#15 危うく2人目の沙耶ちゃんを生み出すところだった……
「じゃあ次は、役を交代してみようか」
愛美が声をかけると、沙耶が「はい」と返事をして、席を立った。
「……はぁ、思ったより緊張しました」
「え、沙耶ちゃんでも?」と紬が意外そうに目を丸くする。
「だって、目の前で入力を見られてるって、試験みたいで……」
「わかる! ちょっと手汗かくよね」
紬がにひっと笑いながら手のひらを見せると、沙耶も小さく笑ってうなずいた。
「でも、紬さんは緊張しても顔に出なさそう」
「えっ、そんなことないよ! 心臓バクバクしてるし」
「ふふ……じゃあ、私の問診票でバクバクしてもらいますね」
「よーし、受けて立ちます!」
紬が胸を張って答えると、愛美が「はいはい、試合開始みたいになってるよ」と笑いながら、二人を見守っていた。
「はいはい、練習開始! じゃあ患者さん、どうぞ〜」
沙耶が軽く肩をすくめて、紬に診療申込書を手渡した。
【診療申込書兼初診問診票】
◆患者情報
・患者氏名:木崎 沙耶
・生年月日:2005年3月8日(20歳)
・性別:□男 ☑︎女 □その他()
・住所:埼玉県○○市××区△△9-8-7
・電話番号:080-9876-××××
・緊急連絡先(氏名・続柄・電話):木崎 佳奈(母)/070-××××-××××
・保険証の種類:□国保 ☑︎社保 □後期高齢者 □その他(生活保護、労災、交通事故など)
・職業:医療事務
・宗教:なし
◆症状について
・今回受診される理由・症状をご記入ください(できるだけ詳しく)
食後に胸やけのような違和感が続いている。特に夜間に強く、横になると悪化する。
・症状はいつ頃からありますか?
2週間くらい前から
・症状の経過について教えてください(あてはまるものにチェック)
☑︎徐々に悪くなっている □急に悪くなった □良くなったり悪くなったり □その他()
・同じような症状がこれまでにありましたか?
□はい(いつ頃? ) ☑︎いいえ
・現在、痛みはありますか? ある場合は場所と痛みの強さ(1〜10段階)を記入してください
☑︎あり □なし 場所:胃 強さ:2/10
◆現在の健康状態について
・現在、治療中の病気はありますか?
☑︎はい(病名:橋本病 ) □いいえ
・現在、服用している薬はありますか?(市販薬・漢方含む)
☑︎はい(薬名と目的:レボチロキシン ) □いいえ
・薬・食べ物・その他でアレルギーがありますか?
□ある(内容: ) ☑︎ない □不明
・今までにかかったことがある病気や手術歴を教えてください(あれば時期も)
橋本病(3年前)
◆生活習慣について
・喫煙習慣について教えてください
□吸っている(本数/日: ) □過去に吸っていた(期間: 〜 ) ☑︎吸ったことがない
・飲酒習慣について教えてください
□毎日飲む(量: ) □時々飲む ☑︎飲まない
・妊娠中または授乳中ですか?(女性の方のみ)
□妊娠中 □授乳中 ☑︎該当なし
◆その他、医師・スタッフに伝えておきたいことがあればご記入ください
健診結果の相談も希望
※紹介状をお持ちでない場合、通常の診療費とは別に、初診時選定療養費として3,300円(税込)をお支払いいただくことになりますので、予めご了承ください。
紬は沙耶の書いた問診票を両手で持ち、ちょっとだけ背筋を伸ばしてからパソコンに向かう。初めての受付役。模擬とはいえ、ほんのり緊張して手のひらに汗をかいていた。
「こんにちは。初めてのご来院ですね。診療申込書の記載、ありがとうございます。保険証もコピーをとりますね。では、情報を登録しますので、おかけになってお待ちください」
沙耶ちゃんを待たせて、登録作業に集中する。
「えっと……患者氏名、木崎 沙耶さん……」
心の中で復唱しながら、ゆっくりタイピングしていく。ふりがなも忘れずに──「きさき さや」。
先ほどの“久坂”ミスが頭をよぎり、名前の漢字変換にだけは慎重になっていた。
「えっと、生年月日は……2005年3月8日、20歳……」
そこまでは順調。だが、次の項目で一瞬、手が止まる。
「よし……じゃあ、登録しますね」
沙耶から受け取った問診票をもとに、紬は端末に向かって名前と生年月日を入力し、電子カルテの患者検索をかける。
「……あれ?」
検索結果に、過去に登録したであろう「木崎沙耶(2005年3月8日生)」のデータが表示された。
(えっ……もう登録されてる?)
(沙耶ちゃん、自分で“初診”って言ってたよね? でも……カルテがある……)
表示された情報をざっと確認すると、そこに記録されていたのは、「小児科」の受診履歴が1件。8年前、12歳のとき──咳が続いていたという記録だった。
(……本人も覚えてないのかも)
紬は手を止め、ちらっと愛美を見た。
「愛美さん……ちょっといいですか」
「うん、どうしたの?」
「えっと……沙耶ちゃんの情報を検索したら、同姓同名・同じ生年月日のカルテがヒットして……。でも、問診票では“初診”って書いてて……」
愛美はすっとモニターを覗き込むと、頷いた。
「ああ、これね。小児科に1回だけかかってる。で、母親の電話番号が一致してる。これは同一人物で間違いないね。だから、新しいカルテは作らずに、既存の情報を更新しよう」
「はい……!」
(良かった〜、危うく2人目の沙耶ちゃんを生み出すところだった……)
紬は一瞬の混乱から抜けて、既存カルテを開き、保険証や連絡先などの情報を今のものに更新していった。入力が完了し、模擬のやり取りも無事に終わったあと、愛美がふたりをホワイトボードの前に呼び寄せた。
「さっきの場面、いい経験だったね。紬ちゃんがしっかり気づけて、確認できたのも◎でした」
「ありがとうございます……でも、ちょっと焦りました」
紬が苦笑いする横で、沙耶が申し訳なさそうに呟く。
「……すいません。私、まったく覚えてなくて……」
「いや、それはよくあることだよ」と、愛美がやさしくフォローする。
「特に小児科で1回きりの受診だったり、保護者任せだった頃の記憶って、本人は忘れてることが多いの。だからこそ、“初診って書いてある=初めて”だと決めつけちゃダメなの」
「なるほど」
「今みたいに、“下の名前”・同じ生年月日でヒットしたら、必ず過去の内容や住所、保険情報を見て“同一人物かどうか”を判断してから進めてね。で、もし“同じ人”なら、新しくカルテは作らずに、今の情報を上書き。」
「下の名前? フルネームではなくてですか?」
「もちろんフルネームでも検索はするよ。ただね、特に女性は結婚したりして名字が変わる可能性があるからね」
「確かに、そうですね」
沙耶が頷く。紬はふと疑問に思ったことを、そのまま口にしてしまった。
「……愛美さんは、結婚されてるんですか?」
愛美は、わずかに視線を逸らした。一瞬だけ、笑顔が間に合わなかった。
「……ううん、結婚は……してないよ」
苦笑するように言って、愛美は手元に視線を落とす。
「そうなんですね。じゃあ……彼氏さんとか?」
「あー、それも……いないかな、今は」
“今は”という言葉を、ほんの一拍置いてから付け足す。そのタイミングに、紬はなぜだか引っかかった。まるで、ほんの少しだけ遅れて足音が聞こえるみたいな、そんな違和感。
「そうなんですか〜。どれくらいいないんですか?」
「……ん〜、働き始めてからはずっといないね。医事課って、女性が多いからね」
笑いながら、視線を逸らしてコーヒーを口に運ぶ仕草。
なんか、変だ。
別に疑ってるわけじゃないけど。たぶん、嘘をついてるわけでもない。
普通なら、「前に付き合ってた人がいて〜」って、何かしら具体的な話が出てくるはずなのに。なのに、どこかこう……地図にない場所を指差してるみたいだった。
(……もしかして)
紬は思わず、愛美の横顔を見た。整っているけど、子どものような顔立ち。小柄な体。やわらかく巻かれた前髪。声も、どこかあどけなさを含んでいる。誰からも親しまれる“お姉さん”なのに、“女性”として見られることには、どこか慣れていないような、そんな空気がある。
ふと、彼女の指先が震えているのに気づいた。カップを持ち直す手の小さな動き。それは寒さじゃなくて、ちょっとした緊張みたいなものだった。
(……ああ、たぶんこの人、私に聞かれて、すごく困ってる)
それは、秘密にしたいというより、「知られたくない」というより、「気づかれたくない」という……もっと繊細な願いのように感じた。年齢的なものがあるのかもしれない。
(……彼氏、いたことがないのかも)
頭のどこかで、その言葉が浮かんだ瞬間、紬は自分の思考に驚いていた。そんなの、別にどうでもいいことなのに。なのに、気づいてしまった。わかってしまったことが、なんだかすごく申し訳ないような気がした。
紬は、気まずさに似た沈黙を打ち消すように、ふいに手元の問診票に目を落とした。
「……あ、そうだ」
思いついたように声を上げると、軽く首をかしげて愛美を見る。
「沙耶ちゃんの問診票に、“橋本病”って書いてあるんですけど……これって、どんな病気なんですか?」
その瞬間だった。愛美の表情が、ぱっと明るくなった。
(やっぱり、そうなんだ)
「あ、それね! いい質問!」
まるで“待ってました”とばかりに、愛美はさっと椅子の向きを変え、説明モードに入る。
「橋本病はね、甲状腺っていう喉の前のほうにある小さい臓器が、自分の体を守るはずの免疫に攻撃されちゃう病気なの」
愛美は、手で首のあたりを示しながら説明する。
「でも、ちゃんとお薬でコントロールできるからね。怖い病気じゃないの」
「甲状腺って、全身の代謝をコントロールしてるの。体温を保ったり、心拍数を整えたり、エネルギーを作ったりする働きがあるの。それが攻撃されちゃって、代謝が落ちちゃうから、たとえば『体がだるい』とか『寒がりになる』、『太りやすくなる』『肌が乾燥する』とか、いろんな症状が出るんだよ」
その瞬間、隣にいた沙耶が、ピクッと肩を小さく揺らした。ほんのわずかに、表情が固まる。
「……っ」
紬は、その微かな変化を見逃さなかった。思い出す。以前にふとした話題で──
『太りやすい家系で、そんなに食べてるわけじゃないんですけど、顔とかお腹にすぐ出ちゃうんですよね……』
と、沙耶がぽつりとこぼしたことがあった。
(もしかして、今の言葉、ちょっと引っかかったのかも)
愛美の説明は続いている。でも、紬の目は沙耶の横顔に向けられていた。
下を向いて、軽く唇を噛むようにしているその表情。
「気にしてませんよ」って顔をしているのに──どこか、少しだけ遠くを見ていた。
(……うん、大丈夫。沙耶ちゃん、気づかれたくないだけだ)
紬は何も言わなかった。ただ、何となく手元にあったペンをくるくると回しながら、
あえて笑顔で、愛美のほうに視線を戻した。病気や症状にも配慮が必要なんだ。
「なるほど〜、だから『なんか最近、やたら疲れるな〜』って人も、もしかしたら甲状腺のせいかもしれないんですね」
あえて話題を戻すように、自然な声で言葉を挟む。
それを受けて、愛美が元気よくうなずいた。
「そうそう! だからこそ、“ただの疲れ”とか“気のせい”で片付けないで、気になることがあれば、ちゃんと受診してみるのが大事なんだよ」
沙耶はその言葉に、少し遅れて「……はい」と小さくうなずいた。
さっきよりも、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「なるほど……。なんか、日常の不調と似てて、気づきにくそうですね」
「まさにそうなの! だから、なかなか見つけにくいんだけど、血液検査でホルモンの量を測ればわかるの。で、治療としては、足りないホルモンを薬で補う感じ。沙耶ちゃんが書いてた“レボチロキシン”っていうのは、まさにそれ!」
愛美の説明は、表情も声のトーンも生き生きとしていて、さっきまでのぎこちない空気が嘘みたいに和んでいた。
紬も思わず笑ってしまう。
「すごい……説明、めちゃくちゃわかりやすいです」
「えへへ、ありがと。こういうときのためにね、わかりやすく伝える練習してるんだ〜」
「いや〜、見習いたい……!」
沙耶も小さく拍手しながら、「さすが愛美さん」と笑顔を見せる。
愛美は、少し照れたように肩をすくめた。
「そうだね、休憩が終わったら、次は診療科の説明をしようか」
愛美がカップを置いた音が、小さく部屋に響いた。
部屋の空気が、また日常のリズムに戻っていく。




