4-1 学校に通っていれば、全てがわかるわけではない1
昨日とは打って変わり、青空が広がる5月2週目の火曜日。早くも夏さながらの暑さに襲われ、俺は1人で校門をくぐる。
ヒロはようやく今日から朝練が開始したらしく、朝から俺の元に1通のLINEが飛んできていた。ヒロがいない以上、榛名がわざわざ俺を待つわけもなく、さっさとクラスの友人たちで集まって学校に向かったようだ。
というわけで、高校に入って初めて最初から最後まで1人で登校したわけなのだが、とくにこれといって特筆すべきことはなかった。1人で黙々と歩く分、いつもより教室に到着するのが早かったくらいか。
汗で少しインナーが肌にまとわりついているのを気持ち悪く感じながら1-Aに向かうと、そこには相変わらずの喧騒が待ち受けていた。
その中でも目立っているのは、先日同様、教室の入り口で集団になっているトップカースト軍団。普段は男女でバラバラなのに、今日は混合グループとなっているため、一際騒がしい集団になっている。朝っぱらから元気なことで。
さっさと横を通り過ぎてしまえば、俺の席は入り口からはそれなりに遠いし少しは静かになる。意を決して急ぎ足で入室した俺は、うまく左のほうで盛り上がっている集団を躱すことに成功した。これでまっすぐに俺の席へと向かえば、作戦成功だ。
これで勝ちは確定。あとはこの暑さから逃れるために、家で沸かして持ってきた麦茶を喉元に流し込めば、万事オーケイ。半ばフライング気味にカバンの中に手を突っ込もうとしていたその時だった。
「あ、おはよう、栗生君!」
華麗に回避したはずの左の集団から俺にフレンドリーな挨拶をする同級生の声がしたのだ。普通の学生なら、その声の主を瞬時に判別し、笑顔で挨拶を返すくらいの反応を見せるのだろうが、あいにくと俺にはそんな技能は備わっていない。なのでまずは、全身を使って声の主を探し、そこからどんな反応を返すかまでを脳を介して考えないといけない。
ということで、早速声がした方向へと振り返る。真っ先に飛び込んでくるのは、教室の外からすでに確認が取れていた男女混合グループ。男4人女6人の計10人で構成された集団が、言葉通り十人十色の反応でこちらを見ていた。
そしてその中に1人、見慣れた顔の女子が太陽のように明るい笑顔を向けてきているのを発見したところで、声の主探しは終わりを迎えた。
さて、素直に俺の今の心情に従うのならガン無視を決め込んでやるところなんだが、ここは言わば今のあいつのホームスタジアム。下手な対応をすると、それだけで全クラスメイトを敵にまわすことになる。
「・・・おう。」
脳内での厳正な会議の結果、俺は片手だけあげて一言返すという選択をした。
これがただのクラスメイトからのものだったら、もう少し愛想よくしようかとも考えたのだが、あいつ相手ではこれが今できる最大限の対応だった。
俺はそのまま今度こそ自分の席に向かって歩き出す。
「美桜って栗生君とも話せるんだー?」
「あいつって何考えてるのか俺さっぱりわかんねーわ。」
「でもさすがクラス委員だよねー。」
たった一度俺に挨拶しただけで、周りからここまでの賛辞を受けているのは、昨日俺に狡猾なやり口で無理やり協力関係を結ばせてきた女子生徒、白瀬美桜。わざとらしく『えーそんな大したことじゃないよー』とか、『うーん、話してみると普通の子だよ?』とか言って場を盛り上げているのを聞きながら、俺は当初の予定通り席に着いて自家製の麦茶を堪能する。妙な絡まれ方をして少しイライラしていた心にはいい薬だ。
しかし、そんな俺の幸せな一服の時間は、またもやこの女の一言で崩壊する。
「昨日なんか、わざわざ休んだ分のプリントを家まで届けにきてくれたんだよ?」
危うく口に含んだお茶をヒロの席に向かって思いっきり吹き出すところだった。あいつはなんだ、バカなのか?それとも俺を困らせて楽しむ、極悪人の裏側でも持っているのか?
「え、美桜の家まで来たってこと!?」
「あいつ、さらっとお前のお見舞いに来たってことかよ!?」
「えー、それってどうなん!?」
そんな発言を聞かされた側はもちろんこういう反応になる。気づいていないふりをしてカバンから今日の分の教科書を漁っているが、白瀬の集団から何人もの視線を向けられているのをヒシヒシと感じる。そのざわめきは、白瀬軍団の人間に留まらず、教室内に形成されていたいくつかの小集団にも広がりを見せ、いつの間にか登校していたクラスメイトほぼ全員の視線が俺に集められていた。隅で1人読書をしている、特徴的な眼鏡をかけている女子を除いて。
「あ、もちろん先生に言われたからだよ!?私たち、家近いから!」
あれが果たして演技なのかは知らないが、あいつはやけに焦った様子で大袈裟な身振りを使って同級生からの意味深な視線を躱そうとしている。好奇の視線こそ向けられるものの、俺に話しかけてこようとする人間はおらず、みんな白瀬の方に注目を向けている。
我関せずの姿勢を貫き、ほとぼりが冷めるのを待っていると、いつの間にか小集団を吸収して大集団となっていた白瀬グループは、俺のことなんてすっかり忘れて、小中時代の自分たちの話題について盛り上がり始めた。やがて予鈴が鳴ったところで大集団は解散し、各自の席へと戻っていった。
幸い、ヒロはチャイムギリギリに教室に入ってきたため、からかわれることはなかったが、如何せん白瀬は俺の隣の席だ。白瀬はさっきの明るい調子で俺に『あっはは、ごめんごめん!』と謝ってくるのを見られてしまった。
だから俺は、謝ってきた白瀬に対して、『何の話だ?』という一言を、殺気をこれでもかと込めた視線と共に返してやった。
* * *
白瀬からのこれ以上の絡みがなかったおかげで、それ以降はいたって普通の一日だった。中間も来週に迫っている影響で、授業はいつも以上に真面目だし、宿題もまとめプリントなんて銘打たれたものを大量に出された。これでは凌太先輩や白瀬に構っている暇なんて全くない。
・・・なんて真面目に考えていたのは俺だけだったようで、図書室にはだいたい見たことのある顔触れが読書をしていたり仮眠をとっているだけで、真面目に勉強に取り組んでいる生徒は数えるほどしかいなかった。
ちなみに吉川の姿はなかった。終礼が終わった後にさっさとカバンを持って教室を後にしている姿をちらっと見かけたので、おそらく今日は真っ直ぐ帰宅したのだろう。・・・決して残念などとは思っていない。断じて。
出された分の宿題をサクッと終わらせて、俺は図書室を出た。時刻はすでに17時を回っていたが、あれだけの量があったことを考慮すると、むしろ早いくらいだな。今日は帰りにスーパーで食材の買い出しに行かないといけないこともあり、少し本気で取り組んだんだが、その甲斐があった。
廊下に出ると、まだ一部の運動部は活動しているようで、グラウンドから掛け声やらが聞こえてくる。この学校は中間や期末が近くても強制的に部活動を禁止するような措置はとっておらず、各部活や顧問の指示で対応が違うとヒロが言ってたっけ。
せっかく声が聞こえてきたのでちらっとグラウンドを覗いてみると、意外と多くの生徒が各々の部活に取り組んでいる様子が見られた。中でも野球部とテニス部は通常運転のようで、かなりの人数がランニングやら球打ちに励んでいる。
「・・・ん?」
ただよく見ると、グラウンドがほぼほぼ野球部で占められているのが気になった。普段なら野球部とサッカー部がグラウンドを半分ずつ使って活動しているはずなのだが。
でもヒロは今日もちゃんと部活に行くと言って教室を後にしたはずだ。ならばどこかにいるはずだと思いグラウンドを隅々まで見渡すと、端の方でひっそりと1人でドリブルの練習をしている姿を発見した。なるほど、サッカー部はどうやら試験前は活動を休止しているようだな。それでも1人で練習し続けるあいつはさすがというべきか。あれで果たして練習になっているのかという疑問は残るが。
「あんた、まだ残ってたんだ。」
窓を眺めていると、珍しく学校内で声をかけられた。声自体は聞き覚えがある声だったし、声をかけてきた相手に大方の検討はついていたからそこまで驚きはしなかったが。
「お前こそな。まさか1人でずっとそこで練習風景を眺めていたわけじゃないよな?」
「それはない。やれと言われたら平気でやれるとは思うけど。」
振り返ると、やはり自分の予想通りの顔が待っていた。榛名だ。
「少なくとも、俺がお前の姿を見かけた時にはすでにそうしていたと思うが?」
「せいぜい10分程度よ。それにしても、まさか一緒にグラウンドを覗いていたのが栗生だったとはね。」
「こんな時期にもグラウンドから声がするのが気になってな。それに、やたら背の高い女がやたら鋭い目つきでグラウンドを眺めているから、何か面白い光景でも広がっているのかとも思ってな。」
俺は廊下に差し掛かった時点で榛名の存在には気づいていた。あんなに背が高くてスタイルがシュッとした生徒は他にはいないからな。嫌でも目を引かれる。
そんな目立つやつが、もともと鋭めの目つきをさらに鋭くしてグラウンドを眺めているのだから、さすがの俺でも少しは気になったというわけだ。
「ヒロのやつ、1人で練習してるんだな。」
「相変わらずサッカーやってるときはいい顔するのよね。」
「じゃあもう少し、いい顔をしている彼氏を眺める彼女らしい顔をしたらどうだ?」
「・・・それはできない。」
なぜか少し苛立った答えが返ってきた。どうやらあの目つきの鋭さは怒りを表していると見て間違いなさそうだ。あまり榛名がご機嫌な姿を見ることもないのだが、ここまで不機嫌そうにしている姿を見るのも珍しいような。
「何に対してそんなに怒ってる?」
「怒ってるわけではないわよ。」
「説得力が皆無なんだが?」
「何よ、他人に興味がないなら私のことだってほっとけばいいじゃん。」
「いや、お前から話しかけてきたんだろ・・・。」
最初から俺はヒロの練習風景を見たら帰る気でいたんだ。そこに声をかけられたからこうして話しているというのに、さすがに理不尽だろ。
まあいい。本人が放っておけというのならお言葉に甘えて放っておくとしようか。
「ここまで首を突っ込んでおいて本当に帰る!?」
「帰るだろ普通。帰ってもいいと許可が下りたのなら俺は帰る。」
「あっそ。話しかけて悪かったわね。」
「悪いとは言わんが、自分から話しかけたんだという自覚を持ってくれ。」
「・・・ごめん。いくらあんただからといって、八つ当たりしてもいい理由にはならないもんね。」
やっぱり八つ当たりなんかい、まったく・・・。ヒロと喧嘩でもしたのか?あまり想像できないが。
「ひとつだけ聞かせて。」
「答えられそうなものを頼む。」
「ーーーヒロは、今の部活について何か言ってる?」
部活というのはもちろんサッカー部のことだろう。はて、何のことやら。
「朝も張り切って朝練に行ってたはずだが?良いも悪いもあいつの口からは何も聞いていない。」
「・・・そう。わかった、ありがと。」
「ああ。」
話したいことは以上のようで、床に置いてあったカバンを肩にかける榛名。これは駅までは一緒に帰る流れなのかと一瞬考えたが、まだ教室でやることがあるとのことだったので、その展開はなさそうだった。
んじゃ、と別れの挨拶を軽く済ませて、下駄箱に向かおうと背中を向ける。
「もし・・・!もしヒロが何かに困ってる様子だったら、その時は力になってあげてくれない!?」
「それは俺じゃなくてお前の仕事なんじゃねえの?」
「そんなこと言われなくてもわかってる!けどさ・・・。」
何か言おうとしてやめた時のあの沈黙。何に悩んでいるのかはわからないが、これは思った以上に思い詰めているかもしれないな。
「俺に出番が回ってきたら、やれることはやる。」
「・・・うん、お願い。」
この一言で少しは落ち着いてくれればいいんだが。あいつがあんな調子だと、ヒロにまで何らかの影響を与えかねないし。
それにもし本当にヒロに何かあったら、その時は俺も全力で事に当たるつもりだしな。
* * *
肩にカバン、両手に中身がパンパンに詰まったエコバッグを持ってリビングの扉を開ける。もうこの作業にも慣れたとはいえ、少し汗ばむようになってきたこの季節に、これだけの重量のものを両手にぶら下げて帰るのはやっぱり辛いもんだな・・・。
「おー、帰ったか、海斗!」
「おかえり!海斗君!今日はちゃんと帰ってきたね!」
スタミナをかなり消耗して帰ってくると、兄と妹が仲良く隣に座って机で勉強をしていた。この絵だけを見ているとそれなりに心休まるが、これからこの疲れた体に鞭打って、この何も手伝いをしてくれない2人に晩飯を作らないといけないのかと思うと気が滅入る。こんな愚痴を言うのも今更って感じではあるが。
「昨日のことは大目に見てくれっつーの。俺だって不本意だったんだ。」
「でも結果的に見ると、S級美少女の家に上がり込んでお近づきになれたんでしょ?そんなラブコメ主人公的なイベントはなかなかないよ、海斗君!」
「どんなイベントだそれは。いいことなんか全く・・・、いやほんの少ししかなかったぞ。」
てかそのラブコメ主人公っていうのは何なんだ。昨日も聞いたぞそのフレーズ。
「今日はちゃんと約束どおりハンバーグだからな、海斗!」
「わぁーってるよ。ほれ、ちゃんと挽き肉買ってきてやったぞ。」
必死の思いでバッグをキッチンに置き、中から合挽き肉とパン粉をこれ見よがしに見せつける。どうやらそれを見て満足したようで、机に並ぶ兄妹は再び机に向き直った。
〜約30分後〜
「おい!あんなんで死ぬなんかおかしいだろ!?」
「残念でしたー。このキャラの後ろ投げはチートだから!」
「はあ!?もっかいだ!夕飯までに絶対一回は勝つからな!」
どう考えても勉強の話じゃない会話を聞きながら、俺は3つの大きな肉の塊をフライパンで蒸し焼きの要領で調理していく。今日はソースを作るのが面倒だったから、買ってきた青じそを切り刻んで、あとは適当にポン酢と大根おろしで手を打ってもらおう。
「おい、机の上を片付けろ。ぼちぼち出来上がる。」
「っしゃあ!先に残り1ストにしたの初めてじゃね!?」
「油断してると、足元掬われるよ?」
「あー!だからやめろってそのコンボ!あ、あ、あーーーっ!!!」
ダメだ、まったく聞いちゃいねえ。とりあえず激戦を繰り広げているみたいだし、先にご飯と味噌汁でもよそうか。
「おら、おら!決まれ、必殺・・・」
「いやだからその技は当たらないって、流渡君。」
「ああああああああああ、クッソおおおおおおおおお!!!!!」
うん、どうやら決着がついたようだな。
「ちくしょー、もっかい!もっかいだ!!!」
「えっへへー、いいよー?」
「よくねえっつーの。ご飯だって言ってんだろうが。」
さらっともう一戦始めようとしてんじゃねえよ。俺をそんなウルウルした目で見つめんな高校3年生。
「おい、頼むよ海斗ー!このままじゃせっかくのハンバーグも敗北の味しかしねえんだよ!」
「じゃあ冷めてカッチカチになったやつを1人で食ってろ。」
「な!?それはそれでまずいな。悪い藍波、勝負は食後にお預けだ!」
「仕方ないなあ、流渡君がそう言うなら。」
なんでこの人は中学1年生にこんな上からの態度を取られてるんだろうか。これじゃあどっちが兄でどっちが妹かわかったもんじゃない。
〜食後〜
「あー、食った食ったー!やっぱハンバーグこそが正義だな!」
「土曜に焼肉食いに行ったやつがなんか言ってんぞ。」
「焼肉とお前の手料理を比較してお前が勝ったんだぞ?もっと誇りに思えよ!」
「さいですか。そいつはようござんした。」
兄は思った以上に堪能してくれたようで、俺の肩をバシバシと叩いている。喜んでくれるのは悪い気がしないが、それを物理的に伝えてくるのはやめてもらいたい。
「いやー、でも海斗君また腕を上げたんじゃない?今日のやつ、すごくジューシーだったよ!」
「そりゃ3年間ほぼ毎日何かしら作ってたら、嫌でも慣れてくる。」
妹も出来に満足してくれたようで何より。これでなんとか昨日の失態は取り返したと思っていいだろう。帰りの電車内で美味しいハンバーグを作る方法を熱心に調べた甲斐があったってもんだ。
しかし、まあなんだ。料理を作るのは今でもすごく面倒だと思うが、こうして2人の幸せそうな顔が見れると思うと、決して悪くないって思えるのが不思議だな。
「んじゃ、続きだ藍波!1勝もぎ取るまで相手してもらうからな!」
「ふっふっふ、その挑戦、受けてあげようじゃない。」
食べ終わった食器をまとめて流しに置いていったかと思えば、この2人はソファーを占領し、またゲーム機に飛びついていきやがった。
「海斗君、テレビに接続してもいい?」
「はあ・・・、好きにしろ。」
別にこの時間は見たいテレビ番組があるわけでもないしいいけどさ、少しは皿洗いくらい手伝うとか言ってくれてもいいと思うんだが。
特に一番張り切っている兄に関しては、俺と同じで中間試験前のはずなんだが。勉強に関しては人それぞれだから何も口出しする気はないが、少しは受験生の自覚を持ってもいいんじゃないかとは思う。
そうして騒がしい声を聞きながら、1人寂しくハンバーグの肉汁がたっぷりついたお皿やフライパンと格闘する。さっきのあの2人の嬉しそうな顔を見たときの心の高鳴りが跡形もなく消え去りそうなストレスを抱えながらも、なんとか許容範囲だと思える程度までには綺麗にすることができた。まだ今日はおろしポン酢だったからよかったけど、これをデミグラスとかにすると、もっと大変なんだよな。
「ん・・・?」
しっかりと布巾で水気をとっていると、ズボンのポケットからわずかな振動を感じた。連続して鳴っていることから、これは電話だな。
「あーはいはい、この手がびしょびしょな時にかけてくるんじゃないよ、ヒロさんよ。」
急いで手を拭いて、緑の受話器ボタンを押して耳へと持っていく。
「ういーっす。」
『お、ういーっす!なになにどうしたのー?電話口だとテンション高いんだね?』
・・・ん?なんか俺の知ってる反応と違う。と言うか俺の思っていた声とは明らかにヘルツが高い。
『おーい、もしもーし!栗生くーん?・・・あれ、急に聞こえなくなっちゃった。もしもーし?』
まさか・・・。
スマホを耳から離し、恐る恐るスクリーンに表示されている通話相手の名前を見る。
「・・・や、ら、か、し、た。」
そこには、初めて見る、白瀬美桜の4文字が表示されていた。
いや、今からでも遅くない。まだ何もなかったことにしてその赤いボタンを押してしまえば大丈夫なはずだ。
「ふう・・・。危ないところだった。」
通話終了、0:14という文字を見て、ほっと一息をつく。危ない危ない。危うく家という唯一の憩いの場すら侵食されてしまうところだった。
と胸を撫で下ろせるほど、あの女は甘くなかった。
「おい、またかけてきやがった!」
今度は手の中で必死にブルブルと震えだすスマホ。もちろん相手は白瀬。今度は迷わず赤いボタンを最初から押す。
しかし、今度は安堵する間も無く再度の着信が届く。
「マジで勘弁してくれよ・・・。」
スマホの電源を落とそうかとも迷ったが、一回出てしまった以上、次の日に何を言われるかたまったものじゃない。ここは、1分前の愚かな自分を呪うしかあるまい。
ならばせめて、拘束時間は最小限に抑えられるように戦おう。まだ食器を片付ける作業が残っているのだから。
『ちょっと、いきなり切ったでしょ!?』
「お前、LINEでしか連絡しないって言っただろうが。」
『えーでもこれだってLINEでしょ?LINEの通話機能なんだから。』
こ、こいつ・・・。ここにきてまた屁理屈を・・・。
「言っておくが、今日の進展はない。そもそも中間が迫って忙しいこの時期に動きを起こすつもりはない!」
『あーうん、それを伝えようとしたのもあるんだよ。幾ら何でも中間前くらいは自分のことに集中してほしいって。』
「じゃあ今すぐ集中したいから切るぞ。」
『ちょ、ちょっと待って!流石に私のこと嫌いすぎでしょ!』
「今までの自分の行いを胸に手を当ててよく考えるんだな。」
『いや、そんなにひどいことはしてない・・・はずだと思ったけどなんとも言えないかも。』
自覚症状があるだけまだ立派か。あるだけで態度を改めない場合はクソ度倍増だが。
「じゃあ切るぞ。」
『だから待ってって!』
あの程度の言葉では逃がしてくれないか。新たな厄介ごとじゃないことを祈る。
「・・・はあ、なんだ。」
『いや、あのね。その・・・、今日の朝、君に話しかけたのってもしかして迷惑だったのかなって。』
スマホ越しでも、白瀬が少し言い出しづらそうにしているのが伝わる。もしかしたら、こんなに弱気な白瀬の声を聞くのは初めてかもしれない。
ただ、その内容がまさか今日の朝の出来事についてだとは思わなかったが。
「挨拶されるのすら嫌ってことはねえけど。反応には困る。」
『そこは、普通におはようって返してくれたらいいのに。』
「お前がそれを言うか。」
『え、私が言ったら何か変?』
当たり前だろうが。ちょっと前までは俺と同等かそれ以下のカーストに所属していたはずのこいつだったら、ちょっと考えればわかりそうな話だろ。
それにしても声色とこの間でなんとなく察するが、こいつ、絶対今キョトンとした顔してるな。なんだ、高校デビューをしたら、それまでにあった出来事を全て忘れる副作用でもあるのか?
「中学時代のお前だったとして、もし教室に入った時にいきなりパリピの集団をまとめる男子から挨拶されたらどうだ?」
『それは・・・、』
「それでその男子から、『あいつ、昨日わざわざ俺の家に来て休んでた分のプリント渡しに来てくれたんだぜ!』ってクラス中に聞こえるボリュームで言ってたら、どんな気分になる?」
電話口から小さく『あっ』と呟く声が聞こえる。それから数秒沈黙が流れたが、やがて白瀬の方からそれを破ってくる。
『・・・ごめんなさい、私、何も配慮できていなかった。』
どうやら多少は心に響いてくれたようで、申し訳なさいっぱいの謝罪が聞こえてきた。
「まさかとは思うが、俺に言われるまでそれに気づかなかったとでも言うつもりか?」
『本当に情けない話ではあるけど、気づいてなかった。本当にごめんなさい。』
こいつ、マジか。これだけ必死に謝るってことは、おそらく本当の本当に俺に言われるまで気づいてなかったってことだよな。
よくもまあ、15年間もあのキャラで生きてきておいて、俺ら側の人間の気持ちを忘れることができるな。逆に尊敬するわ。
『私、自分がクラス内でうまくやれてることに気を良くしてばかりで、周りのことをちゃんと考えられてなかった。』
「後になって反省するくらいなら、最初からもっとよく考えて行動することだな。自分のことばっかり考えているから、そういうことになるんだ。」
白瀬美桜という人間は、こうやって自己中心的な思考を周りに押し付けて生きてきたんだろう。どうせそれが凌太先輩をめぐる一件を大きく拗らせている原因なのだろう。ストーカー紛いの行為でもして、それが凌太先輩にバレて嫌われた。この前の凌太先輩のあれほどまでの拒絶反応を見る限り、そうとしか考えられない。
だとしたら、このまま白瀬に協力して凌太先輩を心変わりさせるというのは、本当に正しいことなのだろうか。己の身の可愛さが故に、凌太先輩を生贄に差し出すような行為に他ならないのではないか。
『今日はもう、切るね。』
「待て。」
いくら面倒ごとを避けたいとはいえ、悪に加担することは俺のポリシー上は許せる話ではない。
流石に俺という人間はそこまで腐っちゃいない。
「お前がやっていることは、自分の感情の押し付けなんだといい加減気づいたらどうなんだ。」
『・・・うん、君にはそう言われても仕方ないとは思う。実際、君にはひどいことしかしていないもんね、私。』
「どうせそれは俺だけじゃないんだろ?そうやってお前は、凌太先輩にも色々自分の都合を押し付けてきたんじゃねえのか?」
『え・・・?』
「この前の凌太先輩の反応を見たらわかる。どうせ、凌太先輩にも自己中心的な考えであれこれとちょっかいを出して嫌われたんだろ。そんなことの手伝いになんて俺は絶対に協力しないからな。」
『・・・違う。』
「何が違うもんか。自分ではみんなそうやって言うんだよ。ストーカーとかするやつはみんな決まってそう・・・」
『何も知らないくせに勝手なこと言わないで!!!!!』
耳がキーンとなるほどの大音量をいきなり耳に浴びせられ、思わずスマホを床に落としかける。間一髪もう片方の手でキャッチしたので事無きを得たが、下手するとスマホが破損するところだった。
「おい、びっくりするだろうが!」
イラっとはしながらももう一度スマホを耳に近づけて文句の一つでも言ってやろうと思ったが、スマホの画面はすでに通話終了の4文字を表示していた。
「チッ、あいつ、自分から電話切りやがった。」
逆ギレとはいい度胸してやがる。
ああいうタイプの人間は真実を突きつけられても、絶対にそれを認めないからな。それが余計に面倒くささを倍増させるのだ。
俺はああいう奴が大っ嫌いだ。自分の都合で人を振り回し、人様の迷惑を顧みずに行動する。それがどれだけクズな行為なのか、本人は全く自覚していない。
「海斗君、どしたの?」
「・・・なんでもねえよ。」
無性にむしゃくしゃした気持ちで食器を元あった場所に返していると、その俺の違和感を感じ取ったのか、ゲームを一時停止した兄と妹が俺の方をガン見していた。
「お前、なんちゅう顔してんだよ。」
「放っとけ。いつもこんな顔だ。」
「バカ言え。目つきの悪さが10割り増しだ。」
「普段から目つきは悪いから変わんねえだろ。」
「普段はもう少しイケメンだぞお前。」
「うるせえよ!・・・少し放っといてくれ。」
食器の片付けも途中のまま、いたたまれなくなった俺はそのまま階段を登る。
2人とも気遣うようにこちらを見ていたが、それがなぜか異様に俺の心を抉るような痛みを与えてきているようだった。
「俺は絶対に悪くねえ・・・。」
それから自室の勉強机に向かって教科書を開いてみた。
「絶対に悪くねえはず・・・なのに。」
だが教科書の文字は、一文字も頭の中に入ってくることはなかった。