【番外】海賊の娘の物語
私、来島千鶴は海賊の娘である。だが、近頃は悩む事ばかり多くて困っている。
……王妃になれ、と言われて判断するような知識も人並みの生活も経験が無いのだ。どうしてこうなったのやら。大体、何処の馬の骨とも知れない男性の求婚など、珍しい事ではないのだが、皇帝陛下となると話は別だ。断ろうにも、理由が無い。
私は、物心ついた時から海賊となるべく、血の滲むような鍛錬を続けて来た。もちろんそれ以外の未来など無かった。海賊として生まれ、海賊として死ぬ。そういう人生の筈だった。
もちろん、人並みの生活などがある訳も無い。屈強な男共相手に組み手を行い、嵐の海に放り出される事も日常だった。その甲斐あって無敗の女海賊として育つ事が出来た。その事について、後悔は全く無かった。
……お父様が配下に裏切られて死ぬまでは。
各国の取り締まりが厳戒になり、残り少なくなった倭寇の代表として中国沿岸を荒らしまわっていたお父様は、誰かの恨みを買っていたらしい。もしかすると、配下はどこかの国の所属だったのかも知れない。……そういう時代だったのだ、と今は思っている。
「千鶴! お前だけでも逃げろ! 幸せになれ!」と言うお父様の言葉を聞きながら、私は海に飛び込んだ。
海賊にとっては闇夜の海を泳ぎ切る事など、息をする位には簡単だ。だが、今まで自分の意志ではなくお父様やお母様の指示を聞いて育った私に、自分一人で生きる方法など知る由も無かったのだ。
お母様は数年前の流行り病で亡くなっている。身寄りと言えば遠縁の親族達だ。「幸せになれ」と言う、最後の言葉は漠然とし過ぎて、どうやって叶えれば良いのかもわからない。
……私はもう海賊ではない。幸い、遠縁の親族は私の話を聞いて身柄を預かって貰う事になった。それが善意でない事と知らなかった私にも責任がある。
遠縁の親族はかつて武士に取り立てられており、海賊の志など持たぬ集まりである事は、身柄を預けて暫くしてから知った。
……自分で言うのもおかしいが、女性として人並み以上の美貌があった事は否定しない。ただ、海賊としての私にとって、不必要どころか面倒事を起こす元凶である。そんな事はすっかり頭から抜けていたのだ。
親族達は、年頃になった私を上司の妾として差し出そうと考えていたようだ。……そんな事はまっぴら御免とばかりに一目散に逃げだした。
来島家は代々続く海賊の家系である。数百年もの間、海に生きて海に死ぬ一族だった筈だ。……アイツらはそんな大事な事も忘れ、武士とか言う身分を得て内陸の小さな村にしがみついていた。
まったく馬鹿馬鹿しい話だ! 海を捨てた者達が我が一族の名を名乗る事さえおこがましい。私は来島家の最後の一人となってしまった訳だ。
……さりとて行く当てもない。やりたい事だって思いつかない。だが、血の滲むような鍛錬と修行の日々を無駄にする訳にも行かない。
私は身も心も海賊なのだ。出来れば海で死にたい事だけが望みだった……。
ともかく、この小さな日本と言う国に留まってやりたい事など一つも無い。
……どこか遠くへ行こう。しがらみを一切捨てて、何か心躍る事を自らの意思で行いたいのだ。
思えば、これまで人並みの人生など考えもしなかった。ただ、海賊として船に乗り自由気ままに暴れたい。それだけしか考えた事も無かった。
海賊としての生き方が骨の髄までしみ込んでいる私にとって、人並みの考えも理解出来ない。
だったら、流れ流れてどこか知らない地で暴れまわってみたい。自分の力を試したい、としか思わなかった。
……長年親しんだ海を捨てるというのは躊躇したが、そのうち何とかなると前向きに考えて、大陸に渡った。
飲まず食わずで海を越えて、腹が減った私は適当に料理屋に入り、飯を食らいまくった。お金の持ち合わせなど一文も無い。なぁに、いざとなれば拳で解決すればいい。……それが海賊と言うものだ。
捨てる神あれば拾う神あり、と言う言葉が当てはまる様に私のいざこざを止める女性がいた。色々あって、お姉様と呼び慕う人が出来たのは、幸せだったのだろう。
あちこちの世界に赴き、今まで味わった事の無い体験をする事が出来た。
人並みに考えたり悩んだりする事がこんなに楽しいとは思わなかった。生まれて初めて、海賊以外の人生を与えてくれたお姉様には感謝するしかない。
……彼女の恋愛関係に関しては、口を挟んだ事を後悔しているが。
海賊の知識と経験を生かした船の設計やら、ホテル従業員としての料理や接客など、世間一般の常識について覚える事は山の様にあったが、それらの体験を経て、やっと人並みの人生の一端に触れたような気がした。
なんせ、お姉様は暴れる事しか出来ない私を連れて、様々な事を教えて貰い、憧れの大海原迄連れて来てくれたのだ。海賊としての本懐と言っても良い。
結果的にインド洋と大西洋は既に航海したので、何時か太平洋も横断したいものだと思っている……。若干ロマンを追い求めるのもお姉様の影響ではある。
そこまでは良かったが、人生と言うものは思わぬ事が起こる。いつものようにお姉様に付いて行った先、イスタンブールでの仕事。海賊として船員を指導してやるのはお手の物だ。
船の上で罵声を上げながら、船員共を教育する。まったく、海の仕事は何時やっても楽しいものである。
『皇子救出』と言う話になったのは、それから暫くしてからの事だった。何でも、現皇帝陛下の悪政を止めさせる為に幽閉されている皇子を救い出そう、と言う話だ。
そういう話については特に思う事も無いし、亡くなったお母様からは一通りの荒事や暗殺の業は修めている。特に問題も無いと思っていた。
そう、彼に会うまでは……。
彼はオスマン帝国の皇子である。後宮に幽閉される彼を見た時、遠縁の親族の家でかつて私が味わった出来事を思い出していた。……自分の居場所が見つからない。やる事も無い。明日の希望も無い。そんな何もない空っぽの感じ……。
「皇子、皇子様でいらっしゃいますか?」私は小声でそう囁いた。ちょっとだけ彼のいる環境に同情はしたが、しょせんは他人の人生だ。皇子と言う肩書が私と関わるなんて思いもしなかった……。
「うん、私に何か用かい?」状況と食い違うような、そんなのんびりとした声にちょっと驚く。
「……ここからあなたを連れ出すよう命じられました。こちらに付いて来て下さい」
「わかった。ここには、何も無いからね……それも良いだろう」
何とも危機感の無い男性だというのが、彼の第一印象だった。後から、こういう性格なのだという事を知る事になる。
「……声を立てないで。屈んでゆっくりと歩いて来て下さい」
「ああ。見つからないようにすれば良いのだね」
「……見張りがいない時間帯を見計らっています。門番には賄賂を渡していますので、問題無く出られる筈です。皇子の代わりに影武者を用意していますから、暫くはバレないと思いますが……」
「……随分と手回しが良いね。誰の指示なのかな?」
主犯を迂闊に喋って、協力して貰えなくなるのも困る。
「……誰かは言えませんが、貴方の身を案じる人物です。心配しないで下さい」
「そうか。分かったよ。君を信じよう」
どこか噛み合わない会話。王族と言うものは、皆こういう人種なのだろうか。過去に出会った中国の皇帝の事を思い出す。……あの人も大概だったけど。この人も世間知らずと言うか、呑気と言うか。
「この馬車に乗れば、無事に逃げられます。すみません……本来なら名乗るのが礼儀ですが……」
「……君は優しいね。乱暴にするでもなく、こちらを気遣ってくれる。気に入ったよ」
どういう話なのだろう。遠回しなお付き合いの誘いだろうか?こういう事は慣れてるし、その気も無い。自分の容姿がそういう対象になりやすい事は、ここ最近の仕事でも分かっている……。
「皇子様相手なら、優しい女性は幾らでもいるでしょう。私には関係ありません」つい何時もの癖で答えてしまった。いい加減、見た目だけで誘われるのにも飽き飽きしているのだ。つい、言葉が荒くなる。
「いや、気に入った。ここは安全なんだろう? 少し話がしたい。君の名前を教えて欲しいんだが」
「……千鶴です。海賊をやっています」大抵の男は、これで手を引く。
女だてらに海賊なんて商売、やっている奴に碌な者は居ない。自分を含めて……。そう自虐する。
「海賊という事は海に詳しいのだろう。……私は海を見た事が無い。どんなところか教えてくれないか?」
「海と言っても、嵐で死にそうにもなりますし、夕暮れの海は吸い込まれそうな感じになりますよ。色々と廻りましたが、いつ見ても同じ景色はありません。……何処までも続く水平線はいつ見ても良いものです」
つい、海の事になると饒舌になってしまう。染みついた癖みたいなものだ。
「そうか……貴女に海を見せて貰いたいな。それほど美しいとは思っていなかった」
「……私でなくっても海ぐらい見られるでしょう」
「いや、君の見た美しい海を見たいのだ。一緒に海を見よう」
「私はただの海賊です。そんな身分じゃありません!」
この人の話を聞くと、何だか苛立ってくる。何と言うか、自分の器の小ささとでも言うのだろうか。酷く私が矮小な存在のような、ちっぽけに思えてくるのだ。
「決めた! 君の見た景色を私も見たい! 私の妻になってくれ」
「ハァ?」この人は何を言っているの? バカなの? それとも、王族とはこういう事を言う生き物なのか?
「そういう冗談はお辞めになった方が……」
「私は本気だよ。美しい風景を感じて、それを語れるのは素晴らしい事だ。私に、見た事も無い海の美しさを語ってくれた君と一緒にいたいのだ」
いかん、この人は一般人ではないのだ……。今まででも、美辞麗句で私の姿を褒め称えた人はいる。拳骨を叩きこんで黙らせてやったが。
だが、私の見た美しい海って何? そんな事を言う人は今までいなかった……。なんとも、調子が狂う。
「……皇子様、私にその気はありません! 海が見たいというのなら、勝手に船に乗れば良いでしょう。好きなだけ綺麗な海が見られますよ!」
もうすぐお屋敷に着く。……しょせん言葉遊びの類だろう。『告白ごっこ』という事だ。世間知らずのお坊ちゃまらしい話である。
「千鶴、私は君と一緒に風景が見たいのだ。君がいなければ意味が無いのだ!」
「そういうお話は、相応しい方とすれば良いのではないですか?」
段々、腹が立ってきた。何故だか、自分の生まれや育ちを馬鹿にされたような気がする。
「……さあ、皇子様。着きましたよ。馬鹿みたいな事を言っていないで、さっさと降りて下さい!」
「私は嘘を付くつもりは無いし、自分に正直に話している。この国の皇子として責任ある言葉と思って欲しい」
「……まだ言うんですか? なおさら、そういうお話は結構ですっ!」
売り言葉に買い言葉だ。恐らく噛み合う事の無いこのやり取りだって、一晩経てば忘れるのだろう。……私の経験ではそうだった。見た目と中身の落差で、勝手に幻滅するのがオチだ。
「では誓おう。千鶴、私の妃になって欲しい。これは本気だ!」
もう、お姉様に言って何とかして貰うしかない。質の悪い冗談だろう。
「はいはい、黙って付いて来て下さい。後で聞いてあげますから」
「……私は諦めないよ。君を振り向かせるまでは」
全く、どこの世界に海賊のお妃様がいるというのか、馬鹿馬鹿しい。
……初めて会った時の印象はこんなものだ。現実の見えていないお坊ちゃまに良くある『刷り込み』という奴だろうと。私の事を知れば知る程幻滅すると、本気で思っていた。
……思っていたのだ、その時は。
彼は、諦めなかった。今までだってここまで食らいついて来る相手がいなかった訳ではない。確かに強情ではあるが、意地になっている人だっている。
「私は人よりも外見が優れているという事は自覚しています。そして、外見だけで近寄る輩が大嫌いなのです」私は、彼にはっきりとそう言って、断ったつもりだった。
私の本性は荒々しい海賊なのだ。血と暴力に塗れた薄汚れた女なのだ。それを知ってなお、その言葉が吐けるのなら、と思っていたのだ……。
いつもの仕事、新兵達を船に乗り込ませて散々に罵り、活を入れて一人前の海兵へ育て上げる。
それが海賊として生きてきた、私の本性である。荒々しく、乱暴で、図体の大きい男共を屈服させるいつものお仕事。およそ美しさも楽しい事も全くない、船の上の日常だ。
……だが、皇子様は船に乗り込んで来た。この優男が現実を見れば諦めるだろうと、いつもより強めに罵る。お姉様まで顔が引きつっているのだ。流石に、これで目を覚ますだろうと思った。
だというのに、なぜ彼は私を見て目を輝かせているのか? どうも、そういう趣味でもないらしい……。
「お姉様、何であの人は私の海賊の仕事を見て『素晴らしい!』とか言って、前よりも好感度が上がっているんですか?」もう、私の理解の範疇を超えている。
……恋愛経験はポンコツなのだが、この手の話ではお姉様くらいしか聞ける人も居ない。
「……あのね、千鶴ちゃん。あの皇子様は正直よ。そして、自分の生まれもきちんと把握している。皇帝になれば、自分から何かを求める事はしない。そういう人なのよ」
その辺は分かる。あの強情さは我儘なのではない。むしろ逆だ。……自分の立場を利用して何かを受け取る事は無い。……そういう雰囲気がある。きっと、良い皇帝陛下になるのだろう……そう思った。
「そんな人が唯一求めたのが千鶴ちゃん、貴女なのよ! 何故だかわかる?」
「……そんな事、私にわかる訳無いじゃないですか!」
「千鶴ちゃんなら、自分と同じ立場で接してくれる。多分だけど、そうなる為だけに生きて来た人生を持っていて、なおそれを投げ捨てた千鶴ちゃんに惹かれていると思うわ。……あの人は一人ぼっちなの。これから過ごすだろう皇帝としての責務を、たった一人でこなすのよ。可哀想だと思わない?」
そんな事を言われても困る。……確かにそんな人生に意味があるのか、と考えてしまう。
「……あとは、千鶴ちゃんの毅然とした態度に憧れているのかもね……。そこら辺は分からないわ……ともかく、私からのお願いよ。ちゃんと彼に向き合ってあげてね」
お姉様がなぜそこまで拘るのかは分からない。確かに、皇帝になるために生まれて、何も世間の経験が無いというのは、自分だってかつて似たような人生だった。気持ちはよく分かる。求婚するのは理解出来ないが。
……『私の見た美しい海』と、彼は確かにそう言った。
私にとっての美しい海とは、自分がかつて憧れを抱き、全て諦めた後に見る事が出来たものだった。
……インド洋で見た、頼もしい仲間と共に荒々しい海を踏破した後に見た風景。その体験も含めた、心に残る美しい海だったのだ。海と言われて思い出すのは、苦難に満ちたあの航海だ。
もしかすると、その気持ちがあの時の会話で、無意識に溢れていたのだろうか。
……確かに、それは生まれついて外に出た事のない彼にとって、羨望の対象だったのかもしれない。
「私は……私はどうすれば良いですか?」こんな事は経験が無い。
自分の見た目ですり寄って来る人はいた。だが、私の体験に憧れる人などいなかった……。そして、こういう時の自分の気持ちが分からない。私は普通では無いから……。
きっと、世間一般の人間なら憧れのシチュエーションなのだろう。皇帝陛下に猛烈に求婚されるというお話。
……確か、文字の勉強の為に読んだ、何処かの童話で見た記憶がある。
仮にも人妻のお姉様ならわかるのだろうか? ……あまり参考にならない気がするのは無視するとして。
「千鶴ちゃん、きちんと話し合いをする事よ。あの人は見た目で判断するような事はしない。もし、千鶴ちゃんの見た目が美しくなくても、彼は同じ行動をしたと思うわ」
そう言われると、出会ってから自分の容姿について何一つ言わなかった。逆に違和感があったのはそういう事だったのだろうか?
「解かりました。私、こういう経験は無いですけど、きっちり『お話し合い』をしてきます!」
「……大丈夫、よね? 『お話し合い』の意味、間違ってないよね?」
お姉様、流石に皇子様相手に「お話し合い(物理)」をするつもりはありませんよ……。私の事、何だと思っているんですか? 別に暴力しか使えない訳じゃないんですから。
ともあれ、皇帝陛下の譲位の準備は着々と進み、私はと言えば皇子様の警護と言う名目でずっと一緒にいる訳だ。……正直、お姉様との話し合いの後も悩み続けた。部屋に閉じこもり、色々な事を考えたりもした。
もしかすると、仕事が忙しいから無理と言えば……。駄目だ、問題無いと笑って返されそう。
王妃なんて柄じゃないし、妻らしい事なんて出来ないと断れば……。ああ、説得されそう。
色々と悩んだ結果、断るのは無理と判断した。……付き合わなければ良いのだ。ほら、男女の友人ってありじゃない? 『お友達からお願いします』と答えて時間を稼ぐ事にしたのだ……。
うん、時間を稼いでどうするのか。その後の事は考えていない……。結論を引き延ばせばどうにかなる、という相手ではない事は、ここ数日、『お話し合い』をして理解している。
諦めよう。一緒にいて人となりが分かれば、関係が変わるかもしれない。こういう時は、前向きに考えなくては。何、いきなり婚姻なんて事にはならない。……ならないよね?
「千鶴、『私の友人』として一緒に付いて来て欲しい。着替えはそこにある。是非とも立ち会って欲しい」
「……『友人』って、そう言う意味でしたっけ? 何と言うか、皇帝陛下の即位で横に居るのって……」
「なに、気にする事は無い。別に宣言する訳でも無い。関係を聞かれれば『友人』だと答えよう」
……皇帝陛下にその質問を出来る人間って、この世に何人いるんですかねぇ?
私は、どうにも既成事実が積み上げっているのではないか、と言う考えが頭から離れなかった。
私は海賊として生まれ、そのように生きて来た。だから、世間一般と言う生活を知らない。……そして、私にとって「普通の生活」とは憧れであり、自分には無縁な物と諦めていた。
「普通の生活」は、海で遭難しかけたり、荒々しい男共と殴り合いをしたり、皇帝陛下から口説かれたりはしない。……自分で言っていて酷いと思うが。
私は、普通に恋をしたり何処かでお店を手伝ったりしながら、生活する事が夢なのだ。
……ああ、ホテルの従業員は良かったなぁ。ちょっと目立つウェイトレスとして、何となく「普通」と言う雰囲気で仕事をしていた。そういう事がしたいのだ。
以前に本で読んだ男女の交際では、『デート』と言って仲良く出歩く事があるのを知った。そういう「普通」が体験したい。見果てぬ夢、という奴である。
そもそも、身の回りにまともな恋愛関係が無いのも問題だ。お姉様自身、恋人になるより前に偽装結婚してたし。皆で『どうしてそうなった!』って言っていた。
その発想は無いわ。……ジェームスさん、可哀想だったなぁ。流石の私もドン引きであった。結婚は人生の墓場、とか言っていたが、まさにその状況でお姉様からのアプローチを受けて弱っていたからなぁ……。
ともかく、参考にならない恋愛関係は出来る限り除外して、何とか「普通の交際」と言うのがしてみたかったのだ。だが皇帝陛下から言い寄られている以上、そう言う夢は無理だとは思っていた。
今の所『友人』として、私の体験談を夜に語っている。……お姉様は「アラビアンナイトみたいで良い雰囲気じゃない」と言われた。どうにも面白おかしく眺められている気がする。
……私の希望を神様が叶えてくれたのか、ある日突然に皇帝陛下が悩み事を言いだした。
「……仕事の事や臣民の生活がな、私には分からんのだ」そりゃそうか。一度も外出せずに一般の生活からほど遠い所に居るのだ。報告書一枚で正しい事が行われているか、判断出来る訳が無い。
それならいっそ、身分を隠して何処かで経験を積まないか? と、お姉様は普通ならあり得ない事を言い出す。流石に無理じゃないか、と思うのだが。
「成程、かつてロシアの皇帝もそうやって一般人に紛れて働いたという。どうだろうか?」
無茶な提案に無茶な回答……。だが、臣下の皆さんは重大な問題だと感じていたようだ。
2年間の期限付きで皇帝陛下改め、ムラトさんと言う一般人として日常生活を送る、と言う話になってしまった。
何にしろ、私が望んでいた「普通の生活」が出来るようだ。ロンドンの街中で露店を開くという。
一人では心細いというムラトさんの提案に乗り、店長と店員と言う立場で「ごっこ遊び」をする事になった。
そう。あくまで「ごっこ遊び」なのだ。……人生が掛かった仕事ではない。苦労する事はあっても、我慢する事も無い。もう十分だ、と言えば終わってしまう、仮初の生活。
……それでも構わない。例え「ごっこ遊び」と言えども、貴重な経験である。私だって、そういう「普通の生活」をしたいと思っていた。掛け替えの無い思い出が出来る事だろう。
私にとっても、ムラトさんにとっても楽しい時間は過ぎていった。子供達や工場の従業員相手に軽口を叩きながら、思いついた料理を振舞う。昼休みの混雑は厄介だが、それを含めて楽しいのだ。
お姉様もかつて、こうやって商売をしていたという。話が出た時、お姉様は「そりゃ、人生経験にはなるけど、料理修行ばっかりして怒られない?」と呆れた様子だった。
確かに、儲ける為でも生活する為でもない。ちょっとした一般市民とのふれあい程度の事。だけど私達にとっては、他の誰でもない普通の人としての生活。
笑ったり困ったり、悩む事だってある。お休みの日には念願だった『デート』だってしてみた。とても楽しい。
それだけに何時までもこのままでいたい、と言う気持ちは湧き上がってくる。「いっそ、全てを捨てて」なんて事を考える事もあった。
ムラトさんも同じような事を考えたのだろう……。黙々と料理を作りながら、どこか遠くを見るような眼をする事がある。二人とも解かっているのだ、これが「ごっこ遊び」である事を。
始まりがあれば、終わりもある。数か月の楽しい生活は終わりを告げた。ロンドンだけに留まっている訳にも行かない。
これは貴重な時間なのだ。私と皇帝陛下の至福の時間。友達から恋人未満まで進んだ関係だけが手元に残った……。
旅を続けながら、私達はお話し合いをする。料理の事、旅の事。出会った人達との思い出。……例えそれがちょっとした結果だとしても、大事な話だ。
気が付けば、私は海賊ではなくなり、ムラトさんは皇帝陛下ではなくなった。その為だけに生きる、と決められた二人のちょっとした逃避行。
……それは、僅かな期間の出来事であっても確実に二人の気持ちが変わっていた。
色々な人に出会った。……特に思い出深いのはピョートル陛下夫妻だ。偶然、出会った人が自分達と同じように、身分を隠してうろつく皇帝だったのだ。
人間、同じような事を考えるのだろう。お互い、身分を明らかにした時の空気は忘れられない。
……いたずらっ子が自慢するように、お互いの放浪歴を語るのだ。世界一どうしようもない会話だろう。
皆に説明した時の大爆笑は忘れられない。気が付けば、普通に毎日を過ごし私達の旅について来た。
お姉様は皇帝だろうが、何だろうが立っている者は使えとばかりに、掃除や荷物運びなど雑用をさせる。
ムラトさんは楽しそうに過ごしている。……何だか変な感じがする。
最初に会った時の印象とは違って見えた。何と言うか、放ってはおけない人と言う感じ。
私に兄弟も仲の良い男友達もいなかったが、そう言うのに近い関係。ただのムラトさんと言う人である。
ピョートルさんが帰る事になった。流石に数カ月も玉座を放り投げて、奥さんに任せる訳にも行かないらしい。当たり前だが、この人ならどっかに飛んでいきそうな雰囲気なのだ。
「折角だから、一緒に帰りませんか?」ムラトさんが提案する。確かに、この人とはもっとお話がしたい。
何の気無しに三人で帰る事になったが、この人の話は面白い。多分、不良皇帝としての経験談だ。悪ふざけする程、そう言う話は面白いものだ。
「お前さん方も幸せになる権利はある。皇帝だからって遠慮する事は無いぞ!」
その一言に驚く。私達の問題をいつの間にか感じ取っていたらしい。仮にも皇帝である。それ位の器量はあるのだろう。
「まだ恋人にもなっていないのさ。どうすれば良いやら」
そんな一言が私に突き刺さる。関係を変えるのは簡単だ。だけど、後戻りは出来ない。
そんな様子を見たピョートルさんは宮殿に遊びに来いと言う。例の奥さんを紹介したいらしい。
会ってみてビックリしたのだが、留守の間は皇帝陛下代理として働いていたらしい。しかも王族でも貴族でも無いという。
「そうね、私は農民の娘だったけど、別に気にしていないわ。するべき事は国を守る事。身分なんてどうでも良いのよ!」
何と言うか、目から鱗が落ちるようだった。今まで気にしていた「海賊の娘」だって、農民の娘と変わりない。そう思うと、今まで悩んでいた事が馬鹿らしくなってしまった。
「お互い、自分の気持ちには正直になった方が良いぜ。まあ、国を傾ける程無茶しなきゃ大丈夫だ」
ピョートルさんは体も大きいが、肝っ玉もデカい。そりゃ、造船所で身分を隠して仕事する位だし。
「貴方は、もう少し国の事も考えて下さい。私だって出歩きたいのよ!」
世の中には、面白い関係の夫婦もいるものだ。少しだが、勇気を貰えた気がする。今まで、身分や生い立ちばかりを気にしていた。
自分の未来はまだ見えないが、少しくらい幸せになっても良いかもしれない。
お父様の遺言でもある。自分にとっての「幸せになる」が今一つはっきりとはしないが『きっと明日はもっと良い日になる』のだろう。
奥さんに誘われて、世間話をする。お互い数奇な運命に翻弄された仲間だ。
「良い事、男はちゃんと捕まえて、掌で泳がせるのよ。自分が偉い、と思わせておいて大事な事はこっちで進めるのよ!」アドバイスと言えば、聞く価値もあるかも。
まだ、お妃様になる覚悟も恋仲になる勇気も自信が無いが、そういう事もある、程度には覚えておいた。
そう思っていると、何処から出したのか物凄い煽情的な下着を持ち出してきた。
「これを着ていけば良い雰囲気になるから! 頑張ってね」
有無を言わせずに寝室へ送られた。……ああ、皇帝陛下の奥さんってあの位の押しの強さが必要なんだな、という事だけは理解した。
「良く似合っているよ」ムラトさんの台詞は想定通りだが、多少動揺している。
「その……私今迫られたら断れないと思いますけど……どうします?」
「そういう事は、お互いの同意が必要だ。これでも男としての意地がある」
「……そうですか。じゃあ、このまま同じベットで寝ちゃいましょう!」
今の私の勇気じゃこの程度。いつか、この人に飛び込んでいけるまでは、心の整理が必要だ。
そんな事を考えながら、二人仲良く手を握りながら眠りにつくのだった。