#16 “最初の分かれ道”を任されてるって思ってくれるといいかな
休憩を挟んで、空気が少しだけ和らいだ。けれど、次に始まる内容は、受付としての“核心”とも言えるパートだ。
診療科の振り分け。それは、医療の入口を預かる受付にとって、避けて通れない仕事。
愛美はホワイトボードに診療科マップを貼りつけ、ふたりに向き直った。
「受付では大まかな症状の確認もするよ。問診票に記入してもらってるけど、それだけでは判断が難しい場合は、聞き取りもすごく大事になるの。“お腹が痛い”って言っても、消化器内科なのか、婦人科なのか、外科なのかで変わるから」
「適切な診療科を考えるんですね……」
「そう。もちろん、最終的には看護師や医師が判断するけど、受付での誘導がスムーズだと、患者さんも助かるからね。じゃあ、受付に立つ前に、うちの病院にある診療科の説明だけ、ざっとしておこうか」
愛美は、ホワイトボードに診療科マップを貼りながら、マーカーを手に取った。
「受付では、患者さんが来たら“どの診療科に案内するべきか”を把握するのが第2ステップ。ここを間違えると、案内やカルテ処理まで全部ずれちゃうからね。たとえ医療の専門知識がなくても、“どの科が何を扱うのか”を大まかに頭に入れておくと、対応がすごくスムーズになるよ」
沙耶が、すでにペンを走らせ始めている。紬も慌ててノートを開いた。
「じゃあこれ、ふたりに渡しておくね。患者さんに診療科をご案内するときの“症状別・診療科案内早見表”。受付に出るようになったら、最初はこれをポケットに忍ばせておくと安心だよ」
そう言って、愛美はクリアファイルからA4サイズのプリントを2枚、テーブルの上にすっと差し出した。
「わっ……こんなふうになってるんですね……」
沙耶が目を見開く。紬もさっそく目を通してみると、症状のキーワードごとに、診療科名とフロアの場所が色分けされて一覧になっていた。
★ 症状別・診療科案内早見表 ★
①内科系(1階南ブース)
・総合内科 発熱、頭痛、腹痛、倦怠感、生活習慣病
・内分泌科 糖尿病、甲状腺の異常
・脳神経内科 手足のしびれ、ふらつき、めまい、物忘れ
・呼吸器内科 咳、息切れ、睡眠時無呼吸
・循環器内科 動悸、息切れ、高血圧
・消化器内科 腹痛、胃もたれ、吐き気、下痢、便秘
・腎臓内科 腎機能低下、尿蛋白、透析
②外科系(1階北ブース)
・外科 腹痛、消化器の手術、その他の悪性腫瘍や手術
・整形外科 膝・腰・肩などの痛み、打撲、捻挫、骨折、骨や筋肉の手術
・脳神経外科 頭部打撲、意識消失、手足のしびれ、不穏状態、脳の手術
・呼吸器外科 肺がん、気胸、肺の手術
・心臓血管外科 心臓の手術、血管の手術
・形成外科 外傷、火傷、皮膚潰瘍、皮膚の手術
③その他の診療科(2階南ブース)
・耳鼻咽喉科 耳が聞こえづらい、鼻が詰まる、喉の痛み、めまい
・眼科 目の異常、目の手術
・皮膚科 かゆみ、湿疹、にきび
・泌尿器科 尿が出にくい、尿が我慢できない、頻尿、排尿痛、男性器の異常
・産婦人科 生理痛、月経不順、女性器の異常、妊娠の相談
・小児科 15歳未満の内科症状、発達障害、低身長
・精神科 気分が落ち込む、不眠、不安
・歯科口腔外科 虫歯、親知らずの抜歯、顎の骨折
・リハビリ科 他科から紹介されたリハビリが必要な患者
④特殊な診療科(1階西ブース)
・救急科 主に救急搬送された患者(1階西 救急外来)
・放射線科 他院から画像検査のために紹介された患者(1階西 放射線科受付)
「これ、フロアごとの場所でまとめてるの。内科系は 1階南ブース、外科系は 1階北ブース、それ以外はたいてい 2階南ブース。あと、救急科と、検査や放射線は1階西だから注意してね」
「……これ、受付にあったたら絶対に助かりますね」
沙耶が素直に感嘆の声を漏らす。紬も頷いた。
「症状がはっきりしていれば案内しやすいんだけど、実際は“なんとなく体調悪くて……”みたいな人も多いから。そういうときは、“どこが一番つらいか”を聞いて、ここを参考にしながら判断してあげてね」
「“とりあえず内科”で回しちゃダメってことですか?」
紬が聞くと、愛美は笑って首を振った。
「それ、最初の頃みんなやるの。でも、たとえば“尿が出にくい”って人を内科に回すと、結局また泌尿器科に案内し直しになるでしょ? 患者さんも、職員も、みんな二度手間になっちゃう」
(……ってことは、これ全部ちゃんと覚えないといけないの……?)
(生理痛は婦人科でOK、甲状腺は内分泌科で、……“胸やけ”は、えーっと……)
「ざっと説明したけど、もちろん最初は全部覚えなくて大丈夫。患者さんの話を“ちゃんと聞く”ことが何より大事だから。困ったら、すぐ聞いて。恥ずかしいことじゃないからね」
「“患者さんが一番最初に接する窓口だから、病院の印象を左右する大事な業務”って……ほんとですね」
うん。“最初の分かれ道”を任されてるって思ってくれるといいかな」
愛美の言葉に、ふたりは小さく頷いた。まだ全部を覚えるのは難しそうだけど、でも、この紙一枚と先輩の言葉が、少しずつ“現場に立つ感覚”を教えてくれている気がした。
「あれ? この表、“息切れ”や“めまい”が、ふたつの診療科に入ってますよ?」
「あ、よく気づいたね」
紬が指摘すると、愛美は嬉しそうに微笑みながら、プリントの表を指でなぞった。
「そう、実は“症状”って、ひとつの診療科にしか当てはまらないとは限らないの。たとえば“めまい”だったら、脳神経内科のこともあるし、耳鼻咽喉科のこともある。原因によって、診療科が変わるんだよね」
「……じゃあ、どっちに案内すればいいんですか?」
紬がそう尋ねると、愛美は少しだけ真剣な表情になって答えた。
「それが、まさに“受付の聞き取り力”が問われる場面なの。たとえば“急に立ちくらみがする”とか“ぐるぐる回る感じがする”って言われたら、“耳からくるめまい”の可能性があるから耳鼻科のほうがいい。でも、“手足もしびれる”とか“物忘れが増えた”って感じだったら、脳神経内科の領域かもしれないって判断するの」
沙耶が、なるほど……と呟きながらノートに何かを書き加えている。
「たとえば“息切れ”だったら……?」
今度は沙耶が質問する。
「いいね。じゃあ、息切れの場合は、“階段を上ったら苦しくなる”とか“動悸もする”なら循環器内科。でも、“咳も出る”とか“ゼーゼーする”なら呼吸器内科を考えるの」
「……すごい。クイズみたいですね」
「ふふ、慣れるまでは本当にそんな感じ。受付って、“問診”と“振り分け”の要素がすごく大事で、ある意味で“病院の司令塔”なのよ」
愛美の言葉に、紬はちょっと背筋を正した。
(司令塔、か……)
自分が今まで思っていた“受付”のイメージより、ずっと責任があるポジションなんだって、初めて気づいた気がした。
紬がふとペンを止めて、手元の問診票に視線を落としながら口を開いた。
「……あの、愛美さん。もし、さっきの“胸やけ”の症状の沙耶ちゃんが、実際に患者さんとして来たとしたら……どの診療科にご案内するのが適切なんでしょうか?」
「うん、いい質問だね」
愛美は軽く頷いて、考えるように指を組んだ。
「胸やけや食後の違和感がメインなら、消化器内科が基本かな。胃酸の逆流や、胃そのものに何か原因があるかもしれないからね」
「ですよね……」
沙耶が納得したように頷くと、愛美はもう一度、問診票をめくる仕草をしながら続けた。
「でも、沙耶ちゃんの問診票には“健診結果の相談も希望”ってあったでしょ。もし、健診の内容に気になる点があるなら、それによっても案内先が変わってくるんだ」
「なるほど……」
「たとえば――沙耶ちゃん、健診結果って、今教えてもらっても大丈夫?」
沙耶は少し戸惑いながらも、正直に答えた。
「……“肥満”って、指摘されました。身長157センチで、体重が68キロです」
沙耶はそう言いながら、ほんの少しだけ目を伏せた。
口調は淡々としていたが、手元のペンを無意識に握りしめていた。
紬が一瞬ペンを止めたまま、そっと沙耶の横顔を見た。
愛美もその表情を汲み取るように、静かに頷いた。
「ありがとう。言いにくいこともあるのに、ちゃんと伝えてくれてえらいよ」
「……まあ、見てのとおりだと思うので」
やや諦めのニュアンスを含ませつつ、沙耶はボソッと呟いた。
愛美は、その言葉にすぐ返さず、ほんの一拍、間を置いた。
「……そうだとしても、自分で言葉にするのって、案外勇気がいるんだよ。誰かに言われる前に、先に出すのって、けっこう疲れることだからね」
愛美さんも、何か含みを持ったかのように伝える。
沙耶は何も言わなかったが、視線を少しだけ落とした。
「受付って、患者さんの“そういう気持ち”にも気づける仕事なんだ。だからこそ、いま沙耶ちゃんが自分のことを話してくれたこと、それ自体が、すごく大事な経験になると思うよ」
愛美はそう言って、プリントの一部を指でとんと軽く叩いた。
「この“胸やけ”って症状、紙の上ではただの文字。でも、それを話す人には、今日みたいに背景がある。――受付にいると、そういう“見えない情報”を感じ取る力が、すごく役に立つの」
今度は紬が、そっと沙耶のほうを見て、小さく笑った。
「……じゃあ今日の沙耶ちゃんは、いい“実地研修”だったってことですね」
沙耶は、ちょっとだけ苦笑いを浮かべた。けれどその顔には、さっきまでのわずかな硬さが、少しだけほどけた気配があった。
「それで、実は“肥満”と“胸やけ”には関連があることも多いの。体重が増えると腹部の圧力が高くなって、胃酸が逆流しやすくなるんだよね。だから、胸やけはただの“胃の症状”というより、生活習慣や体質の一部として現れてる可能性もある」
沙耶が、小さく「……そうなんですね」と呟いた。
「さらにいえば、沙耶ちゃんの既往歴――橋本病も、背景として関係するかもしれない」
「え?」
「橋本病によって甲状腺のホルモンが少なくなると、代謝が落ちて体重が増えやすくなることがある。逆流性食道炎のリスクも、間接的に高くなることがあるんだよ」
紬はその説明に目を見開き、すぐにノートにメモを取り始めた。
「なるほど……。既往歴って、今の症状と直接は関係ないように見えても、やっぱり大事なんですね」
「そう。“今の症状”と“今までの背景”を両方見るのが医療だからね。受付の段階では、すべてはわからない。でも、問診票から見えてくる情報に目を留めておけば、案内の精度もぐっと上がるよ」
愛美の言葉に、沙耶が小さく頷いた。
紬も、「受付って、想像以上に奥が深い……」と、改めて実感したような表情を浮かべていた。
沙耶がふと、プリントの隅に書かれた小さな一文を指差す。
「“症状の判断が難しい場合は、総合内科で一次対応します”ってありますね。私が診察を受ける場合も、ここになりそうですね」
「うん、そうなるね。他にも、どうしても診療科の判断がつかないときの“入口”として、総合内科がある程度カバーしてくれる体制をとってるの。だから、本当に迷ったらそこに案内して大丈夫。でも、“なんでもかんでも内科”って対応はしないようにしようね」
紬も沙耶も、同時に小さく頷いた。
午後の柔らかな光が、愛美のホワイトボードに反射して、診療科マップが少しだけ輝いて見えた。全部覚えるのは、たぶんまだ遠い話。でも、一歩ずつ、「人の命の入り口に立つ仕事」が、新人ふたりの中で、ちゃんと始まっていく。
その手がかりをくれるのが、こうした先輩の言葉と、丁寧に作られた紙一枚なんだと思った。




