5−2
植物達に命の恵みを与えるため、そして人間もまた乾いた心を癒やすため。
そんな理由でリリーナの聖水を腰のベルトに掛けられる程の水筒に託されただろう。人間についてはついでに過ぎなくて、彼女にとって本命は植物。
大地を守るため、さすれば無条件に力を貸すに違いない。
「聖水ッ!!」
聖水の名を呼ぶのはアレスフレイム。彼の魔法の属性は火。だが、彼の呼び声を聞くやいなや、水筒の蓋は開かれ、彼が片手で握り持つ大剣に螺旋状に流れ出た。
「その水は………!?」
昨日自分の影を倒し、大打撃を与えた忌まわしい水。ラノは歯を食いしばり、聖水に打ち勝とうとさらに爪を伸ばしてアレスフレイム達に襲いかかった。
「聖水よ、荒れた憎しみの炎を消せ!!」
アレスフレイムは多くの戦いで隊の先頭に立ち、敵の首をいち早く切り落とすロナールの英雄とも呼ばれている。今も果敢にもラノの爪を避けながら前へ駆け出し、大剣を薙ぎ払いながら爪から燃える青き炎を鎮火し、爪をも切り落としていった。
前へ前へ駆けて行く。ラノへと真っ直ぐに。
「アレスフレイム様!! 危険です!!」
ノインがアレスフレイムの背中に向かって叫び、折れても尚刃を向けるラノの爪を水ノ魔鎖で縛って抑制。だが、アレスフレイムは一人どんどんと進んで行く。
「アレスフレイム!! 止まれ!!」
アレーニも叫び、蜘蛛の糸でアレスフレイムに向けようとする爪を縛り付けた。
「赤きロナールの王族…っ!! 死ね!! 死ねぇぇぇええ!!!」
ラノもアレスフレイムに叫ぶ。
竜の血を半分継ぐその者の叫びは、空気を切り裂くように鋭く響く。だがどこかで、もう半分の血、人間の赤子が泣き叫ぶようにも聞こえた。
「チッ、歴代の王はろくな奴しかいねーな」
アレスフレイムは舌打ちをし、ぐっと大剣を握り締めて向かって来る爪を次々と聖水を纏った矛先で切り落としていく。
そして
「……グッ……っ」
歯を食いしばりながら浮くラノのすぐ下まで距離を縮め、
「ノイン、アレーニ、微動だにさせるなよ!」
ダンッと大地を蹴り上げた。彼の足が大地から離れて行く。その足が次に辿り着いたのは長く伸びたラノの爪の上。
「承知致しました……ッ!」
手に食い込む程力を込めて鎖を握り締めるのはノイン。自分の主君の命が懸かっていると思えば、手の痛みなど造作もない。ぐっと大地を踏み締めるように地に付いた足に力を込め、ラノの一本の爪の動きを全力で封じた。その間にアレスフレイムは爪の上を駆け、爪の元、ラノへさらに接近。
だが別の爪がアレスフレイムに襲いかかろうとした。
「拘束氷漬!!」
氷属性の魔法を使うのはロナール騎士団団長のアンティス。アレスフレイムに襲いかかろうとした爪とノインが抑え込む爪とを氷で結び、動きを封じたのだった。一気にラノへと駆け抜けるアレスフレイム。
「来るな……っ……来るな…っ…!!」
爪を元の長さに戻そうとしても縛られて自由が利かない。ラノは目を限界まで見開き、アレスフレイムに威圧するが彼は怯むはずもなかった。
大剣がアレスフレイムの真上に振り上げられる。剣先が陽の光に当たり、星のように光った。
「くそ……っ!」
ここまでか、とラノは憎きロナールの王族に斬られることを覚悟し、思わず目を閉じた。
「アンセクト筆頭魔道士! 俺とラノ王を水で包み込め!」
「っ!?」
昨日リリーナと幻影で戦った時と全く同じことをされるのか、とラノは背中を反らして少しでもアレスフレイムとの距離を離そうとする。
「まさか本体にも同じことをするんですね。水ノ魔壁!」
こぽこぽぉ………!!
瞬く間に大量の水が空中に居るラノとアレスフレイムを飲み込んだ。
息苦しい。二人共、口を閉じて耐えきれ無さそうな表情を浮かべた。
が、アレスフレイムは大剣を振り上げたまま口を開けた。ぽこぉっと泡が彼の口から出て上へと上って消えていった。
「聖水・炎ノ魔剣!!」
大剣が赤と青、両方に輝く。まるで夕焼けと青空を同時に空に描いたかのように。
彼等を包み込んでいた水が全て聖水となり、ラノを潤すとギンギンと伸びて尖っていた爪がシュウウウと元の長さに戻っていく。
彼の灯火は暖かい。温かな聖水が身体全体を包み込む。
「我は………」
何故爪がもとに戻ったのかわからない。ラノは初めての感覚に目を開きながら呆然と水中を浮かぶ。
アレスフレイムは大剣から手を離した。その手は、そしてその腕は、争いのためにあるのではないのだから。
「すまなかった」
何よりも近くで謝罪を伝えたかった。その腕でラノの命を落とそうとする意思が無いことも。
彼の両方の腕は羽根の生えたラノの背中を力強く抱き締めた。
「命を軽んじた王族共が苦しませてすまなかった。ラノ王の尊い両親を奪ったことも。現王族として深く謝罪をしたい」
「何……を…………」
―――――チガウ。
ロナールの王族の奴らが憎かった。奴らさえいなければ、我が誕生することも無かった。
母親の命を直接奪ったのは我だ…………。
無理矢理我を母に作らせたロナールが許せぬ。そう今までロナールをいつかこの手で破壊しようと決めたというのに………。
自分で自分を一生許せぬから息が苦しい。
―――――何故我は振り解けぬ。こんな下等な生身の人間など、爪で八つ裂きに出来るのに。
ラノはアレスフレイムを押し返すことも、爪で割くことさえもしなかった、出来なかった。両腕をだらんと下ろし、温かな聖水に流れを委ねる。
「…………我が殺したんだ」
殺したくなかった。
「母を、我の命と引き換えに奪った。我さえ産まれなければ、母と父は、誰にも殺されずに済んだ」
母と父の元に行きたいとさえ思う。だが、迎えてくれるはずもない。こんな化け物なんかを。
「ラノ王、貴様だけではない。出産で命を落とす母親は悲しくも今もいる」
そっとアレスフレイムが片手でラノの頭を柔らかく包む。
「貴様の母親は太陽の丘の魔女だと聞いた。妊娠中、母子共に命を落とすことも、赤子だけ消すことさえ魔法で出来たはずだ。けれども、それを選ばなかった。貴様の母親は腹の中で貴様を守り育てることを選んだ。ラノ王、貴様が産まれたことは、両親の希望でもあったと俺は思う」
「……………」
―――――自分で許せぬなら誰かに許されたかった。
「貴様の両親を奪ったのは紛れもない、ロナールの王族だ。申し訳無い。謝っても許されないとはわかっている。だが」
アレスフレイムがラノの肩を優しくも力強く掴み、目を合わせた。赤き瞳と黄金色の瞳、互いの瞳に相手の色が映し出される。アレスフレイムが視線を王城の庭に下ろすとラノも釣られて眺めた。
「忘れないで欲しい。貴様の母親は太陽の丘の魔女。大地を守る誇り高き魔女であり、自然を愛する者。ロナールの草花や木々こそが母親とそして貴様の故郷であることを」
ゲルー国は花の咲かない荒れた地。土は乾き、食料は他国から奪い、人々はどこかに立ち去り、竜達が鳴き続ける大陸の最北の孤独の国。
「忘れ…………ない……」
―――――何故だ、懐かしささえ感じる。
ラノは軽く手を握り締め、膝を曲げ、身体を少し縮こまらせた。
温かな水の中、自然にこの体勢になっていく。
『あっ……今この子蹴ったかも』
聞き慣れない声にラノはハッと目を見開いた。今のは誰、と頭の中に突如聞こえた声の主を思い出そうとする。記憶の糸を藻掻きながら辿るように。
『ねぇ、ラノって名前はどうかしら。男の子でも女の子でもどっちでも付けられるわ。お腹に居る時からいっぱい名前を呼んであげたいの。どう?』
『名前を付ける習慣は竜には無い。お前が望むならそう名付けよう』
『決まりね。ラノ、今はあなたがお腹に居るから魔法を使うとあなたに危険が及んでしまうけれど、産まれたらすぐに三人で遠いところで静かに暮らそうね、ラノ』
あったかい。手のひらなのか、遠くから包まれてる気がする。ラノは目を細くし、温もりに委ねるように身体を少し傾けた。
『忘れないで、あなたはママのお腹に居る時から沢山愛されていることを』
「忘れ………ない」
―――――愛されていたんだ………。
「そろそろ魔法を解きますよ!」
聖水とは言え、流石に長時間水中に潜らせたままに居るのは危険だと判断し、マリクが魔法を解いていく。
すっかり飛ぶ気力を失ったラノは無気力に落下していく。
「ラノ!」
飛べないアレスフレイムも共に落下していくが、空中でラノをぎゅっと抱き締め、ラノの頭を守るように胸元に顔を埋めさせ、腕で後頭部を包んだ。
「グゥウウウッ!!!」
ゲルー国からラノを追った大型の竜達が到着し、落ちていくラノとアレスフレイムを飛びながら背中に乗せたのだった。
「ラノ、大丈夫か?」
突然無気力になったラノを案じ、顔を覗き込むアレスフレイム。
「うっ…うっ……うぁああぁあああぁああぁああ!!!!」
目を閉じ、大きな口を開けてラノは大きな泣き声を上げた。アレスフレイムは少し戸惑いつつもそっと抱き寄せ、暖かな手でラノの頭を撫で続けのだった。そっと、そっと。泣き止むまでいつまでも。




