幕間 レディ・フローレンの胸懐 後編
※前編とはまた違った意味でシャーッとしたくなるかもしれませんが用法用量をお守りの上でシャーッとしてください(やり過ぎると「あれェッ!?」となる可能性があります)
「ああ、まだ僕を“兄”だと呼んでくれるとは思ってなかったな………」
義理でも兄と呼んでいた人、縁あって一緒に暮らしていた人、かつて家族だった人―――――ドミニク・アバーエフは私の叫びをただ粛々と受け止めて、静かに目を伏せるだけでした。そこに懐かしさはありません。親しみを抱くことさえも最早許されないのだと、彼は理解しているのでしょう。
自己紹介は不要である、とは口にするだけ無駄でしかない。だから言わない、必要ない、茶番の類は挟まないという判断を下した合理性は、悲しいことにお互い様でした。
「もっと罵声を浴びるものだと覚悟して出て来たのだけれど、こうなると逆に居た堪れないね」
「まあ、なにをおっしゃいますやら………殊勝な態度はお止めになって。兄と呼ばれたことにではなく愚か者との謗りを受けた屈辱で気まずいだけでしょう?」
「そうだったら、良かったのだけど。きみが咄嗟に『痴れ者』ではなく『愚兄』と僕を呼んだから、こんな気分になるのだろうね。これを屈辱とは言わないさ。実際、僕は愚かだったもの。馬鹿なことをしていろんなものを台無しにした過去の事実は消えないし、どうしたって元には戻せない。そこから目を逸らすつもりはないよ」
淡々と紡がれる言葉には悔恨の念がほんの少しと、無気力感にまみれた自嘲。あまりにも空虚だったから、そこに人型の空白が存在しているかのような錯覚を起こした頭に血が上りました。先程までは意図的に考えないようにしていた喉の渇きを急速に知覚しながら、荒れ狂う内心を宥めきれずに口を開くのを止められない。ああ、なんて無様なのかと嘲りながらも、止まらない。
「開き直らないでいただける? あなたは愚かで、大馬鹿者で、あの日を境にその不愉快なお姿をこの目で見ることはもう二度とないと安堵して過ごしておりましたのに―――――ヤーブロニャ男爵家のご令嬢との幸せを掴み取ってとうの昔に退場したあなたがどうして今この場にいらっしゃるのか是非ともご説明いただきたいわ。ああ、もしやあの方もこちらにいらっしゃるのかしら。挨拶は不要ですけれど」
いないよ、と。彼は言いました。雰囲気は一切変えぬまま、いっそ柔らかく、穏やかに。
「彼女は………ニーナは、此処には居ないよ」
何も知らない幼子にしっかりと言い聞かせるような、言葉にすることでそれが事実だと再度確認するように。その表情は愛おしいものを想ったことで幾分綻んで―――――本能的にぞっとして思わず硬直した私に、かつて兄だったその人は緩やかに手を差し伸べました。
「さて、この場にいつまでも留まり続けるのはお互いにとって良くないことだ。思うところがあるのは当然だけど、今は付き合ってもらえると助かる………歩きながら、話そうか」
その手を取ってどうなるのかは、私には分かりませんでした。救いの手ではないでしょう。彼は私の味方ではない。そんなことは分かりきっています。だって此処はただの敵地で、彼は伯爵の手先でしかない。けれど。だけど―――――ああ、気に食わない。
「よろしくてよ」
「では、こちらへ」
勝気な眼差しで好戦的に応じたところで反応は薄く、彼は動じず、差し出されたそれに触れるのはあくまで私の指先程度。軽く包まれる力加減の触れ合いは必要最低限で、家族の近さではありません。それは、きちんと節度を守った、正しく他人の距離間でした。
最初の一歩はゆっくりと、視線はこちらに寄越したままで先導するよう指先だけで繋がった相手を自然と誘う動き―――――赤の他人を想定した、適切な紳士のエスコート。
「衰えてはいないようですわね」
「案外覚えているんだな、と自分でも些か驚いているよ」
嫌味を嫌味と受け取らない、揺らぎもまるでない自然体。歩幅の違いを意識させず、合わせていると感じさせない絶妙な速度を保ちながらも彼は平然としていました。そこにぎこちなさはなく、また違和感も与えない。突然に投げられた会話であっても遅れることなく反応し、壁際に控えていたメイドの一人に目配せひとつで開けさせたドアを難なく通過。
「使用人を動かせる立場にはいらっしゃるようで」
「要人をエスコートしているからね………と、謙遜するのも嫌味だろうから、正直に肯定しておくよ。確かに、僕はここではそれなりに重用されている人間だ。まとめ役として推される程度には同僚にも信を置かれている」
「左様ですか。ようございました。頼りにされていますのね」
「まあ頼られてはいると思うよ―――――だって伯爵の話が長くてしかもつまらないんだもの。僕一人でその被害が抑えられるならみんな好意的にもなるよね」
がくん、と身体が傾いでしまったのはひとえに不可抗力でした。意図したことではありません。足の力が抜けたのです。あまりにもしれっと自然な口調でとんでもない暴露を放り込まれて思わず足元がふらついて、しかし転倒はしませんでした。
「こちらの廊下の絨毯と淑女の履物の相性があまりよろしくないことを迂闊にも失念しておりました。配慮を欠き申し訳ございません。不躾に触れてしまったお叱りは如何様にも受ける所存です―――――お怪我は? レディ・フローレン」
「ありませんわ、アバーエフ卿。咄嗟の機転に感謝します。叱責など私にはしようがなくてよ―――――ですがあなた突然ぶっちゃけ過ぎでは?」
「ごめんねえ。現在進行形できみには迷惑をかけっぱなしだからせめてなるべく正直に話そうと思ったらつい本音が」
「私が言うのもどうかと思いますが限度があるでしょう、限度が」
倒れそうになった私の身体をスマートに庇って支えて戻した元義兄があっけらかんと言うものだから、むしろこちらが困ってしまって妙な空気にもなろうというもの。敵意を逸らすとか戦意を削ぐとかそういう意図など一切ないと分かるからこそ困惑気味に、支えが必要なくなってすぐ距離を取った相手に対してどんな態度で接したらいいか迷った私は口籠りました。
そんなことなど気にしない素振りで彼はさらっと毒を吐きます。私にではなく、自分の上役に。
「これは秘密でも何でもないから言うけれどもね、フローレン。あの伯爵の話がつまらない件については限度というか際限がないよ。自分上げに余念がなくてやたらと話を盛りたがる挙句に装飾過多で言い回しもくどいし話題が何度もループする。まさに聞くだけ時間の無駄だ、要点を絞れば二十秒で言い終わるような内容を薄めて延ばして散らかして似たり寄ったりの脚色を加えて五分は喋り続けるタイプだ。なんと言っても本人が無類のお喋り好きだからね、困ったことに手近な人間を捉まえては長いことつまらない話を垂れ流して傾聴と追従を強要するその悪癖で他人の仕事を妨害している自覚がなければ自重もしない。だからちょっとした業務連絡ひとつ入れるだけでもこちらは細心の注意を要する………にも関わらず、伯爵は自分の周りにいるのは無能ばかりで報われないと悲劇の主役を気取るのが趣味の域に達しているので金で雇われた者たちでさえ『話がつまらないから聞きたくないし声を耳にするだけでもう疲れる』と嫌厭して会話を避けていた。そんな状況だったから、腹心の部下という名目で僕が専用窓口になったことは好意的に受け止められたんだ。悪循環に陥っていた関係各所の遣り取りの円滑化に尽力した甲斐があったよ―――――あの無駄話を率先して引き受けてくれてありがとう、おかげで仕事がだいぶ捗る、と感謝されたときのなんとも言えない気持ちは割と、うん。新境地だった」
ああ、部下の方々の気持ちがわかる―――――いえ、なんでもありません。そのありがたみに共感出来る時点で私も毒されています。でもわかる。わかってしまう。あの長話を聞かなくてもいいと思っただけでほっとしてしまう。一時間にも満たない会話をしただけの私がこうなのですもの、日常的に接触しているどころか付き従わねばならない立場の人々からすれば『アバーエフ卿』の存在は救世主にも等しいのでは?
「差し出口で恐縮ですけれど、腹心の部下ポジションであろうあなたにそこまで言われるのはもう人の上に立つ者として致命的ではないかしら………と、言いますか、それをこの場で吐露する方も正直どうかと思います」
そうコメントして私がちらりと視線を向けた先に居たのは、先程の部屋の扉を開けた流れでそのまま側仕えのように付いてきた使用人らしき女性です。一定の距離を維持したまま、こちらの後方に無言で待機を続けていますが彼女とて立派な伯爵の耳。貴族の邸に召し抱えられた者として裏方は常に空気に徹せよ、との職務を全うしているだけで、雇用主に請われれば『アバーエフ卿』の無礼というか大胆極まる明け透けな暴露を報告する義務があるというのに―――――己の立場を危うくするような発言を不用意にするなんて、という非難を込めた私に、しかし彼は言いました。
「問題ないよ。まあそれはそれとして問題でしかないけれども………下手な報告を上げようものならそこの彼女にとってはとても面倒なことになるからね。伯爵の話術の拙さについては僕らの共通認識だ、一日に一人くらいは誰かが愚痴るかぼやくかしているそれをいちいち報告していたら時間と耳と忍耐力がいくらあっても足りやしない―――――ちなみにだけど、ねえ、ターニャ? さっきの僕の発言をヘンスラー伯に報告するかい? 拘束時間に比例して給金が上がるかもしれないよ?」
「報告………? とは、何をでしょうか。わかりかねます、アバーエフ卿―――――人件費については倹約を是とする伯爵閣下のお耳をいたずらに煩わせるなんて、まこと畏れ多いことでございます。そのような下手を踏む者は既にこの館におりません。ですので、わたくしは何も」
恭しい口調でそう答えた使用人の彼女の台詞を雑に噛み砕いて言い直しますと「ケチ臭い伯爵の無駄話に付き合わされて拘束時間が延びるだけなので報告とかするだけ損ですね。しません」になってしまう気がしますけれどもたぶんこれ間違いありませんわね。
呆れて言葉もない私に、元義兄は穏やかに微笑んで種明かしのように告げました。
「と、まあこういうわけなんだ。きみに心配してもらえるような人間じゃあない僕だけど、気遣ってくれてありがとう。そちらの彼女との遣り取りで大方伝わったと思うけど、実情がこんな有様だから出来損なった“僕”程度であれここでは重宝されている………上司としてのヘンスラー伯が報告や連絡や相談をもっとしやすい相手だったら、こうはなっていなかった。組織としては問題しかないことはようく分かっているけれど、こればっかりはどうにもならない―――――だって彼は本当に話がつまらないんだもの」
しみじみと噛み締めるその口調には中間管理職の悲哀のような何かが見え隠れしています。伯爵に告げ口するかどうかを聞かれて面倒臭いからしません(意訳)と答えたターニャという名らしい使用人の彼女も固く目を閉じてしっかりと頷くあたり相当でしてよ。話が無駄に長くてしかも致命的につまらない、という伯爵の悪癖が及ぼす影響の深刻さがここまでとは思いませんでした。捉まると話が長くなるから、で使用人からも距離を置かれる雇用主ってなんなのかしら。
いいえ、そんなことよりも―――――そんな話のつまらない男に顎で使われる立場に甘んじているこの人の“今”は、何なんですの? いずれ公爵位を継ぐ者としての教育を受けてきたくせに。仮にもかつてはこの私の義兄という立ち位置だったくせに。
「そんな相手に仕えていますの………? あんな、小物に―――――あなたが!」
引き絞った喉からは、悲鳴のようなものが漏れました。そこに込めたものが何なのかは私にだってわかりません。だから彼にもわからないでしょう。わかってたまるものですか。
どうして、と詰る響きだけは的確に拾い上げたらしい彼が困ったように目尻を下げて、しばしの逡巡を挟んだ後に落とされたのはやはり謝罪。
「ごめんね。きみの代わりに後継者としての教育を施されておきながら、それを無駄にするだけでなく恩を仇で返している………すまない。長く留まり過ぎた。まいりましょうか、レディ・フローレン」
立ち止まってばかりもいられないなら、歩き出すしかありません。そんなことはわかっていますが、差し出された手を払い除けて駆け出したところで何処へも行けない。だから私は諦めではなく、徹底抗戦の決意を固めてかつて兄だった痴れ者のエスコートを受け入れ再び歩を進めるのです。
「アバーエフ卿。ひとつよろしくて?」
「ええ、もちろん。なんなりと」
かつての義兄に手を引かれ、白々しい上っ面で口火を切って、ゆったりと歩調は緩めずに。
「では遠慮なく………これまでの会話から推察するに、伯爵の治めるこの地においてすべての報告や情報は一度すべてあなたに集まるのでしょう?」
「うん、そうだね。ほんの些細な事柄から結構な機密事項まで、伯爵に直接報告を上げずに大抵の人は僕を通すよ。そのための窓口係だからねえ」
「ええ、その誰もが嫌がる窓口係を自主的に引き受けたあなたは結果として情報を扱える立場を手に入れついでに部下たちの信頼も得た。大した立ち回りをなさったのでしょうね、自然と集約されていく情報の内容が何であれ、それを活かすも握り潰すもアバーエフ卿の心ひとつ―――――かつて授けられた教養は、あなたの足しになりまして?」
「おかげさまで。全部失って何一つ持たない男になってもきみの家で受けた教育には助けられたよ。実情はどうあれ新参者が伯爵の腹心の部下になれたのもあの経験があってこそだ。それでかつての妹をこんな目に遭わせている時点で合わせる顔がないけれど」
「そのくだりはもうやりました。自虐も自嘲も要りません、不愉快だからお止めなさい」
ぴしゃり、と強めに言い切れば、彼は足を止めました。気分を害したわけではなく、単純に階段に差し掛かったから今からこれを上りますよとの声を掛けるための気遣いで。
「手厳しいね。それでこそきみだ」
「知ったかぶりも不愉快でしてよ」
「失礼、何卒ご容赦の程を―――――ああ、忘れるところだった。ここから先、しばらくは上ったり歩いたりの繰り返しになるから疲れたら遠慮なく教えてね。あちこち歩き回ってもらわなきゃならないのは本当に申し訳なく思うよ」
「あら、行きの馬車のように目隠しをして歩かせるなら館の構造を把握させぬよう用心深くていらっしゃるのねとの感心も抱けましたのに、そんな策もなくただ闇雲に小娘ひとりを連れ回すことに何の益がありますの? 仮にも主人に招かれた客をいたずらに疲弊させるおつもり?」
ゆっくりと階段を上りながら投げた嫌味に数秒間の無言で返して、アバーエフ卿は歩を止めました。直前にしていた遣り取りに絡めてどんな言い訳が返ってくるのかと静かに身構える私に、しかし彼は真顔のままに揶揄うでもなく言うのです。
「レディ。あちらをご覧ください」
そうやって指し示されたのは、階段を上りきった先の廊下の進行方向とは反対側。さりげなく自らの身体を用いてそちらを私から遮るように立ち回っていたものだから、てっきり見られたくないものでもあるのかしら、と勘繰っていたこちらが馬鹿みたいだわと拍子抜けしながらも視線を遣れば―――――唐突にビニールシートで封鎖された通路が視界に飛び込んだので頭痛がしました。文化祭の準備の関係で最近よく目にしていたアイテムではありますがまさかこのタイミングでコレを見るとはまったく思っていませんでしたね、理想の殿方コンテスト会場で建築科の方々が使っていた工事現場によくあるらしい軽くて丈夫なビニールシート大判サイズ撥水加工―――――いえ、待って、どういうこと。
「見ての通りこの建物、なんと造りかけなんだよね」
「お待ちになってまさか本当にあの先は絶賛工事中だとでも?」
「そうだよ。そして驚くべきことに実はこの建物の大半は未だに完成していないというか完成の目処すら立っていない」
本当にどうしてこのタイミングであんなものが視界に入るのかしら、と混乱を来す私の疑問に秒で答える元義兄。ついでと言わんばかりの補足があまりにも信じられなくて、というか、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて若干の眩暈を覚えます。
「未完成って、そん………ええ………?」
「そうなるよね。うん、無理もない。僕も正気を疑った。伯爵本人の自慢によれば『真の王に相応しき厳かにして美しい城』とかいうコンセプトだったと思うけど、外観にこだわり過ぎたあまりにそこで資金が尽きたらしくて内装については『どうにか人間が住める』程度にしか施設として完成していない―――――つまり、純然たるハリボテなんだ」
感嘆なのか嫌味なのかが分からない台詞を吐いたあと、何事もなく歩き出しながらアバーエフ卿は言いました。
「そういうわけでこの建物、ところどころ通れないんだよ。連れ回したくて歩くんじゃなく単純にルートがそれしかないんだ。実のところ一階と二階は玄関とあの応接室とその先にあるヘンスラー伯の私室くらいまでしか調ってない」
そんな欠陥だらけの建物でよく客を招いた晩餐会など催せたものですねあの男、と吐きかけた罵倒を飲み込んだのは疲労感が押し寄せてきたからです。それを汲み取ってくれたのか、はたまたただの会話の切れ目か、兄だった人はそれを最後に何も言わなくなりました。
喉の渇きを誤魔化しながら誘導されるままに歩いて、階段を上ってまた歩き、渡り廊下と思しき通路に差し掛かったあたりで私はいい加減にうんざりしたと感情を滲ませた声を出します。
「思いの外、広いようですけれど………案内先は何処なのか、そろそろ教えていただける?」
「お答えします、レディ・フローレン。とりあえず今用意出来る部屋の中で伯爵の私室から一番遠く離れたところに向かっているよ。趣味がアレ気味なヘンスラー伯が道楽感覚で造らせた尖塔部分の最上階にある特別な客人用の部屋でね―――――まあ、うん。なんというか、ロケーションが特殊な以外は何の変哲もない普通の部屋だよ」
「あら、伯爵本人は『あんなところ』と眉を顰めていらっしゃったのにあなたにとっては『普通』のお部屋なの?」
「そうだねえ。元々は敢えて剥き出しのままの石造りの床と天井に鉄格子を直埋めして調度品は豪奢な天蓋付きベッドひとつ、とかいうヘンスラー伯が思い描く理想の『囚われの姫君のための牢獄』みたいなコンセプトの部屋になる筈だったんだけど、どうにも悪趣味だったから予算の都合で一般的な貴族家の客室みたいな内装にしか出来ませんでしたって僕の独断で変更しちゃった。まあそのせいで彼はあの部屋を『あんなところ』呼ばわりしているのだけれど………そっちの方が好みだったかな?」
「冗談は立場だけになさいまし」
「おや、立場だけでいいのかい?」
喋りながら渡り廊下を通過して階段に足を掛けたところでそんな愚問が飛んで来たので、私は鼻で笑う代わりにわざと靴音を響かせました。カツン、とヒールが無骨な石段を叩いた音を皮切りに、情報収集などかなぐり捨てて一気に攻勢へと転じます。
「従う気もない相手に仕えて、今もこうして私を慮るふりをして―――――ねえ。あなた、何がしたいの?」
「聡いきみにならそんなこと、とっくにわかっているんだろう?」
質問に返されたその言葉は、答えにすらなっていないもの。はぐらかしているようで、しかし真実心の底からそうだと信じて疑わない、確信めいた信頼にも似て居心地が悪いったらありません。それが不快で、不可解で、何より面白くなくて、だから私はわかりませんわねと切って捨てるように吐き出しました。
「わかっている、とは何をでしょう? あなたが私に此処が何処かを推し測れるヒントを与えていたこと? それとも、この身をあの伯爵からなるべく遠ざけようと図らったこと?」
「さて、それはどうだろう。とぼけたがるのはお互い様だね」
揶揄うような口振りの割に、面白がってはいない響き。ただひたすらに空虚なそれに呑まれないよう息を止め、踏み付けた石造りの階段が硬質な悲鳴を上げました。
「はぐらかさないでくださいまし―――――渓谷、鉄橋、ハリボテの城。内情は碌でもなく馬鹿馬鹿しいのに結果として逃亡は物理的に困難。こちらにとって有益な情報を堂々と投げて寄越した挙句、あの伯爵に私の身が脅かされないよう引き離す………けれど、絶対の味方でもない。本当にふざけた立ち位置ですわね、ドミニク・アバーエフ・ノルンスノゥク」
「それを理解しながらも、利用出来るから利用する。会話はしても油断せず、過剰に期待することもない。きみは相変わらず完璧なんだね、レディ・フローレン・ノルンスノゥク」
他人事のような称賛は、実際に他人事なのでしょう。現在進行形で当事者なのに、なんなら鍵すら握っているのに、アバーエフ卿はこの舞台の上で一貫して何処か他人事で―――――そこにいるのに、なんだか遠い、かつての兄の名を口にしたのは、咎める意味だけではなかったけれど。
しみじみと名前を呼ばれたことで、私はとぼけるのをやめました。ずっと気になってはいたのです。たぶん気が付いていたのです。それに見ないふりをして、けれど、もう、止めました。
「いいえ、完璧なものですか。だって、私は読み間違えた」
私ね、お義兄様。
逆恨みだと思ったのです。公爵家を継ぐ筈だったのに、廃嫡されて捨てられた人。あなたがそれで父を恨むのはただの逆恨みでしかないと、何処までも自分勝手な愚兄だと思って憤りもした―――――けれど、それは、違うのでしょう?
ノルンスノゥク公爵を、我が父を恨んではいるのでしょう。けれど、きっと、理由が違う。だってこの人は公爵家を追い出されたくらいでこんな捨て鉢になったりしない。する筈がない。ないのです。だって、ドミニクお義兄様には。
「ヤーブロニャ男爵家のご令嬢―――――ニーナ様は、今、どちらに?」
「どこにも居ないよ、フローレン。一緒の馬車に乗っていたのに、僕だけ助かってしまったらしい………亡骸は見付からなかったよ」
言葉は少なく、曖昧で、詳しい話をする気が無いのだと窺い知るには十分でした。穏やかに微笑む横顔は、此処ではない何処かに向けられています。その先に彼女が居るかどうかは彼しか知り得ないことでした。
「一緒にいると誓った矢先に一人で旅立たせてしまった。甲斐性どころの話じゃないよね。潔く後を追って詫びようと思ったのだけど………どうもキナ臭くて調べたら案の定だったものだから。報いを受けてもらうことにしたんだよ、なにしろ終わっている人生だからね。使おうと思えば命も使える」
自己満足の手土産だけど、無駄死には合わせる顔がない。
そう宣う顔は晴れやかで、なのに未来がありません。終わっているとの表現はまさしくその通りなのでしょう。最愛の人を失ったのでここから先は消化試合、という潔過ぎる割り切り思考に置いて行かれた私にはもう何も言えませんでした。
「そんなこんなでいろいろあって、僕は僕の目的のために今この場所で生きている。あんな小物に仕えているのか、と先程きみに聞かれたけれど、理由はこれだ。それ以外にない。詳細はまあ無駄な話が八割近いので省くけれども、俗っぽい言い方をするのであればおそらく『復讐』になるのだろうね。僕からニーナを奪った報いを僕基準で受けて欲しいのさ―――――身勝手なのは承知の上で、それでも譲れなかったから」
でも、と彼は言葉を濁して気不味そうに目を伏せるのです。それでも階段を上る歩調は変わりなく安定していたけれど、声のトーンは落ちました。
「それはそれとして………個人的な事情で僕がヘンスラー伯に与しているのは間違いない事実なのだけど、特に恨みがないどころかむしろ迷惑しかかけていないきみをこっちの都合に巻き込んだ挙句あの脳味噌真性花畑の好きにさせる流れは流石に看過しかねるというか―――――本気で烏滸がましいんだけども、僕はこれでも“兄”だったから“妹”を不幸にはしたくない」
本当に烏滸がましいことを、と皮肉を込めて笑い飛ばせたら、何か違っていたでしょうか。
どの口でそれを言うのです、と感情任せに怒鳴り散らせたら、私の気は晴れたでしょうか。
けれど現実にはどちらも選べず、胸の途中で堰き止められた言葉は渦を巻くばかり。それでも足は動いているし、思考も絶えず回るけれども、現実的には何も変わらず変えることも出来ないで。
「勝手な、ことを」
「うん。ごめんね」
やっとのことで絞り出したのに返されたのはまた謝罪。思えばこの人はもうずっと、私に謝ってばかりいる。迷惑をかけてすまないと、彼なりの誠意の示している―――――だから、それが、何だというの?
「勝手ついでに言ってしまうと、僕はきみが此処に来るとはまったく思っていなかった。あんな稚拙な脅迫文を信じて従う筈がない、と内心では踏んでいたのだけれど………やはり僕程度では駄目だね、そちらの真意を読み取れなかった。メリットがデメリットを上回ったから敢えて誘いに乗ったのだということくらいは理解が及んでいるとしても、正直未だにわからない。きみの身の安全の担保についてもわからなかったものだから、ついつい余計な真似をしてこうやって出張ってしまったわけだ―――――邪魔だったかな」
「今更ですわね―――――誤差の範囲内でしかなくてよ」
「そう。良かった」
戯言を、と切り捨てるには、あまりにも悪意のない台詞。ただ本当に良かったと胸を撫で下ろしている様の無責任さに吐き気がして、自分の掌に己の爪が食い込む感触にはっとしました。焦らなくたってあちらには微塵も気付かれなかったでしょう―――――どうせ、あなたにはわからない。自分勝手なお義兄様には、きっと、ずっと、永遠に。
かつん、かつん、と一定のリズムで上り続けた螺旋階段、延々続くかと思われた時間の終着点はあっけなく、どうやら尖塔の最上部に一室だけ設けられたという部屋の扉をあっさりと開けて兄だった人は微笑みました。
「この通り、割と普通だろう? 面白味がなくてすまないね」
そう評された室内は、なるほど確かに『普通』そのもの。ベッド、チェスト、カーペット、ミニテーブルとセットの椅子に、眩し過ぎない照明器具。視界に入るそれらはすべて特色すべきところのない個性を排したシンプルさで大人しく鎮座しています。それなりに広い部屋でした。ここを二分割するように鉄格子を嵌めこみ天蓋付きのベッドをひとつだけ設置していたとしたらさぞや頭痛がしたでしょう。
「公爵令嬢をお通しするような部屋でないことは承知しているよ」
「ご謙遜を。ヘンスラー伯より趣味がよろしいわ、アバーエフ卿」
「畏れ入る」
囁くように痛み入る声の主を探して視線を遣れば、石材剥き出しの壁に嵌め込まれた無骨な窓を開け放つ元義兄の姿がありました。壁側には手が回らなかったのかそこだけ見れば本当に『牢獄』に見えなくもないけれど、ベッド周りだけを切り取っておけばまあまあ『普通』を繕えているので彼のセンス勝ちになるのでしょうね。
「あら、不用心なこと。普通は施錠をしておくでしょうに」
「この部屋の場合、逃亡防止という意味合いにおいてなら鍵の有無は重要じゃないんだ。此処から逃げるのはおすすめしない………見てもらった方が早いかな」
そう言って一歩下がった相手の言いたいことを理解しながら、一応目で見て確かめるべく私は窓辺に歩を進めます。不用心に開け放たれた窓は大きく、幅広く、人間一人が通り抜けるのにさしたる労苦はなさそうで―――――ひゅぅ、と頬を撫でた風の冷たさと水気を含んだ匂いに私は意識を引き戻しました。
そこにあるのは、ただの夜です。そうとしか形容出来ない光景に私はしばし放心しました。
僅かばかりの月明りではぼんやりとしか見通せない、鬱蒼とした木々を象った不確かな夜闇は影絵のよう。山の中、あるいは森の中。どちらにしても人里離れた場所にあるのは間違いなく、耳を澄ませど聞こえてくるのは自分の息遣いがせいぜいで、建造物そのものの高さもあってか生き物の気配というものがとにかく遠い―――――ほとんどない。獣も、鳥も、虫さえも。静まり返って、無いのと同じ。
ああ、独りだ、と思いました。唐突に、否応なしに、ひとりぼっちだと痛感したのは幼年期以来のことでしょう。
目の前に広がる大自然の夜から視線を窓の真下に向ければ、底の見えない暗闇がただ広がっているばかりで逆に何もありません。音もなく皮膚を撫でていく風はなんだか湿ったにおいがして、凍える程ではないにせよ、震えを覚える程度には肌寒さを感じるものでした。
「なるほど。理解出来ました。この様子では逃亡はおろか侵入さえ難しいのでしょうね」
「うん、立地と高さ的にね。ほとんど不可能に近い、と言える。白状してしまえばこの建物、周りのほとんどを人工の堀ならぬ天然の崖が守っていてね。この塔が一番その崖に近くて窓の下には地面がない………代わりに、結構な川がある。大人でも溺れる水深で流れもそれなりに早いから、飛び下りたらまず助からないよ。きっと亡骸も見付からない。だから生存を前提とした逃亡ルートにはおすすめしない」
「どうせ此処からは逃げられない。だから鍵を開けておく、と?」
「解釈はきみのお好きなように。ただの保険かな。僕のエゴだよ」
温度のない目で見据えた先で、囁いた声の主の真意は私にだってわかりません。逃亡ルートとしては推奨しない、と口にしながらわざわざ鍵を開けておく意図を、意味を、推し測ったとてそれは私の妄想です。
「最悪を想定していらっしゃるのね」
「最善を模索しているとも言えるね」
「あなたにとっての最善でしょう」
「きみにとっての最悪じゃないよ」
のらり、くらり、意味がない。言葉遊びには意味がない。この時間は無駄でしかなくて、私が得られるものはない。
「ねえ、私、やっぱりあなたがわからなくてよ。アバーエフ卿」
思わず零れ落ちた本音は想像以上に小さな声で、不自然なくらいに掠れていました。喉の奥が渇いて引き攣れて、無様にむせて咳き込むだなんて淑女にあるまじき失態です。慌てて口元をおさえたところで物理的な乾燥による身体の反応はどうにもならず、落ち着くまで耐えるしかない目元に生理的な涙が浮かびました。
「フローレン、落ち着いて、抑え方は分かるね? よし。ターニャ、段取りが悪くてすまないがすぐに使用人棟の倉庫から水と食料を持って来てくれ。災害用の備蓄として買い込んでおいたやつを頼むよ、飲み水にしろ食べ物にしろとにかく未開封の品に限る。たとえ半日以上飲まず食わずでもこんな状況下で異物を混入される可能性がある調理品の類や水差しの水など彼女は絶対に口にしない。そういうふうに教育されている」
「かしこまりました。お嬢様、今しばらくお待ちくださいませ。急ぎお持ちいたします」
「助かるよ。バレない範囲で急いで」
はい、と応えをひとつ残して、部屋の片隅に控えていた女性が踵を返して部屋を出ます。涙のせいで滲んだ視界の端でそれを捉えつつ、唾液をなんとか飲み込んで一応の安寧を得た私は失態を見せた八つ当たりがてら皮肉っぽく笑って見せました。
「随分と、信頼なさっておいでね?」
「実際ヘンスラー伯の陣営の中では彼女が一番信頼出来るよ」
「あなたの私情など私の知ったことではなくってよ、こんな状況で寄越されるものを誰が口にするものですか。楽観的にはなれそうもなくてごめんあそばせ、アバーエフ卿」
「ターニャ・ヤーブロニャはニーナの姉だ」
それが何か? と切り返すべき場面で咄嗟に言葉が出なかったのは、喉が万全ではないからです。動揺したせいではありません。その証拠に、唾液で潤せば、すぐにだって私は。
「彼女がヘンスラー伯に仕えている理由は僕とまったく同じだが、伯爵にも知らないことがある。ターニャはね、フローレン。実の妹のみならず男爵家にまで便宜を図ってくれたきみの恩義に報いたいのさ」
「ご冗談を。あっけなくお取り潰しになって平民に落ちぶれた一家の方に恨まれることはあったとしても報いられる覚えなどなくってよ」
大真面目に何を言うかと思えば、当たり前過ぎて失笑ものだわ。何処の世界に、自分の妹を始末したと疑わしき公爵の娘を恨まない姉がいると思うの。わかりきっていることを、と吐き出すことは叶いませんでした。
だって元義兄が困ったように、強情を張る“妹”を宥めるようなことを言うから。
「謙遜も過ぎれば墓穴を掘るよ。元々ヤーブロニャ男爵家が経済的に困窮していたことも、娘たちに生活苦を押し付けるより潔く今代で爵位を手放して市井で生きるつもりだったこともきみは知っていたんだろう? 僕らの件の余波で財産のすべてを取り上げられこそしたものの、誰の命も奪われなかったと男爵家の面々は安堵していたよ。きみのおかげで家族と無事に再会出来たニーナだって、『ノルンスノゥク公爵令嬢』の温情に深く感謝していた」
「感謝される謂れがございませんわね」
「公爵家を追い出される僕にきみが心付けてくれた品を売ったお金で僕とニーナが路頭に迷わず家族を養えたと言えば分かるかな?」
「世迷言を。心付けとは? いよいよ以て、何のことやら」
「ああ、公爵閣下の言い付けに背いてわざわざ見送りに来てくれたきみが『あなたからの贈り物など今となってはゴミにも劣るわ、そちらで処分してくださいまし』と僕にぶつける勢いで投げて寄越した貴金属のことだよ。かつて僕が用意したノルンスノゥク家の直系たる義理の妹への贈り物………不思議なことに記憶にないものもいくつか紛れていたけれど、歪んだ指輪や壊れたブローチはどれも本物の金細工だったから想像以上の値が付いた。貴族にすればほんの小遣い程度であれ市井暮らしなら二年は困らない。生活基盤を整えるには十分過ぎる程の額だった―――――そういうことだよ」
「お黙りなさい」
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
頭の中にがんがんと響くのは紛れもなく自分の声でした。気が散る、思考も散る、まとまりがない。まとまらない―――――そう、纏まらない。
「訳知り顔で、分かったふうに、自分に都合の良い解釈ばかり。何がそういうことなのよ、何もかも放り出したくせに! 自分の意思で居なくなったくせに! 最初から最後まで勝手に決めてこの結果を選んだのはあなたでしょう!? 今更現れてなんだと言うの!」
(わたくし。わたくしは―――――なにを?)
不意に心細さが募って、私は凍り付きました。自分の中の何かしらが折れそうなことを自覚して。揺れている己に愕然として。不安定な足元に目を向けないよう必死になって顔を上げてもそこに答えなんてものはなく、あるのは元義兄の困り顔。
『どうかしたのかい? フローレン』
それたただの幻聴で、同時にいつかの思い出でした。今と同じ眉尻を下げたどこか頼りない面差しで、身内を慮る眼差しで、控えながらも声を掛けてくれたかつて家族だったひとの記憶が現実に淡く重なって―――――切って、捨てて、置いて来た筈のそれに私の中の何かが軋む。今になって。
(―――――どうして)
「どうして」
そこまでは口に出せるのに、そこから先が紡げない。あの時も、今でさえ、私のそれは言葉にならない。強めの語調で黙れと吐いた喉が乾燥で引き攣って、声にならない咳だけがげほげほと耳を汚している―――――そんな、最悪な気分の折に。
「あれ? なんかげほげほしてる。大丈夫か? フローレンさん」
「………えっ?」
あっけらかんとした第三者の声が唐突に聞こえたものだから、私は耳を疑いました。だってそれはこの場に居ない、居る筈のない人の声だったのです。驚きのあまり音が消えました。
びっくりし過ぎてむせることさえ放棄した口元を手で抑えたまま、うそ、と半信半疑ながらもゆっくりと視線を動かして―――――目が合った、と思ったそこには、白い色彩を持ったひと。
「よく分かんないけどお水飲む?」
開け放たれた窓を乗り越えて、切り取られた夜を背景に、まるで学園で顔を合わせたときと変わらぬいつもの調子でリューリ・ベルが背負った鞄から水入りの瓶を引っ張り出すのを私はぽかんと眺めていました。
きゅぽん、と響いた不思議な音は、気を利かせた彼女が瓶のコルクを苦もなく引っこ抜いた音でしょう。はい、と差し出されたガラスの中の透明な液体がちゃぷんと揺れて、反射的に受け取った指先から伝わるひんやりとした感触にこくりと喉が鳴りました。けれども、これを飲む勇気が出ない―――――文字通り喉から手が出る程に渇いていることを自覚しながら、この状況下で安易に何かを口にするべきではないのだと、培ってきた価値観が邪魔をして。
少なくとも、彼女は敵ではないのに。元義兄よりもよっぽど明確にこちら側だと断言出来るのに。そんなことは分かりきっているのに―――――『リューリ・ベル』を前にして固まっていた私の耳朶を、のんびりした声が打ちました。
「やあ、これは驚いたなあ―――――とんだ予想の埒外だ」
嫌味も皮肉もない純粋な感嘆を込めたその言葉とは裏腹に、アバーエフ卿の表情はなにひとつ変わっていませんでした。イレギュラーの極みとも言える存在を前にしながらも焦るどころか危機感さえなく、どころかちょっと面白がるように転がる声に反応したらしいリューリさんが透明な目を彼へと向けます。
ふたりが言葉を交わさないよう、私はやや無理矢理気味に言葉を捻り出しました。
「そう宣うならせめてもう少し驚いたフリをなさいまし………あの演劇向きの伯爵のようにオーバーアクションのひとつでも披露してくだされば良いものを、相も変わらず、つまらないひと」
「三文芝居をお望みであれば今からでも演じようはあるけれど、きみの趣味ではないと思うよ。ヘンスラー伯がこの場に居たならきっと『侵入者め! 何処から現れた!』だの『貴様は一体何者だ!』だのと大いに騒ぐこと請け合いだけどねえ………何処からも何も、窓から普通に入って来たのをついさっき目撃しているし。見たところ大仰な装備の類は持っていないようだから、素手で塔の外壁をよじ登ってきたんだろう。何者か、という点においても正直なところ見れば分かる。髪の色だけならいくらでも変える手段はあるだろうけど、全体的な色素そのものの薄さはどうしようもない。纏う雰囲気ひとつとっても見るからに“王国民”ではないよ。加えて身ひとつで壁を登り切りここまで辿り着く驚異のフィジカル―――――まさか『迎え』が“北の民”とは思わなかったなあ。いや驚いた」
上機嫌、ともとれる態度で、ついでに拍手でもしそうな口振りでそんな台詞を吐いた男を眺めているだけのリューリさんには何の変化もありません。沈黙が三秒程続き、僅かに首を傾げた彼女は眉間にちょっとだけ皺を寄せつつ平素と変わらぬ声音で一言。
「ところで誰この知らん人」
「包み隠さないタイプかあ。いいと思うよ、知らないままで。フローレンさえ無事に連れて帰ってくれればそれでいい………さあ、フローレン、お別れだ。一刻も早く此処を離れて何処か安全なところへお行き」
急かすように、追い立てるように、勝手に決めて、勝手に仕切って。
そこだけ切り取って聞いてしまえば手放しで“私”の味方のような、けれど実際は誘拐犯の腹心の部下とかいうふざけた立場で、本当に彼はどの面下げて何を言っているのでしょう―――――元気だなあ、みたいな不快感皆無の緩めなノリで対応している元義兄の真意が、思考が、かつて妹だった筈の私にはまるでわからない。
もしかしたらこの場で一番混乱しているのは他でもない私ではないかしら、と戦慄にも似た嫌な予感を抱いたところでリューリさんが言いました。割と突拍子もないことを。
「いや勝手に決めるなよ知らん人。なんで普通に仕切ってるんだ。こっちは遠足に来たんだぞ、お弁当食べずにそのまま帰ってどうするんだよメインだろうが」
「なんて?」
「なんて?」
どういうことです?
奇しくも一致した私とアバーエフ卿の台詞の根幹にあるものはおそらく同種の困惑でしょう。トップオブ馬鹿が居合わせていたら「はいもうシリアスはどっか行くぞコレ全員覚悟決めて切り替えなさいね」とか躍るような声音で宣うこと請け合いですわねって笑い事じゃなくてよお待ちになってどういうことなのレオニール、あなたという人は国賓待遇のリューリさんを巻き込むどころか堂々と渦中に投下って馬鹿なんですの!? 馬鹿でしたわね! 知ってましたわ! 昔から!!!
(それにしても『遠足』に『お弁当』とはどういう………いいえ、どうもこうもないわ、間違いなくそのままの意味でしょう。彼女にとってこれは私の救出劇の一環ではなく単なる現地集合の『遠足』だという認識として………え? まさか寄越すだけ寄越しておいてあとは現場の私に丸投げでしてあのトップオブ馬鹿)
だとしたら! いくらなんでも! 雑過ぎる!!!
『リューリ・ベルというイレギュラーの塊を投入した時点で大抵のことはアドリブ任せだぞうフローレン―――――乗るしかないこのビックウェーブに!』
お黙り脳内レオニール! 覚えていなさいましエンタメお馬鹿ッ!!!
大混乱を極めたあまりに己の内側にてそんな茶番を繰り広げているこちらを他所に、当たり前のような自然さでしれっと場に混入したリューリさんはその透明な眼差しをアバーエフ卿に向けていました。無言のまま眺めて観察し、そして彼女は私に問います。
「なあフローレンさん、この人知り合い? だとしたらごめん、お弁当足りないわ」
「ねえこの子お弁当への執着すごくない? ひょっとして稀代の食いしん坊さん?」
真顔で包み隠さずに思っていることを言語化してしまう妖精さんみたいな外見の第三者に思わず釣られた、といった様子でアバーエフ卿がコメントしていますがあなたまで困ったような目で私を見ないでくださいまし? なんなのでしょうねこの散らかりよう、混沌どころの騒ぎではないわ主に私の情緒的な意味で。
「ええと………ああもう、失礼、ひとまず―――――お水をいただいても?」
「うん? うん」
どうぞ、と素直に勧めてくれるリューリさんの好意に甘える覚悟が決まってしまえば、あとは度胸。だってもう限界なんですもの。たったの数分でいろいろと情報が更新されたこの状況で渇いて罅割れて舌を回せなくなるくらいなら淑女は休暇を申請して旅に出ますわの境地。ずっと手にしたままだった瓶から直接水を呷りつつ、人心地ついたところで私は開き直りました。
(さて、どうしたものでしょう………お弁当持参でピクニック、という認識しかないであろうリューリさんには下手な質問を投げられない。きっと詳しく知らないし、レオニールに何かを聞いていたとしても『ちょっと行ってお弁当食べてフローレンと帰ってくる的な感じでよろしく』みたいなノリで送り出された可能性が高………いやだわすごくそれっぽい………本当にそういう馬鹿みたいなノリでしれっと国賓待遇の“北の民”相手にとんでもなく厚かましいお願いとかしちゃうタイプでしてよあのお馬鹿………いえ私の誘拐に気付いてこの場所を突き止めリューリさんを寄越したその手腕は認めますけどもっていえ待って待ちなさい前言撤回、どこをどう言い包めて『リューリ・ベル』を動かしたのかを考えたら割と酷い頭痛がしてきました―――――止めましょうこの話題は後回し、詳しいことは帰ってからあの馬鹿に直接問い質せばよろしい)
どうやって誘拐犯の正体とその居場所を突き止めたのか、どんな裏技で“北の民”を単身王都から出したのか、その他気になることはそれこそ山のようにあるけれど。
ひとまず今私がするべきことは―――――『リューリ・ベル』が興味を持たないであろう諸々を一切合切排して、一緒に行動出来るようとにかく彼女の意向に沿うこと。
「はい、ありがとうございました。落ち着いたところでリューリさんにご説明しますわね―――――あちら、お高いイチゴジャムではなく安価なリンゴジャムを勝手に選んで菓子職人に捨てられた例の愚かな『ビスケット』さん改め私の元義兄です」
「フローレン待ってそれどういう説明?」
「モトギケイ、ビスケット………ああ、例のビスケットお兄さんか―――――なんか思ってたのとちょっと違うな、リンゴジャムビスケットのお兄さん」
「いや通じるの? どういうこと? なにそのビスケットお兄さん………イチゴにリンゴに菓子職人? 捨てられ………ああ、うん、そういう………わかった。なるほど。であれば、名乗りは要らないね。リンゴジャムビスケットでいいんだもの。そういうわけで、はじめまして、“北の民”のお客人。噂は耳にしていたけれど、本物はそれ以上だね―――――塔の上に閉じ込められたお姫様を助けに窓から妖精が入ってくるなんてファンタジーを拝めるとは思ってなかった」
「ファンタジーじゃないぞ。妖精でもない。今を生きてる人間だ―――――そういうわけでお腹は空くのでお弁当食べようフローレンさん」
案の定、とでも言うべきか、彼女はどんな状況下であれ糧を優先するようです。それが主目的なので食べたらさっさと帰ろうか、という雰囲気さえ醸しながら背中の鞄から布製と思しき包みをふたつ取り出した“北の民”は自由で、相変わらず食いしん坊で、元義兄にも私が陥った窮地にもまるで頓着した様子が無くて、あまりにもありのままだったから―――――まるで“学園”に居るような気分で、私は呼吸が出来ました。
「あれここ椅子がひとつしかない?」
「ああ、北の民のお嬢さん。その椅子には触らない方がいい―――――体重をかけると脚部が折れて転倒するお茶目な細工がしてある」
「おちゃめって言葉じゃ誤魔化しきれない悪意が見え隠れしてないか? それはそれとして教えてくれてありがとうビスケットお兄さん」
「どういたしまして。そういうわけだからふたりとも、ベッドを椅子代わりに使いなさい。テーブルはこのあたりでいいかな?」
言葉通りにミニテーブルを持ち運んでベッドの脇に置き、自分は邪魔にならないようにさっさとその場を離れて壁際に移動する元義兄の横顔はなんとも晴れやかなものでした。まるで妹の茶会の手伝いでもしているような振る舞いに苛立ちを覚えた私は、ついつい言わなくてもいい毒を吐きそうになったのを飲み込んでのたうち回るのです。じわり、と滲んだ言いようのない負の感情を押し潰し、今はリューリさんに手招かれるままベッドの縁へと腰掛けました。
「ビスケットお兄さんの分はないのでごめんな」
リューリさんにはアバーエフ卿に己の食事を分け与える気がこれっぽっちも存在しないので当然と言えば当然の断りを―――律儀なことに―――入れてから、彼女は持っていた包みのひとつをそっと私へと差し出します。お礼を言って受け取って、ゆっくりと布の包みを剥げば、おさまっていたのは“学園”の購買でお馴染みの厚紙製の箱。
手を付けない、という選択肢だけは、既にありませんでした。空腹を自覚したこの瞬間に、食べられるものがそこにある。安全が確保されている―――――『リューリ・ベル』という存在ひとつで何もかもが好転するかのような都合の良い錯覚に身を委ね、私は箱を開けました。
此処が何処かも、誰が居るかも、何を考えていたかさえ、すべてを彼方に押しやって。
もどかしい気持ちで開けた箱の中には、とても豪華とは呼べないであろう素朴極まるサンドイッチが美しく詰め込まれています。壊れ物を扱うような慎重な手付きでつまみ上げ、一口大に切り分けられたそれを小さく齧り取りました。
しっとりと柔らかなパンの下でしゃきしゃきと弾けるキュウリの食感、お茶会でもよく供されるが故に食べ慣れている塩と胡椒と酢の味付けはほとんど一日食事を絶っていた胃と精神に沁みました。薄く切った白いパンに薄切りのキュウリのみを挟んだというシンプルな構成ではありますが、重た過ぎることはないけれど物足りないとは感じさせない美味しさに手が止まりません。たまに舌にピリッと走る食べ慣れない香辛料のアクセントがそれに更なる拍車をかけて―――――いえ、早食いなんてみっともないと淑女の矜持が家出しているわけではけしてないのですけど、これは薄ければ薄い程に上品とされている料理で老若男女問わず食べ易いため回転が早いのはしょうがないのです。
普段からは考えられない速度で食事を終えてしまった私は『もしやリューリさんよりも早く完食してしまったのでは』となんとも気まずい思いを抱えてちらりと傍らに視線を向け―――――杞憂だったと知りました。だって彼女、いつの間にかパウンドケーキの塊をもしゃもしゃと齧っているんですもの。太さというかサイズからしてたぶん既に三分の二くらい胃の中に消えているのでしょうね。たぶんおそらくサンドイッチを瞬殺して息継ぐ間もなくデザートであるパウンドケーキに移行したのでしょう。一個じゃなくて一本丸ごと遠慮容赦なく食い千切っていく姿はもう圧巻の一言です。なお潔く豪快な食事スタイルに反して見た目は相も変わらずに神秘的な妖精さんのそれ。
何処に居ようがリューリ・ベルは変わらずリューリ・ベルなのだ、と改めて痛感した次第でしてよ。
「フローレンさんの分もあるぞ」
「まあ、ありがとうございます」
こちらの視線に気付くなり、誰よりも貪欲に糧を求める“北の民”は焼き菓子の最後の一欠片をひょいっと口の中に放り込み、すっかりとサンドイッチを食べ尽くしていた私に手のひら大の紙包みをくれました。一本丸ごと手渡されなくて本当に良かったと思います。
「ところで貴族のお嬢さんはカロリーを気にしがちなのでデザートならこのくらいが適量だって聞いたんだけど正直足りる?」
「十分です」
「そっか。じゃあこの二本目は遠慮なく私だけでいただこう―――――謎味ケーキ美味しい」
「謎味判定にも関わらずその食い付きってすごいなこの子」
「気安くてよ元お義兄様。弁えてお黙りなさいまし」
思わず、といった様子でリューリさんに感心している元義兄を睨んではみたものの、包み紙を破った状態のパウンドケーキを両手に持った姿ではいまひとつ迫力が足りません。いえこれはけして気が緩んでいるとか謎味って何味かしらなどという興味に負けたわけではなく。ええ、はい。腹が減ってはなんとやら、戦をするなら万全の状態を整えろという先達の教えに倣っているだけで他意などあろう筈もなく―――――お黙り脳内レオニール。居ないのに喧しくてよあなた。甘いものを食べるとイライラがおさまるからはいどうぞ、フローレンひとまず落ち着こ、とかそういうところですわよホントに!
駄目だわ、リューリさんが居るというのにこのままでは本気で苛立ち任せに失言をしてしまいそう。
はあ、と息を吐き出して、私はデザートを食みました。甘いことだけは確かであるのに、何の味だか分からない。パウンドケーキであることくらいしか分からなくて不思議だったので、もう一口、また一口、と食べ進めていく私からは必然的に言葉が消えました。
聞き捨てならない呟きを耳が拾い上げたのは、ちょうど最後の一口を味わって嚥下した頃合い。
「思ってたよりフローレンさんと仲良しなんだな。ビスケットお兄さん」
「違います。酷い誤解でしてよ」
「うん、そうだね。誤解だね。そう見えるのはフローレンがお友達の前だからと気を遣っただけの結果であって、実際のところはそうでもないよ」
口々に否定の言葉を放る私たちの反応を、彼女はどう受け止めたのでしょう。気になって注視したところで、リューリさんの顔からは何の思考も読み取れません。何も考えていないのか、聞いてみただけでどうでもいいのか―――――或いは。
「そうか」
疑問はなく、同意のようでいて、しかし納得はしていないただの相槌のようなたった三文字に警鐘を鳴らした本能は、きっと正常だったのでしょう。私はこの段階で何か発言するべきでした。リューリさんがこの先を続けることがないように、話を変えるべきでした。
「じゃあ今度は私が気を遣ってしっかり耳とか塞いでおくからフローレンさんはお兄さんに思いっきり言いたいことどうぞ」
「お待ちになってリューリさん。何がどうしてその発想に?」
「どうしても何も私が途中で割り込んだせいで二人の話し合い止めちゃったからな、お弁当食べて落ち着いたところでさっきの続きをどうぞってだけ」
「いえ流れも何も―――――え? あの、お待ちになって? リューリさん、貴女もしやあの窓の外でしばらく私どもの会話に耳を傾けて登場の機を窺っていたり?」
「え、そんな無駄極まることしてないです普通にめんどくさいし。窓の外で待機はしてないぞ。ただ壁よじ登って窓に近付くにつれて声が聞こえてきたのは認める、“北の民”の矜持にかけて自分の耳の良さに嘘は吐けない―――――でもまあそれを抜きにしたってフローレンさんが咳き込むレベルで大声出すのってよっぽどじゃんよ。邪魔した私が言うのもあれだけど中途半端にするのはよくない、全部吐き出してからじゃなきゃ帰るに帰れない気分になるだろ」
だからどうぞ、と彼女は言います。当たり前のような顔をして。それくらい待つよと態度で示して。その気遣いに戸惑う私をいつもみたいに真っ直ぐ見詰めて―――――なんてことでも、ないように。
「フローレンさんくらいちゃんとした人にはいろいろあるんだろうけどさあ、個人的には言いたいことは言っといた方が良いと思うぞ。言えるうちに言っておけ、ってのはうちの族長の受け売りだけど、文句だろうが告白だろうが伝えたいことは言葉にした方が結局のところ健康にいいよ。言わずに後悔するくらいなら言って後悔した方が私としては気が楽だ―――――セスは同類だったけど、フローレンさんの方はどう?」
どう? と気軽に聞かれても、答えられるわけがありません。空回るばかりの思考回路はとうとう白旗を振りました。
ああ、けれど、本当に、もしもそれが出来たなら、どんなに胸が空くでしょう。
以前、いつかのお茶会で、この真っ白い妖精さんがお花畑の住民に成り下がった愚かな義兄を真正面から堂々と斬って捨ててくれたならさぞや痛快だったでしょうにと身勝手にも夢想していたけれど―――――人任せでなく、自分自身で、この胸の内に蟠るものをどうにかすることが出来たなら。
(夢見るだけなら、自由ですわね)
自由。自由? そんなもの、それこそ夢の中にしかない。この人生から最も遠いところで輝く目映いばかりの何か。『リューリ・ベル』という存在をある意味で象徴付けるそれ。私の抱く憧れがヒトのかたちをとったなら、きっと彼女になるのでしょう。
眩しいばかりの夢物語から思わず逸らした視線の先には、穏やかな笑みを湛えて無言のままこちらを見守っている義兄の姿がありました。忘れかけていた何かがぐらぐらと揺れるような錯覚の中で、私は思い出そうとします。
(思い出すって、何を)
「いい友達を持ったね、フローレン―――――良かった。きみがひとりじゃなくて」
とっくに家族でなくなった元義理の兄が嘯いて、瞬間的に湧いた苛立ちに脳の回路が繋がって。
「どの口でそれを言うのです。私の人生劇場からとっくに退場した分際で、妹を気に掛ける兄の演技に浸るのも大概になさいまし。放り出したのはあなたでしょう、選んで捨て去っていったくせに―――――本当に今更なんだというの」
吐き出す言葉は棘だらけでも、彼は反論しませんでした。糾弾されて当然だ、と受け入れているその姿勢さえこちらからすれば腹立たしいものの、リューリさんが視界の端でしっかりと耳を塞いでいることにいくらかの安堵を覚えつつ、一人ではない安心感が無責任に私の背中を押します。
そう。一歩踏み出して飛び下りればもう、あとは落ちるだけだったから―――――取り繕うのは、止めました。
「ねえ、ご存じ? お義兄様。私ね、知っていましたの」
あなたのこと。男爵家のご令嬢のこと。
「知らないわけがないでしょう? 私の家のことなのに」
父が下手を打ったこと。どうにもならなくなったこと。今思い出してもわらうしかない、ハッピーエンドになり損なった何処にでもある陳腐なお話。特等席でそれを見ていた私は―――――“私”は。だから。
「ずっとあなたに言いたかったわ―――――いいえ。ただ、聞きたかったのです」
気分は不思議と落ち着いて、思考と感情は乖離して、滑り出る言葉は淀みなく。血の繋がりはなくとも確かに“兄”だと思っていた人を前にして、素直に内心を曝け出すなんてこれはきっと悪い夢。
ああ、本当に―――――どうして。
「どうして私に何ひとつ教えてくれなかったの、お義兄様」
納得がいかなかったから。だから聞いてみたかった。
そうね。私は最初から、そのことがずっと棘として心に突き刺さったままだった。
「私、知っていたんですのよ。だって自分で調べましたもの。情報で後れを取るなんて『私』には許されていませんもの。かの男爵家のご令嬢が玉の輿なんて狙っていなかったことも、あなたが公爵家の後継の座になど執着していなかったことも―――――恋に落ちた二人より父の方が愚かだったことも、私は、ちゃんと知っていたのに」
結局のところ、最後の最後まで、私は部外者だったのです。あの家の娘だったのに。この人の妹だったのに。特等席に、ただ居ただけ。勝手に始まりお粗末な出来のままさっさと閉幕した舞台の緞帳を眺めるしかなかった私がどんな気持ちでいたかなど、誰も知らない。知る筈がない。
「どうして言ってくれなかったの。関わらなければ私だけは無傷で済むとでも思っていたの? それとも完璧な『フローレン』なら自分で調べてすべてを知ると? 的外れな気遣いと買い被りですわね、そんなものは要りませんでした。自己満足で守った気分に酔い痴れられても迷惑です………ねえ、ご存じなかったでしょう? 私ね、本当は――――――あなたから聞きたかったのに」
出来ることなど限られていて、何の足しにもならなくたって、それでも“兄”に頼られたなら手を尽くす情くらいはあったのに―――――気付いたときにはもう遅くて、私の出番は何処にもなかった。
溢れた言葉と一緒になって、何かが頬を伝って落ちます。たったのひとしずくの欠片を認めて、かつての兄が固まりました。ごめん、と紡がれた謝罪の言葉は、果たして本日何度目か。
「ごめん。ごめんよ、フローレン。完璧で在ろうとする妹にどうしてと泣かれるくらいなら、いっそどうしようもない駄目な男だと捨てられる方が楽だったんだ―――――僕は、きみに、嫌われたかった。それくらいしか僕がきみに出来ることはないと思ったから」
答えになっていない答えであっても、彼にとっては真実でしょう。そこに、嘘はないのでしょう。そしてこの人は実際に、度し難い愚か者なのでしょう。
剥き出しになった感情はかつて知りたかった何かに触れて、いとも容易く霧散しました。残ったのは傷だらけの思い出と、ふわふわとした夢心地。食事を摂ったせいでしょうか、胃が満たされた充足感に今になって意識が溶け出す前に、まどろみに沈む刹那を縫って、とろりとしたまま、わたくしは。
「うぬぼれないで。ああ、本当に―――――なんて、ばかなおにいさま」
教えてくれたら、頼ってくれたら―――――『さようなら』を言う時間をくれたら、そのつもりでお手伝いしてあげましたのに。
夢か現かわからなくても、あの日に言いそびれていた本音を、やっとのことで吐き出して。
胸のつかえが取れた私はそのまま眠りに落ちました。折れるように、倒れるように、まるで足でも踏み外したみたいに身体がバランスを失って、力は抜けて意識が薄れ―――――ふふ。ああ、ひどい気分、と笑っていることにも、気付かずに。
前後編とフローレン嬢の視点でお送りしましたが、この後編の最後まで辿り着いてくださって本当にありがとうございます。なおシャーッとし過ぎると主人公がどのタイミングで生えたのか分からなくなる不親切設計で大変申し訳ございません。
そんなこんなではい次回、久々に主人公のターン「きまずい」←それな