#14 “ただの入力作業”じゃなくて、“医療の一部”なんですね……
「じゃあ、まずは受付業務の基本から説明するね」
医事課のホワイトボードの前で、愛美が小さな体をぴしっと伸ばす。彼女の声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
「受付って、挨拶してるだけに見えるかもしれないけど、本当は情報の入口なの。患者さんの情報を“最初に”確認して、“最初に”カルテを作るから、間違えると全部に影響しちゃうの」
「入口、ですか……」と沙耶がメモを取りながらつぶやく。
「うん。まず大事なのは、初診か再診かの確認。『初めての受診ですか?』って聞くんだけど、これが意外と曲者でね」
「患者さんが“初めて”って言ってても、実は昔に来たことがあるってパターンもあるの」
「なるほど……」と、紬は少し驚いたように相づちを打つ。
「だから、氏名・生年月日・連絡先をしっかり確認して、電子カルテの検索も丁寧にやること。二重カルテになると、検査結果とか処方歴がバラバラになっちゃって、医療事故に繋がる危険もあるから」
沙耶のペンの動きが速くなる。
「で、本当に初診なら、電子カルテに情報を登録するの。このあたりは言葉で説明するよりも、実際にやってみたほうがいいかも」
「じゃあ、今から情報登録の練習をやってみましょうか」
愛美がにこやかにそう言うと、紬と沙耶の前に「診療申込書兼問診票」が配られた。
「まずは、二人とも模擬患者になって、自分で記入してみてね。書き終わったら、交代で受付役と患者役になって、登録をしてみましょう」
「はい!」と元気よく返事をした紬は、さっそくペンを手に取る。沙耶も静かにうなずきながら書き始めた。
問診票には、名前、生年月日、住所、電話番号、保険証の種類、かかりつけ医の有無、症状の内容などがずらりと並んでいた。
(うーん……本名、生年月日、住所……これはいいとして……)
紬のペン先が、ある項目のところでぴたりと止まった。
・性別:□ 男 □ 女 □ その他
・宗教:
(せ、性別「その他」って……? 宗教って、こんなのまで書くの?)
困惑を顔に浮かべつつも、とりあえず空欄を埋めていく。何にも病名が浮かばず、症状は“生理痛”と書いてみた。これが医療の範疇なのかは正直なところ自信がない。
【診療申込書兼初診問診票】
◆患者情報
・患者氏名:日下 紬
・生年月日:2003年8月25日(22歳)
・性別:□男 ☑︎女 □その他()
・住所:東京都○○市××町1-2-3 クレールマンション456
・電話番号:090-1234-××××
・緊急連絡先(氏名・続柄・電話):日下 麻衣(母)/070-××××-××××
・保険証の種類:□国保 ☑︎社保 □後期高齢者 □その他(生活保護、労災、交通事故など)
・職業:医療事務
・宗教:なし
◆症状について
・今回受診される理由・症状をご記入ください(できるだけ詳しく)
普段より生理痛が重い
・症状はいつ頃からありますか?
昨日の朝くらいから
・症状の経過について教えてください(あてはまるものにチェック)
□徐々に悪くなっている ☑︎急に悪くなった □良くなったり悪くなったり □その他()
・同じような症状がこれまでにありましたか?
□はい(いつ頃? ) ☑︎いいえ
・現在、痛みはありますか? ある場合は場所と痛みの強さ(1〜10段階)を記入してください
☑︎あり □なし 場所:下腹部 強さ:4/10
◆現在の健康状態について
・現在、治療中の病気はありますか?
□はい(病名: ) ☑︎いいえ
・現在、服用している薬はありますか?(市販薬・漢方含む)
□はい(薬名と目的: ) ☑︎いいえ
・薬・食べ物・その他でアレルギーがありますか?
□ある(内容: ) ☑︎ない □不明
・今までにかかったことがある病気や手術歴を教えてください(あれば時期も)
なし
◆生活習慣について
・喫煙習慣について教えてください
□吸っている(本数/日: ) □過去に吸っていた(期間: 〜 ) ☑︎吸ったことがない
・飲酒習慣について教えてください
□毎日飲む(量: ) ☑︎時々飲む □飲まない
・妊娠中または授乳中ですか?(女性の方のみ)
□妊娠中 □授乳中 ☑︎該当なし
◆その他、医師・スタッフに伝えておきたいことがあればご記入ください
女性医師を希望
※紹介状をお持ちでない場合、通常の診療費とは別に、初診時選定療養費として3,300円(税込)をお支払いいただくことになりますので、予めご了承ください。
記入が終わると、最初に沙耶が受付役となり、紬が模擬患者として診療申込書を提出した。
「診療申込書、ありがとうございます。保険証もコピーをとりますね。では、情報を登録するので、座ってお待ちください」
沙耶の声は柔らかく、手際も落ち着いている。申込書の内容をさっと目で追い、パソコンに情報を入力していく。
「保険証の種類は社保……住所、電話番号、はい、問題ないですね。じゃあ、これで仮カルテの登録完了です」
「おぉ〜、沙耶ちゃん、プロっぽい……!」
「いえ、まだまだ……でも、こうやって実際に入力してみると、学校で習ったことがつながる気がします」
和やかなやりとりの中で、沙耶が愛美に報告する。
「愛美さん、登録終わりました」
「あれ……?」
愛美の眉がわずかに寄る。
「……どうしました?」と、沙耶が気づいて近づく。
「……患者さんのお名前、日下さんでしたよね?」
「はい、そうですけど……」と沙耶が返しつつ、その入力画面を見せる。
名前を呼ばれて、意味もなく不安になる紬。
表示された名前の欄には、“久坂 紬” の文字。
「あっ……! “日下”じゃなくて、“久坂”にしちゃってる……」
紬も思わずのぞきこむ。
「あ、ほんとだ。私、“日下”のほうです、“ひした”のほうの字」
沙耶はすぐに訂正を始めながら、小さく息を吐いた。
「ごめんなさい、変換のときに気づきませんでした……」
けれどその表情には、どこか苦笑いのような、懐かしさのような色が浮かんでいた。
「私も、“きざき”とか“木﨑”とか、間違えられること多かったんです。だから気をつけてたつもりなのに、やっちゃいましたね……」
「え、そうなんだ。あるあるだね……“日下”もよく読めないって言われるし、“日下”と“久坂”も微妙に紛らわしいし」
紬が気を遣って笑って返すと、沙耶も小さく頷く。
「……変換、慣れないうちは指が勝手に動いちゃって。気をつけないとですね」
愛美がにこやかに頷いた。
「こういうの、最初はみんな通る道だから大丈夫。大事なのは“気づけたこと”と、“ちゃんと直せること”だよ」
沙耶は「はい……」とやや反省気味に返しながらも、表情はどこか柔らかかった。
そんな沙耶の姿を見て、紬は心の中で少しホッとした。
(あんなに完璧そうな沙耶ちゃんでも、やっぱり新人なんだ……)
なんだか、ちょっと親近感が湧いてきた。紬自身は別に、日下でも久坂でもどっちでもよかったし、こういううっかりミスってよくあるよねと納得する。
沙耶が名前を間違えて入力してしまい、訂正が終わった頃、愛美がにこっと微笑みながら補足するように口を開いた。
「こういう入力ミスって、名前の変換だけじゃなくて、実はもっと見落としやすいところにもあるんだよね」
「たとえばね、“ひろみ”って名前の男性患者さんを、女性だと思って登録しちゃったりとか」
「えっ……そんなことあるんですか?」と紬が目を丸くする。
「あるある。名前だけ見て判断すると、間違いやすいの。特に電話対応とかだと、声の印象だけで判断しちゃって」
「“ゆうき”とか、“あおい”とかも、男女どっちもいますもんね……」
「……実は私も、新人の頃、やっちゃったことあるんだよね」と、愛美が苦笑まじりに続ける。
「キーボードを打ち間違えたのに気がつかないで、25歳の女性を55歳の女性として登録しちゃってさ……しかも、患者さんにめちゃくちゃ怒られちゃって……」
「えええ、それ……笑えないやつ……!」
紬が思わず声を上げると、沙耶もくすっと笑いながら頷く。
「それと、性別や年齢を間違えると、検査データの“基準値”が変わってきちゃうから、結構深刻なミスになるのよ」
「どういうことですか?」
紬が聞くと、愛美は軽く頷いて、壁際のホワイトボードにマーカーでささっと図を描いた。
「例えば、貧血の基準が男女で違ったり、わかりやすい例だとメタボの基準が男女で違うから、性別の登録ミスがあると本来“基準を超えてない”人が異常扱いになる可能性があるの」
「なるほど、気をつけないといけないですね」
「うん、“最初から完璧”じゃなくていい。でも、ミスの“重さ”を理解しておくことが大事なの。検査も治療も、患者さんの命に関わるからね」
「こういうのも、“ただの入力作業”じゃなくて、“医療の一部”なんですね……」
「うん。だからこそ、私たちの仕事には“責任”がある。でもそのぶん、“誇り”もあるんだよ」
愛美の言葉に、二人はそろって頷いた。
今度は役を交代して、沙耶が模擬患者、紬が受付役となる。
入力作業に取りかかる前、紬はさっきの疑問が気になって、思わず手を挙げた。
「愛美さん、ちょっといいですか?」
「うん、どうしたの?」
「この問診票の“性別”のところ……『その他』ってあるじゃないですか。これって、実際に選ぶ人いるんですか?」
愛美はその質問に、少し頷いてから、ゆっくりと答えた。
「稀にいるよ。たとえば性自認が男女どちらでもない人や、身体的には男性でも女性として生活している人とか。最近は、どの病院でも“その他”を設けるのが一般的になってきてる」
「へぇ……でも、診療に影響するんですか?」
「それが、場合によってはあるの。たとえば婦人科の受診とか、検査や手術の内容によっては、戸籍上の性別と、本人の自認が違うことで配慮が必要になる場合があるからね」
「なるほど……なんか、ちゃんと聞かないと失礼なこと言っちゃいそうですね……」
愛美は微笑んだ。その笑みが、“知識よりも心を大事にして”と言っているように見えた。
「そう。だからこそ、“聞く力”も受付の大事な仕事なんだよ。本人が話しにくそうな場合は無理に聞かなくていいけど、申込書に書いてくれてるなら、それを尊重して対応することが大切」
紬は「なるほど〜」とうなずきながら、ふと別の項目にも目を向けた。
「じゃあ、宗教の欄も……同じですか?」
「うん。たとえば、輸血を拒否する宗派の人とか、絶食期間がある宗教とか。あと、宗教上の理由で男性医師に診てもらいたくないって希望がある人もいる」
「へぇぇ……病院って、そういうのもちゃんと対応してるんですね……」
「昔、輸血を拒否していた患者さんに、医師が“命を救うため”に輸血をしたことで、あとから損害賠償を求められた裁判があったの。最終的には最高裁まで争われて――“医師の行為は違法ではないけれど、患者の信仰を尊重する努力は必要だ”って判断が出たんだ」
紬は息をのんだ。医療と信仰、どちらも“命”に関わるのに、簡単にどちらを優先するとも言えない。
「だからこそ、宗教の欄を“形だけ”にしちゃいけないの。もし書かれていたら、“この人には、こういう信念があるんだ”ってちゃんと受け止めること。それが私たちの役目なんだよ」
「……ということは、私が書いた“女性医師を希望”っていうのも、ちゃんと対応してくれるんですね?」
愛美はうなずきながら、やわらかく笑った。
「もちろん。婦人科とかだと、診察のときにどうしても体を見せることが多いから、女性の先生を希望される方はすごく多いの。それ以外でも、“同性のほうが話しやすい”っていう人もいるしね。できるだけ希望に沿うように調整するけど、難しいときは理由をきちんと説明して、別の日を提案したりするよ」
「そうなんですね……。たしかに、そういうのって言いづらいこともありますもんね」
「そう。だからこそ、問診票に書いてもらえるのは助かるの。患者さんが言葉にしにくい気持ちを、ちゃんと拾えるから」
「聞いた内容は、どうすればいいですか? あまり人に言うのもちょっと……」
沙耶が愛美に質問する。
「そういうのはちゃんとコメント機能に残すよ。医師や看護師にも見えるように共有しておくの。患者さんのプライバシーを守りながら、希望を尊重するための仕組み」
「なるほど……それって、ちょっとしたことだけど、患者さんにとってはすごく大きいですよね」
「そうなの。だからこそ、私たち受付が“最初に聞ける存在”でいることが大事なんだよ」
(性別や宗教……名前よりもずっと、繊細なことを扱うんだ)
(でも、それを“入力ミスしないように”じゃなくて、“尊重するために”って教えるのが、愛美さんらしいな)
沙耶も静かに頷いていたのが見える。
「受付って、ただの事務じゃないですね……“人と向き合う”仕事なんだなって、改めて感じました」
「ふふ、二人ともいい目をしてきたね。そうやって、“なぜ?”って疑問を持てるのも、立派な成長だよ」




