8−1 花の餞別
ノインはまたしても馬車の中で一人、胃が痛む想いだった。長い前髪に隠れていない片目も光を失いつつある。
明らかに寡黙を貫く風変わりな庭師リリーナターシャ・アジュールと、不機嫌に背凭れに寄り掛かって座る彼の主の第二王子アレスフレイム・ロナール。ノインは自分だけ馬を走らせて帰城したいと心中で悲願した。
まずは畑を出発する直前。
ノインは畑仕事を手伝っていると騎士団長から帰城を求める手紙を預かり、アレスフレイムに伝えると即戻ろうとなった。(この時のアレスフレイムは機嫌が良かったはずだった。)
手早く自分の支度を終え馬車の出発の準備を手伝っていると、昨日の朝以来にリリーナと顔を合わせ、
「まぁ、ノイン様! ご無事で良かった! お一人で戻らされたと聞いて心配していたのですよ」
リリーナはノインの両手を包み込むように握ったのだ。
「アジュールの方は身体の調子はどうなんだ。倒れたと聞いたが」
言いながらそっと腕を下ろした。
背後からの主の視線が恐ろしいくらいに鋭かったからだ。自分を見ているのでは無い。握られた手を矢のような鋭い眼光で捕えていた。
それ以降主の機嫌はすこぶる悪化した。
「貴様はまだ怒っているのか」
はい、その言葉をそっくり貴方にお返ししたい、とノインは思ったが、今のはアレスフレイムがリリーナに掛けた問いだ。
「怒っていませんわ」
「怒っているだろ」
「怒っていませんわ」
「ノックもせずに入ったことは詫びる。寝間着姿ぐらい良いだろう、裸だった訳でもないし」
キッとリリーナはキツくアレスフレイムを睨んだ。ノインは彼女の不機嫌な理由を知れて納得したと同時に、そういうことに恥じらう女性らしいところもあるのか、と傍観していた。だが、これについては絶対的に主人に非がある。
「怒らないであげて。このお兄さんはすごく頑張ったんだって。国境の山の主様が褒めてたよ」
「レジウムの新緑の葉の騎士たちと一緒に立ち上がったんだ!」
外から野原の草たちの声が聞こえ、皆口々にアレスフレイムを擁護した。
「レジウムの新緑の葉の騎士たち…………?」
窓の外を見ながらリリーナが小さく呟くと、アレスフレイムとノインは途端に背筋を伸ばした。
「…………本当に植物の声が聞こえているんだな」
「レジウムで何かあったのですか?」
アレスフレイムは隣国レジウムでの出来事を全て話した。最初にレジウム王に自分を討ちに来たのではと言われ仕方無しに剣を手放したこと、護衛の兵士たちの中に敵国のスパイであろう人物が複数人紛れ込んでいて剣を向けてきたこと、そしてそれを守ってくれたのがガラス片を持った夥しい数の葉だったこと、レジウムの入国整備のために友好国に協力を仰ぎたいが褒美が無いためにこちらがその褒美代わりの作物を用意して差し出してあげること。
「……………本当に……お二人とも……ご無事で……」
突然襲いかかって来られたと聞き、リリーナは背筋が凍る想いだった。
「必ず戻ると言っただろ。貴様に出会ってから魔訶不思議なことばかりだ。まさか葉に助けてもらうとはな」
「最後にガラス片の掃除までしてくれましたしね」
アレスフレイムとノインは笑い話をしているように穏やかな顔をしている。
「これから忙しくなる。何せクソ親父にバレないように隠密に進めないといけないからな」
「アンティスには伝えましょうか。セティーは」
「伝えるのはアンティスにだけだ。セティーにはまだ黙っておこう。あの男は食えないからな」
アンティスにセティー、聞いたことがない名前だ。アレスフレイムが食えないと言う“セティー”という名の男は今後会うことがあれば距離を置こう、とリリーナは黙って聞いていた。
王城まであと半分を過ぎた頃だった。
「煩い!!! それを使うなと言っただろう!」
突然、アレスフレイムが怒鳴り声を上げた。リリーナもノインも話す声は小さい方なため、リリーナは何事かとびくっと身構えた。
一方ノインはリリーナに聞こえるように
「恐らく精神感応です。血の繋がった兄弟間だけに使える魔法で、遠くにいる相手に会話が出来るらしいのですよ」
「でしたら今、アレスフレイム殿下のお話相手は………」
ノインは気の毒そうに頷いた。
そう、爽やか好青年だが中身がすっからかんの第一王子、マルスブルーだ。
「やっっっっと精神感応が届く範囲に戻って来た!! 畑のことはノインたちに任せてアレスだけ先に戻って来てよ」
「何故だ。戦争中に比べたら城を抜ける期間は圧倒的に少ないだろう」
「だからだよ! 戦争中は町長たちは基本的に緊急なこと以外は要請しないんだ。だけどさ、君が帰って来たと知らせを聞いた途端に橋とか倉庫とかの修繕費とかの請求議案とか山のように来るんだよ」
「部下に実際に行って確かめてもらえば良いことだ。報告次第で可否判断をすれば良いだけのことだろう」
「でもさ、決定印とかサインって僕の名前でするんだよ? アレスに否決されたら納得するだろうけど、僕に否決されらたら国民たちが反感持つんじゃないかなぁ」
「反感を恐れるな! 自分が正しいと判断したことをまずは自分で信じろ!」
「それはアレスが自分に自信があるから出来るんだよ。自分が出来るからって必ず人が出来るとは限らないよ」
「っ…………!」
荒れるフレイム降臨か、とノインだけでなくリリーナもいつでも水魔法を発動出来るように手を少し前に構えていた。
アレスフレイムは「はぁぁぁあ」と大きな溜息を吐き
「拉致が明かない。精神感応を終わらせるぞ。急用以外は二度と使うな」
「もっと他に言い方があるだろう! アレス!」
フンッと鼻息を吹くと、アレスフレイムは腕を組んで苛々した顔で目を閉じた。恐らくマルスブルーから何か話しかけられているだろうが無視を貫くことに決めたのだろう。
ノインとリリーナも黙って、彼の様子が落ち着くのをじっと見守った。結構マルスブルー様しつこい、おっと、しぶといなと思いながら彼らは長い沈黙を共にした。
やがてゆっくりとアレスフレイムは目を開くと同時に再び大きな溜息をついた。
「私、あなたに怒るのはもう止めるわ」
リリーナに同情され、アレスフレイムは「ハッ」と嘲笑し、
「ああ、また寝間着姿を見られてもカッカするなよ」
と嫌味を放つと、リリーナは少しだけ目を細めてムスっとしたので、アレスフレイムは面白そうにけらけらと笑うのだった。
そしてまた彼の赤髪と同じ色のフレーミーの花畑を通り過ぎる。彼らもまたけらけらと笑い声を上げながら馬車を見送った。
自分一人だったら、殿下を笑わせることなど出来なかったな、とノインは胃の痛みはすっかり消えて平穏な時間を過ごしたのだった。