25.ぶっちゃけなんて? 言い放題
勢い任せに(情報を)やりたい放題詰めました。毎度実にすみません。
“王国民”のチビちゃん曰く、『恋』なるものはするものではなく落ちるものであるらしい。
そんな理屈も意味も分からない言葉が彼女の口からどういう経緯で飛び出したのかは覚えていない。過程のすべてを省略した上で結論だけを残したような、たまたまそこだけ頭の片隅に引っ掛かっていたような、とにかく「恋とは落ちるもの」というその部分だけが妙にはっきりと記憶にこびりついている。
耳にした当時はなんだそれ、と思ったついでに口にも出して詳細を聞いてみたものの、説明されても結局のところ“私”には理解が出来なかった。よく分からない感覚の、なんだか分かりにくい表現―――――理解出来ない、ということだけが理解出来たような気がする何か。
そう返すのがせいぜいだったあの日からしばらく経った今、私は信じられないことに落ちる音を聞いたのだ。
ばっしゃぁぁぁぁん! と物理的に。何かが水に落ちる音を。
柔らかな陽光を反射でもしたのか視界に光の粒が見える。きらきら、きらきら、煌めいて、幻想的に見えなくもないが私はそれどころではなかった。直前までこちらの手首を掴んでいた硬い皮膚の感触がない。言いたくないと渋っていたくせにいざ切り出したら迷わなかった眼差しの持ち主が見当たらない。
三白眼の姿が消えた。衝撃的な言葉を残して忽然と視界から消え失せた。
しかしそれは当然である―――――だって私がたった今セスのこと思いっきりぶん投げたからなあ具体的には川目掛けて!!!
「………ってオァ―――――ッ!!!!!」
やっべー!
我ながら緊迫感に欠けているどころか軽いにも程がある第一声だが内心はめちゃくちゃ焦っているしこれでも心底反省している。咄嗟だった。つい投げた。らしくないことを今から言うぞ、と前置かれた上でセスが口にした台詞はそれくらい衝撃的で私は今でもびっくりしているがしかしそれはそれとして何の言い訳にもなっていないし流石にやってはいけないことをやってしまった自覚はある。
びっくりしたからって人間を川に投げ込んではいけない。
文化や風習が根底から異なる“北”出身の私にもそれくらいの常識は存在する―――――もとい、生まれ故郷の常識を持ち出すのであれば問答無用で重罪だった。極寒地帯であるが故に水温だってとにかく低いのが当たり前認識の“北の民”にとって意図的に陸生動物を水の中へと投げ込む行為は処刑にも等しい重さを持つ。そして元々は水辺の集落で生まれ育った私にとってその感覚はとても根深い。だって事前の準備もなしの冷たい湖へと飛び込もうものなら高確率で心臓が止まる。命にかかわることなので、出来心とかでやるものではない。たとえ場所が何処であっても軽々に行ってはいけない。
やばいやばいやばいやばいこれはやばい。
混乱のあまり語彙が死んだがそんなことより案ずるべきはあの三白眼の安否である。ごめん、と謝罪をするべき相手が水面から顔を出すことを願って眼下の川を凝視したところで想像以上に水深があるっぽいことしか分からなかった。水は良い感じに澄んでいて魚影らしきものもすいーっとしているのに探している姿はどこにもない。流されたか、と血相を変えて下流方面へと視線を向ければ、そこには川から生還したらしいセスが全身ずぶ濡れで立っていた―――――泳ぎが達者なんだなこいつ、と感心するよりまず先に、私にはやるべきことがある。
「ごめん投げた!」
「おう投げられた」
セスの返答はやけに軽いしついでに言うなら雑だった。全然気にした様子がない。小高い川縁からそれなりの深さがある川にぶん投げられたというのに何事もありませんでした、みたいなノリで平然と歩いて戻ってくる。その表情も平温さも私の知るいつものセスだった―――――思いっきり水浸しなこと以外。
「あの体勢から片手だけで人間ぶん投げるってすげえなホント」
「悪いことしたと反省してるからその誉め言葉は居た堪れない」
「気にすんな。水に流してやる」
「なるほど公平だ一思いに頼む」
「違う違う違うそうじゃねンだわ仕返しにテメェを川に突き落とすことで手打ちにしてやるって意味じゃねぇ。やめろやめろ真顔で沙汰を待つな。とりあえず川の側から離れろ。押さねぇよ。何の茶番だコレ」
怒りを表明すべき場面で呆れた声しか出さないままに、文字通りの意味で水(というか川)に流された被害者本人はあっさりと私を許した挙句この流れを茶番と言い切った。責める様子が一切ない。むしろさっぱりしたわ、みたいな清々しささえ醸しているのはどういうメンタルだと思いつつ、そう簡単に許されるのもどうなんだろうと感じる私はその場から動くに動けない。
そうこうしている間にも焚火の側まで戻ったセスは靴や服を脱ぎ始めている。一切の躊躇が見当たらなかった。余談だが上着に至っては材質なんて知ったことかと言わんばかりに雑巾よろしく絞っている。ぼたぼたびちゃびちゃ落ちた水滴が地面を濡らして浸み込んで、ぼんやりとそれを眺める私にちらりと向けられた一瞥はやっぱり呆れの色が濃かった。
「だァからいつまでそこに居る気だ。なんだよリューリ。強情か? テメェを同じ目に遭わせるつもりはねぇっつってんだろ。気にすんな白いの」
「そうは言われても心情的にちょっと承服しかねるっていうか………私、元々は『アゥ』だったからな。水の怖さは忘れてない。ほんのちょっとの水溜まりだろうが口や鼻が沈む深さがあれば人間は簡単に溺れて死ぬ。流れのある水はもっと危ない。それはあっちでもこっちでも変わらないだろ―――――だから、駄目だ。今のは駄目だ。セスは何事もなかったみたいな顔してるけど、それじゃあ駄目だ。私の行動はわざとじゃなかろうがきちんと咎められるべきで、お前には報復する権利がある」
冗談でしたでは済まされないし、曖昧なノリでは終わらせられない。被害者自身が気にしていなくとも、それを許してはいけないのだと育てられてきた私自身が誰より一番流せない。珍しく真剣に思い詰めた顔でそう言い募るこちらに対して、しかし彼は平然と言う。呆れ果てたというよりは、ちょっと困っているかのように。
「報復っつったって、泳げねぇテメェを川に落とすのは普通にやり過ぎだろうがよ。溺れるって分かってるヤツを意図的に水に放り込むような趣味が俺にあると思うか」
「思ってないぞ。あるわけないじゃん。そういうの趣味じゃないどころかたぶん大っ嫌いだろお前―――――あれ? 私が泳げない、ってセスに話したことあったっけ?」
「ねぇよ。ねぇけど、まァ勘で」
そうじゃねぇかとは思ってた、とくしゃくしゃになった上着を広げて事も無げにそう答える相手に私の口がぽかんと開いた。なんで? だとか、鋭いな、とかそういったものが頭の中を駆け抜けていくが言葉は出ない。そんなこちらの有様を見て、セスは珍しく普通に笑う。
「すげぇアホ面」
「うわ笑ってる」
「ドン引き顔やめろ。ますます笑える」
「ごっめん川に投げた時に頭打った?」
「打ってねぇし受け身とるくらい余裕なんだわ見縊ンな。ぶん投げられようが川に落ちようが濡れただけで大したことねぇ、テメェと違って泳げるんだよ。この川幅ならコースさえ見極められれば剣術科の装備一式担いだまま泳いで対岸まで行ける―――――着衣水泳の訓練がこんなところで活きるとは思ってなかったけどやっとくモンだな」
独り言のように呟いて、人生マジで何があるか分からんと自己完結した三白眼は脱いだ靴を引っ繰り返して中に意外と水入ってんなと呑気なコメントを述べていた。いつの間にやら荷物の中から取り出していたふかふかタオルでがしがしと髪を拭きながら濡れた靴やら上着やらシャツやらを焚火の近くで干し始める手際には妙な慣れが感じられたが、こちらがそれを言語化する前に着替え一式と思しきものを手にした彼はどこまでも平然とした態度を崩さず簡潔かつ雑なノリで一言。
「ちょっとあっちで着替えてくるから大人しく肉が焼けるの見てろ」
「いや火の側で着替えろよお前ずぶ濡れなんだから―――――あ、こういう場合は私の方が率先して席を外すべきだな。気が回らなくてごめん、散歩して来るわ。三百秒くらいあれば大丈夫?」
「どこぞのご令嬢じゃあるまいしたかが着替えに五分も要らねぇよ―――――終わった」
「ホントだ終わってる。え、嘘だろ概算十秒? さては早着替えのスペシャリストか?」
「いや? 特技」
「なにそれ笑う」
あまりにも平然と言うものだから、言葉のとおりに笑ってしまった。私はまったく気にしないけれども人目のあるところで着替えるのは流石にセスも嫌だろうなあ、と気を利かせるつもり満々だったのに現実というか本人はこれだよ。しかもあっちで着替えてくる、って宣言してた筈なのに結局その場であっという間に着替え終わってんのホント何?
純粋に気になる。どういうことだよ。ちょっと目を離した隙にしれっと真顔で終わらせているあたりがなんていうかだいぶ面白い。他人の気遣いは固辞するスタイルかお気遣いの三白眼。
呑気にけらけら面白がって笑っている場合ではないのだろうが、誇張抜きの早さで着替えを終えて脱いだばかりの水浸しの服をひとまとめにぎりぎりと絞っているセスは気が抜けるくらいにいつもどおりだ。適当で、雑で、そこが気楽で、遠くはないが近くもない―――――けれど、断じて、鈍くはない。
「ところで私が泳げないっていつ気付いたんだ、三白眼」
唐突と言えば唐突に、笑いの余韻が残った声で気になったことを聞いてみる。乾かしたところでもう着ない判定の服を耐水素材らしい袋に包んで圧縮する作業の途中だった彼は、如何にも片手間みたいな感覚であっさりとそれに応じてくれた。
「あ? ああ、最近だ。いつだったかは忘れたが、リューリの生まれが水辺の集落だって話が出ただろ。いつ気付いた、っつぅならそこだ―――――妙だな、と思った切っ掛けはそれこそ最初に会った日だけどよ」
疑問への返答は軽やかで、出し惜しむような気配はない。聞かれたことをただ答えるだけの姿勢に一切の雑念はなく、感傷を抜いた思い出話を語るかのような平熱さだった。
「最初に会った日のお前の印象『ミートパイめっちゃ大好きさん』からの『パイ料理過激派』くらいだった私が言うのもアレなんだけど、そんな妙だなって思われるようなエピソードあったか? どのへん?」
「ものの見事に食い物を記憶に紐付けてて笑う。エピソードかどうかは知らねぇが、魚を焼くってイベントが俺と会った日にあっただろ」
「あったな王子様のボヤ騒ぎオチ」
「あったなそんなくだらねぇオチ。まあ馬鹿王子の馬鹿さはさておき、あのとき野外学習でテメェ食材調達じゃなく焚火の準備に回ってただろ。引っ掛かったのはそこだ。つっても『川で魚を獲るよりも火熾しの方が慣れてるから』とかいう理由に関してはそこまで妙だとは思わなかった………いくら狩猟民族とはいえ漁猟に縁がない場合もあるし、極寒地帯の“北”と“王国”じゃいろいろ勝手が違うだろうからそのときはそこまで気にしてなかった」
セスは言う。淡々と。今と同じような自然の中で、魚を焚火で焼いて食べたあの日の記憶が蘇る。数ヵ月前のことなのに、随分と昔のことに思えた。
「だけどな、白いの。テメェの生まれが湖の近くの集落だったなら話は別だ。水の側、って意味の『アゥ』を名乗って生きてた時期があったなら、あの日のリューリには違和感しかねぇ。ただの俺個人の感想でしかないことは弁えた上でそれでも言う。狩人として動かなかったテメェはテメェらしくねぇんだよ。ずっとそう思ってはいたが、俺の主観なんて勝手なモンで決め付けるのも趣味じゃねぇからただ思うだけで黙ってた。けどな、テメェが言ったんだ。よっぽどのことがない限りは生まれた場所で育って死ぬんだってなんでもないふうに言ってた口で、『アゥ』から『ベル』になったって大したことでもなさそうに―――――自分はアゥには向いてなかったって、しょうがなかったみたいなツラで」
流れ流された状況で口にした何気ないただの事実の欠片と、いつかの自分の独り言。それを拾い上げた時点できっと、セスは気付いていたんだろう。他の誰が気にも留めなくたって、この三白眼は流さなかった。聞き逃さず、見逃さず、たぶんこいつはいつだってちゃんと人の話を聞いて自分の目で見て考えている。
「生まれ育った水辺の集落を向いてねぇからって離れるような、そんなどうしようもない事情なんざ―――――ひとつしか思い浮かばなかった」
確証なんてなかったけれど、ほとんど確信していたらしい。小さな違和感を切り捨てず可能性に目を向けて、思考放棄を良しとせず気付いて答えを得るに至ったセスの声音は凪いでいた。気まずさとは無縁の雑談を否定する気も理由もないから私はあっさりと肯定する。
大したことでもないのだと、それこそ「しょうがなかった」みたいな顔で。
「そうだぞ。私は泳げない………違うな。水に浮けなかった。どうもそういう体質みたいで何をやっても沈むから、“私”は『アゥ』には向いてなかった」
向き不向きに限って言ってしまえば、本当に向いていなかったのだ。
水の中でも良く見える目に、深く長く潜れる強靭な肺。冷水に浸かり続けても動ける保温性に優れた身体―――――湖の側で水棲生物を獲って暮らし続けたことで得た『アゥ』特有の体質はちゃんと持って生まれていたが、それと同時に“私”の身体はどう足掻こうが沈むばかりで水に浮かばないものだったのだ。何もしなくても沈んでいくし、泳ぎを教わったところで沈んだ。反面、潜水は得意だったがそこからの浮上が致命的であることはもう言うまでもないであろう。
水が怖かったわけではない。入水そのものに忌避感はなく、息を止めたまま水中で活動することに抵抗はなかった。なので普通に湖底を歩いて回ってエビとか拾い集める作業は誰よりも得意だったけれど、自力で浮いて上がれない以上狩り場は岸辺に限られる。水面に張った分厚い氷を素手で叩き割れる便利さについては大人たちにも好評だったが、なにも私がやらなくたって道具を使えばいいだけなので重要度はさして高くない。
そんな有様だったから、水に浮かない体質のくせに周囲からはちょっと浮いていた。浮くなら素直に水に浮けよと幼い頃は思ったものだが、嘆いたところで水には沈むので気分まで沈めている場合ではない。そんな前向きな精神で族長が『アゥ』に立ち寄った際に諸々相談したところ、あっさりと判明したのである―――――なにって、原因的なものが。
『うん、そりゃまあ沈むだろうよ。だってこの子、重いもの。筋肉の質が特殊というか、普通よりずっと恵まれた肉体を持って生まれたんだねえ。この年齢でもう大抵の大人より力が強いでしょう? だからこそ水には浮かないんだよ。だって筋肉は水よりも重たいからねえ、当然沈む―――――浮かばれない。『アゥ』ではこの子を持て余すだけだよ』
生まれた場所でありのまま生きていくには向いていない、と突き付けられたかつての記憶を思い返すその度に、そういうことならしょうがないかとの諦めと割り切りが脳裏を過る。
身体が重たいのはしょうがなかった。水に沈むのもしょうがなかった。のんびりとした口調で穏やかに族長が紡いだ内容はある意味とても前向きで、悪いことなどではまったくなくて、けれど、私がどう足掻いてもどうしようもないことだった。
「とは言え、幸いなことに“北の民”として不適格だったわけじゃない。そこまで重たい話じゃないんだ。筋肉が重過ぎて水には浮かないけど力は強いし走れば速いし陸での狩りは性に合ってた―――――『ベル』になってからの方がずっと生き易かったから、私はつくづく『アゥ』のまま水辺で生きるの向いてなかったなあ、ってだけの話なんだよ」
あっけらかん、と軽く結んだらセスは微妙な顔をしていた。苦いと評判のタンポポ茶を飲んでいた時の王子様にちょっと近い表情で、苦いんだか渋いんだかよく分からない心底困惑している声で言い難そうに彼が呟く。
「いやまあ本人がそう言ってんならリューリとしてはただそれだけの話でしかねぇんだろうけどよ、それにしたってなんつぅか………テメェ割と重要そうな話をなんでそうしれっと口にしてんだよ………こんな流れでそんなあっさり俺に言っていいのかそれ………」
「良いも悪いもお前に言えないような話とかそもそも私にはそんなにないぞ」
「テメェが気にしてねぇってだけで口外しない方がいい話題とか絶対ェあるだろ自由か白いの………自由だったわ………今更だった………それにしたってそんな大事なこと俺相手に暴露していいのかオイ………」
「なんだなんだどうした三白眼すごい顔してるぞ頭痛い? そんな反応されても困るからいつもどおりのお前だと助かる。あとな、一応言っとくけども別に私が突然変異の筋肉異常発達個体って秘密にしてたつもりはないぞ。まあなんかこっちが堂々とし過ぎてたせいで“北の民”全般やたらと怪力な民族だと思われてそうな気はしてたけどたぶん“王国民”に比べればあらゆる意味で私たちの方が屈強だろうから問題ないだろ。あれだ、あっても誤差の範囲だ」
「とんでもねぇどころか致命的な気がする誤差もあったモンだなびっくりしたわ―――――個人情報を開示する相手は選べよマジで。いやホントに」
「突然どうしたんだ三白眼。なにそのガチなアドバイス」
「リューリの認識が危う過ぎて流石に苦言を呈すレベル」
「お前に聞かれたから答えただけなのになんて言い草だこの野郎」
「喧しいわ聞かれたからって素直に答える義理とかねぇだろそういう時は適当言ってなんかこういい感じに誤魔化せや―――――俺が誰かにこの件喋って困ったことになろうモンなら一番困るのはリューリだろうが。メンドクセェことに巻き込まれたくないなら今後極力気ィ付けろ」
凶悪な印象の三白眼を真面目に鋭く尖らせて、説教じみた言葉を吐くセスに私は呆れてものも言えない。何言ってんだこいつ、みたいな顔を向けたところで相手は厳しい眼光を一切緩めなかったけれど、それはそれとして言いたいことはやっぱり素直に言うに限る。そんな健全過ぎる精神で私は堂々と言い切った。
「困ったことになるのは困るけどまあその時はその時じゃん。そもそもお前が誰かになんか喋ってそれで私が困ったところでそんなのこっちの自業自得だからお前が気にする必要ないだろ―――――ていうか、心配しなくても、セスが私の体質の話を何処の誰に伝えようが別に構わないんだよ。自主的に言うつもりがなかっただけで隠してるわけじゃなかったし、宿屋のチビちゃんが『絶対誰にも言わないでね、って念押ししようが誰かにポロッと言っちゃった時点で内緒にも秘密にもならなくなるのが世のお約束ってヤツだから、言っちゃいけない類のことはまず口にしない方が無難』って真顔で教えてくれたからこっちも最初っからそのつもりでいるし」
「宿屋のチビのアドバイスがいちいち的確過ぎて笑える。そろそろマジで何者だ」
「他人の個人情報を勝手に教えちゃいけないって聞いた」
「自分の個人情報も迂闊に渡すなって言われなかったか」
「言われた」
「だろうな」
「かもしれない」
「誤魔化すなや」
適当に言ってなんかこういい感じに誤魔化そうとしたのに相手が誤魔化されてくれない件。
それはさておき言わない方がいいだろうなあ、と弁えていることは流石の私もぽろっと迂闊に溢しちゃったりはしないのである。そういう意図で紡いだ言葉はしかし宿屋のチビちゃんのインパクトに全部持って行かれたらしく、至極真面目な顔をしたセスに通じているかどうかは微妙だ―――――こちらが伝えたかったのは簡単で単純なことなのになあ、と面倒臭さが込み上げて来て思わずぶん投げてしまう。
「なんて言うか、要するにさあ。お前がそんなに気にすることないから誰かに喋りたきゃそうすればいいし、報告とかしなきゃいけないなら普通にすればいいと思う、ってことが言いたいだけなんだよ。私は」
気楽な口調でさらっと宣う声はやたらと軽やかに二人の間を転がった。三白眼の形容し難い表情の真意は汲み取れないが、彼の声にうっすら滲んだ呆れの響きくらいは分かる。
「いいのかよ、リューリ。そんなんで」
「いいっつってんじゃん。さっきから」
いい加減にしろ、と言わんばかりの視線を相手に突き刺しておきながら、ノリそのものはお気になさらずみたいな雑さで断言する。なんなら肩も竦めつつ、ついで感覚で付け足した。
「お前だったらまあいいか、くらいのノリでしかないんだからさあ、深刻になるなよ。疲れるじゃん?」
無責任極まる口振りで、無責任にも放り出す。先のことなんか知らないし、可能性の話なんて際限がないからするだけ無駄だ。だって、そんなのめんどくさい。
だから私は分かり易さ重視で飾らずありのままを言う。この三白眼ならまあいいや、くらいの雑さでお気楽に、肩の力とか抜いたらどうよと言わんばかりの適当さで。
別にそこまで後悔しない、何かあってもまあ許せるな、と思える相手になら秘密の類を言っても良いって宿屋のチビちゃんも補足してたしそんなに心配することなくない?
内心はさておき知り得た情報をどう扱うかはお前の好きにすればいい、という意図が正しく伝わったのか、微妙に調子の狂う三白眼はほんの僅かに目を伏せて―――――まいった、とだけ呟いた。
「セスやっぱ頭打っただろ」
「頑なに頭を疑うの止めろ」
「そう言われても負けず嫌いの一番絞りが素直に負けを認めたら疑わざるを得ないだろ!」
「ド正論な上に否定もまったく出来やしねぇが参ったっつっただけでそこまで言うか!?」
「言うだろだってお前だぞ」
「ぶっちゃけ俺もそう思う」
「同意するなよ自分で自分の頭疑う人になっちゃってるから」
「先程までの己を振り返ると確かに頭を疑う言動でしたので」
「止めろこの上お貴族様のお前まで捌ききれねぇよ」
「だろうな―――――っつぅワケで、もうやめるわ」
心の底から面倒そうに空気を混ぜるような動きで馬鹿馬鹿しいと手を振って、そう宣言したセスの目が真っ直ぐに私を捉えている。やめたやめた、と態度で示すその様は何処か晴れやかで、所感で言えば開き直っていた。
「気ィ遣わせて悪かったな」
「三白眼がなんか言ってる」
「ところで今からクッソつまんねぇ話するつもりだけど聞かせていいか?」
「言い方下手か? いやまぁお前が話したいって言うなら聞いてやるくらいはいいんだけども、それにしたってもうちょっと表現的なものなんとかならない? なんだよクッソつまんねぇ話って正直過ぎるだろいくらなんでも。私が嫌だって断ったらどうするつもりなんだお前」
「そのときはそのときで墓まで持ってく」
「ハカマデモッテクってどういう意味?」
「これは通じねぇパターンだったか………誰にも、死ぬまで口外しない、みたいな意味だ。断られたら今後一切テメェに雑音聞かせるような真似はしない、とかそういう系」
「おっと、なにやら真面目な気配。言いたくないなら言わなくていいぞ。ていうか今までの流れからしてたぶんそれ言っちゃ駄目なやつじゃない?」
「察しが良くて話が早ェな。そこまで分かってんならいいわもう。暇潰しがてら耳貸せや。開けっ広げなテメェ相手に隠し事とかクソ馬鹿馬鹿しい」
言いたくなったからもう言うわ、くらいの態度でセスは嘯く。強がりではなく、やけくそでもなく、そう決めた上で行動するとの意思を感じさせる力強さで不敵に口の端を持ち上げて、さながら何かに挑むように。
「ぶっちゃけついでに言っちまえ、なんて気軽に言いやがったのはテメェだろうが。聞き流される前提で構わねぇからこっち来て座れ。お茶会とまではいかねえが、茶と菓子くらいは出してやる」
「お茶とお菓子があるのかよ」
「食堂スタッフに持たされた」
おばちゃんたち本当にありがとう、と心の中で唱える感謝が害虫トラブル解決に勤しむ食堂の猛者たちに届けばいいなと思わずにはいられない瞬間だった。有能が過ぎる。いやホントに。
そんなこちらの心情を他所に、ある意味予想通りの答えを述べた三白眼が鞄の中からひょいひょいと必要な道具を出していく。湯気を立てる液体が入った金属の容器に同じく金属のカップがふたつ、チョコの欠片と砕いたナッツが練り込まれている棒状クッキーに焼き色の綺麗なビスケット。着替えがあった件といいやたらめったら準備が良いのは何でなんだと思いつつ、受け取ったカップに注がれた大自然の緑を薄めたような色の液体に口を付ける。少々独特の苦さがあったが不思議と落ち着く味だった。
「で、ぶっちゃける気になったはいいが正直何処から話したらいいかまったく分からん」
「なんだそれ。いきなり躓いてて笑う。そんなに話題が多いのか?」
「多いっつぅかなんつぅか、単純にすこぶる散らかってんだよ………まあ思い付くとこからでいいか」
ずず、と飲み物を啜る音を立てたセスがそう言って雑にぶん投げる。そして話題もぶん投げた。
「ぶっちゃけ今の“王国”な、上層部っつぅか具体的には一部の親世代がクソなんだわ」
「思った以上に真正面から言っちゃいけない気がすることをぶっちゃけたなこの三白眼」
「ぶっちゃけついでに暴露しとくと個人的に一番どうかと思うのがノルンスノゥク家の現当主ことフローレンの実の父親」
「ぶっちゃけ具合が留まるところを知らない三白眼どうした。幼馴染の血縁に対してナチュラルにボロクソ言うじゃんよ―――――でもまあお前がそう言うからには理由だか事情だかあるんだろうな。それこそボロクソ言いたくなるようなどうしようもないパターンで」
「察しが良過ぎて話が早ェ。おうとも、理由も事情もある―――――メンドクセェから諸々飛ばしていきなり結論から言うが、あのおっさんが下手打ったせいで『ノルンスノゥク公爵家』を“俺”が継ぐ破目になっちまったから十割私怨でクソだと思ってる」
「ああうんなるほどそれはク―――――なんて?」
いつものノリで口にしていた台詞を思わず中断してまで聞き返してしまう私である。その程度には衝撃だった。普通に耳を疑った。セスの正気も疑い掛けたがあちらは顔色ひとつ変えない。真顔のまま「十割私怨でクソ」とか言い切っちゃうその思い切りの良さは嫌いじゃないけど正直言って反応に困る。
ていうか今ものすごい情報がぽろりと雑談感覚でお出しされちゃった気がするんだけど気のせいだよな三白眼おい気のせいって言えお前!!!
そんな私の無言の混乱を視線ひとつで察してみせたか、いくらなんでも飛ばし過ぎたと反省したらしいセスは少々眉尻を下げつつ言葉を選んで補足を入れた。
「あー、なんつぅの? つまりだな、『セス・ベッカロッシ』はいろいろあって『ノルンスノゥク公爵家』もといフローレンの実家を継ぐために養子入りするのが決まってて………すまん、流石に端折り過ぎたわ。分かり易く言い直すから一旦忘れろ」
「忘れた」
「秒で? まあいいかリューリだし―――――つぅわけで、端的に言えば今の“俺”の状況があの有能気取りのおっさん公爵のせいで『将来的にフローレンの義理の弟として養子入りした先の公爵家を継いで次代のノルンスノゥク公爵を名乗らなきゃいけなくなる』一択っつぅ狂気の沙汰な上に義理の息子にしてやるんだからありがたく養父の言うことを聞け、とかメンドクセェこと宣ってきやがるんであの野郎心底どうかと思う的な意味で個人的にクソな上役ランキング堂々の一位に輝いてる」
「なるほど―――――なるほど? なんて?」
分かり易くはなったけれどもなんでそうなったのかが分からん。セスがフローレン嬢の実父に面白くないものを感じているのは伝わってくるのでそこは分かるがあとが分からんまるで分からんさっぱり分からんその説明だけですべてを知るのは流石に無理だと声を大にして言いたい。
理由が判明したところで事情というか経緯が不明なままだ。端折っちゃいけない部分を端折って分かり易さを重視するな。情報を削るな。短縮するな。私が言うのもアレではあるが言い方どころか説明下手か!?
「ごめん。セスがナントカ公爵のこと嫌いってことしか分かんなかった」
「やっぱこれだけじゃ不十分だったか………白いの相手ならいけるかと」
「無理だろなんでいけると思った」
「なんやかんやで通じるからつい」
「流石にいきなり『なんやかんやで公爵家に養子入りして後継いでフローレンさんの義弟になることになっちゃった上に養父がだいぶめんどくさいこと宣ってくるからマジでクソ』とか言われても困るだろ主になんやかんやの部分をどう処理したらいいんだよ―――――え、お前とフローレンさんってホントに血が繋がってたりする?」
「親戚と他人の境目かってくらい薄まった血でよければ繋がってると言えなくもねぇな」
「分かり易く言え」
「繋がってねぇよ」
そう答えたセスの補足によれば、そもそもこの王国の“貴族”の大半は高位であればある程にどこかしらで血が繋がっていることになるので広義的には皆親戚と言ってもあんまり差し支えないらしい。極論もいいところだが、いざとなったら家系図をめちゃくちゃ遡らなければ辿り着かないような縁であっても持ち出してくるのが王国貴族だ、と真顔で言い切る三白眼は更にそこから言葉を続けた。
「血統云々説明したところでテメェには理解出来ねぇだろうが、ノルンスノゥクの家系図調べたら遠い昔に俺の母親の実家と縁があったんだとよ。だがその血の濃さはさて置くとして、身も蓋もないこと言っちまうなら公爵家の養子として一番都合が良かったのが『セス・ベッカロッシ』だったってだけの話だ。心身ともに健康な家を継ぐ予定のない次男坊、加えて次期国王のレオニールとその婚約者にしてノルンスノゥク家本来の跡取りであるフローレンにとっては気心の知れた幼馴染………養子縁組でもう二度と下手を打てない崖っぷちの公爵家にはこれ以上ない良縁だ―――――そんな理由で決まっちまった。リューリがこっちに来る前の話だ」
別に、望んじゃいなかったのに。
そう聞こえた気がしたのはたぶん私の幻聴で、ただの思い込みだろう。当の本人は一言たりともそんな言葉を吐かなかった。声音こそ乾いていたけれど、そこには嘆きも恨みもない。不本意であっても受け止めて、決まったことだと受け入れている。そんな気配だけがある。
しかし何がどうなってそんなことになってしまったのかはまだ判明していなかったので、とりあえず聞いてみることにした。
「セスの養子云々以前にそのおっさんは何やったんだ?」
「最初の養子の育て方を盛大に間違えやがったんだよ………あー。そういやフローレンが話したって言ってたっけか。リューリの記憶に残ってるかどうかは正直なところ微妙だが………聞いたことねぇ? ビスケットに塗るジャム云々で揉めた菓子屋の馬鹿げた話」
自分が齧ったビスケットをちょうどいいやと言わんばかりに私の目の前で揺らしながら、意図も着地点もよく分からない話題をセスが振ってくる。うん? うーん、なんだっけそれ。聞いた覚えがあるような、ないようなあるようなあるような―――――あ。
「あー。分かった、思い出したわ。確かにフローレンさんが即興仕立てで話してくれた内容がそんな感じだったな。イチゴジャム塗る予定だったのにリンゴジャムを勝手に選んで捨てられちゃったビスケットの話だった気がするけど」
フローレン嬢に招かれたいつかの二人だけのお茶会で、冗談めかした口振りで彼女が話して聞かせてくれた、とある菓子屋の失敗談。お花畑の住民たちを勢い付かせた駄目な前例として教えてもらったその話の概要を思い出しながら、それがどうしたと視線で問えばセスは真顔で答えを吐く。
「おう。それな、この流れで言うまでもねぇかもだけど他でもないフローレンの実家の話なんだわ」
つまりはフローレン嬢のご実家である『ノルンスノゥク公爵家』のとんでもない醜聞であったのだ、と三白眼がぶっちゃけた。提供元である彼女本人から「どうしようもないおにいさま」云々との情報はもたらされていたので驚きこそはなかったが、セスの口から明言されるとなんだか不思議な気分になる。
ていうかフローレン嬢のおうちのお話だったんだなあ。他人事感覚でそうだったのか、へえ、みたいな感想しかない。なんなら食べ物で例えられたからギリギリ覚えていたくらいでそれを人間に置き換えて考えるなんて面倒なことするわけないじゃん、くらいの勢いで堂々と開き直りつつここは大人しく静聴しておこう。三白眼はクソ真面目なので真面目に説明してくれるのだ。真面目か?
「フローレンはノルンスノゥク家の一人娘だが次期王妃にと選ばれちまった。王族籍に入るなら当然公爵家は継げない。だからそうと決まるや否や、遠縁の―――確か子爵家だったか?―――とにかく縁戚から適当に見繕って後継ぎに養子をとったんだよ。フローレンより年上だったから形式的には義兄になったそいつの配役が『ビスケット』、『菓子屋』がノルンスノゥク家で『菓子職人』はノルンスノゥク公爵、『イチゴジャム』は政略で結ばれた義兄の正当な婚約者殿で『リンゴジャム』は―――――言うまでもねぇな」
真実の愛のお相手だ、とは流石に言いたくなかったらしい。セスの口からそんな単語が飛び出そうものなら私は笑う。そんな自信しかなかったのでひとつ真顔で頷いて、言いたくないなら言わんでいいぞと態度ではっきり示しておいた。あっちもあっちで頷き返したので意思疎通は成功した模様。
「たかが養子の分際で、婚約者差し置いて身分の低い男爵令嬢を選んだ義兄は使えねぇって放り出された。捨てられちまったそいつがその後どうなったかまでは知らん―――――分かってンのはただひとつ、ノルンスノゥク公爵家を継ぐ跡目の席が空いちまったことだけだ」
どこか小馬鹿にするように、露悪的な口振りで嗤う割には快も不快もない表情を浮かべるセスは焚火を見ていた。お茶菓子として二人並んで齧っていたビスケットの最後の一枚が私の方へと差し出されたので感謝を述べつつ抓み上げれば、不要になった包み紙を彼は無言で握り潰して容赦なく放り投げて火にくべる。
あっという間に炎に包まれ炭化していく可燃ごみから手元のビスケットへと視線を移し、かつての席でフローレン嬢から「余談ですが」と続いた話を私は思い出していた。
「菓子職人が大急ぎで新しいビスケットを探したら、なんやかんやで前より良い感じのやつが手に入ってお菓子屋さんはなんとかなりました―――――そう言ってたな。フローレンさん」
『リンゴジャムのビスケット』には優しくない流れだったと思うが、前よりも上質な一品を仕入れられることになったのだ、とあのフローレン嬢が話していたからには彼女か彼女の生家にとっての最悪は避けられたに違いなく―――――その皺寄せが誰に行ったのか、を想像するのは実に容易い。だってもう、答えはここにある。
「そうだな。実際、なんとかなった―――――なんとかするしかねぇんだから」
吐き捨てられた言葉は冷たい。激情も熱も何もないやたらと清々しい声で、けれど目一杯の皮肉を込めてセスは丁寧に音を並べる。本気で不本意極まりないと雰囲気で主張しておきながら―――――どこか、しょうがないみたいな顔で。
つまるところ『新しいビスケット』に当て嵌められてしまった彼は、感情の一切を排した様子で私に事実を告げたのだ。
「だから“俺”が養子になって、なんとかするしかなくなった」
「そうはならんだろ」
「真顔で言いやがる」
「そうはならんだろ」
「二回言いやがった」
「大切なことは二回言え、って何処かで誰かが言ってた気がする」
「そうはならんだろ、のツッコミがそんなに大切なのかよテメェ」
「だってそうじゃん」
「そらそうだけども」
言葉は勝手に零れて落ちる。上手く表現しきれないまま何も考えずに吐き出したところで程良く適当に転がって、会話のような遣り取りはいつものように成立していた。
「ところで公爵家の養子になったらお前の名前って『セス・ノルンスノーク』になるんだよな。正直語呂が微妙じゃない?」
「真っ先に語呂を気にするとは流石に思ってなかったわ。発音が微妙に違ェから正確には『セス・ノルンスノゥク』だけど」
「細かいことはいいんだよ誤差の範囲だろノークとノゥク」
「同感なんだがこれ間違えるとフローレンが五月蠅ェんだよ―――――今はともかく最初の頃は俺も作法に則ってノルンスノゥク公子呼びだったからな。家名も満足に発音出来ないなんて恥ずかしくてよ、とかなんとか子供の頃に散々言われたわ。つってもすぐに名前呼びになったから発音の件でお小言食らうなんざすっかりなくなって久しいけど」
「へえ、仲良しさんになる前はそういう感じだったんだなー………あれ? フローレンさんは名前呼びなのに同じ公爵令嬢のマルガレーテさんは名前で呼ばないってことはもしやそんなに仲良しではない?」
「むしろ仲良しだと思われてたことに驚きを禁じ得ねぇよ今。テメェに言ってもよく分からんだろうが幼馴染のフローレン経由でちょっとした顔見知り程度の付き合いしかない公爵令嬢を気安く名前呼びしていいなんてルールは“王国”内には存在しねぇ。分かり易く言えばキルヒシュラーガー公子と俺はそこまで仲良しじゃねぇしそこまで向こうのこと詳しく知らん。親密度で言えばまず間違いなくメチェナーテの方がぶっちぎってる………いや、そもそもあのプライドの塊みてぇな公子が慣例を脇に置いて『公女様』呼びで妥協してやってる時点でかなり異例っつぅか特例ではあるけどよ」
珍しいこともあるモンだ、言わんばかりの口振りでぼやいたセスが棒状のクッキーをナッツもろとも噛み砕く。焚火に薪を足す片手間で温かい液体を啜る私は、そんな三白眼を横目に見ながら思ったことをただ述べた。
「何がどう珍しいのかよく分からんけどそういやティト以外にマルガレーテさんのこと公女様って呼ぶひと居ないよな。あれってそんなに特別なの? ていうか今更なんだけど『公女様』ってなんなんだ? お前が言ってる『キルヒシュラーガー公子』とは何が違うのか全然分からん」
「マジですげぇ今更なことこのタイミングで聞いてきやがる………でもまぁリューリが知るわけねぇわな。まずキルヒシュラーガー公子の『公子』ってのは公爵家の子、ってそのまんまの意味だ。侯爵家の子なら『侯子』で伯爵家の子なら『伯子』になる。余談だがこういうのは上位貴族の子息令嬢に対する敬称であって子爵位と男爵位には適用されない。普通に子爵令息とか男爵令嬢とか呼ばれる―――――っつぅのが大前提だが、実はこれ“王国”が統一される前の時代から各地ごとにあった習慣なんだわ」
「各地ごとに」
「おう、各地ごと………つまりは東西南北の四大国ごとにあった習慣だな。だから『実子であれば性別は問わない』とか『養子はよくても非嫡出子は不可』とか『後継と届け出た者に限る』とか『女子の場合は名称が異なる』とか挙げるのもだるい差異の類がまあそれぞれにあったらしい。メンドクセェだろ」
「めんどくさいな」
「だから“王国”として統一する際ここぞとばかりに一律化されたわ。で、今は性別にこだわらず高位の爵位持ちの子は非嫡出子以外キルヒシュラーガー公子だのベッカロッシ侯子だのと呼ばれるようになったわけだが―――――キルヒシュラーガー公爵領がある王国西部、かつての西国では『公子』ってのが男子のみに許される呼称だったらしくてな。女子だと『公女』呼びになるんだとよ」
「なるほど。だからマルガレーテさんはよく自分のこと『公女』って言ってるんだな―――――っていいのかそれ。男女の区別なく呼んじゃえばいいって一律化した意味全然なくない?」
「そうでもねぇよ。結局のところはゼリーやジュレの言葉の違いと似たようなモンだ。王国ではキルヒシュラーガー公子呼びが一般的かつ正式だろうが『公女』は別に間違いじゃねぇし使ったところで咎められねぇ。一般的じゃないってだけで意味そのものは通じるからな。それはあっちも承知の上で、あの縦ロールの公爵令嬢も公子ではなく公女と呼べとは言い出さねぇし思ってもねぇだろ。ローカルルールだって分かった上で、それでも敢えて使ってんだよ。歴史と伝統大好きで誇り高ェからな、西方貴族―――――だから家名を省略した『公女様』呼びをもう長いことメチェナーテに許してんのが珍しいっちゃ珍しいんだわ。てっきり初回限定の特例措置かと思ってたんだが」
「慣れだと思うぞ三白眼」
「真理に至るなや白いの」
「それはそれとしてお前が嘘吐くとは微塵も思ってないけど“王国”のルール的に親しくもない間柄の公爵令嬢を気軽に名前呼びしちゃいけないならフローレンさんのこと名前で呼んでる“学園”の生徒のほとんどと私ってかなり駄目じゃない? ていうか逆にあの人のことノルンスノゥク公爵令嬢とかおうちの名前で呼んでる人を見たことない気がするのなんで?」
たかが同じ“学園”に籍を置いている程度、友人でもない顔見知り風情では公爵令嬢のお名前を気安く呼んではいけないのだという情報が正しいのであれば、ほとんどの生徒が(ルールに厳しいマルガレーテ嬢あたりに)怒られると思うのだがそんなことにはなっていないしみんなして普通に呼んでいる。
その発想に基づいて唐突に投げた問いに対して、傍らに座す三白眼は焼き菓子を齧るのを中断してまでこちらに視線を寄越して低く呻いた。
「分かっちゃいたが気になったことをその場その場で遠慮なく聞いてきやがるスタイル好奇心旺盛な幼児か白いの―――――フローレンが“学園”内で誰彼構わず『フローレン』で呼ばれる理由はアイツがレオニールの婚約者だからで、厳密に言えば遠くないうちに嫁いで“王族”になるからだな」
「なんやかんや言いながらやっぱり答えてはくれるよなセスって。どゆこと?」
「どうもこうもねぇ、読んで字の如くそのままの意味だ。家名の話がちょうど出たらついで感覚で言うんだが―――――そもそもこの“王国”の王族には家名ってモンが存在しない」
歴史書を紐解いて曰く、大陸中に犇めく国々を統一したこの“王国”の他に国というものは存在せず、従って唯一の王国を指す固有名詞などは必要ない。名前のない国。ただひとつのそれ。他に比較されるものがなければ区別のための記号に意味はなく、だからその国の象徴として新たに興った王家にもまた名前というものは存在しない。
そういう理屈で、馬鹿王子様ことレオニール殿下はただの『レオニール』なのだとセスは言った。
「名前のない王家に嫁いだ妃は王族籍にはなるものの、そもそも連ねる名自体ねぇからただの『フローレン』になるんだわ。だから婚姻で“王族”になるのが確定したその瞬間から生家の家名を敢えて控える。王妃になると決まったからには呼び手側の貴賤も立場も問わず、誰に対しても個人名の方で通して過ごすっつぅ慣習だ―――――正直それ何の意味があるんだよ、とは俺も思ってるから言わんでいいぞ白いの」
「何の意味があるんだその慣習」
「言わんでいいっつったろうが」
「あれか? 親しみやすさとかそういうのを培ってく的な?」
「単純に個人名だけになるから早めに慣れろとかじゃねぇ?」
「え、王妃様って国民各位に普通に名前で呼ばれる感じ?」
「そんな気安いノリじゃねぇ。普通に妃殿下とか王妃呼び」
「何の意味もないだろその慣習」
「だから言わんでいいっつぅに」
淡々とした応酬を途切れさせることがないセスは呆れる程に付き合いが良い。話が散らかり放題であると分かった上でこちらの質問に答えるあたりは相変わらずの生真面目さだが、最早なんの話をしていたのかも分からない有様で今更流れを本筋に戻すのも面倒だと物語る眉間には深めの皺が寄っていた。ごめんて。
「ごめんて」
「詫びが雑。許した。つぅわけで散らかり放題の話題を散らかしたままで進むわもう。とりあえずテメェに言っておかなきゃならねぇことを忘れないうちに伝えとく―――――この国の一部のお偉い方ども、俺にテメェを娶らせて“北の民”を王国に留め置く気らしい」
「いや帰るけど」
「知ってっけど」
お互いに何言ってんだ、みたいな気持ちが伝わってくるこの感覚をなんと呼ぼう。それも傍らの相手にではなくこの場に居ないお偉い方どもとやらに向けられたものだったので私たちの間に気まずさはない。あるのはただただひたすらに何言ってんだという困惑というか迷惑である。
「一部のお偉い方って誰だよ」
「国王とノルンスノゥク公爵」
「馬鹿王子様とフローレンさんの親御さん殴り倒したらセスのストレスちょっとは減る?」
「確実に減るけど面倒臭さが増すからあんまり大差ねぇ。あとテメェは殴るな。俺が先だ」
「やるなら自分の手で殴る。その心意気まさにセス」
「流石に最終手段だから初手で殴ったりはしねぇよ」
テメェほどシンプルにはなれない、と事も無げな様子で呟く彼は、それでも最終の手段としてなら暴力の行使を辞さないらしい。思い止まれるだけかなり偉いな。私なら秒で殴り倒して事が露見する前に全速力で故郷に帰るけれども。
「しかしなんでまた偉い人たちは“北の民”に残ってほしいんだろうな?」
「当然の疑問だがそれに関しちゃ思惑が散らかってんだよな………例えば国王と公爵じゃテメェを欲しがる理由が違う。前者については大方“北の民”っつぅ少数民族の血を国内に入れたいとかそのへんだろうな。お貴族様の蒐集癖なんざそれこそ珍しくもなんともねぇ。公爵の方はもっと単純に野心と保身と皮算用だ。最初は“王国”に初めて招かれた“北”からの賓客を娶った家としての話題性欲しさ程度だったが―――――あの野郎、今はリューリを公爵家に取り込みさえすれば“北の民”をやたらと気に掛ける北方大公閣下の態度も軟化するだろうと思ってやがる。最初の養子が『イチゴジャム』………よりにもよって政略で結ばれた北方大公家筋のご令嬢との婚約を駄目にした件でぎっちぎちに絞られてるからなァ、ただでさえ頭が上がらねぇ現状をどうにかすべく次代の公爵の伴侶に『リューリ・ベル』を据えて後継ぎさえ設けりゃ諸々全部が丸くおさまると馬鹿なこと企みやがったのさ」
しかし“招待学生”として王国内に留まっている“北の民”を表立って無理に囲い込もうものなら大公のばあちゃんこと“北の大公”の不興を買うのは明らかなので、“私”自身が自主的にこちらに残って暮らしたいと希望するよう手段を問わず篭絡しろ、と無茶振りされたのが事の顛末であるらしい。私が彼を川にぶん投げる切っ掛けとなった発言の意図がこれで判明したわけだがまったくもって嬉しくないしぶっちゃけられてもすっきりしない。
「下手すりゃ丸くおさまるどころか公爵家がひとつ消え去りそうなクソプロジェクトを発案したのはノルンスノゥク公爵だったが、それに国王が乗っちまったから大公家にはとても言えない非公式な重要案件として水面下で走り出しちまったんだよ。馬鹿馬鹿しいだろ? マジで」
なお、この件に関してはセスだけでなくフローレン嬢や王子様まで動員されてのクソプロジェクトだという話だったがそれを語る三白眼の顔は相変わらず快も不快もない底知れなさ漂う虚無だった。無表情でクソプロジェクトとか遠慮容赦なく口にしちゃうの個人的にだいぶ面白い。でも流石に今は言わないでおこう、珍しく空気を読むぞ私は―――――空気は吸うモンだと思ってるけど。
「そうか………それは無茶振りだったな………しかもお前だけじゃなくフローレンさんと王子様もか。ちなみにいつから?」
「最初っからだよ。それこそ“北の民”の子女を学生としてこの王国に迎え入れることが決まった頃からテメェとの接触は決まってた………まぁ養父殿に『世間知らずの辺境娘をなんとしても口説いて嫁にしろ』とか言われても素直に従う気皆無だったし、そもそも顔すら合わせないよう徹底して避けまくったモンだから偶然食堂で隣り合ったあの瞬間までテメェのこと遠目に見たことすらなかったわけだが」
「おっと。まさかの事実にびっくり。頑張って避けまくってたのにしれっと隣に座っちゃってごめんな?」
「謝らんでいい。むしろあの時はこっちがすまん。なんかウゼェのに絡まれたな、とか思ってミートパイから意識外したら視界の端に白いモンが見えてそっち向いたらフローレンからの伝聞そのまんまな白いのが普通に座っててンな偶然あって堪るかクソが、って内心キレてたせいで意図せず当たりが強くなった―――――やっと言えるわ。悪かったな。初対面だったのに喧嘩腰でよ」
「むしろそういう経緯でああいう態度だったのかって今更腑に落ちたんだけど………あれだな、あそこで偶然会ってなかったら私との遭遇回避記録更新してたんだなと思うと結構申し訳ない気分」
「はァ? 何言ってんだリューリ。どうせあのあと野外学習で強制的に面突き合わせることになってたんだからそんなモンもう誤差だわ誤差。ついでに言うと野外学習の班編成は仕込みだぞ、俺がテメェを避けまくって一向に出会おうとすらしねぇから痺れを切らせたフローレンにいい加減にしろってキレられた挙句絶対逃げられないようにってレオニール共々無理矢理組まれた。つってもまさかその前に食堂で出くわすとは思ってなかったが」
「偶然ってあるんだなあ」
「それに関しちゃ同感だ―――――偶然と言やあ、テメェが初見で俺をフローレンの弟っぽいっつったことには驚かされたな。公爵家に養子入りしてフローレンの義弟になる件は未だ公にはされてねぇのになんで知ってんだコイツって焦った」
「うん? ああ、それなんとなくだな。窘められてる感じっていうか、雰囲気とか遣り取りとかそういうの? あと髪の色がちょっと似てた」
「俺の地味な茶系統とフローレンの派手な赤系統じゃまるで似ても似つかなくね?」
「そうか? お前の髪って日に当たると割と赤っぽく見えるんだけど………初めて会った窓際席のときは茶色寄りの赤毛に見えたんだよ。“北の民”には色を表す言葉があんまり多くないから、何色って聞かれても困るんだけど」
目で見たものをそのまま伝えても、細かいところは伝えられない。どちらかというと髪色に関しては本当におまけでしかなくて、後付けと言われれば後付けで足したような気がしないでもない。フローレン嬢の髪の毛はいつかの自分がたまたま飲んだ紅茶によく似た色だったけれど、具体的にどういう色だと聞かれても答えに困るし正直分からん。
「というわけで、深い意味はない」
「知ってる。むしろあったら驚く―――――俺が言うのもまぁアレなんだが、テメェは俺とリューリの初対面から今に至るまでの大体がクソ上層部の意向を汲んだフローレンとレオニールの仕込みだって聞いたところで微塵も驚いたりしねぇのな」
「え。野外実習の班編成とかだけじゃなくて大体があのふたりの仕込みだったの? へぇ、なんかご苦労様です」
「反応が極端に薄いどころか完全に他人事じゃねぇかよ」
「どうでもいいなりに薄くても反応してるだけマシだろ」
「言えてる」
「ほらみろ――――と言ってもまあ実際にはよく分かってないだけなんだけども」
「安心安定の適当さだった。正直助かる。すげぇ楽。適当過ぎて口も滑るわ。ぶっちゃけついでに白状するが―――――『未婚の男女がふたりきり』っつぅこの状況が、そもそもおかしい」
異常である、とセスは言う。否定の余地のない断定だった。焚火に投げ込まれたビスケットの包み紙はとっくの昔に燃え尽きて既に灰の痕跡すらなく、薪を足したことによって勢いを増した火力がじりじりと肉の表面を炙っている。漂いつつある香ばしい匂いをどこか遠くに感じながらも、私はすっかり耳に馴染んだ三白眼の声を聞いていた。
「婚約関係にある男女であってもふたりきりになるのは褒められないのが王国貴族の常識だ。体面を重んじる高位貴族ほどその傾向は顕著で根強い。貴族階級と同じ空間で学業に励む平民も、“学園”内ではその常識を念頭に置いて過ごしてる―――――だから俺とテメェがたったふたりで監視の目もなくピクニックしてるこの状況は本来あり得ねぇんだよ」
言われてみれば宿屋のチビちゃんから教えてもらった創作界隈あるあるでよく聞く感じの常識だったが、しかし私たちの現状は鮮やかにそれを無視している。ていうか二人でピクニックしてきてとか言い出したのは王子様だしその場に居た誰も異を唱えなかったし食堂のおばちゃんたちに至っては忙しい最中に美味しい軽食をたくさん作ってこれでもかと持たせてくれている。なんなら早朝登校の生徒各位には行ってらっしゃい楽しんで来てねと和やかに送り出されたぞ。なんで? と素直に疑問に思えば、セスの答えは端的だった。
「だからフローレンの仕込みっつぅか裏工作もとい印象操作だ―――――俺とリューリの相性、遣り取り、それに対する周囲の反応。そういうモンを考慮して、あいつはかなり早い段階から俺らを『未婚の男女』じゃなく『気の合うきょうだい』に置き換えやがった。テメェの見た目が中性的で言動そのものが雑だったのもちょうど都合良く作用して、セス・ベッカロッシとリューリ・ベルはすっかり『仲良し兄弟』としてのイメージが定着しちまったんだよ。だから俺たちが一緒に居ようが、ふたりっきりでピクニックに行こうが『いつもの仲良しご兄弟だな』とかいうふざけた脳内解釈が働いて一切疑問に思われない………ンなわけねぇだろ常識で考えろ騙されてんじゃねぇよ他人だわ!」
言いたいからもう言っちまえ、みたいな態度が如実に表れたヤケクソじみた口振りの三白眼って珍しいなあと思いつつ突然の告白に付いていけない私を置いてセスは止まらない。止まるつもりがないらしかった。勢い任せだこんなモン、みたいな気迫で彼は告げる。
「なんでどいつもこいつもこう、あっさり納得してんだクソが。しまいには俺とテメェの接点をやたらと増やそうと暗躍してた張本人のフローレンでさえ感覚麻痺ってそういう視線を俺たちに向けて和んでやがった。好き勝手なことを囀りがちな親と舅に挟まれて、ついでに馬鹿の面倒も見て、アイツも大概多忙だったがいくらなんでも疲れ過ぎだろ。王国の常識なんざ知らねぇリューリはともかく他の連中はもっと勘繰れよ乗っかってねぇで疑問に思えよ、“学園”内ではそれで通っても一歩外に出りゃ通用しねぇわただ単純に未婚の男女がふたりで人知れず過ごした事実が残るだけだわ外堀の方から埋めるにしたって気に食わねぇし趣味じゃねぇ、レオニールもレオニールで『お膳立てはしておいたからこのあたりでひとつフローレンのためにも告白の実績解除よろしく!』とかアホなのかアホだったわクソがあの超絶大馬鹿エンタメ王子―――――まあ、それはそれとして、王国語で告白の意味は『心の中で思っていたことや秘密の類を隠すことなくありのまま告げる』だから開き直ってこうやって諸々ぶっちゃけてるわけだが」
他人事のように言い捨てて、セスはなんでもないことのように軽妙な口調で付け足した。ばちん、と焚火の薪が爆ぜたが、舞った火の粉はすぐ消える。
言いたいだけ怒涛の勢いで捲し立てた三白眼はそこでスンッ、と鎮静化した。相当なストレスが窺える。いつぞやのフローレン嬢を彷彿とさせる有様に閉口していた私は思わずついさっきセスにもらったまま口をつけずに持っていたビスケットをそっと差し出した。パイじゃないから今はいいと至極冷静に断られてもお前は甘い物食べた方がいいと思う。本当に。いや、これはマジで。
そんな気持ちで半分に割ったビスケットをそいっ、と口に捻じ込んだら諦めたのか大人しく噛み砕いたので一安心といえば一安心だが愛の告白を期待されといていざやったのは秘密の暴露とか思い切りが良過ぎるだろうがよ。正直だいぶ面白い。その極端さ嫌いじゃない。
ぼりぼりビスケットを消費したセスは飲み物で口を潤してから身体の向きは変えないままに首ごと私に視線を寄越した。そして驚きの真顔で言う。
「きょうだい設定にしておきながら人目のないところにふたりだけで出掛けて開放的になった挙句男女の仲に発展した、みたいな筋書き期待されてんの控えめに言って腸煮える」
「お前も大概ストレスフルだな」
「そろそろ実家より安心するわ」
「どういう意味だ」
「俺にも分からん」
「何それ」
「忘れろ」
「忘れた」
「秒で?」
こいつまじかよ、みたいな声で、セスが口の端を持ち上げた。やりたくもないことをやらされている負けず嫌いな三白眼は、隠し事をするのも馬鹿馬鹿しくなったとそれこそ適当に誤魔化せた筈の裏事情その他を暴露する程度には何かが許せなかったらしい。
言わない方が良かっただろうに、教える必要など無かっただろうに―――――真面目過ぎるだろ本当に、と呆れながらも残り半分のビスケットを三白眼の口に突っ込んだのはほとんど無意識の行動だった。
「うん。たぶんセスにはつまんないだろうけど話したい気分だから言っちゃうな―――――あ、でもごめん。ちょっと待って、ええと………山が突然水浸し、みたいな現象って王国語でなんて言うんだろ………こう、なんか山の上から水やら何やらどばどばしてきて迷惑なやつ………」
「あ? 適応力が試される突然の王国語クイズ笑う―――――たぶん土石流あたりだろうな。山津波、なんて表現も聞くが」
「じゃあヤマツナミってことでいいや―――――私が“王国”に行けって言われた切っ掛けになったのがそれなんだけど」
「へえ、そうかよそりゃま―――――なんて?」
適度に雑な相槌が、さっきの私に似た中途半端さでものの見事に失敗している。ビスケットを消費し終えたセスは心底困惑している顔で、突然なんだと言いたげにこちらのことを凝視していた。
「山津波が切っ掛けってマジで何だよ災害対策でも学びに来たのか」
「いや? どうもその現象を引き起こしたのが何処からともなく“北”に不法侵入した王国民の仕業らしくて証拠片手に族長が北の大公のばあちゃんのところに行ったらなんやかんやで私一人がこっちに来ることになったっていう」
「待て待て待て待てなんも分からんなんやかんやで片を付けるなさてはマジで言いたいことだけ考えなしに喋ってやがるな?」
「そうだぞ」
「知ってた。質問いいか」
「いいけどこれ以上雑な説明は私にもちょっと無理だと思う」
「雑過ぎてまったく分かんねぇから質問しようとしてんだわ。とりあえずテメェら“北の民”が山津波なんて自然現象を不法侵入した王国民の仕業だと思った証拠とやらが気になる」
「暫定犯人らしきヒト本体」
「言い方が不穏極まる物証」
「他にもいくつかのパーツ」
「表現に含みを持たせるな」
「“北”では見ない道具類」
「一番それっぽいのきたな」
「そういったものをいろいろと確認した北の大公のばあちゃんは『我が北方軍の目を掻い潜って不可侵領域たる“北”の地に破壊工作を仕掛けた馬鹿が出ただと!?』とめちゃくちゃ怒って関係者及び不届者の特定を約束してくれたらしいんだけど実はこれ内緒の話らしいからたぶん王様とかフローレンさんの父親公爵とかこのあたりの事情知らないと思う」
「そんな極秘の機密情報を雑談感覚で話すな白いの―――――その経緯からするとアレか、リューリはその件の犯人探しにこっちに来たとかそういうことか」
「いや? 北の大公のばあちゃんが王国民が迷惑かけてごめんってお詫びになんかいろいろ融通利かせてくれることになったから『それじゃあちょっとうちの若いのに勉強させてやって』みたいなノリで族長に送り出されただけだな。あ、衣食住いろいろお世話になるからちゃんと手土産は持参したぞ。それはそれだしこれはこれ、族長そういうのちゃんとしてる」
「陰謀の気配をにおわせておきながらンなモン関係ねぇとばかりにひたすらノリが軽いなオイ………」
脱力感に苛まれながらもしっかりと発音されたそれには気疲れ的なものが窺える。そして形容し難い顔で、私を一瞥して言った。
「いや、そもそも、いきなり何でそんな話をしたんだテメェは」
「うん? だってセスの事情だけ聞いて終わりじゃ不公平だろ」
単純に、気分の問題だった。個人的に落ち着かない。一方的に情報開示を受けるだけでは釣り合わない―――――理屈はともあれ感覚的にはそれがすべてだったから。
特に気にせず話題を選んで、考えなしに喋っている。
「お前の話を聞いたから、私の事情も言おうかなって」
言ってしまえばただそれだけで、大した理由らしきものはない。行ってきな、と送り出されたから今の私はここに居る。異郷の地を踏むに至った理由は確かにあるにはあるのだけれど、そこに私個人の意思は入っていないし関係ないのだ。
「と言っても私の事情じゃなくて大体は“大人”の都合だけどな―――――お前もそうじゃん、結局は」
知るかよって話じゃない?
感じるまま、思うまま、行き当たりばったりでしかないこちらの台詞をどんな気分で受け取ったのか、笑いを噛み殺し損ねたみたいな顔をしたセスが小さくこぼす。
「そういうとこだわ」
「どういうとこだよ」
「説明出来ねぇ」
「じゃあいいや」
説明出来る類のものならちゃんと答えるだろうから、無理なら無理でしょうがない。そういう理論で引き下がったら三白眼は今度こそ堪える様子もなく大いに笑った。大自然の真っ只中で、誰に憚ることもなく。
「笑えるくらいにブレやしねぇ―――――興味ねぇことは興味ねぇってあっさりしたスタンス一貫してんな」
「あれ。否定はしないけどなんかちょっと違う気がする」
じゃあいいや、と告げたのは興味がないから別にいいですみたいな意図ではなかったために小首を傾げる私だったが、それを説明する前に三白眼をきょとんとさせたセスの突っ込みが飛び出した。
「テメェが食い物でもないモンに興味持つとかあるのかよ。腹の足しにもなりゃしねぇ俺や他の連中のことなんざクソ程の興味もねぇだろリューリ」
「理解度が高いな三白眼。それはそう―――――ではあるんだけれどもよくよく考えたら公爵家の養子になるのが決まってる身の上でそれでもクソとか平気で言っちゃうお前のその生き様大丈夫なの? 嫌いじゃないけど怒られない?」
「ああ、これな。知っての通りフローレンには渋い顔されてるし将来の養父の公爵閣下には即改めろとか命令されたけど『急に私が口調と態度を改めようものならそうせざるを得ない何かあったのだと勘繰られる可能性が高いのでは?』『貴族らしい振る舞いを心掛けた結果セス・ベッカロッシ侯子宛ての縁談が増えないとも限りません』『粗野粗雑粗暴な貴族らしくない男のままで通していた方がなにかと好都合では?』とかなんとか屁理屈ひたすら捏ね回してたら学生のうちはまあ許されるし正式に養子の件公表するまではこのままでいい、って言質取ったわ」
「お前も結構フリーダムだよな」
「テメェに言われたくはねぇな」
しれっと答えるセス曰く、卒業するまで養子の件は秘匿事項として扱われることを精一杯利用する方向で抵抗を試みたらしい。侯爵家の出身で顔が良くても素行もとい態度がちょっとアレなので心理的にかなり近寄り難い、と“学園”内外に浸透している今の状態を維持した方が公爵家にとっても好都合ならそれでいいだろを押し通す姿勢と度胸は素直にすごいな。
「実際、俺がいきなり貴族っぽさ全開で畏まった態度になったら妙だろ―――――『セス・ベッカロッシ』のノルンスノゥク公爵家への養子入りは既に決まったことであれ、その配偶者に誰を据えるかは諸事情あって一向に決まる気配がなかったもので。学生の身分を利用して次期公爵との縁を得ようとする面倒な者どもを寄せ付けず、また一人目の養子と同じ失態を犯すことなどないように―――――狂犬扱いされたまま、男女問わず遠巻きにされてる方が楽だったからそうしただけだ。やろうと思えば繕えるだけの土台はあるからギリ許された」
「ギリギリだったのかよ三白眼。ていうかそもそもお前って高位貴族の生まれだろ? なんでそんな普通に口悪いの?」
「ガキの頃、それこそ木剣振り回し始めたくらいから実家の伝手で騎士団の訓練に混ざってたらまあこうなった。第四騎士団は貴賤度外視の実力主義が徹底してて、負けず嫌いのクソガキに根気強く付き合ってくれる気の良い連中ではあったんだが言動が荒っぽいのなんの………親が寛容じゃなかったら、今の“俺”はなかっただろうぜ。姉上に至っては『口の悪さで擦り寄ってくる愚者どもを片っ端から跳ね除けておいき!』とか完全に面白がってたけど」
「あ、姉上呼びなんだ」
「気にするとこそこか」
「お姉さん強そう」
「癖と我は強ェな―――――逆に兄上はちょっと穏やか過ぎるくらいにのんびりした気質のお人だが、弟がこんな有様でも『元気良く健やかに育ったなあ』で済ませる緩さはどうかと思うわ。能力値は心配ないとしても性格が跡取り向きじゃねぇ」
「他所の公爵家の跡取りになる予定の三白眼が何言ってんだ?」
「必要に応じて適切な態度に切り替えられれば問題ありません」
しれっとした表情を崩すことなくお貴族様の子息が宣う。これもセスには違いないが、見慣れないから違和感しかない。時間が経てば薄れて消えて、何も感じなくなるのだろうか。その猶予は私にはないけれど、彼を知る“王国”の人々にはそれがあるからきっとそうなる。
いつかの未来に、セスは消える。私の知っている三白眼が新しいなにかに置き換わる。
「なんてな。なんだかんだ言ったって、結構自由に好き勝手してここまで育った自覚はある………いろんなモンに恵まれてた上、俺ァかなり運が良かった。このまま気楽な次男坊らしく、自力で騎士爵あたり賜って生きていけたら上等だ―――――なんて思ってたんだがなあ。気付いたらそれどころじゃねぇわ」
人生設計が狂いに狂った、と冗談めかした彼の口調には皮肉も悲哀も何もない。身の上話をするような親しい間柄ではなくてもその程度なら勘で分かった。大人の事情を受け入れている。そうあるべし、と望まれて、こうあるべきだと己を定めた。もう決まっている話でしかないそれを私は聞いている。
聞いてしまった―――――だから。
「人生設計が狂った話なら私にもあるな―――――聞く気ある?」
「まあそれなりに………『アゥ』から『ベル』になって上の都合でこの王国に来た他にもそういうのあるのかよ、リューリ」
「あるぞ―――――あった。これを他人に雑談のノリで言う日が来るとは思わなかった、くらいのやつが、ひとつだけ」
「待てそれ絶対ェ間違いなく俺もとい“王国民”に言わん方がいいやつ」
テメェが前置くとかよっぽどだろうが! と険しい顔をしたセスの制止はあんまり私に響かない。届いてはいるが前言を撤回する程のことではないので明るく爽やかに肯定する。
「だろうな。だから言ったことない」
「だからなんでそれを俺に言う!?」
「え? さっきと同じだけど」
呆れる程に単純で、馬鹿馬鹿しいくらいシンプルで、捻りも何もありはしない。言っても良いか、と思っただけで、それ以外に理由は必要なかった。
「お前自身のこと聞いたんだから、私個人のことも言わなきゃバランス悪いだろ。それだけ」
セス以外の誰かに言う気はないけどお前が喋りたきゃ言ってもいいよ、と付け足した台詞を言い終える前に三白眼が息を吐く。やたらと大きな溜め息だった。ついでにちょっと長かった。肺の中の空気と一緒に何かを全部吐き出すような、そんな動作を終えたセスは物言いたげな眼差しを私に突き刺して「そうかよ」と静かに言う。
「言いたきゃ言え、聞いてやる―――――気が向いたら墓まで持ってくわ」
そうやってちゃんと言葉にするからお前は真面目が過ぎると思った。
なんて? と思いながら振り落とされずにここまで辿り着いてくださったあなたさま、本当にありがとうございます。
ここまで来たなあ、みたいな気持ち。
【お知らせ】
主人公のぶっちゃけは物語の都合上この後しばらく開示されませんので悪しからずご了承ください。




