幕間 レディ・フローレンの胸懐 前編
※当作に慣れた方であっても「読むのだるいな……」と思う仕様になった自負があるのでその際はスクロールを適宜シャーッとしていただくのがよいでしょう(作者にあるまじき発言)
『ノルンスノウク公爵令嬢、麗しきレディ・フローレン。あなたのための特別な晩餐会を行うことになりました。急なお誘いで恐縮ですが、こっそりと誰にも知られることなくどうか一人でご参加ください。会場となる当家のことはあなたが来てからのお楽しみ、勿論迎えに参ります。あなたにお越しいただけないと、北境の町の宿からお招きした小さなレディが悲しみのあまり涙に暮れて世を儚んでしまいかねず―――――』
瞬間的に、衝動的に、ふざけた内容の紙切れをぐしゃり、と握り潰せていたら、少しは気分も晴れたのでしょうか。速やかに処分してしまったあれは、とっくに灰になっているからもうどうしようもないけれど。ああ、本当に失敗しました。ええ、本当に。本当に。
まるで他人事のようにそんなことを考えながら、この期に及んで私はありふれた笑みを浮かべていました。自然体のまま泰然と、慌てふためくこともなく、口元に刷いた淑女のそれは攻防のための武装です。かくあるべし、と望まれた次期王妃としての矜持だけで悠然と構えて己を保つ―――――それしか許されていないから、そうする他に道はない。
「まずはご招待に応じていただいたことに深く感謝申し上げます。お目にかかるのは初めてですね、ノルンスノゥク公爵令嬢。ヘンスラー伯ヴィクトール、花々よりも美しく満天の星より麗しき乙女にご挨拶する機会を賜り恐悦至極に存じます」
好青年を装った猫撫で声は気色が悪く、言葉を選ぶセンスについても個人的にいまひとつ。洒落のつもりか皮肉の類か、なんと言うか、全体的に、どうしようもなく趣味が悪い。馬車から降りて早々に通された応接室らしき部屋の中、まったく心に響かない芝居じみた口上で恭しく一礼した成人男性を無感動に値踏みしながら、私は小物や三流といった単語を脳裏に浮かべていました。
初対面であるこの男性、ヘンスラー伯爵と名乗った彼は有体に言えば誘拐犯です―――――或いは脅迫者なのかしら? どちらにしても私の“敵”には変わりないのだけれど、まさかこんなにも堂々とこちらに姿を見せるだなんて………仮にこの男が今回の件の黒幕で間違いないとすればそれはそれで頭が痛くてよ。舐めるのも大概になさいまし?
(それにしても、ヘンスラー………ヘンスラー。伯爵? この私としたことがすぐに情報が出てこない、ということは王家や大公家の縁者ではないしここ数代は目立った功績もなくまた要職にも就いていない。要注意人物のリストにもヴィクトール・ヘンスラーの名前はなかった。外見的に私たちより上の世代なのは確実だけれど………駄目だわ、それを差し引いても風の噂にすら覚えがない。あとはもう貴族名鑑しか………ああ、ありましたわ、ヘンスラー。西方でも下位寄りの家柄の? 特に目立った活躍もしていない、たかが伯爵位風情の男がなんの後ろ盾もなくこんな大それたことを?)
そもそも騙りかもしれない。誘拐犯が馬鹿正直に名乗る可能性は低い―――――取り繕った淑女の仮面の下で絶えず思考を回しつつ、模索しているのは最適解です。相手のペースに乗ってはいけない。主導権など握らせない。そんな意図でゆったりと、あくまですべては掌の上と言わんばかりの声と態度で紡ぐべき言葉を吐き出すべく、私は喉を震わせました。
「ごきげんよう、ヘンスラー伯。あのように情熱的な招待状をいただいては、たとえ少々常識から外れた殿方からのお誘いであっても無視するわけにはいかなくてよ」
「はは、レディ・フローレンのお心に留まろうと頭を捻って招待状をしたためた甲斐がありました。しかし、推敲に推敲を重ねたせいで貴女に招待状をお届けするのが随分とギリギリになってしまったのはこちらの落ち度です。申し訳ございません」
茶番に付き合って差し上げたのは調子を合わせるためでしたけれど、やっぱりどうにも馬鹿馬鹿しくて三文芝居もいいところ。白々しいにも程があってよ、と口にしないだけ慈悲でした。ヘンスラー伯を名乗る男が謝罪のために腰を折る様を冷めた心地で眺めつつ、些か逸る気を落ち着けるために己の現況を整理します。
事の起こりは、つい昨日―――ええ、はい。そうです昨日です―――目を通すことになった『招待状』なる脅迫文に従うかたちで私はひとり此処まで来ました。指定された時間通りに、誰にも告げず、事情も伝えず、“学園”からこっそりと抜け出すように怪しい馬車へと乗り込んで―――――そこから数時間をかけて移動し、そうして単身でふざけた手紙を送り付けてきた主犯と思しき気障な男の出迎えを受けているという次第。
思い返すまでもなく、本当に、ふざけた状況でした。
「改めまして、本日は我が館の晩餐会にお越しいただききまことにありがとうございます。ああ、先程申し上げましたとおり急なお誘いでしたので、レディのためのドレスや装飾品はこちらでご用意致しました。僭越ながら、寛大なお心で招待に応じてくださった気高き淑女への贈り物としてお納めいただけますと幸いです………さて、女性の身支度には時間がいくらあっても足りない。ようやく会えた愛しの君と語らいたい気持ちはありますが、その楽しみは晩餐の席まで取っておくことにいたします。さあ、レディ・フローレン。貴女のために選んだ品々が待つドレスルームにご案内しましょう。お手をどうぞ」
「必要なくてよ」
ぱしん、とやけに軽やかに、払い除けられた男の手が乾いた音を立てました。下手な芝居にこれ以上付き合うつもりは微塵もない、と明確な拒絶を示したところで伯爵は面白がるような視線をこちらに注いでくるばかりで、堪えた様子はありません。
そして紛れもない誘拐犯は隠しきれない愉悦が滲んだ瞳で獲物に言うのです。弄ぶように、甚振るように、お前に拒否権などある筈がないと決め付けた者の口振りで。
「必要だろう? 気高く賢しいレディ・フローレン・ノルンスノゥク。私の機嫌を損ねないことが誰にとっても最善であると理解しきっているからこそ貴女は一人で此処まで来た―――――それとも噂の“おチビさん”がどうなっても構わないのかな?」
動揺を、顔に出してはいけない。露骨な挑発に乗ってはいけない。頭で理解していたところで『招待状』の文面にも記してあったその存在を私は無視出来ません。
特定の人物の安否を担保にこちらに要求を呑ませようとするなんとも分かりやすい脅迫に屈するなど本来であればあり得ませんが、よりにもよって人質が『宿屋のチビちゃん』というのがいけない―――――この“王国”に招待された“北の民”ことリューリ・ベルの覚えもめでたい宿屋のお嬢さんに危害を加えられるのはあらゆる意味でよろしくありません。万が一にもリューリさんのお怒りを買えば巡り巡って北方大公閣下のご不興を買うのは必定、最悪のセット販売を実現させようとしている愚者はそのあたりきちんと理解していて? していないのでしょうね、だからこそこんな状況なのですもの!
そんな懸念に苛まれながらそれでも笑顔が崩れないのは、我ながら笑いたくなるけれど。
「ご冗談を、ヘンスラー伯。貴方のおっしゃる“おチビさん”が何処のどなたかは存じませんが、私は『北境の町の宿からお招きした小さなレディ』を悲しませるのが不本意でしたのでご招待を受けたまでのこと………何処の誰とも知れない方がどうなろうと関与しなくてよ」
「ははははは、これは手厳しい。流石は次期王妃と名高い御方だ。傲慢さにも品がある―――――その虚勢がいつまで続くかな? “おチビさん”になにかあったら貴女が気に掛ける小さなレディにも累が及んでしまうのだがね?」
「まあ、冗談が不得手な御方。もし本当に小さなレディがヘンスラー伯の晩餐会にお呼ばれしているというのであれば、そのようなことある筈なくてよ。だって彼女は北境の町からわざわざお越しなのでしょう? 北方大公閣下のお膝元であるノルズグラートからお招きした方が滞在先で何かの不幸に見舞われるなどあり得ませんわ」
北の大公閣下の存在を出したその瞬間、それなりに偏差値の高い造形をしていた伯爵の顔が無になりました。気色が悪いとしか思えなかった優越感と加虐心が滲む勝利を確信した笑みから一転、なんらかの不都合極まる事実を必死になって隠そうとするあまり表情の一切が消えたようです。
好機にはもちろん追撃ですわね。王国式舌戦の常識でしてよ。
「絶対に、あってはならないことです。だって、当然のことでしょう? 招待客を丁重にもてなし憂いがあれば払うのがホストたる者の務めですもの、滞在中のお客様に何かあっては御家の恥。王国が招いた“北の民”であれ西方貴族のヘンスラー伯が招いた小さなレディであれ、招待したなら歓待するのが筋であり粋というものではなくて? それを怠った、となれば爵位をあずかる身にあるまじき失態と言わざるを得なくてよ。ましてや、己の怠慢と不手際をわざと演じてみせるなど―――――常識的に考えて、あり得ないに決まっているでしょう。もっとも、その小さなレディが本当はこちらにいらっしゃらないなら話はまったく別ですけれど………ヘンスラー伯がそのような冗談を好まれるのは分かりましたが、不必要に誤解を生みかねない言い回しであると若輩ながらご忠告差し上げますわ」
ごめんあそばせ、ところころ声を転がしている私ですが、これまでの一連の発言をリューリさん風味に要約すると「お前人質の宿屋のチビちゃんを無事に返してほしかったらフローレンさんに大人しく言うこと聞けよって脅してるけど北の大公のばあちゃんの町からチビちゃん攫ったってバレようものなら諸々終わるのはお前の方だしそもそも冷静に考えたら大公のばあちゃんが“王国”の賓客扱いの“北の民”と仲良くしてたチビちゃんの誘拐対策その他諸々してないわけなくない? 攫ったとか嘘だろ。虚勢は張ってるのはそっちじゃんかよこっちはそれくらい察した上でここまで来たに決まってんだろそういうのいいから目的を言え回りくどい上に話がつまらん」という具合になるでしょう―――――頭の中のリューリさんに代弁していただくこのスタイル、ささくれだった精神には有効の一言に尽きますわね。思った以上に落ち着きますわ、うっかり口調が引っ張られそうになるのが最大にして唯一の欠点ですが。
「減らず口を………すべて見透かしたその上で、敢えて我が誘いに応じたと? この状況下でその振る舞いは流石の胆力だな、ノルンスノゥクの娘」
「小娘と言えど公爵家に連なるこの血に向かってその物言いは到底褒められたものではない、とはご理解いただけて? 伯爵」
大の男が小娘一人の揺さぶりに失敗した挙句、割と手痛い反撃を受けて閉口した末に吐いた負け惜しみにしては随分となまくらな切れ味でした。一介の令嬢でしかなくても次期王妃の座が確約されている公爵家の一人娘に対して口の利き方も礼儀作法もまるでなっていない伯爵風情が調子に乗らないでいただける? という私の意図はきちんと正しく伝わったのか、忌々し気な態度を隠さずこちらに叩き付けてくるヘンスラー伯の煽り耐性は随分と低めな設定のようです。
「く、ふ、これは失礼を―――――貴女のあまりのお美しさに少々浮かれていたようです。何卒お許しいただきたい。ところで、レディ・フローレン。長らく馬車に揺られてさぞやお疲れのことでしょう。お客様をいつまでも立たせたまま、というのはそれこそ我が家の恥というもの。ドレスルームへの案内は必要ないとの仰せでしたので、晩餐会の支度が調うまでどうぞこちらでお待ちください。このヴィクトール・ヘンスラー、心を込めて麗しき淑女をおもてなしさせていただきます。まずは当家自慢のブレンドディーを御身に振舞わせていただいても?」
「あら、お気遣い痛み入ります。ですが飲み物は結構―――――迎えを手配してありますので、すぐにお暇しますもの」
「ふん、ご冗談を。レディ・フローレン。今宵の宴はサプライズ、開催地を伏せた状態で相応しき客人だけをお招きする凝りに凝った我が趣向………窓を塞いだ馬車に揺られていただけの貴女に迎えなど来ますまい」
「まあ。心外ですわね、ヘンスラー伯。ノルンスノゥク公爵家の娘である以上にこの身はレオニール殿下の伴侶として在るようにと定められたもの、次代の王妃を担う者として今回のような催しについての心得も当然学んでいてよ? 自ら迎えを手配しておく初歩の初歩など造作もないこと。差出人不明の『招待状』であれ私の手元に渡った経緯といくつかの情報を組み合わせれば、貴方自身を存じ上げずとも図画は自然と浮かぶものですわ」
自信と気品で声を支えて、微笑みは見せ付けるように。語って騙る。真実のように。己に言い聞かせるように。
迎えは来ない、と知っていながらそう見せ掛けて振舞うことで、相手を揺さぶり失言を誘う私の一手は綱渡りです。自らの意思で敵方の意に沿ってわざと攫われたとは言え、現在地というか此処が何処なのかについては皆目見当も付きません。予想は出来ます。けれどもそれはあくまで予想の域を出ず―――――言ってしまえば一番確率の高い推論を軸に大胆なハッタリを効かせるだけの、無茶で無謀な生存戦略。
「ほほう? なんとも、それはそれは………噂に違わぬ立ち振る舞い、流石は王家に望まれたノルンスノゥクの御令嬢。そこまで自信がおありのようならどうです? すべてが貴女の掌の上だとこの私に示す気はおありかな?」
そう言ってのける伯爵にはまだまだ余裕がありました。私のハッタリですべてが計画通りであるとは言い難いかもしれないとの疑念を抱かせることは出来ても『ノルンスノゥク公爵令嬢』を手中に収めているとの事実がこの男をどこまでも強気にしている―――――ええ、認めましょう。まずはそこから。
「ええ。よろしくてよ、伯爵。迎えが来るまではまだ少々の時間を要するでしょうから、その間こちらで待たせていただくお礼代わりにお話しましょう………その前に、ひとつだけよろしいかしら?」
「ええ、勿論何なりと―――――やはり飲み物をご所望でしたら、遠慮なくお申し付けいただければ」
促されて来客用のソファに浅く腰掛けながら、己が上だと確信している相手に向かって微笑む姿は艶やかであれ。年頃の少女と洗練された淑女を足して割るイメージで、無垢を装いにこやかに。
誘拐した者、された者、現段階での優位はあちら。現在地は不明、とにかく敵地、救援はいつ来るか分からない。そもそも“私”の絶対の味方が『ヘンスラー伯爵』に辿り着けるかどうかさえまったくの謎というこの状況下で囚われの身の小娘が出来ることなど多くはないし出来ても高が知れている。
けれど、やらねばならないのです。やるべきことがあるのだから。
(優先順位は死なないこと。それだけではなく、身も心もなにひとつ害されてはいけない。そして身の安全を確保した上で可能な限り時間を稼ぐ。助けが来るまで、そうでなくとも状況が好転するまで粘る………だけでは足りないのでしょうね)
頭の中で行動指針を素早く決定した後は、腹を括るだけでした。何故、どうして、なんのために、『ノルンスノゥク公爵令嬢』の誘拐を企て実行したのか? そこを解き明かしておかないことには次の局面に支障をきたす。そういう方向性で覚悟を決めた私の内心など読み取れないであろう伯爵は今やこちらが折れて大人しく話し合いの席に着いたとばかり思っているようですけれど―――――そんなわけがないでしょう。見縊らないでいただきたいわ、そういうわけでここは初手から大胆不敵に臨みますわね?
我が国きってのトップオブ馬鹿に付き合い続けて磨き抜かれたメンタリティと絶妙に腹立たしいトークスキル、余すところなく真正面からご堪能いただけますと幸いです。では、いざお覚悟。
「いえ飲み物が欲しいのではなく―――――私が頂戴したあの招待状、文法だけでなく綴りも一部盛大に間違っていたのですけれどあれは貴方の直筆ですの?」
「………。エッ!?」
初手、奇襲。成功しました。すらすらと笑顔で放られた台詞がよほど衝撃だったのでしょう、意味を理解した伯爵の顔が「そんな馬鹿な」と言わんばかりに一瞬で歪みましたけれども残念ながら私が告げた内容は嘘でもハッタリでもありません。
そう、今回の発端も言えるあのふざけた『招待状』、本当に言語的な意味でいくつかのミスがあったのです―――――しかし、敢えて今は触れずに切り口を変えて愉快な会話を広げていくといたしましょうね。
え? 絶好の期を逃すのか、と? そんなわけがないでしょう。何事にも下準備が必要なのです。大切なのは組み立て順序、突かれたくない部分は突かせず曖昧にしておきながら、散らかっていると見せ掛けて最後にはすべてが繋がるように流れを操り場を制す、つまりは勝つための布石。
「加えて申し上げますと、招待状の出し方が褒められたものではありませんしそもそも宛先が違いましてよ? 私に差し出す招待状の宛名が『リューリ・ベル様』だったのは手違いにしても限度があるでしょう。秘密の晩餐会、というコンセプトで会場と差出人名を伏せるまでは意図的なのだとの理解も出来ますが、送り先については―――――ねえ?」
宛名の件はわざとそうした、と分かった上での発言でした。何故そのような回りくどいことをしたのか理解しながらも、そのようなことには関係なく「その年齢で招待状ひとつ満足に送れない殿方なのですね」との烙印を相手に刻むべく舌を回します。虚を衝いた相手が立ち直らないうちに主導権を握っておくと楽ですからね、淀みなく、口を挟ませる隙など見せず優雅に圧倒するとしましょう。
「如何に自信があったとしても、誰かに差し出すものである以上確認はした方がよろしくてよ、伯爵。今回の場合はたまたま、たまたま『招待状』を受け取ったのがリューリ・ベル嬢だったので私の手元に届きましたが………ふふ、もしも彼女が中身を読めたらヘンスラー伯は手紙ひとつ満足に書けない殿方なのだと国賓に知られるところでしたわね」
そこで一段、声のトーンを僅かに落として目を凄ませて、私は傲然と言い放ちました。ふざけるな、との気持ちを込めて、明らかな非を責めるように。
「“北の民”が文字を読めなかったことに深く感謝なさいまし。防犯上、あの方宛ての手紙のすべてに『ノルンスノゥク公爵令嬢』たる私の検閲が入るシステムが確立されていなければ、貴方のミスだらけの招待状は私の目に触れることさえありはしなかったのだから」
リューリ・ベル。北の民。王国の外側からやって来た、お伽噺の妖精じみた真っ白い色彩を持ったひと。
彼女は王国語を流暢に話せても文字そのものは書けないし読めない。本人が堂々としていましたし、別段隠すことでもなかったその事実が“学園”内に広く知れ渡ったところでそれでも彼女に文を送る者は後を絶ちませんでした。ほとんどはファンレターの類でしたが、それでも国賓待遇である“招待学生”を不要なトラブルには晒せないという大人たちの都合によって設けられた特例が私による手紙の検閲です。検閲、と言っても彼女宛ての手紙の類を一旦すべて『ノルンスノゥク公爵令嬢』のもとに集めて中身を簡単に確認してリューリさん本人にお伝えする、というだけの話ではありますが、これがまた結構な量になるので毎回地味に面倒臭―――――失礼。なんでもなくってよ。
ちなみにレオニール殿下を差し置いてまだ婚約者でしかない(俗に言う準王族身分の)私がそのお役目を担っているのは女性宛ての手紙を検閲するなら同性の方が良かろうという王国側の配慮ですわね。個人に宛てた手紙を悉く検閲しておきながら配慮とは? と首を傾げたくなるのも無理はない上層部の決定でしたけれど、これは何かと絡まれやすい“北の民”を守るための術。トラブルを避けたい大人だけでなく“学園”の生徒たちにとってもそれなりにメリットのある話で、リューリさんと学業以外で私的に言葉を交わすのはファンクラブの規約違反であれども検閲を通したお手紙であれば直接本人に思いが届くとむしろ歓迎されていました。なんと言っても当事者である『リューリ・ベル』公認でしたから、手紙をしたためる皆様も大変堂々としていたものです。
『王国に来てくれてありがとうございます』
『最高』
『ごきょうだい万歳』
『家族箱推し尊み嵐』
『お気持ち程度ではございますがこちらで美味しいものを食べてください(同封した黄金色のお菓子についてはファンクラブの方で運用の程よろしくお願い申し上げますファンクラブ登録済/匿名希望)』
等々―――――“学園”内に設置したリューリさん宛てのお手紙回収箱には少なくない数の封筒が毎日入れられていたのです。なんなら貴金属や現金も平然と入れられていましたね、金銭のみならず資産価値のあるものを直接投函するのは控えるよう即座に通達したのがまるで昨日のことのようですわ。盗難の可能性が跳ね上がりますので入れて良いのはお手紙だけです。王国にも学園にも申請した上で寄付窓口はちゃんと設けているのに非公式で援助しようとするのは本当にどうしてなんですの?
「うふふふふ、考えれば考える程、私の手元に無事届いたのが奇跡のようだとは思いませんこと? もっとも、公爵位を賜るノルンスノゥク家の嫡子に差出人も開催地も秘密の晩餐会の招待状を送り付けてきたところで応じるわけがありませんけれど。あら? そう考えるとヘンスラー伯は大変に運がよろしい方ね。宛先を“北の民”に間違えたからこそ私のもとに届いたし、ノルンスノゥク公爵家に届かなかったからこそ一番最初に、私だけが、あれを読むことが出来たのですもの」
お手紙を受け取ったら私に一度預けてくださいね、とのプライバシー侵害も甚だしい“王国民”からのお願いを、『妖精さん』はごくごく普通に軽いノリで受け入れてくれました。回収箱を通すことなく直接彼女に届いていた幾つかの好ましくない手紙もすべて本人の自由意思によって私の手に渡るのです。流石に自分の名前くらいは憶えるようにしたから読めるし書ける、との申告通りに『リューリ・ベル』と書かれた手紙のすべてが差し出され―――――昨日手渡された一通に、彼女がその名をよく口にする『宿屋のチビちゃん』を人質にしたとほのめかす者のふざけた要求が書いてあったのを二度見した私の心境が理解出来まして?
お前如きに。
「ああ、ご安心くださいな。伯爵のちょっとした気の緩みを吹聴する気はございません。招待状の内容を確認したのはこの世で私と“北の民”だけ。自分宛ての手紙だから、と彼女も一応は開封したようですが………『なんかいつも以上にわからん』と諦めた様子で私のところまで持って来てくださいましたので、口止めの必要さえないでしょう」
そう、万が一リューリさんが自分宛ての手紙だと思って中を確認したところで内容を読み取ることは出来ない。大胆といえば大胆でしょう。誉め言葉ではありません。字が読めないからその内容など理解出来る筈がないのだとしても、一介の市民でしかない『宿屋のチビちゃん』の価値を跳ね上げている張本人たる“北の民”その人にあんな稚拙な脅迫文を運ばせるなどまったく不愉快極まりない。
普通は思い付いたところで実行しようとは思わない手です。何故ならあまりに分が悪い―――――私が行う検閲はあくまでも“学園”内に限定されたリューリ・ベル宛ての手紙だけ。そのルールに則って私一人に『招待状』を読ませたいならあくまで学園の内側でそれを“北の民”に届けねばならない。差出人は学園に在籍する教師や生徒、或いはそれらを協力者とする学園外の何者か………容疑者の絞り込みようがない話だと思うでしょうけれど、それが案外そうでもないと知ったら貴方はどう出るのかしら。
「そうそう。リューリ・ベル嬢が開けるまで封は無事だったようですから、ディッペル女史には宛先の件だけ伏せておけば問題なくってよ」
穏やかに告げられたその名前によほどの衝撃を受けたのか、やっとミスを指摘された衝撃から立ち直り私の言葉をどう止めようかと思案していたらしい伯爵の動きがいよいよ完全に止まりました。三秒程待ってみましたけれど、誰だそれは、としらを切ることさえせずに固まり続けているところを見るに―――――当たりか外れか確率的には二分の一のギャンブルでしたが、カマってかけてみるものですわね?
「………なぜ、それを」
「まあ伯爵、どうなさいまして? お顔の色が優れないようですけれど?」
掠れた声で探られようとも答える義理はありません。意味深長にぼかしてやり過ごすのはよくある乙女の処世術だとご存じないのね。勉強なさって―――――白状しますと不慮の事故に因る怪我や体調不良者を救護する名目で学園の保健室に常駐している養護教諭のディッペル女史の名前を私がこのタイミングで出したのはある推論に基づいての思い切った賭けでしかなく、詳しく説明しろと言われても不都合が生じるだけなのでそれっぽく誤魔化しただけですけれども。
「どうやら噂に違う事無き才女らしいな、レディ・フローレン。なかなかどうして侮れない。その様子ではパオロ・アングーロやアインハード・エッケルトを動かしたのも私であると既に掴んでいるのだろう?」
フッ、と突然吹っ切れたような不敵な笑みを浮かべてみせる気取った男に生理的な嫌悪感を催したとしても顔に出してはいけません。それが淑女の嗜みです。それはそれとして私の推論が超速で確定した瞬間でした。というか促してもいないのに勝手に自白しましたわね。有能な俺の策を見抜くとは流石だな、みたいな顔をしているあたりさては自分で自分に酔って語って大いに浸るタイプでして?
無理、と心で断じながらもそれを一切表に出さず気取らせないのが貴人の心得。アルカイックな微笑みを崩すことなく沈黙を貫けばそれは肯定と取られたらしく、気障ったらしく髪を掻き上げながら揚々と自分語り的なものを始めようとしているヘンスラー伯を私は大人しく見守りました。頭の中のリューリさんが切実に帰りたがっていますがこれは情報収集なので聞くに堪えないつまらない話でも聞くしかないのです。憂鬱なことに。
「ああ、そうだ。正解だとも。同派閥である西方貴族の者たちをそれとなく利用して学園、ひいては“北の民”にちょっかいをかけていたのは私だ。あのぽっと出の辺境民が私の計画の邪魔になるとは思えなかったがまあまあ目障りではあったのでね、追い出せるものならさっさと追い出してしまいたかったのにどいつもこいつも使えない………結局のところ排除には至らず今日を迎えてしまったわけだが、アレは障害たり得ないと確信出来たのは収穫だったな。愚図でも無能でも捨て駒なりに一応それなりの役には立った。事を成したら戯れに慈悲のひとつくらいくれてやろう。いや? あいつらが下手を打ったせいでノルンスノゥク公爵令嬢へのサプライズが失敗したことを思えばむしろ罰を下すべきだな。ヤスミーン・ディッペルも同罪だ。保険として機能するどころか易々と尻尾を掴ませるなど、私の計画は完璧なのにとんだケチがついてしまった………嗚呼、本当にどいつもこいつも碌に使えない手駒ばかり! 貴女が羨ましいよ、レディ。持って生まれたものをすべて気兼ねなく使える環境で育った貴女が羨ましい、私とて優秀な駒を揃えて思う存分動かせたならと何度この生を恨んだことか。せめて生まれがあと数年遅ければこのような真似をせずとも済んだものを―――――忌々しい」
独白のように恨み節を吐かれたところで困りますというかどうしましょうコレ台詞の量はとても多いのにそこから得られる有益な情報がほとんどと言っていいほど無―――――え? 待って、お待ちになって、この語り聞く価値ありました?
ぶっちゃけうちの馬鹿王子なら要点をおさえてもっと聞きやすくしかも次に繋げやすい言い回しでコンパクトに纏めてくれるのでヘンスラー伯爵にはそのあたり見習っていただきたいのですけど?
私としても時間を稼ぐのは望むところではありますが、時間を無駄にしたいわけではないのでちょっと、ええ………どうしましょう、レオニールやリューリさんたちとの会話に慣れていた私にはこの状況でこの方のつまらないことこの上ない語りを黙って聞かなければならないのは耐え難いと言いますか何ですのこの約束されし退屈と苦痛の虚無タイム。
『ハァイ! 呼ばれた気がして王子様! あちらのペースに任せていたら時間を延々無駄にして精神的に疲れそうだからちょっと梃入れしにきたぞう!』
当たり前のような気軽さで頭の中に響いた声は、うんざりするレベルで聞き慣れた陽気な馬鹿のものでした。
『さて、とりあえず今まで“学園”にて発生したいくつかのお花畑案件の元凶はヘンスラー伯を名乗るこの男だと判明したな。これはリューリ・ベルの排除を目的として絡んできた連中にやたらと西方貴族が多いとのファンクラブ統計とも符合する。しかしこんなにもあっさりとペラペラと喋り出すとはなあ、ちょっと簡単に釣れすぎじゃない?』
レオニール。私の婚約者で未来の伴侶。お花畑で軽やかに踊って笑う馬鹿王子―――――幾度となくこの目に焼き付けた顔が勝手に脳内で喋り始めて、自然と口元が綻んだのはおそらくただの反射でしょう。そのせいで此処が何処であるのかを一瞬忘れかけたけれど、幸いなことに淑女の仮面は未だ微笑を保っています。
「もっと上手くやれた筈だ。情報を流してやったのに、道を示してやったのに、与えられた幸運に飛び付くだけで自ら好機を掴むことも出来ない愚か者どもが優秀な私の邪魔をする。連中に比べれば辺境民の方がまだ使い道があるというもの、だがあの蛮族も蛮族だ、野生育ちで上手く尻尾が振れぬ駄犬であるというなら未来の真の国王直々にきっちりと躾けてやるものを、その機会さえ恵まれぬとはええい、つくづく運がない!!!」
ヘンスラー伯は無味無臭の自分語り的なものに熱中するあまりこちらへの関心が疎かで、一応耳は傾けるもののやっぱり中身のない無駄話を繰り返しているようでした。
そんな無駄な時間の中で、頭の中に響く馬鹿の声だけがやけに鮮やかだったから、私は冷静にいつも通りにただただ思考を回すのです。
『まあなんにせよ、ヘンスラー伯が西方貴族であることに一点賭けしてディッペル女史の名を出したフローレンの一人勝ちだな。ただし黒幕の器じゃなさそう、裏にまだ潜んでるに一票』
そうですわね、とこの場には居ない婚約者の言葉に同意して、自分の脳が生み出したレオニールの幻影と誘拐犯の目の前で会話している余裕があるなんておかしなことだと笑えてきました。実際はにこりともしませんけれども気分の問題ですわ。ええ。
(伯爵に告げた『ディッペル女史』―――――我が学園の養護教諭を怪しいと睨んだ切っ掛けとなったのが西方貴族の名門子息、エッケルト侯子アインハード。一度食堂でリューリさんの手により昏倒させられ保健室での静養を余儀なくされていた彼が、誰にも見咎められることなく私たちの茶会の場に辿り着けたのは『保健室』を預かる養護教諭の協力あってこそとの見立てによるもの)
便宜上『協力』と表現しましたが、実際に彼女が行ったことはそう大層なことではありません。保健室で寝ていた怪我人が消えた、と報告するのをほんの少しだけ遅らせる。時間にして僅か五分程度、たったそれだけのことだったけれど、何か含みがあるのではないかと思わせるには十分でした。動機は不明、だからこそ、泳がせながら様子を見ると決めたのは他でもない私たち。
(怪しい、とさえ分かっていれば、その目星さえついていれば―――――どうしようもないお馬鹿さんでも、ただの馬鹿ではなくってよ)
目を瞑ろうとも瞼の裏に浮かぶ腹立たしい顔は、こんなときでも能天気に輝く整った国宝級の美貌。ああ、王子の婚約者が行方不明だとバレて騒ぎになるのでしょうね。今はまだ心身ともに健康で無事を保っているけどそれもいつまで守れるのかしら。誘拐された事実は消えず、たった一人で誰にも告げずのこのこと馬車に乗り込んだ私の愚行は消せません。
けれども、迎えは来るでしょう。そうして何事も無かったのだと“私”はあの馬鹿の隣に並ぶ。何の根拠もないけれど。
『ところでこの自分で自分に酔っ払っている系誘拐犯、なんか国家転覆レベルの壮大な計画を遂行中とのにおわせっぷりが露骨の極み………ヘンスラー伯がディッペル女史を使ってリューリ・ベルに招待状を届けたことがほぼ確定した時点でターンをこっちに戻して欲しいが、コレたぶんフローレンにいろいろ聞いて欲しくて追究待ちしてるやつだぞう―――――そのせいでさっきから話題がループしているが本人はまったく気付いていないあたりがなんともホラー。何だコイツ怖』
頭の中で嘯く殿下の声がげんなりとした響きなのは、きっと私の心情が反映された結果でしょう。現実逃避で脳内殿下と会話している場合じゃなくてよ。
『とりあえずあちらに喋らせておくといつまで経っても話がまともに進まないっぽいのでハイ、フローレン―――――初手でこさえた傷口に塩を刷り込むなら今じゃない?』
頭の中の馬鹿殿下が部屋の掃除を完了させた直後のような晴れやかスマイルで“王子様”らしからぬアドバイスをくださいましたがそれに関しては同感でした。そういうわけで―――心の底から気が進まないとは思いつつ―――私は意を決してヘンスラー伯のよく分からない自分語りに割り込みます。真っ白い妖精のような彼女の直截さを再現するように、けれど淑女としての品を損なわない『レディ・フローレン』として。
「まあ! すべてにおいて独特の考えをお持ちなのですね、伯爵。本当に本当に個性的で、なんとも面白おかしい御方。それでいて愛嬌もおありだなんて、魅力に溢れておいでだこと」
中身がまったくない言葉でも肯定的な皮を被せて相手の耳に届けばいい。そんな気持ちで少々強めに張った声は、どうやら伯爵の意識をこちらに向けさせるのに成功したようです。
「そもそも私こそが………む? いや失礼、ついつい熱くなってしまいまいしたがノルンスノゥク公爵令嬢のお眼鏡に適うとはなんたる名誉! 具体的にはどのようなところが貴女のお気に召したのか、お伺いしてもよろしいですかな?」
「ええ、もちろん。よろしくてよ? そうですわね、やはり一番は………『招待状』を西方古語でしたためるそのセンスでしょうか。今回のためにわざわざ独学で古語を修められたのでしょう? 文法や綴りを誤りながらも情熱的に仕上げられた文章が、ふふ、おかしくておかしくて―――――おかわいらしくて、本当に」
うふふ、と優雅に微笑む私の嫌味にあちらが正しく気付いたかどうかは露骨に引き攣った伯爵の頬が分かり易く教えてくれました。思い出していただけたようで何よりですわ、初手の奇襲。時間差追撃のお時間ですので何卒ご静聴くだいましね?
「だって、そうでございましょう? 古語、と呼ばれている通り、あれは“王国”統一以前の四方大国時代の言語。今となっては言語や歴史の研究分野に身を置く者か、文化継承の名目で古語の習得を義務としている王家か大公家に連なる者たちくらいしか習う必要のないものです」
使われることがなくなったとしても後世には遺していかねばならぬ、と昔々の誰かが決めて、学び繋ぐは地位ある者の義務だと定められたそれに学習範囲の指定があることを知っている者は多くありません。
例えば王族は東西南北すべての古語の習得が義務。あの馬鹿王子はもちろんのこと、その婚約者である私も幼少から古語を詰め込まれました。これは私しか知らないでしょうが、レオニールはあれで東西南北の古語を器用に切り替えながら王国語とまったく変わらない巧みさで会話を成り立たせるという意味の分からない特技があります。喋ることに関しては才能に恵まれているあたりが王子様らしいといえばそうなのかしら?
失礼。話が逸れました。
そして同じく古語の習得を義務としている大公家、こちらは各々のルーツである地方の古語だけ覚えればいいので王族よりやや負担は軽め。北方大公家なら北方古語、西方大公家なら西方古語だけ扱えればそれでいいとのことですが、その分より深く学ぶ方針らしく「絶対使わない専門用語とか妙にややこしい文法なんかも容赦なく叩き込まれましてよ」とは西の大公孫であるマルガレーテからの情報です。勤勉な彼女がああ言うのだから相当に難儀したのでしょう―――――そんな特殊な言語を用いて招待状を書いたのは、最初の受取人であるリューリさん以外の誰かが読んでも意味が分からないようにするため。私以外の第三者に“北の民”が例の招待状を渡さないとも限りませんもの。保険を掛けたくなるその気持ちは理解出来ます。けれども、浅はか。
「当然、リューリさんが西方古語を目にしたのはあれが初めてでしょう。そういう意味では本当に伯爵は運がよろしいわ。だって今“学園”には私の他にふたりも西方古語に明るい方が在籍していますもの、そちらの手に渡らなくて幸いでした。レオニール殿下や西方大公孫のレディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガーが万に一つの可能性でもあの招待状を目にしていたら………前者はともかく、後者については惨状が目に浮かびますわねえ」
これは冗談ではありません。あの招待状は本当にところどころ綴りが間違っていたし文法にも誤用がみられました。内容を含めそういうところもふざけていると思ったものです。私よりも西方古語に詳しく厳しいマルガレーテがあれを目にしてしまったら大真面目に発狂すること請け合い―――――『ああもうどこから手を付けていいのか分からないレベルでおかしなところがあり過ぎましてよなんなのこれは! 暗号でして!? 読み難いったらなくってよ! 気取った言い回しをするならせめて単語の綴りを間違えないようになってからになさいましってああもうここもここも違うッ!!!』と吠えながら赤いインクの添削で手紙を真っ赤に染め上げるのが容易に想像出来ますわね。古語の中でも西方古語を扱う方々は特にミスを嫌う傾向にあるようなので、教える側も教わる側もそのあたりとても厳しいのです―――――なので、あの『招待状』の作成者その人は有識者からきちんと古語を習ったことがないとの推察が容易に立つわけで。
早い段階で代筆させたと責任逃れすれば良かったものを、自尊心が高過ぎるのも考えものですわね。本当に。
「もしかしたら私の覚え違いかも、と念のために西方古語の辞書で確認しましたけれども、どうやらかつて教わった知識に誤りなどはないようで………ああ、でもお気になさらないで伯爵。独学であそこまで修められるのは本当に素晴らしいと思います。敢えて採点するとしたら百点満点中六十五点くらいの正解はとれていましてよ」
その三十五点分の間違いが致命的なミスであったことを思うと声が弾んでしまいますわね。もとより貴族が貴族に出す手紙には間違いなどあってはならぬもの、学園の試験で六十五点が取れたところで三十五点分ものミスを抱えた直筆の手紙など恥の塊ですわ。そこのところ貴方お分かりでして?
このままあちらが言われ放題で終わるとは微塵も思っていません。反論があるかと思いきや、伯爵は余裕の剥がれた顔で私を睨むだけでした。
ああ良かった、ちゃんと受け取ってくださっていますのね遠回しなようで結構ストレートに私が直送しているお塩。
「とは言え、きちんとした教師に習っていれば到底しないようなミスもありましたのでやはり独学には限度がありましょう」
「………そんな筈はない」
「よろしければ西方古語に詳しい方をご紹介しましょうか? 西の大公孫であるキルヒシュラーガー公爵令嬢にも教えを授けた御仁であれば不足はないかと」
「そんな筈がない!!!」
怒号。恫喝。相手に黙れと口を噤ませるための威嚇。それまで保っていた上位者の余裕をかなぐり捨てて恥ずかしげもなく大声で怒鳴り散らした男は、小娘の挑発にまんまとかかって致命的に口を滑らせました。
「聞くに堪えない見え透いた嘘を吐くのは止めろ、不愉快だ! あの招待状に記した古語が間違っている筈がないだろう! あれは我が父、西方大公が直系の血を引くキルヒシュラーガー公爵より西方古語を教わり極めた私自らがしたためたもの! それが間違っている筈がない!!!」
「なんですって?」
にわかには信じ難い情報がぽんと飛び出しましたが呆けている場合ではありません。よりにもよって今この男―――――キルヒシュラーガー公爵を、あのマルガレーテの実父を指して「我が父」などと宣いました?
けれどもキルヒシュラーガー家に『ヴィクトール』なる者は存在しません。現キルヒシュラーガー公爵夫妻にはマルガレーテとその双子の兄マンフレート殿以外に子供は居ない。いない筈、ではなく、本当に居ない。少なくとも、戸籍と記録上は。
「ああ、その顔は疑っているな? 模範的な淑女にしては随分と分かり易い反応だ………いや、失礼、皮肉ではないさ。無理もない。知らなかっただろう? 当然だ、知る筈がない。哀れで滑稽なマルガレーテや病床で虚しく死を待つばかりのマンフレートとて知りはすまいよ。自分たちに腹違いの兄が存在するなどと!」
真偽の程はともかくとして面倒なことになりました。実のところ貴族の私生児などさして珍しくもないのですけれどキルヒシュラーガー公爵その人が今回の件に関わっていると示唆されてしまったのがとにかく厄介。
(まずいわ―――――話が変わってきてしまう)
痛々しい勘違い系成人男性に洒落にならない類のちょっかいかけられて辟易していたところに北と西の大公家を巻き込んだビックトラブルの気配を感じて頭の中のリューリさんが「うげえ」って顔をされていますが美形は顔を顰めていても絵になりますわね。現実逃避でしてよ!
「嘆かわしいとは思わないかね? 西方大公たる祖父が運命で固く結ばれていた我が母と父上を引き裂かなければ、政略で義務感しか持ち合わせない侯爵令嬢など娶らせなければ、こんな遠回りをする意味も必要もなかったというのに」
やれやれ、と頭を振る動作でここぞとばかりに自分の生い立ちを語り始めた伯爵ですが聞くまでもない気がしていますわ正直言って予想が付きます。どうせ、という言い方はアレですけれどもどうせアレでしょう? それこそ宿屋のおチビさんがリューリさんに語って聞かせてくれた恋愛小説あるあるシリーズの上位を爆走する例のアレ。政略のためだけに縁を結んだお前を愛することはない私には既に心に決めた運命の人が、的なパターン。
私の頭の中のリューリさんが「ああうんそれそれ宿屋のチビちゃん曰く『真実の愛とやらを貫いて恋人と駆け落ちする気概なんて端からない上に政略婚におけるメリットを覆して婚約相手を挿げ替えることも出来なければ自分の親を説き伏せることさえしない割にちゃっかり恩恵その他だけは享受したいクズカスゲスの典型例』だよな知ってる。だから大丈夫、特に詳細要らないです。過程とか経緯がどうであれクズカスゲスって部分だけ覚えておけば大丈夫ってチビちゃん笑顔で言ってたからな、なんでそのあたりは飛ばしていいぞ」ってすらすら切り捨ててくださったので本当にそのあたりの詳細は端折っていただいて結構でしてよ。彼女に倣って私もマルガレーテの実父ことキルヒシュラーガー公爵閣下がクズカスゲスの類であったとの事実のみを記憶しておきましょう、いちいち差し込まれるヘンスラー伯の九割無駄な自分語りとか心の底からどうでもよろしい―――――クズカスゲス、の語感が良過ぎて妙に口に出したくなっても駄目です、流石にそれは駄目。耐えなさい、フローレン・ノルンスノゥク。自分で自分と会話し始めたらいよいよ末期ですわねコレ。
「―――――とは損失も甚だしい。しかし………ふん。貴女の様子を見る限り、どうも王国の上層部連中は“私”の存在そのものを意識の外側に置きたいようだ。あちらとしてはいっそのこと亡き者にしたいだろうがね、この身を流れる血の尊さを思えば迂闊に処分も出来ない………だからこそ見たくないのだろう。見せたくなければ知られたくないし今後思い出したくもない。次期王妃として定められたノルンスノゥク公爵令嬢にさえ情報を渡さない程に、絶対に秘匿せねばならない記録どころか記憶にすら残すべきではない男―――――彼らにとって『ヴィクトール』とはまさに厄災そのものなのだから」
頭の中のリューリさんとセスがミートパイを齧りながら揃いも揃って似たような表情で「話がつまらん」「くどいし長ェ」との感想を述べてくれていますが本当にそう。会話を飛ばすかキャンセル出来るボタンがあったら押していますわ。そんなもの現実にはないんですけれどもどうして存在しないのかしら。国を挙げて大々的かつ早急に開発すべきでは?
己の感情を制御しようにもこのような状況が延々続けば苛立ちに任せてついうっかりと口が滑ってしまいそうですわね、というかそろそろ聞くに堪えないのですけど暫定でも公爵家の庶子程度が尊い血とか厄災そのものとかちょっと持ち上げ過ぎではなくて?
「ふふ、またまた、ご冗談を。暫定でも『公爵家の庶子』程度がちょっと持ち上げすぎではなくて?」
あらいやだ、耐えかねてほとんどそのまま口に出してしまいました。脳内でリューリさんとセスとレオニールがもっとストレートに言いたい放題している文言を溢さなかっただけまだマシですけれどこれ以上の苦行は御免被るので淑女の仮面を多少彼方に放り投げてでも強引に相手のプライドを刺激しましょう―――――なんて、後付けの方便はどうやら必要なさそうですね。いっそ痛々しいまでに自己評価その他が高そうな殿方の尊厳を傷付ける私の発言に、つまらない話を垂れ流す輩ことヘンスラー伯ヴィクトールとやらは我が意を得たりと言わんばかりの満足感とともに破顔しました。
「ははははは、『公爵家の庶子』程度ときたか。いずれ王妃に至る身であれ今は無力な令嬢風情が言ってくれるね、だが許そう。なにしろ私は寛大なのでね、真実を知らず鳥籠の中で囀る無知を咎めはなしない。再三言うが知らないのも無理のない話ではあるのだし」
「では結論からお伺いしても?」
「いいとも、答え合わせといこう。次期王妃にと望まれたノルンスノゥク公爵令嬢には当然ながら王の伴侶となるための教育が施されている筈だ。公にはされない秘匿事項にも触れる機会があっただろう………いいや、ここまで来て勿体振るのは止めだ。レディ・フローレン――――――『王家のストック』について、貴女は何処まで聞き及んでいる?」
引っ張り過ぎて時間の無駄なので言いたいならどうぞ、と促されたのをどういう方向に解釈したのか、気を良くしたらしいヘンスラー伯は悠々とソファにふんぞり返って散々勿体ぶっていた情報をとっておきのように口にします。
「ストック。要は貯蔵品、或いは在庫、どちらでもいいがこの“王国”の王家には間違いなく“それ”が存在する。元々四方大国時代の支配氏族の血を混ぜ合わせて新たに興した王家ではあるが、それでも建国当初から今まで王家が存続したのは血の保全を欠かさなかったからだ。有事に備えて後継ぎの他にスペアを用意しておくのは王国貴族の常識なれど、『王家のストック』はその名が示す通り予備ではなくあくまで在庫に過ぎない。現国王の一粒種であるレオニールに弟妹が居たと仮定するならその者たちはスペアに当たる。王族として生まれ落ち、王族として育てられ、けれども王位を継ぐことはない目に見える次期国王の予備―――――だが、ストックは、そうではない」
秘密を暴露するこの瞬間をずっと待ち望んでいたのであろう伯爵の舌はよく回り、逸って早口になりつつある語りは少々聞き取るのに難儀しました。私は、それを聞いています。無言で、平静を保ちつつ。
「同じ血筋でありながら、ストックとされた者たちはスペアよりもずっと不遇だ。もしものためにと水面下で掛けられ続けている保険には王族としての生まれも育ちも必要ない、求められない、その身に流れる血さえ確かなら何の問題もありはしない。不純物を混ぜないようにと管理されてこそいるものの、文字通りの意味でただの在庫だ。入用になるその瞬間までは保管庫の奥深くに眠らせたままで構わないと放置されている。公にはされていないからあるのかないのか分からない、限られた者しか知らないし、事実これを表に出すときはのっぴきならない状況だろう。それ程の異常事態でもなければ己が王家の血を保有していると知ることさえなく生涯を終える悲劇の存在―――――ここまで言えばもう分かるだろう? 私はね、レディ・フローレン。世が世なら“王子様”だったのだよ」
「そんなわけがないでしょうが」
切り捨てました。最速で。浸りに浸った儚げな台詞に被せる勢いで食い気味に断固とした声音で否定の言葉を放る私の心は無です。絶対違う、との確信があるからこその断定でしたが相手は虚勢だと思ったようで憐れみを込めて微笑まれました。
「信じられないのも無理はないが、事実なのだよ、レディ・フローレン。己に知らないことがあるのだと認めるのは辛いことだろうが、貴女はまだまだ若いのだからさして気に病むことはない。公的には正統な後継と認められなくともこの身には王冠を戴くに足る古く尊い血が流れている」
「いえ貴方先程ご自分でキルヒシュラーガー公が父親であると宣っておりましたけれども『世が世なら王子様だった』と自称するにはヘンスラー伯の御母堂が王家の血を引いていなければ成立しない点にはお気付きで?」
「は、何を言うかと思えば! 当たり前ではないか、レディ。今更隠すこともない、そうとも、父である現キルヒシュラーガー公爵と恋仲であった私の母こそが秘匿されし『王家のストック』にして悲劇の王妹、イルメンガルト………前国王の一夜の戯れでこの世に生を受けた彼女はスペアではなくストックとしてのみ生きることを許された―――――異母兄である現国王はさておき、レオニールは知る由もないのだろうな。己に私という従兄弟が居るなど」
「実際いませんねそんなもの」
投げる言葉がどんどんと雑になっていく自覚があります。だって違う。そんなわけがない。私はそれを知っている。だって―――――『王家のストック』やその他諸々について詳しく知っているからこそ絶対にそれはあり得ない、と断言出来てしまうから。
けれども、これ、どうしましょう。
割と切実な困惑を身の内側に抱えつつ、やたらとそれっぽいだけで可能性としてはあり得ない話をそれっぽく披露してくださった三流役者を眺める私の生気はほとんど無いも同然でした。もっとも相手側からすれば、それは衝撃の真実を告げられて血の気が引いている状態に見えなくもないのでしょうけれど。
馬鹿馬鹿しくてもくだらなくても溜め息をこぼさなかったのは、ひとえに矜持の成せる業。精神的な摩耗と疲労はたとえ拭い去れずとも、浮かべる淑女の表情に綻びなどあってはなりません。
「大変つまらなくなくもないお話でしたわ。さて、伯爵が自作なさったらしい朗読劇は以上でよろしいのかしら。講評は御入用でして?」
「くく、何を言うかと思えば講評? 講評と来たか、レディ。強情なことだ。私の話をそちらがどう受け取ったところで真実は捻じ曲がったりしない。いっそ素直に取り乱した方がまだ可愛げがあるものを、虚勢を張り続けるその様は気高さの域を超え憐れですらある………自分は何でも知っている、とでも思っているのか、王妃の椅子が確約されているだけの小娘でしかない分際で。もっと視野を広く持ち給えよ、貴女の知り得ない事柄などこの世界にはごまんとあるのだ、ノルンスノゥク公爵令嬢」
ええ、知っていますわよ。お前になど指摘されずとも、とっくのとうに、そんなこと―――――などと思っていた私は、きっと慢心していたのです。本当の意味で『知らないこと』を突き付けられる覚悟など、なにひとつしていなかった。
だから、罰が当たったのです。
「たとえばレディ・フローレン………いいや、この場合は父君であるノルンスノゥク公爵か。アレのみならず北方大公閣下までもがご執心の“北の民”が―――――あの『リューリ・ベル』が我が国に招かれたそもそもの発端がこのヴィクトールにあることを貴女は知りもしないだろう?」
ぴし、と何処かで鳴ったのは、罅割れたような音でした。私はただ微笑みます。何を仰っているのかしらと言外に含ませてにこやかに、不可視の棘を交えつつ。
「まあ、それは存じ上げませんで―――――何を、とは敢えて申しませんが、そこまで極まると芸風として成立するものなのですね」
「おや? おやおや、困ったな。一体何をどうやって、とは聞いてはくださらないのかな?」
「時間を無駄にする趣味の持ち合わせがないことをお詫び申し上げますわ」
「ふ、はは。まあそう言わず、今しばらく付き合ってくれ給え。これは貴女にだから教えるとっておきだよ、レディ・フローレン。我が父キルヒシュラーガー公爵を除けば王家どころか四方大公家も知らない掛け値なしのとっておき、仮にこれが公表されていれば本当の意味で歴史が引っ繰り返っていたであろう衝撃の事実というやつだとも―――――特に北方大公家は大騒ぎするだろうなあ、気付くどころかこの期に及んで夢にも思っていないだろう、我が父が治める西方領土から直接かの“北”に侵攻出来る秘密のルートが存在するなど!!!」
「………………………」
沈黙を挟み、思考を回し、脳裏に慌てて地図を広げてたっぷりと考えに考えて。
「え?」
口に出来たのはそれだけでした。呆けるでも否定を放るでもなく、真っ白になった頭の中からぽつりと単語だけ落っこちたような―――――致命的な、私の隙。
「そんな、ものは」
「あるさ。あるとも。だからこそ『リューリ・ベル』という名の“北の民”がこの王国に足を踏み入れたのだ。そもそも疑問に思わなかったかね? 旧時代からその存在を知られながらも北方大公家を通した細々とした交流のみしかしてこなかった辺境の少数民族が………どうして突然、一族の、それも長の娘を“王国”に寄越すなんて真似をしたのか」
ここで『リューリ・ベルは族長の娘ではない』と話の腰を折るのは簡単でしたが実行する気にはなれません。
リューリ・ベルがこの“王国”に招かれた理由。彼女の事情。“北の民”の族長が、どうしてその決断をしたのか。ノルンスノゥク公爵令嬢、次期国王の婚約者としての立場があっても教えられることはなかったそれ―――――自称レオニールの従兄弟発言のように適当な気持ちでぞんざいに聞き流すことも出来ない私が選び取ったのは悔しいことに傾聴でした。
情報を、拾わなければならない。すべてを鵜呑みにすることは勿論あり得ないけれど、否定するだけ否定したとて切り捨てきれない可能性がひとかけら程度は潜んでいる。そう直感してしまったから、今は口を噤むしかないと己自身に言い聞かせて。
「私は答えを知っているとも。おや、素直だな? レディ・フローレン。知りたそうな顔に免じて詳しく教えて差し上げよう―――――さて、そうだな。地理は得意かね? 王国の地図が頭の中に入っているなら話は早い」
無駄が多い伯爵の無駄なトークはつまらないけれど、思考の時間が増えると思えば悪いことばかりでもありません。これを利用してもう一度、私たちが住む“王国”とリューリさんの故郷である“北”についての位置関係をしっかりと整理しておきましょう。
などと、考えたは良いものの。
(まあ改めるまでもなく、北方大公閣下が治める王国最北端の町ノルズグラートが有する大石壁から向こう側すべてが“北”と呼ばれる地なのですけど)
世界地図として脳裏に描く少し歪な楕円形は“王国”のすべてであり大陸そのもの。その北側に位置する部分、言うなれば曲線上のすべてに人類の侵入を阻む険しい山々が連なっている状態のそこ―――――から、上、全部。王国の地図には記載されない、そうしたくても載せられない、正確な地形もその広ささえなにひとつとして把握していない私たちにとっての未開の地。
括りとしては非常に雑で、シンプルだからこそ分かり易い。地図には載らない果ての果て。王国上の最北にあるノルズグラートの更に向こう、一歩でもそちら側に行ったらそこはもう“王国”ではありません、くらいの認識で事足ります。
(というか、そもそもノルズグラート自体が険し過ぎると評判の北端大山脈地帯にぽっかりと空いた謎の隙間を塞ぐように存在している誰の目にも明らかな通せんぼの町………あそこを除いて安全かつ確実に“北”へ行くルートなどありはしない。そんなもの北の大公家が見逃す筈がありませんし、周りの山脈地帯を踏破して国外に足を伸ばそうなどと、それこそ夢物語というもの)
だって命を賭してまで、死地に赴く理由がない。未開の地に未知の資源を求めて侵攻しようと提言する者はごくたまに湧いたそうですが、その度に「あの雪山群を人の身で越えて更に極寒と名高い“北”に資源目当てで侵攻するなど狂気の沙汰も大概にしろ」と一笑に付されて終わったそうです。なんなら毎回ブチ切れたその当時の北の大公家の誰かに「そこまで言うなら登山行軍を体験させてやろうじゃないか安心しろ初心者コースだ逃げるな」と強制連行をくらった挙句まあお察しの目に遭ったらしく、教訓としてその一件が歴史の教科書に載り続けているという冗談じみたエピソード付き。
訓練ついでの遠足感覚で近所の雪山に通い詰めている屈強なノルズグラート軍が「“北”を目指した山越えだけは絶対に無理、出来るわけない、そんなくだらない自殺行為をするくらいなら王国全土を武力制圧させてください」とか満場一致で言い出すレベルの愚行を通り越した蛮行、それを実行した馬鹿は確実に死ぬ無茶無理無謀の代名詞―――――なのに、なのに、それだというのに!
「王国西部から“北”へと至る道筋が本当に存在するなら確かに歴史的発見ですわね? けれど伯爵、本当に、そんなものがあると誰が信じて? キルヒシュラーガー公爵家や西の大公家が有している地は私も把握しておりますが、その可能性を秘めている場所があるとすれば西北西から北西にかけての山地くらい。そこから“北”を目指したところで結局は西の果てまで続く北端山脈に阻まれるだけ………人の身であれを越えられるなど思い上がりも甚だしい、とはどなたのお言葉だったかしら」
「ふふ、ふはは。そう思うだろう? その時点で間違っているのだ、貴女は! 登ろうとするから越えられない、であればわざわざ苦労して登る必要などあるまい! 要は『障害物たる山々を突破してその向こう側に行きたい』のだから、賢い者ならすぐに閃く………ふ、そうとも。何処にあるかまでは明かせないがね、とある山のとある場所に秘密の抜け道があったのさ―――――否。出来た、と表現した方がこの場合は正しいと言えような」
得意満面の伯爵曰く、それは山が崩れたことでたまたま発見されたもの。本当にただの偶然で、運命を感じずにはいられなかったと陶酔しきった語り口。私はそれを聞いています。心底信じ難い気分でした。
「あまり詳しくは言えないのは本当に残念でならないが、その抜け道を使うことにより北端山脈のおよそ八割はさしたる脅威ではなくなった。生き物を拒む寒さも険しさも相変わらずそこに聳えていたが、それでも難易度は格段に下がる。ノルズグラートを通らなければ生きて辿り着くこと能わずとされた“北”の地を一望出来る場所まで秘密裏に到達した調査隊は間違いなく歴史上初であり―――――かの地への侵攻はその瞬間を以て夢物語ではなくなった。そして我々はその事実を“北の民”に知らしめてやったのさ」
陶酔混じりの伯爵がうっとりとした顔で取り出したのは、一見して透明の球体でした。ただのガラス玉にしか思えないそれを指でつまんで弄び、最高に調子に乗っているらしい彼は機嫌よく言葉を吐き出します。
「これが何かお分かりかね、レディ。わからないだろう? それはそうだとも。何故ならこれは先代の西方大公夫人であるひいおばあさまにお譲りいただいた至宝だからね。父上の子として認知されているマンフレートやマルガレーテでなく、この私にこそお与えくださった西方大公家の秘蔵品! ガラス玉だと思うかい? はは、次期王妃ともあろう貴女にしては見る目がない! だがしかし恥じることはない、これもまた知らないというだけのこと………これはね、レディ・フローレン。“北”の連中が秘匿する神秘の結晶―――――『幻獣封じ』の宝玉だ」
突然のファンタジーやめてくださる? と口にする代わりに半眼を披露してしまった私の迂闊さを呪いたくてもこればっかりは不可抗力ですとの自己保身を厭いません。
ゲンジュウ。ゲンジュウってなんなんでしょうね、幻の獣という解釈であっていますかしらリューリさん―――――やめましょう流石に耐えられないわ。
「すみません、何処からが伯爵の独自設定なのか教えていただいてもよろしくて? “北”への秘密の抜け道の流れからゲンジュウとかいうファンタジー要素が躍り出る余地ありました?」
「ファンタジーと形容したい気持ちは分からないでもないが事実だ、レディ・フローレン。衝撃のあまり混乱するのは致し方ないことだが気を落ち着けて、取り乱さず聞いてくれ給え………この宝玉には『幻獣』と呼ぶに相応しい神秘が封じられているのだ」
「正直ご自分の発言が恥ずかしいとは思いませんの?」
「やはり口で言ったところで信じてもらえる筈はないか………こればかりは本当に無理もない。しかし貴女の信用を得るためにこの場でおいそれと幻獣の封印と解くわけにはいかないのだよ。なにせちょっと実験しただけで“北の民”の族長がこの王国にスパイを放つ程の必要性に駆られる被害をもたらした危険極まる代物だからな。これを託された者として、取り扱いを間違えるわけにはいかない」
「本当に何をふざけたこ―――――お待ちになって。今、なんと?」
聞き間違いであってほしい、との願いを込めて確認します。“北の民”の族長がこの王国にスパイ云々―――――え、それリューリさんのことを言ってますの? 本気で? 正気で? 彼女が間諜? そんなわけがないでしょう何をどうやったら湧いてきますのそんな馬鹿みたいな発想。
「ん? なんだ、流石の貴女も理解が及ばなかったかね? 仕方ない、順序立てて説明してやろう。つまりだな、秘密の抜け道を使った先で今の今まで神秘の塊を王国側に隠し続けてきた“北の民”どもへの報復も兼ねてちょっとした実験で私が受け継いだ『幻獣』を宝玉から解き放ってみたわけだよ。と言っても、私自身がその場に赴いたわけではない。信頼出来る腹心の部下にこの宝玉と同じものを託して実行してもらった………彼を含めそのとき送り込んだ者どものすべてが『幻獣』の強大な力により帰らぬ身となってしまったのは残念だったが、宝玉に封じられているモノが“北の民”の長を動かす程の被害をもたらした驚異的代物だと考えればむしろ釣りがくる―――――いや、己が非から目は逸らすまい。ふたつしかない『幻獣』封じの宝玉のひとつを“北”の地で失くしたのは痛手だった。我が忠実なる下僕たちなら無事に任務を完遂し宝玉を持ち帰ってくれるものと信じて預けてやったというのにまさか全滅してしまうとは………部下を信じ過ぎてしまった私の落ち度だ。認めよう。しかし我が期待に応え損ねた大罪人どもは揃いも揃って異郷の地にて露と消え二度とは戻らない。既に死で贖っている以上は不問に伏そう、私は寛大だからね」
お黙り狭量、と反射で言い掛けた罵倒は奥歯で噛み潰します。ああ、つまらない男のくだらない話ってどうしてこうも聞くのが苦痛なのかしら。
(というか、証人と呼ぶべき人間が全員帰って来なかった、ということはその場で起きたこともゲンジュウとやらの実力どころか実在云々も貴方には分からないことでしょうに。無謀なチャレンジを試みた一団が全滅した不幸な登山事故とリューリさん来訪のタイミングがたまたま近かっただけな気がしてしょうがないのですけれど、妄想大爆発伯爵の視点ではそういうことになっているとして………したとしても私は何を聞かされているのかしら)
冷静であらねばと思うのに、冷静であればある程に押し寄せてくる虚無の波。吞まれないよう必死になって抗う私を置き去りに、伯爵の弁舌は続いていました。淀みなく、かつ、自慢げに。
「この透明な球体の中に封じられているモノが“何”なのかは私でさえ把握していない。かつては所持することはおろか知ることさえも許されなかった禁忌の中の禁忌である、とだけ語り継がれて今に至った奇跡のような代物だが、そんな宝玉を秘密裏にふたつも有していたのだからかつての西方大国の裔はなんとも強かで抜け目がないとは思わないかね?」
「そうですね。そんなご大層なものを他人に預けてひとつ無くした、と聞いたらご先祖様方はさぞ嘆かれるでしょうね。お察し申し上げますわ」
貴方の頭の残念さを、とまで言わないのは淑女の情けでした。先程の口振りからして宝玉とやらを軽率にひとつ失った点については後悔しているらしいので遠慮なく突いただけなのですが、寛大アピールでそのあたりを逃れたと思っていたらしい伯爵は蒸し返すなと言わんばかりに不機嫌そうな顔をします。
「ふん。大切なことは今この私の手に『幻獣』を封じた宝玉がひとつでもあるということだよ。実験のつもりで解き放った何かの力が強大過ぎて想定以上のものを失うことにはなったが、我が手に切り札が残っている以上は慌てふためくこともない。そうとも! 腹心の部下や下僕、貴重な宝玉に秘密の抜け道そのものを失ってしまったところでこれさえあれば何の問題もない!!!」
「え、ご自慢の秘密の抜け道とやらも失ってしまったんですの?」
「仕方ないだろう『幻獣』の力が思っていたより凶悪だったんだ! 抜け道から送り出した連中がいつまで経っても帰って来ないから追加人員を投入したら大規模な崩落でもあったのか地形そのものがめちゃくちゃになっていたとかで抜け道どころかあの付近一帯もう使い物になりゃしない! 掘り返そうにも時間と費用がかかるしそもそもあんな不安定な道がそんな状態で残っているかどうか―――――クソッ、なんて運がない!!!」
忌々し気に吐き捨てる伯爵のお口の軽いこと、勝手にぽろぽろと情報を溢していく様は道化のように滑稽でした。詳しいことは言えない、などと自慢げに口にしていた割に実はもうそのルート駄目になってましたというオチは肩透かしにも程がありますがこちらとしては朗報です。この方、お話はつまらないですがこの流れはちょっとだけ愉快ですわね。ええ、ご愁傷様的な意味で。
「北の果ての蛮族どもを震え上がらせたまではいいものの、まさかあの抜け道が潰れるなんて………ひいおばあさまに頂戴した『幻獣図鑑』にはそんな爆発を伴う力を持つ幻獣など載っていなかったというのに」
「まあ、神秘だの禁忌だの言っていた割に図鑑なんてものがありますの? 詳しいことは分かっていないのに図を用いた説明付きの書物があるなんて親切ですこと」
「真偽を疑うのは当然だろうが、アレは宝玉とともに受け継がれてきた西方大公家に伝わる禁書だ。口を慎みたまえよ、レディ」
「お断りでしてよ、ヘンスラー伯。つまらないお話はもう結構」
馬鹿馬鹿しい、と切り捨てるための口調は敢えて穏やかに。相手を馬鹿になどしていません。その価値すらも無いのだと示すような鷹揚さで、私はただゆっくりと言葉を紡ぐに注力します。
「長々とご説明いただきましたが、ごめんあそばせ。小難しくて私には理解しかねます―――――それで? 貴方は要するに、これから何を成すおつもりでして?」
「ふっ。聡明な貴女にはもう分かっているだろうに敢えてこの口から言わせるか。良いとも、良いとも、お教えしよう! このヴィクトール・ヘンスラー、これより現国王たる伯父を廃して戴冠し新たな王と成るのだ。レオニールのような大馬鹿者でも王座が約束されているのはひとえに才色兼備と名高い婚約者の存在あってこそ、ならばアレより優れた私がノルンスノゥク公爵令嬢を伴って頂に立つことこそが国の為にして民の為! より相応しきものが王になる、ただそれだけの交代劇には謀反も革命も必要ない―――――ふ、ふふ、ふはははは! 先手を取ったのは我々だ! 既に趨勢は決したも同然! 如何に北の大公が有する軍が強大であれ、連中が執着する“北の民”ごと王都を質に取られては指を銜えて見ていることしか出来ないだろうよ! ざまをみろ!!!」
「はあ。そうですか。王都を質に? 壮大ですわね。具体的には?」
「分からないかね? “北”の地に厄災をもたらした幻獣を封じた宝玉がまだこちらにはあるのだぞ? これを使用されたくなければ大人しくしていろと命じるだけで北の大公家には事が足りるさ、何と言っても連中は“北の民”からその神秘の一端を聞かされている筈なのだから」
結論。
馬鹿。
現場からは以上です解散ッ!
セスとリューリさんとレオニールが流れるような連携で私の切実なる気持ちを代弁してくれていなければ荒ぶる衝動に身を任せてテーブルを蹴り飛ばしていましたわ。いえ、私如きの脚力ではそんな真似出来ませんけれども。せいぜいちょっとした音を響かせて終わるだけなのですけれどもまあそれはそれこれはこれ。
もう付き合っていられません。正直なところ真面目な表情を保つのもそろそろ限界でして―――――馬鹿馬鹿しさを押し殺しながらシリアスな雰囲気を継続させるって実のところかなりのバランス感覚と不屈に近い忍耐力を必要とする超特殊系の謎技能なのでいくらレオニールで慣れているとはいえ流石にこれ以上はとてもとても。
(ああ、改めて痛感しましたがレオニールって本当に………話の巧い馬鹿でしたのね)
口を開けば私を苛立たせることに定評のあるお馬鹿さんこと何処に出しても恥ずかしいトップオブ馬鹿ではありますが、少なくとも本当の意味で「話がつまらないわこの男」と感じた記憶はありません。いつも陽気に振舞っている国宝級の顔面を思い出したらいよいよもってこの場に留まり続ける苦痛と拒否感が募りました。
そういうわけで後先考えず今はこの男―――――の、つまらない話から一目散に逃げるとしましょう。敵の本拠地と思しきところからの単独脱出は無理であってもこの場を凌いで離脱するだけならなんとか。なんとか? なるかしら? するしかなくてよ、撤退戦。
「そうですか。お疲れ様でした。私下がらせていただきますわねお見送りは結構ですごきげんよう」
「ははははははははどうしたんだ妻よそんな急に余所余所しくなって。心配しなくても我々はここで座して待っているだけでいい。事はすべて上手く運ぶ。父も協力者もそのように動いてくれているからな、レディ・フローレン・ノルンスノゥクが王妃になる未来に変わりはないさ。おっと、あんな度し難いお祭り馬鹿でなく非の打ち所がない素敵な夫が突然現れた感謝と感激に関しては言葉にせずとも問題ないとも。私にはちゃんと、よく分かっている。照れて素っ気ない態度を取ってしまうその若々しさ、実に愛い」
「無理」
無理。シンプルに。これ以上この男との会話は無理。時間稼ぎとか次期王妃の責務とか貴族の矜持とかそういうのはさておきとにかく距離を取りたい気持ちで私は席を立ちました。入って来た部屋の扉を目指して歩を進めても伯爵に制止されなかったのは壁際に控えていたメイドのひとりが私の退路を塞ぐべくそっと動いたからなのでしょうが、しかしそこで滑り込んで来たのは軽やかに転がるノック音。
そして伯爵の誰何も待たず、あっさりと扉を潜り抜けた人物は迷いなく室内に足を踏―――――え?
「無礼だぞ! 控えろ、アバーエフ卿!!!」
「火急の用につきご歓談中に失礼する、ヘンスラー伯。巡回中の私兵より『橋が落ちている』との報告があった。詳細は現在確認中だが予期せぬ来訪者の可能性も捨てきれないため状況は予断を許さない。諸々についての確認と、万が一にそな」
「は? 橋? あの渓谷の橋が落とされた………しっ、侵入者だと!? 貴様、何を悠長なことを! 早くなんとかしたまえよ!!!」
伯爵が取り乱していましたが、そんなことはどうでもよろしい。
報告を述べている最中に居丈高に噛み付かれ喚かれた挙句「なんとかしろ」とすべての対処を丸投げされたその人の顔に、声に、立ち振る舞いに、私は覚えがありました。未だ記憶に残っているものとはまったく違う空虚さを湛えた表情と纏う雰囲気は別人のそれで、まるで見知らぬ人のような錯覚を覚えはしたけれど、見間違える筈はありません。ある筈がない。ないのです―――――だって、だって。
(………うそでしょう)
言葉になりませんでした。声すら出せませんでした。この隙に乗じて脱出を図るという最適解を投げ捨てて、その場に立ち尽くすしか出来ない私の視線の先の殿方は一度閉じた口をまた開きます。
不快感など一切浮かべず、かといって萎縮も恐縮もせず、乱れもなく、ただ淡々と。
「落ち着かれよ、ヘンスラー伯。橋が何者かに落とされた、との断定は些か早計だ。加えて申し上げるなら、報告に上がった橋は貴殿の言う渓谷の鉄橋ではなく東側の吊り橋のことで渓谷側には何の問題もない」
「ん? ふん、なんだ、違うのか。人が悪いな、アバーエフ卿。あの鉄橋を落とせる程の武装集団が攻めて来たのかと慌ててしまったじゃないか。しかしそもそも我が館の東側に吊り橋なんてものがあったのかね? この私が把握していないんだ、どうせ使う者もいないような古びた朽ちかけの橋なのだろうよ。巡回の者どもの仕事熱心さは評価してやらないこともないが、それが落ちているからと騒ぎ立てる程のことでもあるまい。いちいち私を煩わせるなよ。おんぼろ橋が自然に落ちた、ただそれだけの話だろう? それくらいはお前の方でどうとでも対処したまえよ」
「当館に要人をお招きするにあたり、どんな些細なことであってもすべて漏らさず報告せよ、と下知されたのは貴殿であったと当方は記憶しているが」
「やれやれ、職務に忠実なのは望ましいが融通がこうも利かないとは………弁えたまえ、アバーエフ卿。未来の王とその妃の前でその太々しい態度は何だ。私はお前を無二の友だと思って重用しているが、それに胡坐を掻くような真似はどうかしてくれるなよ」
「無論、それは弁えている。その上で当方は具申しよう。我が友、ヘンスラー伯ヴィクトール。現在こちらにご滞在中の要人の身の安全を可及的速やかに確保すべきだ。今、このタイミングで橋ひとつ消えたのがただの偶然であろうとも、万全を期せとの命に従い重ねて意見具申する―――――招かれざる客がもう既に、紛れ込んでいるかもしれない。予定していた晩餐会を中止して要人を保護するべきだ。この館を封鎖した上で個室に隔離し我々も含め他者との接触の一切を断つ程に割り切った対応が望ましい。それに伴う警備の強化と巡回のスケジュール調整については当方の一存では決められないゆえ、許可、或いは指示を請う」
馬鹿を言うな、と怒鳴り散らすヘンスラー伯の不快な声は、聞こえているのに何処か遠くてまるで別の世界のよう。考えの足りていない主人と慎重かつ冷静な従者の遣り取り、それに近いものを舞台劇のように眺めているだけの私の目は、こちらを向かない見覚えのある顔からちっとも動かせないまま。
「時間がないので率直に言う。貴殿、甘いぞ。ヘンスラー伯。ノルンスノゥク公爵令嬢は紛れもなく次代の治世の要、仇なす者に言われるがまま護衛を付けず保険も掛けず単独で行動するような考えなしの女ではない。たかが小娘と侮れば痛い目を見るのはこちらの方だ。フローレン・ノルンスノゥクが王妃に相応しい器であると、当方はよく知っている。実際に見て知っているからその考えの一端を多少なりとも推し測れる。だからこそ最大限警戒しているし貴殿にも物申さざるを得ない。なにしろ、万が一にでも、彼女が此処から拐かされるなどあってはならないことだからだ―――――違うか、我が友。ヴィクトール」
「………違わないとも、我が友ドミニク。お前がそこまで言うのであれば、聞き入れるのも吝かではない。まったく、これを跳ね除けようものなら私の器量が疑われるぞ」
良いだろう、と頷いて、伯爵が腰を上げました。
「申し訳ない、レディ・フローレン。聞いての通りだ。残念ながら、本日の晩餐会はまたの機会にということで………ああ、しかし困ったな。貴女が手配したという迎えはまだ着かないらしい。警備の都合で封鎖した橋の手前で足止めされているとすればこちらの不手際だ、申し訳ないね。勿論、か弱いご令嬢を放り出すなどしませんよ。今宵は我が城で夢のような一夜をお約束しますとも―――――ふふ、貴女のためだけにご用意した部屋をお使いいただきましょう。ええ、ご安心ください。不埒者など近寄らせないよう、当主であるこの私の寝室の隣を空けておきま」
「推奨しない。それは悪手だ。あの部屋はヘンスラー伯の寝室と繋がっているため要人の隔離には向いていない。加えて二階程度の高さでは外から侵入されるリスクがある。もっと高所にある出入り口がひとつしかない独立した個室が望ましい―――――東南塔の最上階が守るには易く攻め難い。ヘンスラー伯、使用の許可を」
「おいアバーエフ卿あんなところに我が妻をひとり押し込めるなどそんなことが許されるとでも思って」
「ヴィクトール」
名前を告げる、それだけで、アバーエフ卿と呼ばれた人は伯爵の戯言を封殺します。そこにあるのは虚無でした。虚ろに空いた穴のような印象を受ける双眸に見詰められること約三秒、私が閉じ込められるらしい部屋の使用許可を出したヘンスラー伯の顔は完全に苦り切っていたけれど、発言だけは従者の提言を寛容に聞き入れる主人のそれで―――――馬鹿馬鹿しいわ、と思いましたの。
「ではこの私自らレディを部屋までお連れしよう………と、言いたいところではあるのだが、どうも私が赴かなければ解決出来ない類の急用が入ってしまったようでね………ああ、なんとも名残惜しいが今日のところはこれにて失礼させていただくよ、我が愛しの花嫁。なに、晩餐会は中止になったが明日の朝食は一緒に摂れるよう図らっておくからどうか安心したまえ。せっかくの機会だしこの城の中を案内して差し上げたかったんだがねえ、まあ時間はこれからいくらでもあるんだ。今日のところはゆっくりと身体を休めておくといい。さて、それではアバーエフ卿。私の代わりにレディ・フローレン・ノルンスノゥクをエスコートする名誉を与える。無事に部屋までお連れしろ。私は総責任者としてお前の望むその通りに陣頭指揮を執るとしよう………ああ、それと、我が友よ。お前のことは信用しているが―――――間違ってもノルンスノゥク家の娘に妙な真似はしてくれるなよ」
尊大な態度でそんな捨て台詞を残した伯爵がずかずかと部屋を出て行って、その足音が確実に遠退いていくのを確認してから、その人はようやく私のことを真正面から見たのです。濁りはなくとも褪せている。そんな、熱のない瞳で。
「妙な真似などする気はないよ。きみには恨みなどないからね―――――恨まれている自覚はあるけれど」
先程までの様子とはおよそかけ離れたその台詞は、幼子にそっと言って聞かせる柔らかさのようなものを帯びています。かつてと同じ声でした。かつてと同じ口調でした。少しやつれた顔立ちはそれでもかつての面影のまま、厭世的に倦んだ気配さえ醸し出しておきながら、此処ではない何処かに人間としての大事なものを軒並み置いてきたような感情の薄さで語り掛けてくるその人を、私はよく知っています。いいえ、知っていたのです。
「あなた、よくも、そんな、そんな………あなたのせいで、どれほど!」
振り上げた拳が叩いた胸板は確かにそこに存在していて、彼が生きていることを証明するには十分でした。極限状態の緊張が激情で上塗りされたせいかうっすらと滲んだ視界の中で、虚無にひとかけらの罪悪感じみた無意味なものを浮かべた憎らしい既知が嘯きます。
「当然の権利だ、フローレン。きみは僕に怒っていい。恨んでいい。罰していい。きみにはその権利がある。でもごめんね、今は駄目なんだ―――――きみに恨みはないけれど、ノルンスノゥク公爵は別。何処までも何時までも巻き込んでごめん。全部終わったらその時は、フローレンが思うままに僕を処分しておくれ」
「ふざけないで、気安く呼ばないで、どこまで、いつまで私の妨げになれば気が済むのです、ドミニク・アバーエフ・ノルンスノゥク―――――愚兄! いい加減になさいまし!!!」
スクロールシャーッ! を使うことなくここまで辿り着いてくださった猛者は果たして何人いるのでしょう……そういう仕様にしたとはいえど、作者でさえ推敲時に「めんどくせえな」でシャーッとしたくなったので申し訳ない気持ちがMAX(そんなものを投稿するんじゃない)
なにはともあれここまで辿り着いてくださって本当にありがとうございました。
諸事情あって初めて『前編』というかたちで更新させていただきましたが、詳しくは今から活動報告に書いてくる予定なのでそちらをご一読ください(なお読まなくても何の問題もありません)
改めまして、いつも最後まで読んでいただいきまことにありがとうございます。




