった。
「日本では救急車って、呼んでも無料で使えるでしょ? でもね、それが逆に“気軽に呼びすぎる”ことにつながってるっていう現実もあるの」
紬が少し戸惑ったように言った。
「……たとえば、どういうことですか?」
葉月は少し間を置き、静かに語り始めた。
「たとえばね……沙耶ちゃんが中学生のとき、発熱外来で待っていたときのことを思い出してみて」
沙耶が頷く。
「はい……車がぎゅうぎゅうで、暑くて……」
葉月は視線を遠くに飛ばすようにして続けた。
「そのとき、駐車場には救急車も何台も止まっていたんだ。もちろん、本当に重症の人もいたけれど、中には、“熱が出たからタクシー代わりに救急車を呼んだ”、“夜に受診できる病院がわからないから呼んだ”、“救急車の方が早く診てもらえると思った”なんて人もいた」
沙耶は驚いた顔をして、声を漏らした。
「えっ……深夜に病院を探すのが面倒だから救急車……?」
葉月は少し頷き、静かに説明する。
「うん。“昼間は忙しいから”っていう理由で夜に救急車って人もいる。本人は不安で仕方なかったんだろうけど、こういう利用のせいで、本当に危ない人がすぐ乗れないこともある。だから“急を要するかどうか”を判断することが大事なんだ」
葉月は、そこではっきりと言った。
「もちろん、命に関わるようなときは迷わず119番で正解。だけど、“急いで診てほしいから”とか“夜間だから”って理由で呼んでしまうと、本当に必要な人――たとえば心筋梗塞とか脳卒中の人への対応が遅れることもある。そうなったら……取り返しがつかない」
沙耶が小さく息をのむ。
「……それって、ある意味“命の順番”が狂っちゃうってことですよね」
紬は思わず手を握りしめる。
「……じゃあ……救急車って、“呼んでいい時”と“呼ばないほうがいい時”があるんですね」
「そう。だから、国や自治体も、“救急車を呼ぶか迷ったら相談できる窓口”を用意したり、“救急受診ガイド”を作ったりして、適正利用を呼びかけてるんだ」
葉月は、声を少し落として続けた。
「だから、“何かあったらすぐ救急車”じゃなくて、“救急車が必要な状態かどうか”を判断することが大事。それが“適正利用”」
沙耶が、真剣な表情で問う。
「じゃあ……私たち受付も、“救急車を呼ぶべきかどうか”って相談されること、ありますか?」
「あるよ。そのうち日曜・祝日に出勤するようになったら、そういう電話対応もすることになる」
葉月は迷いなく答えた。
「“胸が痛くて息苦しい……”とか、“家で倒れて起き上がれない”とか。明らかに危険なときは、私たちから119を勧めることもある」
紬は息を飲んだ。
「……そんなこともあるんだ……」
「うん。受付はただの窓口じゃないよ。“命の分岐点”に最初に立つ場所 なんだ」
葉月の目は真剣で、けれど、その奥には優しさがあった。
「だからこそ、患者さんが“救急車を呼ぶべき状態”なのか、“外来で対応できる状態”なのか、少しずつ判断できるようになっていく必要があるんだよ」
沙耶も紬も、ゆっくりと頷いた。
制度や仕組みの話のはずなのに、いつのまにか、「人の命」の話になっていた。
葉月は最後に、優しく言う。
「救急車を正しく使ってくれる人が増えれば増えるほど、本当に危ない人が、ちゃんと助かるようになる。それが“適正利用”。そして、それを伝えるのも……私たち医事課の大事な仕事なんだよ」




