5-3 面と向かって悪口を言ったって、本当に嫌っているわけではない3
手をかざすと自動で流れ出した水に両手を突っ込む。そうして何度か両手を揉むような動作をしながら、目の前に映っている男の顔を数秒眺める。
こいつはひどい。
特に目つきがひどい。こんな目でガラの悪い男と目が合えば問答無用で一発殴られるだろう。
項垂れたまま一言も言葉を発さなくなった白瀬を見ていると妙に心が落ち着かなくなったので、俺は誰にも邪魔されることのない「WC」と書かれた部屋へと避難してきたのだ。
今日という日を迎えるにあたって、ある程度は自分も気持ちを作ってきたつもりだったんだけどな。やっぱり、自分の発言ではないにしろ、それを自分が伝えることで他人が傷つくのを見るというのは、あまり気持ちのいいものではない。
この前の電話越しでの暴言は、直接相手の顔を見ていたわけじゃないし、何より自分に正義があると思い込んでいたこともあったから、自分に非があると認めるまでは罪悪感はなかった。
なのに今回は自分に非があるわけではないのに、やたらと罪悪感がこみ上げてくる。たとえそれを本人が望んだからと言って、本当にこれは伝えるべきなのかと何度も迷った。
「・・・はあ、人の気も知らないで。」
現実逃避するように、ポケットの中に忍ばせていたスマホを覗く。別に頻繁に画面を確認しないといけないほど、俺のスマホにはメッセージが来る訳ではないのだが、たまにこうやって短時間に数個のメッセージが送られてきていることがある。
差出人はもちろん兄と妹。ちゃんと仲直りはできたかだとか、今どこにいるのだとか、今から2人で合流しに行ってもいいかだとか、気楽なメッセージばかりだ。まあ空気が相当重くなっているから、力を借りたいと思う気持ちもなくはないが。
「・・・どういうことだ、これ?」
画面を開いて既読だけつけておこうと思ってチャット画面を開くと、一番最後に送られてきたメッセージが目に留まった。
『落ち着いたら一回電話してくれ。話したいことがある。』
なぜか最後のこのメッセージだけ少し真面目というか真剣な雰囲気を感じるのが気になる。
この状況を落ち着いた状況と言えるのかは謎だが、かけるタイミングとしては今が一番適切か。
受話器のアイコンがついた箇所をタップして、俺はそっとスマホを耳に当てた。
この決断が正しかったのか間違っていたのかはわからない。
ただ、この行動が今後の俺の運命を大きく左右することになったことだけは間違いないだろう。
* * *
「はあ?今なんて言った・・・?」
「帰ったって言ったの。あなたがなかなか戻ってこない間に、自分の分の会計を済ませて1人でここを出た。」
数分程度の兄との電話を経て戻ってきた俺を待っていたのは、白瀬の突然の帰宅という予想外の出来事だった。
まだ話は全部終わったわけじゃなかったんだけどな。
「それほどショックだったっていうことか・・・?」
中学時代の後半の話をしている間、白瀬は一度も顔を上げなかったし一度も声を発さなかった。その様子からも相当なダメージが入っているだろうとは思っていたが、まさか耐えきれなくて帰るとは・・・。
「あの子もある程度の覚悟を持ってこの場に臨んでいたはずだけどね。」
「その想像をも超える内容だったってことか?」
「さあ。」
俺の質問を適当にやり過ごすと、吉川は机の端に寄せてあった本を再び手に取りその表紙をめくろうとする。
「いや待て。なんであんたはそんな何事もなかったようにしていられるんだよ。」
「言ったでしょ。私は元々、あなたたちの会話に干渉する目的でいたわけじゃない。今日は場のセッティングだけして、あとは本を読むつもりだった。だから別にあなたたちの用事が済んだからと言って私も一緒に帰るという理由にはならないわ。」
「親友の心が弱って、1人でこの場を去ったとしてもか?」
「別に涙を流していた訳でも、弱音を吐いた訳でもなかったし。目的は果たしたから帰ると言って帰っただけ。ついてきてとも言われなかったし。」
少し強めの口調で問いただすような形になってしまったと少し反省しかけたが、なおも淡々とした口調で返ってきたのは薄情に思える答えだった。まるで自分には関係ないと言っているかのような冷たさを見せながら、すでに彼女の視線は目の前の文字の羅列をなぞっていた。
「もしかして、俺がいない間に喧嘩でもしたか?」
「いいえ。むしろほとんど会話を交わしていないわ。」
「・・・本当は仲が悪いのか?」
「美桜が私のことをそう思っているのだとしたら、今後そうなってしまう可能性もあるかもしれないわね。」
「単純にあんたの人格に難があるってことか?」
「まともな人格者だと自己紹介した記憶は一度もないけれど。」
「もういい、俺が悪かった。」
これ以上話しても、何も生産性があるとは思えない。
無表情のまま読書を続ける吉川を3秒ほど睨んでみたが何も反応が返ってこなかったので、俺は空になっているコップを持ってドリンクベンダーに向かった。
なんなんだあの人。
席を離れて真っ先に頭に浮かんだのはこれだった。
原因を作った俺が言うのもなんだけど、白瀬は間違いなくメンタルをやられていたはずだ。それで帰ると言ったのなら、友達なら普通は追いかけるものなんじゃないのか?
百歩譲って追いかけなかったとしても、少しは心配する素振りくらいは見せてもいいと思うんだが。
それをあんな興味なさげにして、さっさと読書に戻るってどういう神経してんだ、あの人。
わからん、やっぱりあの人が一番わからん。見た目に反してやっていることが氷の女王を思わせるくらいに冷たい。
・・・いかん、他事を考えながら飲み物を補充しているとろくなことがない。手がコップから溢れたコーラでベタベタになっちまった。
これも全部吉川のせいだ。せめて何か一言言ってやってから帰ることにしよう。あ、でも帰る前に食事をとらないといけないから、それまではこれ以上波風を立てないようにしないとな。
それにしてもまさか白瀬が帰るとはな。確かにあいつは告白に失敗した時は学校を休むくらい落ち込むタイプの人間なのは知っていた。でもあの時は、勝算があると思っていたのに失敗したというところが大きな傷を負った理由だと思っていた。
ならば今回の場合、こういう話がくるというのは多少なりとも覚悟はしてきたはずなんだから、そこまで大きなダメージを受けるとは思っていなかった。俺の想像を超えるダメージがあったんだと言われたら、それで納得せざるを得ないんだが・・・。どうもあの白瀬美桜という人間をほんの少しだけ知っている人間からすると、腑に落ちない。
そもそも俺がいなくなった瞬間に突然姿を消した理由がわからない。たまたま俺がいなかったタイミングだっただけだと言われたら納得するしかないんだが、いくらあいつでも俺に一言くらい言ってから帰ると思うんだよな。話を最後まで聞かずにいきなり逃げるように帰ったっていうのはどうにも不自然だ。
それにあいつの場合、今の話を聞いて凹むというよりは、俺と吉川を巻き込んでどうやったらそのマイナス評価を払拭できるかの会議でも始めそうなものなのに。
うん、考えれば考えるだけ謎が深まる。
だが考えれば考えるほど、白瀬がショックのあまりこの場を去ったという可能性は怪しくなってきた。
・・・と言うことは、だ。
「吉川、お前何か俺に隠し事してるんじゃねえか?」
「・・・あなた、随分と美桜に詳しくなったんじゃない?」
帰ってきて早々投げかけた俺の問いに、やはり淡々とした受け答えで吉川は答える。
ーーーただ一点違うところがあるとすれば、さっきまで目の前の本しか見ていなかった吉川の目が、ようやく俺の方を向いてくれたことか。
* * *
「つまり、白瀬は最初から全部知ってたってことか?」
「それはないと思う。少なくとも当時私たちが同級生からいじめられていた時に助けてくれたことは、100%の善意だったと思っていたはず。」
「・・・そこも知っていたって言ってくれたら、俺の心も少しは楽になったんだけどな。」
いまだに少しベタベタが残るコップの中身を喉へ流し込みながら、俺は吉川への尋問をしている。
今のところの収穫はとりあえず、白瀬はあまりのショックに耐えきれず1人で店を飛び出していったという、当初の俺の頭の中で描いたシナリオはやはり贋作だったということ。
やはりあの女はそんなことで動揺するようなヤワな人間ではなかった。
「やっぱりあいつの考えていることはよくわからんな。」
「普通の人なら、美桜を傷つけてしまったって多少は落ち込むと思うんだけど。それなのにこうして美桜の行動を冷静に分析できるんだから、あなたは美桜のことをよくわかっている方よ。」
「ま、吉川があまりにも普段通りすぎたからな。いくらあんたでも、白瀬が本当に泣いて帰って行ったんだとしたら、俺なんか放って後を追ってただろ?」
「さあね。少なくとも走って誰かを追いかけるのは疲れるから嫌よ。」
「いや、引っかかるところそこかよ・・・。」
とか言いながら、多分この人は絶対全力で追いかけるだろうな。
今までの白瀬に対する行動を思い返してみたらそれくらいのことはすると思う。
『一応親友の名誉にかけて言わせてもらうけど、美桜はあなたが思っているような人間じゃない。・・・それだけ言いたかった。』
今こうして普段の声を聞いていると、改めてあの時の声との違いがよくわかる。
あの時の吉川の声は間違いなく真剣そのものだった。
普段は気怠げな吉川が、自分の親友の名誉を守るという目的で声に感情を宿したのだ。
「んで、結局あいつはなんで帰った?何が目的だったんだ?」
「さあね。詳しいことは私もよく知らないわ。ただ、あなたがなかなかお手洗いから戻ってこないことから何かを察したようだったけど。」
「俺が関係してるってか?」
「そう見えたってだけ。何を考えていたかまでは知らない。あの子の考えていることは常に突拍子がないし。」
俺が長い間離席していたことが関係している・・・。俺にこの場を去っていく姿を目撃されたくなかったってことか?
この期に及んで、俺に隠し事をしたってのか?不可解だな。そんなことをする理由がわからない。それにこんなの、俺が長い間トイレにいるという事態を想定していないとできない動きだ。とても当初からの計画通りだとは思えない。
「お待たせいたしました!こちら、ナポリ風グラタンとポテトフライになります!」
などと頭をグルグルと回転させていると、注文していた今日の晩飯が到着した。
グラタンを自分の目の前に移動させ、ポテトはテーブルの中央に配置する。吉川はその位置に置いたことを不思議がっていたけど、俺が食べていいと一言伝えると、やはり少し不思議そうな顔をしながらも、そのポテトを口に運び始めた。
フォークでポテトを刺して口に運んでいる姿をただ眺めているだけでも、なぜか絵になってしまうような可憐な顔立ち。あの変な眼鏡をとってこうして黙っていれば、自然と周りに人も増えるだろうに。・・・ま、この人の場合はそれを嫌って敢えてあの変な眼鏡をしているんだろうけども。
「お腹空いてたのか?」
「好きなの、ポテト。ゲームの最高のお供なの。」
「さいですか、そいつはようござんした。」
そのペースでバクバクと食べ続けられたら、きっと俺の取り分は1/5もないだろう。まあいいけど。
「ポテトに免じて、一つだけ私から情報をプレゼント。」
「ん?なんだ?」
芋の対価が吉川からの自発的な情報提供だなんて、随分と得した気分だ。別に見返りを求めて提供したわけでもなかったんだが、これはありがたい副産物だな。
「『・・・後は私の勘と運命の神様を信じてみる。』美桜はそう言って出ていったわ。」
少しの溜めの後に吉川はそう言った。まるでこれが白瀬の行動を紐解く鍵だと言っているように。
「白瀬の勘と運命の神様・・・。なんかこれだけ聞いてると、まるで今から告白でもしに行くって言っているように聞こえるな。」
「それは私もそう感じた。でもそもそも美桜は、来島先輩の今の居場所なんて知らないはず。」
そう、凌太先輩はもう白瀬の隣の家には住んでいない。高校進学を機に、学校に近い駅周辺で一人暮らしをしていたはず。なぜか兄から凌太先輩の家の場所を教えられたことがあるから、大体どこらへんに住んでいるのか俺は知っているが、もちろんそれを白瀬に伝えたことはない。
「・・・それに、さっきの話を聞いてもまだ告白をしようとする思考回路が私には理解できない。私が美桜の立場だったら、百年の恋も冷めるわ。」
「それは激しく同意。」
凌太先輩を好きになるきっかけとなったイベントでさえ、凌太先輩はただの迷惑なイベントとしか感じていなかった。
そんなエピソードを聞かされてもまだ好きでいられる自信なんて、俺には全くない。なんなら、俺は当事者でもなんでもないのに未だに凌太先輩のことを少し軽蔑さえしているくらいだしな。
「だから何が目的で美桜がここを去ったかは詳しく知らないと言ったの。自分が出した結論があまりにも非現実的に思えたから。」
確かに非現実的。いくら俺と吉川が普通の高校生たちと価値観が違うとは言っても、今回ばかりは俺たちの意見がマジョリティーだという自信すら湧いてくる。
じゃあ次に考えられる可能性はなんだろうか。
ーーーと、普通ならそういう頭の働かせ方をするが、今回に限ってはそれは得策ではないだろう。
なぜなら、白瀬美桜もまた普通の高校生たちとは価値観が大きく異なっているはずだからだ。
あいつの考えは常に俺たちが想像もしない方へと向かっている。
それこそあいつならあんな話を聞いた後でも、
『それでも私は凌太君を信じたい。』
なんて言い出しそうだから。
「俺たちにとって非現実的だからこそ、その可能性が一番高いと思ってしまうのは俺の気が狂っちまってるからだと思うか?」
「さあね。・・・ただ、何の根拠もないけど、私もそうなんじゃないかって思えてならないわ。」
「お、白瀬のことになると、途端に気が合うような気分になるのは俺だけか?」
「あなただけよ。」
「・・・いくら冗談で言ったつもりでも即答は傷つくぞ。」
その、『え、どうして傷ついてるの?』みたいな顔でこっちを見るのをやめろ。もう読書してろ。
って俺のポテトがもうなくなってんじゃねえか!結局3本しか食えてねえぞ俺!?
なんて謎の掛け合いをしていたら、ポケットの中の携帯が突然鳴り出した。
「ってまた兄貴かよ・・・。悪い吉川、ちょっと席を外す。」
スマホを手に取り立ち上がろうとすると、突然そのスマホを持っていた左手の服の裾が引っ張られる。その違和感の正体を確かめようとすると、そこには目の前に座っていた美少女の手が俺の左手の裾を掴んでいる様子が映っていた。
「待って。ここで私にも聞こえるようにして。」
「はあ?何で人ん家の会話なんか聞きたがるんだよ。」
「ちょっとした勘よ。いいから言う通りにして。」
相変わらずこの人も突拍子もなく変なことを言い出すよな・・・。
一体どういう思惑があるのかさっぱりわからんけど、あの吉川が何の考えもなしに咄嗟に俺の動きを止めようとわざわざ腕を伸ばすなんてことも考えづらい。
ここは、これ以上の追求はやめて、おとなしく席について言う通りにした方がいいか。
『あ、海斗!お前今どこにいるんだ!?』
スピーカーをオンにして通話ボタンを押すと、いきなりやけに焦った様子の兄の声が聞こえてきた。
「だからさっきも言っただろ。面倒なことになりそうだから言わな・・・」
『ばか、ちげえよ!てかお前は何してたんだよ!?』
「何って、さっき・・・。」
と素直に答えようとしたところで、この会話が吉川に筒抜けになっているのを思い出した。さっきトイレの中で、兄にこの場であった出来事の話をしていたって知られるのは少し面倒なことになるか・・・?
「今日は遅くなるって言っただろ。晩御飯の相談なら・・・」
『いやとぼけてる場合じゃねえよ!何でその例の彼女が家まで来てるんだって聞いてんだよ!』
「例の彼女が家に来てる?」
『そうだよ!えーっと白瀬ちゃんだっけ?が今急にインターホンを鳴らしてきたんだよ!!!』
「はあ!?」
白瀬が家に来た!?
いやいや待ってくれ。意味がわからん。何で俺の家に白瀬が来ている!?どういう目的で!?俺がここにいるのに???
てかそもそも何であいつが俺の家の場所を知ってんだよ!?俺あいつに住所なんて教えてねえぞ!?
「やっぱりね。栗生先輩から電話って聞いてまさかとは思ったけど、まさか本当に行ってたなんて。」
「やっぱり?やっぱりってどういうことだよ吉川。」
「理由は後で話すわ。とりあえず今は家に戻った方がいい。」
まだ何か隠していたのかよ、勘弁してくれよまじで。
でも今はとりあえず状況整理が第一だ。
「おい兄貴!今白瀬はどうしてるんだ!?」
『そ、それがだな・・・。』
「何だ?何が起きてるんだよ!?」
『ーーーリビングで凌太と2人きりで話をしてる・・・。』
* * *
時刻はすでに19時半を回っている。日照時間が長くなってきたとは言え、だいぶあたりが暗くなってくる時間。ただ、この時間に家の玄関の前に立っていること自体は珍しいことではない。
普段はカバンから鍵を取り出して玄関の扉を開けるのに10秒とかからないのに、その倍ほどの時間をかけて何とか俺たちは家の中に入る。
すると、その音を聞きつけたのかリビングの扉が勢いよく開け放たれたかと思えば、兄貴と藍波がこちらに駆け寄ってきた。
「遅いよ海斗君!!!」
「諸々の事情を考慮するとこれが最速だったんだよ・・・。んで、白瀬と凌太先輩はどうなってる?」
「どうもこうもねえよ!修羅場も修羅場だっつーの!何とかしてくれよ海斗!・・・と、後ろの女の子は白瀬ちゃんの友達か?」
焦りのあまり兄が後ろの吉川をスルーしないかと心配していたけど、流石にその存在に気づいてくれたみたいだ。
「突然押しかけてすいません。私は吉川礼華と言います。すでに押しかけてしまっている白瀬美桜を引き取りに来たのですが。」
「あー、引き取ってくれるのはありがたいんだが、多分ひと段落しないとそれは難しいかもしれないぜ?」
「ひと段落って・・・。人の家のリビングで何してんだよ・・・。」
「それは直接自分の目で見た方が早いと思うよ、海斗君。」
藍波は焦っているというよりは、苦笑いしてる感じだな。一体どういう心境でいるのか、現場を見ていない以上は予想のしようがない。
「そこの正面の扉を抜けた先がリビング?」
「ああ。色々兄貴にも聞きたいことがあるが、まずは台風の目を確認するのが先だな。」
兄と妹が左右に分かれて俺と吉川が通る道を譲る。
そんな2人に見送られながら、俺たちはリビングに足を踏み入れた。
「どうして!?私がいいって言ってるんだからいいじゃない!」
「よくないんだよ!これは俺のけじめなんだ!」
「そうやって都合のいい言葉を使って逃げようとしてるんじゃないの!?」
「違う!俺はただ、自分が許せないだけなんだ!」
「そんなの知らないよ!償いとか考えているんだったら、付き合ってくれることが一番の償いなんだよ!」
見慣れたリビングに見慣れないツーショットが、お互い声を荒げながら意見をぶつけ合っている。すでにちょっと暑くなってきたこの時期にここまでエネルギー全開なやり取りをしているせいか、2人とも額が少し汗ばんでいる。
というか、すでに日が沈みかけている時間に人様の家でこんな大声で騒がないで欲しいんだが。
「お前、人の家に勝手に上がり込んで何してくれてんだ。」
「え、栗生君と礼華ちゃん!?何で2人がここにいるの!?」
「何でもクソもこうもあるか!ここは俺の家だっつーの!それで吉川は・・・」
「ーーー私に愛想尽かされたくなかったら、一回そこに黙って正座してくれる?」
白瀬の素っ頓狂な発言を聞いて一瞬頭がプチっといきそうになったのも束の間、すぐ後ろからものすごい圧のある声が聞こえてきたことでそちらに意識が向いてしまった。
ゆっくりとその声の主の顔を覗いてみると、いつものように気怠げではあったが、いつも以上に目が笑っていなかった。睨むでも呆れるでもない。これは蔑みの目というやつだ。
ここまで迫力がないのに、背筋をゾクッとさせる表情ができるのは、世界中のどこを探してもこの人以外にいないんじゃないか。それほどの凄みがこの表情と声にはこもっていた。
「・・・はい。」
そんな矛先を向けられたら、いくら白熱した言い合いをしていた白瀬と言えども従うしかなさそうだった。
テーブルを挟んで立ったまま凌太先輩と言い合いをしていた白瀬は、そのままゆっくりと膝を曲げて板の間の上で正座をして大人しくなった。
「ど、どういう状況だ、これ?」
「・・・とりあえずあんたも白瀬と並んで正座しといてください。」
「ええ・・・。」
* * *
テーブルの左右には椅子が3脚ずつ並べられており、6人までならちゃんと椅子に座れるようになっている栗生家の食卓。他にも、大の大人なら2人、俺たち兄妹なら余裕で3人並んで座れるソファーがあり、座るところには困らないはずの栗生家。
それなのになぜ客人3人のうち2人が板の間で正座するという構図が生まれているのだろうか。
そんな疑問も浮かびはするが、正直こうなっても仕方がないと納得する気持ちの方が強い。
「俺としては、こんな美少女が家に来てくれてるのに普通にもてなすことができなくて心苦しいけどな!」
「話には聞いていたけど本当に可愛い!海斗君が連れてきたもう1人の女の人も可愛いけど・・・。」
兄と妹はとりあえず白瀬と吉川の顔面偏差値の高さに驚いているようだ。まあ無理はない。俺も初めて見たときは少し心が高鳴ったしな。特に今そこで、普段通りの顔に戻ったのにまだかなりの威圧感を放っているあの人の寝顔を見たときは、思わずヒロに報告したくらいだ。
「私から言うことは一つだけよ。」
そんな若干藍波からは怖がられている吉川が話し始めたところで、現場の空気が少しピリッとする。
「陽キャになるのも恋愛するのも好きにしたらいいと思うし私も止めない。でもそれで周りに迷惑をかけ始めるようだったら、私は容赦無く絶交するから。」
「ら、礼華ちゃん!?」
うわ、これはかなりズバッと言ったな。いきなりこんなきつい言葉が飛んでくるとは思っていなかったのか、白瀬は目をひん剥いて驚きを露わにしている。
「自分たちだけで盛り上がって、その裏で誰かが傷ついたり迷惑しているのに気づかないんだったら、それは私たちをいじめていたあの女と同じ。ついこの前、栗生君にも電話でそのことを指摘されたって反省したばかりだったのに、もう忘れたの?」
「・・・ごめんなさい。1人で色々考えていたら、いつの間にか勝手に体が動いていたの。」
おいこの女、さらっと怖えこと言いやがったな。何をどう考えたら、あのレストランの一幕からいきなり人の家の住所を勝手に特定して中に入っていく発想に至るんだよ。それを「体が勝手に」で解決されたら、いつか本気で法を犯すぞこいつ。
「明るく振る舞おうとすることと、周りに気を遣うことは両立できないわけじゃない。けれど、それを履き違えたまま背伸びをすると、自分から自分の価値を下げにいくようなもの。これに懲りたら少しは本気で反省しなさい。」
「はい・・・。以後気をつけます・・・。」
俯きながら小声で返事をする白瀬。日中を学校でワイワイと過ごしていたとは思えないくらいに大人しい。
その様子を眺めている吉川の眼差しには、ほんの少しではあるが優しさのような感情が垣間みえているようにも思えたが俺の勘違いかもしれない。
ただ俺は、吉川が白瀬に反省を促す言葉をかけていた最中に、一瞬だけ凌太先輩の方を相当な殺気を込めて睨みつけていたのを目撃していただけに、吉川の腹の中で今どんな感情が渦巻いているのかと考えながら見つめていた。
「本当にお前の同級生か、海斗?あんな大人びたやつ、俺の学年にもいないぞ?」
「普段はここまで喋るキャラじゃないんだけどな。」
「じゃあ俺は今なかなかのレア体験をしてるってことか!?いやー、今日の朝の占いが1位だっただけはあるな!。」
「数十分前に家で修羅場を繰り広げられた被害者が何言ってんだ。」
呑気に笑顔を浮かべながらこの場を眺められる兄貴のこの性格がある意味羨ましいわ。普通は俺の前に座っている藍波のように渋い顔で見るような光景だぞ。
「じゃあ私の仕事は終わり。あとは任せるわ。」
「あんたにしては珍しく能動的に動いてくれたな。」
「今日あなたと美桜の間で行われる話し合いの場をセッティングするのが私の仕事。そう約束してしまった以上、仕方ないでしょ。」
「ああ、確かに昨日交わした約束はそんな内容だったか。わざわざ律儀にここまでして守ってくれるなんて優しいところもあるんだな。」
「・・・あとは親友が迷惑かけたお詫び。」
最後にポツリとそう零すと、吉川は目の前に置かれた来客用のお茶に口をつけながらカバンから一冊の本を取り出した。どこにいても変わらんなこの人は。
相変わらず何考えてるのか全然わからん。基本的には無口だし、本ばかり読んでいるし、変な眼鏡かけてるし、よくわからないタイミングボケをかましてきたりするし。何を考えているのかわからない以上、会話をするのも正直面倒だと思うこともしばしば。
でもきっと根っこはきっと義理堅くて、友情に厚い人なんじゃないだろうか。基本的に他人と関わりを持とうとしないのに、白瀬が絡むと今みたいに行動しようとする。
白瀬と俺が仲直りしたいと言ったらなんやかんやで協力してくれた。
白瀬が一回凌太先輩に振られて学校を休んだ時も、色々あったが休んだ分のプリントは持っていく姿勢を見せた。
白瀬に言われたからと言って、休日にわざわざ近くのカフェまで来て俺に会いに来た。
それにきっと俺が知らないだけで、この2人は小学1年の時からずっと今まで一緒に過ごしてきたはずだ。
そういう友達をずっと大事にする人間は、俺は嫌いじゃない。むしろ好感が持てる。
少なくともこういう人なら信用できるんじゃないか。そんな気がする。
「さて、そこで正座している2人だが・・・。」
なぜか少し心がほっこりと暖まっているのを感じながら、俺は吉川が整えてくれた話し合いの場を引き継ぐ。
そうして栗生家で始められた恋愛裁判は、凌太先輩の終電の時間ギリギリまで行われることになるのだった。




