#18 地域の中で診断から治療まで完結できる仕組み
ある日、診療申込書を見ていた沙耶が、ふと眉をひそめた。
「……あの、これ、なんですか?」
彼女が指さしたのは、申込書の一番下。注意書きのように小さく記された文字だった。
※紹介状をお持ちでない場合、通常の診療費とは別に、初診時選定療養費として3,300円(税込)をお支払いいただくことになりますので、予めご了承ください。
沙耶は少し戸惑ったように首を傾げる。
「“初診時選定療養費”……? こんなの、教科書には載ってなかった気がするんですけど……」
「うん、そこに気づいたの、すごくいいよ」
愛美はそう言いながら、申込書を覗き込んで頷いた。
「それ、“選定療養費”っていってね。簡単に言うと、大きな病院を紹介状なしで受診した場合の追加料金っていう感じなんだ」
「えっ、追加料金なんですか……!」
「そう。たとえば、風邪とか軽い頭痛で、最初から大学病院みたいな大きな総合病院に来ちゃうと、本当に重症の患者さんの診療が遅れたり、医師の負担が増えたりするでしょ?」
沙耶は思わず頷く。
「だから国の方針で、“軽症の人はまず地域のクリニックに行って、必要があれば紹介状を持って大きな病院へ”っていう流れが基本になってるの。で、それに沿わない場合、病院側が追加で費用をもらってもいいって制度になってるのが、これ」
すると、隣で聞いていた紬が、おそるおそる手を挙げた。
「えっと……そもそも、“紹介状”って、どういうものなんですか?」
「うん、いい質問」
愛美はそう言って、すぐに説明を始めた。
「紹介状っていうのはね、かかりつけのクリニックや病院の先生が、“この患者さんはこういう症状で、こういう検査や治療が必要だから、大きな病院で診てもらってください”って、他の医療機関の医師宛に書く手紙のこと」
「へぇ……ちゃんと医師同士でバトンを渡す感じなんですね」
「そうそう。内容には、診察の経過とか、今までの検査結果、使ってる薬の情報なんかが書いてあるから、受け取る側の病院としても、最初から無駄な検査をしなくて済んだり、判断がしやすくなるんだよ」
沙耶が感心したように呟いた。
「じゃあ、紹介状があるほうが、患者さんにとってもメリットがあるってことですね」
「まさにそれ。時間もお金も無駄にしないって意味でも、紹介状ってすごく大事なの」
紬がペンを走らせながら、少し照れくさそうに言った。
「……勉強になりました。なんか、言葉だけ知ってても、中身までちゃんとわかってなかったなって」
「大丈夫。みんな最初はそんな感じだから。むしろ、疑問に思ったことをそのままにしないで聞けるのって、すごく大事な姿勢だよ」
愛美は優しくそう言ってから、話を元に戻した。
「ちなみに、この選定療養費の金額は病院ごとに違うの。うちは3,300円だけど、もっと高いところもあるし、逆に安く設定してるところもある」
紬が不安そうに尋ねた。
「患者さんには、これって説明するんですか?」
「もちろん。受付で申込書を預かるときに、“紹介状はお持ちですか?”って聞いて、持ってないって分かったら、“本日、初診時選定療養費として3,300円がかかりますが、よろしいですか?”って確認するよ」
「……もし、“聞いてない!”って言われたら?」
「よくあるね」
愛美は少しだけ苦笑して、でもすぐに落ち着いた口調で続けた。
「でも、申込書にちゃんと書いてあるし、窓口にもポスターを貼ってるから、“国の制度として定められていて、この病院ではこのように対応しています”って丁寧に伝えれば、ほとんどの方は納得してくれるよ」
沙耶はペンを走らせながら、ふと呟く。
「……制度って、患者さんにとっては“知らなかった”で終わっちゃうこともあるんですね」
「そう。でも、“受付がちゃんと説明してくれた”っていう体験があると、それだけで印象が変わることもあるの。だから、制度を“説明する力”って、受付にとってすごく大事なんだよ」
紬が感心したように頷いた。
「患者さんと直接会話する立場って、こういうところにも責任があるんですね……」
「そう。“教科書には書いてないけど、実際には超重要なこと”って、現場にはたくさんあるの。今日のこれは、その第一歩だね」
沙耶は、手元の申込書に視線を戻しながら、小さく呟いた。
「……3,300円。ちゃんと意味があるんですね」
その声には、“お金で線を引く”現実への戸惑いもわずかに混じっていた。
愛美の説明を聞き終えたあとも、沙耶は何か考えるように、ペンを手に持ったまま視線を落としていた。
「……でも、なんか、さっきの“紹介状”とか“選定療養費”って話を聞いてて思ったんですけど……」
「うん?」
紬はゆっくり顔を上げる。
「病院って、そもそも“どこに行けばいいか”って、患者さんからしたら結構難しいですよね。ここみたいな大きな病院は最初に行くべきところではないみたいですし」
「あっ、この病院は“中規模病院”って扱いになるの」
「中規模? こんなに大きいのにですか?」
紬の素直な驚きに、愛美は小さく笑った。
「単純な大きさじゃなくて、“役割”で分けられているんだよ」
沙耶が首を傾げた。
「……役割って、どういうことですか?」
「うん。これは“医療提供体制”って呼ばれててね。国が“どんなふうに病院やクリニックを分担させて、医療を効率的に回すか”を決めてるの。たとえば、“病院は治療を担当して、診療所は身近な相談の場にする”みたいにね」
「たとえば、街の診療所やクリニックは、“かかりつけ医”としての役割が中心。風邪、腹痛、高血圧や糖尿病の管理とか、身近な症状に対応するのが基本だよ」
「へぇ……じゃあ、患者さんが最初に行くべきなのは、やっぱり近くのクリニックなんですね」
「そう。厚生労働省も“かかりつけ医”を持つようにって勧めてるの。まずは地域の先生に診てもらって、必要があれば、『この症状はもっと詳しく診てもらったほうがいい』って判断して、紹介状を出して次の段階にバトンを渡すの。これが“地域完結型医療”っていう考え方」
沙耶がペンを動かしながら、ふと顔を上げた。
「ちなみに、“クリニックじゃ対応できないこと”って、どういう状況なんですか?」
「例えば、検査が必要になったときとかね。CTとかMRIとか、設備がないクリニックも多いから」
「なるほど……。そういうときに、ここみたいな病院にバトンが回ってくるわけですね」
愛美は「そうそう」と頷いた。
「うちみたいな病院は、地域のクリニックと連携してるから、“この患者さんは詳しい検査が必要”ってときに紹介してもらう役目があるの。これが“地域医療支援病院”の仕事だね」
紬が小さく手を挙げる。
「その“地域医療支援病院”って、普通の病院とは違うんですか?」
「違うっていうか……“地域の中で頼られるポジションですよ”って国から認定されてる感じかな」
「認定……?」
愛美は指を折って簡単に説明した。
「クリニックからの紹介にちゃんと応えられること、救急に対応できること、専門的な検査や入院治療もある程度できること――そういう条件を満たした病院だけが名乗れるんだよ」
「へぇ……それって、なんか“信頼されてる証拠”みたいですね」
「そうだね。国の“地域医療構想”の中でも、こういう病院が“地域の中核”として位置づけられてるよ。だから、患者さんも“紹介状を持って”受診することが多いの」
沙耶が目を瞬かせる。
「あ……! だから“紹介状の確認”が大事なんですね」
「そうそう。紹介状があるってことは、“この患者さんは、この病院に来る理由があります”っていう証明になるからね」
紬が感心したように頷く。
「じゃあ……大学病院とか、もっと大きい病院は?」
愛美は少し考えてから、言い方を選ぶように口を開いた。
「大学病院とか国立病院は、もう少し役目が上なんだよ。あれは“特定機能病院”って呼ばれててね」
沙耶が身を乗り出す。
「特定機能……なんだか重要そうです!」
「うん。研究とか高度な治療とか、すごく特殊な手術とか、そういう“他ではできないこと”を担当する病院。いわば“最後の砦”みたいな感じだね」
紬は、ああと納得したような顔になった。
「じゃあ、患者さんがいきなりそこに行っちゃうと……?」
「受け入れが難しくなる。重症の人を診ないといけないのに、軽い風邪の人が並んじゃうと困るでしょ?」
「だから……紹介状が必要なんですね」
「そう。紹介状を通して、クリニック → 地域医療支援病院 → 特定機能病院、っていうふうに、患者さんの状態に合わせてバトンを渡していくわけ」
三人とも、ホワイトボードに描かれた矢印をじっと見つめる。
紬がぽつりと言った。
「……ほんとに、病院にも“役割の階段”があるんですね」
愛美は優しく頷いた。
「うん。患者さんにとっては“大きい病院のほうが安心”って思う気持ちもあるんだけど、本当の意味で安心して治療を受けてもらうためには、“適切な場所で、適切な順番で”診てもらうのが一番なの」
「……病院って、なんとなく“患者を治す場所”って思ってたけど、ちゃんと“役割のつながり”で成り立ってるんですね」
「そう。だから、“どの医療機関が偉い”とかじゃなくて、それぞれの場所が協力して一人の患者さんを支えてる――そんな仕組みなんだ」
「……なんか、医療って、思ってたよりずっと奥が深いですね」
「うん、そうだよ。“制度の背景”を知ってると、窓口での説明にも説得力が出る。私たち医事課の仕事って、制度と現場の“橋渡し”でもあるんだよ」
沙耶がメモを取りながら復唱する。
「地域完結型……つまり、地域の中で診断から治療まで完結できる仕組み……?」
「そうそう、国としては、患者さんがいきなり特定機能病院に殺到しないようにしたいんだよね。そのために“紹介状制度”や“選定療養費”を設けて、流れを整理してるの」
愛美は軽く頷いて、ホワイトボードにそれぞれの分類を整理して書きながら続けた。
★ 医療機関の機能分化 ★
① 診療所など
小規模の医療機関(19床以下)。
初期診療・かかりつけ医としての役割。
②地域医療支援病院
中規模の病院。中核医療・専門治療と入院、救急対応などを行う。
全国で400施設程度。200床以上の場合は、選定療養費の徴収が義務化されている。
③特定機能病院
大学病院や研究機関など。高度医療・研究と重症対応を行う。
全国で80施設程度。選定療養費の徴収が義務化されている。
愛美はホワイトボードに書き終えると、ペンを置いて二人を振り返った。
紬はしばらく考えたあと、ぽつりと口を開いた。
「なるほど……、なんか……デートみたいですね」
「え?」と沙耶と愛美が同時に顔を上げる。
紬はちょっと赤くなりながら、ゆっくりと説明した。
「うーん、いきなり旅行には行かないじゃないですか? まずは食事や映画みたいな感じでちょっとずつ距離を縮めて……もっと知りたいって思う人だったら、夜景のきれいな公園に行く感じ、っていうか」
愛美は思わず笑い、優しく言った。
「なるほど。段階を踏んで関係を深める感じね」
「そうです。もしカフェで“この人いいな”ってなったら、紹介状をもらって水族館に行くんですよ!」
紬が勢いよく言い切った瞬間、沙耶が少し前のめりに食いついた。
「言いたいことはわかりましたけど……私は、最初のデートが水族館でもアリだと思いますよ」
「え、いきなり!?」
紬が目を丸くする。愛美も笑いながら、興味深そうに首を傾げた。
「それ、どうして?」
「だって、水族館ってちょうどいい距離感じゃないですか。話さなくても魚が泳いでくれるし、静かすぎずうるさすぎない。あと、暗いから、緊張しててもあんまり顔に出ないし」
「なるほど……!」
紬が真剣にメモを取るような仕草をして、沙耶が吹き出す。
「いやいや、メモ取らないでくださいよ!」
「あ〜、確かに水族館ってちょっと暗いから、なんか……えっちな雰囲気出るもんね?」
「出ません!」
即答だった。
「アシカショーの水しぶきとか浴びちゃって、『わっ、濡れちゃった〜』とか言う感じ、ちょっとえっちな雰囲気するよね?」
「しません!!」
沙耶の声が一段階大きくなる。愛美はこらえきれず、笑いをこぼした。
紬はさらに追撃するように指を立てて言った。
「でも、動物コーナーで偶然そういう……交尾してる生き物を見ちゃったら?」
「……」
「……見ちゃったら?」
「……それは……まあ、ちょっと……勉強になるかも……」
「えっ、認めた!」
「ち、違います! あの、そういう意味じゃなくて!」
顔を真っ赤にする沙耶を見て、愛美と紬は同時に吹き出した。
「紬さんこそ、そういうことばっかり言って!」
沙耶が頬をぷくっと膨らませる。
「そんなに言うなら、もう最初から……!」
「最初から?」と紬がにやりとした。
「……もう、ホテルにでも行けばいいんですよっ!」
「え、それって、まさか」
沙耶の顔が真っ赤になった。
その数秒後、自分が何を口走ったか理解して、さらに耳まで赤くなる。
思わず吹き出した愛美が、笑いながら二人を見た。
「でも、“段階を飛ばすとトラブルになる”って意味では、医療も恋愛も一緒かもね」
ふたりが同時に顔を向ける。愛美は微笑んで続けた。
「もし今日が初対面だったら、そんなやり取りできなかったでしょ? 信頼とか、空気か、少しずつ積み重ねてきたからこそできるんだよ」
沙耶は照れたように目を伏せ、紬は静かに頷いた。
「……そういう意味では、これも“紹介状あり”の関係かもね」
紬の一言に、愛美と沙耶が吹き出す。
その笑い声が、受付の片隅で、少しだけ温かく響いた。
愛美はふと腕時計に目をやった。デートの話をしすぎたかもしれない。
「……あっ、もう会議の時間だ」
紬と沙耶が顔を上げる。
「会議……?」
「うん、私が出席する会議があるの。だから、この続きの説明は葉月さんにお願いするね」
「わかりました」
そう言うと、愛美はホワイトボードを離れ、すたすたと会議室へ向かっていく。
会議室に向かう愛美を見送り、紬と沙耶は部屋に残った。
2人は互いに顔を見合わせ、葉月が来るまで自然と休憩のような雰囲気となった。




