#17 なんか、自分で決めたことって、ほとんどない気がします
業務終了後、紬と沙耶は更衣室で私服に着替え終わった。
私服の沙耶を横目で見ながら、紬はふと考えた。
ゆったりとしたAラインのブラウスは可愛いデザインで、色も柔らかく似合っている。
豊かな胸元からふわりと布が広がるその形は、身体の線を拾わないぶん、下へ向かって大きな空間をつくってしまう。そのせいで、実際以上にお腹まわりがふくらんで見えてしまい、全体のバランスが少しだけ重たく映っていた。
歩くたびに布が揺れる様子は確かに愛らしいのに、彼女自身の魅力がうまく伝わりきっていないようにも感じられる。
ほんの少しシルエットの違う服であれば、もっと彼女の雰囲気をそのまま映し出せるはずなのに、そう思わせるもどかしさがあった。
(……服、ちょっと工夫すればもっと映えるかも)
紬は心の中でそっと呟く。特に指摘するわけじゃない。ただ、沙耶がもっと自分に自信を持てるような服選びを、手助けできたら……という思いが湧く。
(……今度、一緒に服を見に行くのもいいかもしれないな)
口には出さずに、心の中でだけ考える。沙耶の笑顔や自然な雰囲気を損なわず、ちょっとした工夫で印象が変わるなら、それをさりげなく提案したい――そんな思いだった。
2人で職員通用口から外に出る。
紬は視線を前に戻し、アスファルトを照らす街灯に目をやる。
沙耶は無邪気に窓の外を眺めていて、ふたりの間に静かな時間が流れた。
「駅まで歩いていくの?」
紬が声をかけると、沙耶は小さく頷く。
「だったら、車で送ろうか?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。そんなに遠くもないし」
助手席に座った沙耶は、すぐにシートベルトを締める。
彼女の体に斜めに走るシートベルトが、ちょうど胸のふくらみを横切るように掛かっていて、自然とその形を際立たせて見せていた。
ゆったりした服の下に隠れていたものが、シートベルトによって、否応なく表に出てしまった気がした。
ほんの少しだけ窮屈そうなその姿に、紬は思わず視線を止めてしまう。
すぐに慌てて前方に目を戻すが、心臓が少しだけ高鳴るのを感じた。
(……なんだか羨ましいな)
柔らかそうな肩や腕、自然に出る丸みのあるラインが、窓の外の夕焼けの光にほんのり照らされる。紬の視線は無意識のうちに止まってしまったが、すぐにハッとして目を前に戻す。
(……やっぱり、隠さないほうがいいのに)
心臓が少し高鳴るのを感じながらも、紬はそっと胸の内で思った。
沙耶は可愛らしく、でもしっかり自分の存在感を持っている。服のシルエットひとつで印象が変わることを、改めて感じた瞬間だった。
小さな沈黙が流れる。沙耶は窓の外を見ながら、少し照れくさそうに横を見て口を開く。
「紬さんって、いろんなバイトしたり、車の免許も取ったり……いろいろ経験してますよね」
紬は運転席に手を置いたまま、少し笑いながら応える。
「うーん、そうかな? バイトもいろんなところでやったし、運転免許も大学のときに取ってはいるけど」
沙耶は窓の外を見つめながら、少し小さな声で続ける。
「なんか……私、あんまりそういうことやったことなくて。ずっと実家暮らしで、バイトもしたことないですし……なんていうか、言われたことしかやってこなかったというか」
紬はその言葉を静かに受け止める。
「そうなんだ……でも、沙耶ちゃんが“経験少ない”って言うの、ちょっと意外だったな」
そう言いながら、紬は穏やかに笑った。
「だって私、別にすごいことしてきたわけじゃないよ。免許だって、取ったのは、ただの必要に迫られてだし。うちは本当にど田舎でさ。車がないとコンビニにも行けないようなところだったから」
沙耶が驚いたように目を瞬かせる。
「え、そうだったんですか?」
「うん。だから“経験豊富”ってほどでもないよ。ただ、生きるためにやるしかなかっただけ。それに一人暮らしだって、都内の大学に通うためで……地元には大学なんてなかったし」
ぽつり、と紬は付け足したが、それを言い訳のようには聞かせない柔らかさがあった。
「……すごいです」
沙耶がぽつりと呟いた。
その声には、羨望とも憧れともつかない、柔らかな響きが混じっている。
「え、どこが?」
「ううん……なんか、“自分で選んでやってきた”って感じがして。私、今までそういうの、なかったから」
「どういうこと?」
「いつも、お母さんに言われたことをやって……先生に言われたことをやって……。なんか、自分で決めたことって、ほとんどない気がします」
紬は、信号待ちの赤い反射をフロントガラス越しに受けながら、ハンドルにそっと手を添える。
「そんなことないでしょ? 専門学校に行くのは自分で決めたんでしょ?」
紬の言葉に、沙耶は「……まあ、そうですけど」と少しだけ口を尖らせた。
しかし、そのあとで視線を膝の上に落とし、指先をゆっくり組み直した。
少しの沈黙。車の中に、信号の点滅音だけが淡く響く。
「……確かに」
沙耶が、ほんの少し息を吸い込むようにして言葉を続けた。
「病院で働きたいって思ったのは……本当に自分の気持ちだったんです」
紬はゆっくりとハンドルを握り直し、彼女の横顔にほんの一瞬だけ目を向けた。
「専門学校に行くって決めたのも……実は、ちゃんと理由があって」
沙耶は自分の胸元をそっと押さえた。
そこにあるのは、シートベルトに少し押しつぶされていた柔らかな曲線と、その奥にあるもっと深いもの。
「私、高校のときに“橋本病”って診断されて……」
紬は小さくまばたきをした。あの問診票で初めて見た単語。
それ以上に、沙耶がそれをどう受け止めてきたのかは知らない。
「最初は全然わからなくて。なんかずっと疲れやすくて、眠くて……体重も増えるし、気持ちも沈むし。“怠けてる”って思われるのが怖くて」
沙耶の声は、強がりを少しだけ混ぜながらも、どこか震えていた。
「でも、検査をして、病名がついて……。“あなたのせいじゃないよ”って、お医者さんに言われたとき、すごくホッとして」
そのときのことを思い出したのか、沙耶のまつ毛が微かに揺れた。
「帰り道で泣いちゃったんです。“怠けてるんじゃないんだ”って、初めてわかったから。それだけで、ちゃんと救われた気がして」
紬の胸の奥がじんわりと熱くなる。
ライトに照らされた横顔は、悲しみではなく、過去を静かに乗り越えた人の表情だった。
「だから……治療してもらって元気になってから、思ったんです。“私も、誰かがホッとする場所をつくれる仕事がしたい”って」
沙耶はそこでゆっくり顔を上げた。
その瞳には、少し照れと、少しの決意が混ざっていた。
「看護師になるには、どうしても学力も体力も足りなくて……。でも、医療事務なら、患者さんといちばん最初に会えるので。“ここに来てよかった”って思ってもらえる人に……ちょっとでも、なれたらいいなって」
紬は思わず、胸がきゅっと締めつけられた。声に自然と優しさが滲む。
「……沙耶ちゃん」
沙耶は、少し照れたように笑った。
「だから、専門学校は……“言われたから”じゃなくて。本当は、自分で選んだんです。何となく恥ずかしくて誰にも言ってないですけど」
紬はゆっくり車を止め、深く頷いた。
「すごいよ、それ。……ちゃんと、自分で選んでるじゃん」
沙耶は驚いたように紬を見る。
「だって、人を安心させたいって思って選んだ道でしょ?」
沙耶の胸のあたりで、シートベルトが小さく揺れた。
その動きに合わせて、彼女の呼吸も少しだけ軽くなったように見えた。
「……紬さんに、そう言われると、なんか……」
「なんか?」
「……よかったって思います」
やわらかい声だった。ほんの少し涙の気配が混じっているような、そんな声音。
紬は窓の外の街灯を見つめながら、そっと微笑んだ。
(沙耶ちゃん……ほんとに、強い子だ)
ふたりの間に静かな余韻が広がっていく。
車内の空気は、さっきまでより少しだけ温かくなっていた。
沙耶の言葉の余韻が、車内の静けさにゆっくりと沈んでいく。
その静けさを壊したのは、紬の小さな溜息だった。
「……ねえ、沙耶ちゃん」
「はい?」
「今日、診療科の話を聞いてて思ったけど……。私、病気とか、人間の体の仕組みとか、もっと勉強しないとって思った」
沙耶がぱちりとまばたきをした。
「だってさ……胸やけが“消化器内科”って聞いて、ぜんっぜんピンとこなかったんだよね。“胸”って付くのに胃なの? って思って」
そう言って紬が笑うと、沙耶もつられてくすりと笑った。
「……ああ、なるほど。そこで引っかかる人多いんですよ」
「そうなの? じゃあ沙耶ちゃん、教えてよ。胸やけってさ、何がどうなって起きるの?」
助手席の沙耶は、シートベルトの上からそっと胸元に触れながら、少しだけ姿勢を正した。
教科書をひらく前の学生みたいな、真面目な顔つき。
「えっと……胸やけって、胸が燃えるように感じるから“胸やけ”って言うだけで……原因は胃なんです。胃酸が逆流して、食道が刺激されちゃうから」
「へえぇ……! じゃあ“胸で起きてること”じゃないんだ」
「はい。胸のあたりに感じるけど、悪いのは胃のほうです。だから担当は“消化器内科”。食道も胃も腸も、ぜんぶ“消化器”だから」
紬は感心したようにうんうんと頷く。
「そういうの、ほんとに知らないんだよね、私。今日もさ、“橋本病”は当然のように知らなかったんだけど……、そもそも“甲状腺”を知らなかったし」
沙耶は少し照れくさそうに笑った。
「なんか、私でも役に立てることがあるんだなって……ちょっと嬉しいです」
紬は運転しながら横目で沙耶を見て、微笑んだ。
「あるよ、めちゃくちゃある。だって今の説明だけでも、私かなり勉強になったし」
「えへへ……じゃあ、またいつでも聞いてください」
紬はその言葉に、素直に頷いた。
「うん。頼りにしてるよ、沙耶ちゃん」
夕暮れのオレンジがフロントガラスに反射して、ふたりを淡く照らしていた。
学んだばかりの医学の知識よりも、もっと大きなものが、少しずつ紬の胸の中に積み重なっていく。
紬はふっと口元をゆるめた。さっきまで真面目な話をしていた反動なのか、少しだけ意地悪な気分がむくむくと湧き上がる。
「……じゃあさ」
「はい?」
「胸ってさ、どうしたら大きくなるの?」
紬が、ハンドルを握ったまま、あくまで雑談みたいな口調で言った。
沙耶は一瞬、言葉の意味を理解するまでに間があった。
次の瞬間、ぱちっと瞬きをして、首から上が一気に赤くなる。
「えっ……!? な、なに言ってるんですか、急に……!」
「いや、だってさ」
紬は前を向いたまま、どこか悪びれずに続ける。
「さっき胸やけの話してたじゃん? 身体の仕組みって不思議だなーって思って。胸って、どういう理屈で大きくなるのかなって」
「り、理屈って……」
「私も、もう少し大きくしたいなぁって。沙耶ちゃんを見てて思った」
「や、やめてくださいっ」
沙耶はシートベルトの上から、無意識に胸元を押さえた。
その仕草が余計に意識させてしまったのか、慌てて手を離す。
「そ、そういうの……普通、聞きませんよ……」
「そう? 私は全然知らないからさ。純粋な疑問」
紬はそう言って、ちらりと沙耶のほうを見る。
からかうというより、本当に「わからないから教えてほしい」という顔だった。
「……もう……」
沙耶は小さく息を吐き、視線を膝の上に落とす。
少し迷うように唇を噛んでから、ぽつりと口を開いた。
「……基本的には、遺伝とか、ホルモンの影響が大きいです」
「ホルモン?」
「はい。女性ホルモンの分泌が関係してて……思春期とか、体調の変化で増えたりします」
専門学校で何度も聞いた内容なのに、口に出すと妙に恥ずかしい。
沙耶は、早口にならないように気をつけながら続けた。
「あと……胸って、ほとんど脂肪なので。体重が増えると、一緒に増えやすいんです」
「あー……なるほど」
紬は納得したように頷く。
「じゃあ、胸だけ大きくする、みたいなのは……?」
「……基本、無理です」
沙耶はきっぱり言った。
それが逆に可笑しかったのか、紬が小さく笑う。
「現実的だね」
「だって、本当のことなので……」
少し間が空く。
車内に流れるエンジン音と、夕方の街のざわめき。
「それに……」
沙耶は少しだけ声を落とした。
「大きければいいってものでも、ないですし」
「そうなの?」
「はい。肩こりもしますし、走ると揺れますし……服選びも大変で……ちょっと、邪魔だなって思うときもあります」
紬は、ハンドルを握る手に力を込めたまま、何も言わずに聞いていた。
からかう気配はなく、ただ、ちゃんと受け止めている。
視線を落としながら、少し照れたように笑う。
「わ、私……姿勢が良いみたいで。学校の先生にも言われたんです。姿勢がいいと……その、強調されやすくて……」
紬は思わず声を漏らす。
「へぇ……それで、綺麗に見えるんだね」
「き、綺麗とか……!」
沙耶の耳まで真っ赤になった。
紬も言ってから自分の言葉に気づき、頬があたたかくなる。
胸元で指先をすり合わせて、さらに小さな声で続けた。
「だから……いろいろ、あるんです。べ、別に……好きで大きくしてるわけじゃ、なくて……」
その言い方がなんともいじらしい。
紬は、思わず口元がゆるんでしまった。
「そっか……。そういう理由なんだね」
「……はい。内緒ですよ?」
「うん。沙耶ちゃんが教えてくれたこと、内緒にする」
車の中の空気が、ふわっと甘くなる。
紬の胸は少し高鳴ったまま、けれど優しい熱を帯びていた。
信号の光が車内に淡く差し込む。
駅前のロータリーに差しかかったころ、車内の空気がふっと落ち着いた。
夕方の柔らかな風が、窓の隙間からそっと入り込んでくる。
「……身体のこと、病気のこと。もっと知りたいなって思った」
紬がそっと言葉をつなげた。その声は、さっきよりもずっと柔らかい。
「今日、沙耶ちゃんから聞いた話、すごく分かりやすかったし……なんかね、もっと知りたくなったんだ」
沙耶は照れたように目線を落とした。
信号が赤に変わる。車が止まり、紬は少しだけ柔らかい声で続けた。
「……ねえ、もしよかったらだけど」
沙耶が、ゆっくりと顔を上げる。
「医療のこととか、身体の仕組みとか……一緒に勉強してみない?」
「え……一緒に?」
「うん。私も医療の知識なんて全然なかったし、正直まだ分からないことだらけ。でも、ふたりでだったら続けられると思うし」
沙耶の目が、ぱっと少し明るくなる。
「……いいんですか? 本当に?」
「もちろん。せっかくだし、一緒にできたら楽しいかなって」
沙耶は胸元のシートベルトをぎゅっと握りしめた。
その仕草には、驚きと嬉しさが混ざっている。
「……やりたいです。私、紬さんと一緒なら……頑張れる気がします」
その言葉に、紬の胸がほんの少し温かくなる。
「じゃあ決まりだね。休みの日とか、仕事終わりとか、カフェでも行って……」
「ノート持って……勉強会ですね!」
「そうそう。“素人向け医療勉強会”みたいなやつ」
思わずふたりで笑ってしまう。
車が駅前に停まると、沙耶はシートベルトを外しながら、少し頬を赤らめたまま言った。
「……なんか、楽しみになってきました」
「私も」
ほんの少しだけ、沙耶が近く感じる。
でもその距離感が心地よくて、紬はそっと微笑んだ。
「じゃあ、また明日。勉強会、計画しようね」
「はい! 絶対やりましょうね」
夕暮れの駅前で扉が閉まる瞬間、沙耶がふわりと笑った。
その笑顔はまるで――新しい季節がゆっくり動き出す合図のようだった。
駅前に差し掛かる頃には、二人の距離感が少しだけ縮まったように感じられた。助手席の沙耶が、さっきよりも肩の力を抜いて座っているのを、紬は確かに感じた。
「じゃあ、ここで大丈夫?」
紬が声をかけると、沙耶はうなずき、降りる準備をする。
「ありがとうございます、紬さん」
「こちらこそ、今日はいろいろ話せてよかった」
二人の間に、言葉にしなくてもわかる小さな信頼と安心感が漂っていた。




