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18.フルコースだからいろいろある

大変ご無沙汰しております。

更新するたびに最長記録とぐだぐだ記録も更新されていく不思議。

つまりはアホ程嵩張っている混沌闇鍋全部盛り。

心身共に気力十分でしっかりと睡眠時間を確保した上でお楽しみいただけますと幸いです。

真っ白なテーブルクロスには染みのひとつも見当たらず、ぴしっと丁寧に整えられた表面には綻びも皺のひとつもない。これも一つの技術であると素直に感心する反面、ほぼほぼ十割の確率で数分以内に汚してしまう自信があるという褒められない理由で私の気分は暗澹としていた。

楽しい筈の時間であり、何よりの幸せでもある時間が、今日に限っては始まる前から苦痛であるという現実がまったくもって喜ばしくない―――――それでも、自ら望んだ以上、敵前逃亡という選択肢だけは取らない矜持もあったけれど。


「わぁ。食事の時間を前にしてリューリ・ベルの目が死んでる。分かってはいたけど心が痛い」

「静かになさって、馬鹿王子。場当たり的かつ安易に滑る口など今は不要でしてよ―――――良心の呵責に耐えているのが貴方だけだと思ってますの?」

「うん。一応言っておくけれどフローレンの口も滑ってるぞう。可哀想だと思うなら止めてやればよかあっとごめんなさいすみませんテーブルの下で足を踏むのは止めてもらっていいかフローレン痛いからそれ痛いから貴族令嬢のプライドを具現化したが如きハイヒールの加重一点集中は流石に骨折の危険性!」

「まあ、冗談がお上手ですこと。厳密にはハイヒールと呼べる高さのものではありませんのでそこはご安心くださいまし」

「何一つ安心出来ないんだけれどもお前なら別に見てなくても骨と骨の間を狙って踏めそうだから骨折まではさせないだろうなあって思ってる自分なら居たりする」

「真顔で何を言っていますの」

「圧倒的信頼感に基づく錯覚」

「さようで。どうやら大変に鮮明な錯覚のご様子。凡才に過ぎないこの身では殿下の深いお言葉が十分の一も理解出来ず、まことに申し訳ございません」

「あっこれガチな方の拒絶だ! 純然たるドン引きの気配を察知して“王子様”だいぶ悲しくなっちゃう!」


お向かいあたりのテーブル席がなんだがいちゃいちゃしているが、私の視線はあくまで自分の目の前にあるお皿その他から逸らせないし動かせない。ついでに言うなら元気もない。

真正面の位置に大皿がひとつ。それから左右に展開するよう等間隔で置かれているのは銀色に光る食器類で、左手側のフォークと右手側のナイフはそれぞれ三本ずつ用意があった。お皿の上側には小さめのスプーンがぽつんと一本だけ置かれ、場所のせいかサイズのせいかそれとも横置きなせいなのかやけに仲間外れに見える。デザート用だと聞いていた。右側にある大振りな方はスープに使うためのものらしい。

ナイフとフォークを使う順番は常に外側から一本ずつ、運ばれてくる料理ごとに一回ずつとっていけばいいという―――――のだけれども、今回はお試し版とやらでメインの肉料理しか出ないらしいのではっきり言ってそのアドバイス役に立ってないにも程がある。

後悔しても始まらないならそんなものはするだけ無駄だし意味も価値もないけれど、それはそうだと理解した上でしかし私の口は滑った。どの口でそれをほざくのか、と自覚した上でなお勢い良く。


「確かに『フルコース料理に挑戦してみたいからテーブルマナーとやらが知りたい』って言ったのは私だな、私なんだけども―――――お試し版って言ってたのになんでこんな食器多いんだよメイン料理一品しか出ないならこんなにずらずら並べる必要まったくないじゃん王子様。どうしてわざわざセッティングした? 嫌がらせなら大成功だぞ良かったなふざけんなクソかよクソ王子」

「わぁナチュラルに口が悪い。それはあんまり褒められた言葉遣いじゃないやつだからセスの真似するんじゃありません。というかお前、リューリ・ベル。さてはフローレンが怖いからって私の方に文句を言ってるな? でも聞かれたから答えちゃう、もちろん嫌がらせなわけないだろう王子様そんな面白くないことしません! と、それじゃぁどうしてわざわざ使う予定も無い食器をこんなにもいっぱい置いてるかって? ぶっちゃけ見ての通りだぞう、こうすることで練習モードでもそれっぽい雰囲気を醸せるからだ。北の大地で元気一杯狩猟民族やってたお前にいきなりぶっ通しのテーブルマナーは敷居も難易度も高過ぎる、と事前に伝えたとおりの配慮というか何というか………前菜からデザートに至るまでの各工程を分割して焦らず慌てずひとつずつ、まずはメインのお肉料理をスムーズに切り分ける練習から始めていくついでに視覚的にも慣れてもらおうかなと思ってちょっと置いてみたわけなんだが―――――失敗だったっぽいので下げよう」


躊躇なくしれっと長々しい台詞を言い終えるが早いか、王子様はそのままの流れでぱちんと軽やかに指を鳴らした。給仕役として控えていた十三番さんが素早く動き、私の前に並べられたいくつもの食器を回収していく。ナイフとフォークとデザートスプーンがひょいひょいと拾い上げられていく光景の向こう、テーブルを挟んだ対面席では並んで座った王子様とフローレン嬢が何やら意見の交換をしていた。


「ほら、私の言ったとおりだろう? いくら自分から言い出したとはいえ、やっぱり最初は初級も初級のナイフとフォークの使い方講座くらいから始めさせた方がいいって絶対。お前だって私以上に分かっている筈だ、フローレン―――――ここで苦手意識が凝り固まって『もうやだ』とでも思ってしまったら最後、この北のフリーダム代表がいろいろ面倒臭いテーブルマナーについて知りたいだなんて言い出す奇跡は二度とない、と」

「珍しく………ええ、本当に、珍しく。今回の件に関しましては殿下のお言葉が正しいようで………私が性急に過ぎたのだと認めざるを得ませんね。せっかくリューリさんが王国料理の『フルコース』に興味を示して自らテーブルマナーを学びたいとやる気を出してくださったのに、練習感覚で並べたカトラリーでそれを削いでしまうだなんて馬鹿馬鹿しいにも程があります。ここは殿下のプラン通り、ナイフとフォークに慣れるところからゆっくりと始めていただきましょう―――――ところで貴方はその思慮深さを普段はどちらに置き忘れているので?」

「はっはっは! そのあたりは“王子様”として失くしちゃ駄目なやつだとは昔からお前に嫌という程言い聞かせられて育ったからな、フローレンが張り切り過ぎちゃうとき以外は大事にしまってあったりするぞう! 主に自室のクローゼットとかに!」

「失くさないのは大前提として毎日忘れず肌身離さず持ち歩きなさいまし馬鹿王子」

「乙女の涙を拭うためのハンカチーフなら常備しているがフローレンのために差し出す機会が昔も今も無さそうなので最近手ぶらを検討している」

「手を洗ったときに困るのが目に見えていますので止めなさい」


目線がどこまでもお母様のそれぇぇぇ、という尾を引く感じの世迷言がどこからか聞こえてきたけれど、フローレン嬢の整ったお顔はぴくりとも反応しなかったのでたぶん幻聴の類だろう。そう思い込むことにした。


「というか、貴方。レオニール。どうせ口で言っているだけでそんなことはしないつもりでしょう? エチケット面を疎かにする“王子様”だなんてイメージ戦略的に美味しくない愚行、いくら貴方がトップオブ馬鹿でも到底するとは思えませんもの」

「えっ、なんか今日フローレンがちょっぴり私に優しい―――――フローレンが私に優しい!? なんで!? どうしたフローレン、もしかして日々蓄積するストレスその他がキャパオーバーして流石のお前もお疲れモード!? シンプルに体調大丈夫!? リューリ・ベルが自分からテーブルマナーを学びたいとか突然言い出したことも含めてもしやこれは天変地異の前触れ的なサムシング!?」

「お黙りになって馬鹿王子。喋るのを止めるか呼吸を止めるか好きな方を選びなさい」

「静かにするから息の根までは止めない方向で許してフローレン」

「ええ、よくてよ。それでは殿下、心置きなく生命活動の維持にだけお努めくださいましね」

「わーい、マジで呼吸だけしか許されてないパターンだコレ! 良かったいつものフローレンです!」

「発声器官の使用については許可していなくてよ馬鹿王子」


笑顔なのに圧がすごい! と、声なき声が聞こえた気がした。完全に気のせいだろうけど。

目の前で大変仲良しさんしている王子様とフローレン嬢だが彼ら越しに見えた向こう側では結構な数の卒倒者が出ている。テーブル席に腰掛けたまま、或いは普通に床の上、力なく倒れ伏している生徒たちの存在をただの背景として処理出来る程度には慣れてしまっている自分が居た。

呻き声のような呪文のような何かが後方からもちょっと聞こえてくるのでたぶん私が目視出来ない後ろ側も似たような感じだろう―――――というかぶっちゃけ食堂でそんな軽率に死なないでくれ。倒れてもすぐに起きて欲しいし可能なら倒れないで欲しい。食堂のおばちゃんたちが困っちゃうだろ止めてくれ起きてくれ全力で。

生きてりゃ人生いろいろあるけど強くしぶとく逞しくとにかく図太く生き残れ、とは“北の民”の基本理念である。倒れたら倒れたままでいい、なんてそんな優しさは廃れてしまった。王国側で“北”の理屈は適用されないとは知りつつも、食事をするための公共の場をこよなく愛する身としてはそう願わずにはいられない―――――寝てる場合か腹減り学生。どうしても眠気に勝てない人以外はとっとと起きてランチを食べろ。


「はい。お待たせしました、リューリさん。殿下が静かになったところでテーブルマナーのお勉強がてらに楽しいランチと致しましょう。その前に、軽く説明を―――――事前にお伝えしましたとおり、リューリさんにいきなりフルコースを捌くテーブルマナーを詰め込むのは得策ではないと思われます。ので、今回は体験版ということで………貴女が一番苦手とするであろう、メイン料理をナイフとフォークでいただく工程を頑張ってみましょう」

「ちなみにこれは余談だが、敢えて一番の難関であろうメイン料理を最初に持ってきた理由としては『これ以降リューリ・ベルがテーブルマナーに興味を失くして手を付けなくなってもとりあえず一番肝心な部分だけは何となくでも残るようにしておこう』と合理性を重視した結果だぞう。初っ端からもう嫌だってなる可能性が高いというリスクがあったとしても、お前相手ならそっちの方が得るものは大きかろうという判断だ」

「誰が喋っていいと言いましたか殿下」

「あっとしまった許可制だった」

「貴方に私が求めているのは発言を求める挙手などではなく沈黙という美徳ですが」

「美徳ってそんなフローレン、お前ともあろう女がどうした? 冷静によく考えてみなさい―――――まったく喋らない私なんてただの瑕疵の見当たらないイケメンだから美徳と美貌がタッグを組んでもはや最強の“王子様”では?」

「自己肯定感の異常な高さと前向きに過ぎるメンタリティは現時点で既に最強でしょうが今すぐ前方をご覧になってポジティブシンキング馬鹿王子」

「前方ってそれフローレンじゃ………ないな違うなこの場合は向かい合って座ってる構図のリューリ・ベルだなオッケー分かった私が悪かった話を脱線させかけてごめんなさい反省してます怖い! ナイフとフォークを装備した狩猟民族の圧普通に怖い!!!」


血相を変えて叫んだ王子様はそれっきり驚くほど静かになった。エンターテイナーとしての性質よりも生存本能が勝ったらしい。生物としては正しい選択なので己の危機管理能力がきちんと発揮されたことについては胸を撫で下ろしていいと思う。今更過ぎる気はするけれど、無言無表情でナイフとフォークをそれぞれ両手に携えてじっと視線を注ぐ私を前にこれ以上騒ぐのはよろしくないと即断したそのスピードは素晴らしい。

いや別にお前を今から解体して食う、みたいな目なんてしてないけどな? 聞こえてんぞこらトップオブ馬鹿。残念ながら耳がいいから囁き程度でも聞こえちゃうんだよ。

フローレン嬢が小さな吐息を悩ましげにふぅ、とこぼした後で、気を取り直して話は続く。


「失礼、話が逸れました。とりあえずリューリさんはナイフとフォークを使ってお肉を食べてみてください。そして、食べながらで結構ですので―――――対面で食事を摂る私たちを、なんとなくでいいので観察してください。メイン単体のリューリさんとは別で、私と殿下にはフルコースと呼ばれる料理が順々に運ばれるよう手配しています。各工程の解説も交えつつゆっくりと進行する予定ですので、参考までにご覧くださいまし」


わかった、と了承の意を示すべく無言で首肯した直後、座っているだけでも場に華やぎをもたらす派手系美人のお嬢様筆頭は短く二度手を打ち鳴らした。ぱんぱん、と響く乾いた音が開始の合図であったらしく、それまでテーブル周辺に居ながらも存在感を抹消して控えていただけだったチーム・フローレンのお嬢さん方が無駄のない行動を開始する。

ところで平然と給仕役を買って出ている彼女たちだって実際は相当なお嬢様なのではないかと思いつつ今更過ぎて口に出す機会がなかった。しかも全員自主的に、むしろ競い合う勢いで快く引き受けているというのでそうなんですかお疲れ様ですと敬意を示す他に道はない。そのために自分たちのランチの時間をもずらしているという彼女たちの心意気にはある種のプロ根性的なものを感じる。

そうしてやっと始まったテーブルマナー体験版、前菜だとかスープだとかその他諸々の工程を吹っ飛ばして私の前に供されたのは大皿にのった分厚いお肉―――――ではなく、でっかい肉塊だった。


「お待たせいたしました。こちらがリューリ嬢の本日のランチ、牛肉のワイルド・ステーキでございます」

「シンプルにすごいお肉が来た!?」


すっ、と滑らかに配膳をこなしてくれる十三番さんの口から放たれたインパクトしかない料理名と、それに恥じない存在感。隠しきれない驚愕が素直に口から飛び出していく。聳え立つ、という表現が一番しっくりくるような超重厚な存在感と異彩を放つお肉の塊が予想の埒外過ぎて素でびっくりした。話に聞いていたフルコースとはイメージが違い過ぎてびっくりした。

視覚の暴力とも言える質量に心を乱されたのは私だけではないらしく、王子様は目を輝かせて楽しそうにこちらのランチを見ている。それに対してフローレン嬢からは表情らしい表情というものがごっそりと抜け落ちた状態で、信じられないものを見るような異物に向ける眼差しをワイルドなステーキへと注いでいた。

王子様やフローレン嬢の反応はなんとなく分からないでもない。上手くは表現できないが、なんていうかもっとこう、私だってお貴族様たちが上品にいただく優美かつ洒落ていながらも凝りに凝ったようなまとまりあるものを想像して構えていたくらいなのだけど―――――正直ちょっと、気が抜けた。

“北の民”には馴染み深い獲れたて解体したてみたいなやつを“王国”の食堂で目にしようとはまったく思っていなかったので。

が、だからと言って至近距離で声量をまったく加減していない心の叫びを浴びせてしまった十三番さんに謝らなくていい理由にはならないのでそこは即座に謝罪する。ごめんなさい鼓膜は無事ですか。


「ああ、どうかお気になさらず。私の聴覚には何の問題ございませんので―――――どうぞ、お食事をご堪能くださいまし」


にっこり笑って許してくれたお嬢さんの心は広い。そして意外と鼓膜が強い。

建前も打算も感じさせないごくごく自然な態度と声音で私にお肉を促して、彼女はさっとテーブルから離れて己の待機位置へと戻った。不慮の事態にも動じない胆力とゲストへの細やかな心配りはもう長いことこの仕事をしていますという安定感に満ちている。同年代のお嬢さんだろうになんかもうすごいとしか言えない。


「食堂スタッフに本日のメニューを発注した殿下にお聞きしますけれど………テーブルマナー体験という主旨を理解しておきながら、どうしてリューリさんの昼食にアレを選んだのか答えなさい。理論的かつ簡潔に、私が納得出来る理由を可及的速やかに述べなさい。十秒以内に答えなければ貴方のランチは彼女の胃に消え明日の正午を迎えるまでは水しか飲めないと覚悟しなさい馬鹿王子」

「場合によっては容赦なく一日絶食させるぞという静かかつ確かな怒りを感じた。理由があるので聞いてほしい。簡潔に言えばアドバイザーの意見を反映した結果だ―――――お腹を空かせた状態で、ただでさえ慣れないことやろうとした結果満足な食事にありつけず更に空腹を募らせて気が立って余計に上手くいかない、という悪循環に陥らせないためには最初っからある程度食べ物を与えておいた方が効率的だし本人も割と機嫌よく頑張る気がする、という助言を参考に『とにかく一皿でお腹いっぱいになれそうなお肉料理お願いします』と食堂スタッフにオーダーした結果があちらになります説明終了」

「オーダーの内容はともかくとして、思いの外きちんとした理由があったので一日お水だけダイエット体験は無しの方向に致しましょう………ちなみに、聞くまでもないとは思いますけれどもその助言をしたアドバイザーというのは?」

「リューリ・ベルとパスタとフォークをなんやかんやで和解させたセス」

「聞き入れた方がいい助言であると疑う余地がないことは分かりました」


しれっと答える王子様にしれっと返したフローレン嬢だがそのタイミングで誰かの奇声が轟く。しかし二人は気にしなかった。私も無視することにした。安心安定のお兄ちゃんなど私には存在した記憶がない。


「納得してもらえて何よりだ。とはいえ、私もまさかフルコースではまずお目にかからないような分厚いどころじゃないレベルの超重量級ステーキが出て来るとは思っていなかったというか………単品でもお腹いっぱいになるやつ出してあげるから挫けず前向きに頑張ってみようね、という食堂のおばちゃんたちの激励とアシストが熱いを通り越して強過ぎる」

「と、言いますか、あれはもしや切り分ける前のブロック肉そのままなのではなくて………? あんなに存在感に溢れたお肉の塊ではいっそ逆に食べ難いのでは………いえ、そもそもナイフとフォークでどうにか出来る物量ではない気がしてしまいますけれども」

「それな。流石の私もちょっと分かるぞう! あれを優雅に完食してみろと言われた日にはナチュラルに困惑すること請け合いだが心配するな、大丈夫―――――リューリ・ベルという狩猟民族の解体技術というか本気を信じろ」

「解体技術とテーブルマナーはまったく別物でしてよ殿下」


その場のノリで軽率に適当なことを言わないように、と王子様を咎めるフローレン嬢だが、そんな次期国王夫妻の遣り取りの妨げになどならない自然さで手早く料理を配膳して去る十一番さんと十二番さんもまた給仕のプロの風格だった。チーム・フローレンのお嬢さん方は本当にどこを目指しているのかちょっと気にはなるけれどもそんなことよりランチにしよう。

でっかいお肉の塊が、私のことを待っている―――――食堂のおばちゃんたちが手掛けただけあって“北”でよく食べた獣肉とは違うちゃんとした料理に昇華されていたが、その質量とインパクトにおいては故郷を思わせる懐かしさのようなものがあったので。

自分から言い出しておきながらちょっと萎んでいた心が、楽しくなって上を向く。


「お肉の塊、いただきまーす!」


食前の祈りを簡単に済ませて握り直したナイフとフォークが、磨き抜かれた銀の光沢をきらりと反射して煌めいた。高揚した気分のままで繰り出した左手のフォークの先端が、紳士淑女とは無縁の豪快さでぶっすりとお肉に突き刺さる。次いで右手のナイフを持つ手を力強く押しながら滑らせていけば、肉塊から綺麗に二つに割れた。畜産のプロが大切に育んだ牛さんの肉質と食堂のおばちゃんの調理技術のおかげか、さしたる苦もなく切り離された柔らかいお肉は断面の赤身も鮮やかで綺麗だ。

けれど元のサイズがでかいので二つに割ってもまだ大きい。いつもだったらこの状態でも余裕で食い千切りにいくのだが、テーブルマナー云々を教えて欲しいと頼んだ手前それはやっちゃ駄目なやつだろうともう少し切り刻むことにする。すかさず待ったをかけたのは、前菜に手を付けようとしていた目の前の王子様だった。


「よーし期待を裏切らないリューリ・ベルそこで一旦ストップ! 刃物とはいえ食堂備品のナイフを一回動かしただけでどうしてブロック肉が両断されるのかまったく意味が分からないけれどもお勉強の時間だ! 悲しそうな顔しないの!!! しょうがないでしょお肉の切り方にもマナーってものがあるんだから!!!」


そう言われてしまっては大人しくせざるを得ないので、お肉をさらに細かく分割しようとするのを中断した私は視線を王子様へと向ける。こちらの反応の素直さに対してか鷹揚に頷いた彼は、フローレン嬢をちらりと一瞥し彼女の許可が下りたのを確認した上で口を開いた。


「はい、それじゃぁお肉の切り方のマナーについて手早くピンポイント・アドバイス。まず第一にリューリ・ベル、お肉の種類や大きさに関係なく“ステーキ”と呼ばれる肉料理を最初から真っ二つにしちゃいけません。ステーキ肉を食べる場合はフォークを持った左手側から一度に食べる分だけを一切れずつ逐一カットして食べるのが一般的なマナーだぞう―――――あと聞かれる前に答えておくが、そんな面倒なことしなくても最初から全部一口大に切っておいた方が効率的だし食べやすいじゃんとか如何にもお前が言いそうなことは口にしない方がいいと教えておこう。たぶん後悔しかしない」

「なんでだよ。あらかじめ全部切っといた方が絶対楽だし無駄がないだろ」


王子様にそう言われると何となく反発したくなる。そんな感情に正直に思ったことを口に出せば、彼はすぅっと憐れむようにわざとらしく目を細めてみせた。


「ステーキ、というものはな、リューリ・ベル………一度切り離してしまえばそこから肉汁が逃げていくものだ。お肉本来の旨味を閉じ込めた美味しい美味しい肉汁が、最初に細かくカットした分だけどんどんこぼれ出てしまう。しかもカッティングされて小さくなったお肉たちはその分冷めやすくなって、ただでさえ半減した美味しさが更に損なわれていくんだ―――――食堂のおばちゃんたちが丹精込めて焼いたお肉を、美味しく食べてもらえるようにと絶妙の火加減で美しく均等にじっくりと焼きを入れてくれた心尽くしの一品を、最も美味しい状態で食べる努力をするのもまた“マナー”のうちだと思うんだが?」

「全面的にごめんなさい! これは私が間違ってた! しない、細かく切るの絶対しない!!! ちゃんと左側から切ってベストに美味しい状態で食べる旨味も肉汁も無駄にはしない!!!!!」

「よしきた理解が早くて何より! あとカッティングは一口サイズに無理なく食べられるよう切りましょうとか細かいこと言うとキリがないけどブロック肉を前にそんなこと並べ立てるだけ野暮な気がするからとにかく今は食べちゃいなさい―――――はい言いたいことは分かってるけど目が怖いぞうフローレン。まぁ聞いて? フォークを握り締めないで? 今はリューリ・ベルの食欲をある程度満たすためのフェーズだと割り切った上で考えて? めんどくさそう、って倦厭してた割にはさらっとナイフを使い熟して肉塊ステーキ解体ショーとか出来ちゃうあたりはフェアリーじゃなくてガチハンターなリューリ・ベルの技量を見るに、特にカトラリーの扱い方を指導する必要はなさそうだろう? だったらまずは好きに食べさせて機嫌を良い感じに保っておこう。そのためのブロックなお肉だと貴族社会のお約束は一旦テーブル端に寄せておこう。そして何より今この状態ならきっとコイツはフルコース関係の豆知識を披露してもちゃんと聞けると思うぞ? チャンスでは? 今がベストでは? そしてその機を逃すようなフローレンではないのでは?」

「さては貴方いつも以上にご機嫌ですのねハイテンション馬鹿」

「私はいつだってテンション高めでご機嫌な生き様が自慢だが」

「それに付き合い続ける私はすこぶる不機嫌なのですけれど?」

「機嫌を損ねまくっている自覚はあるが、こうやってちゃんと相手してくれるから王子様ついつい調子乗っちゃう―――――よし、リューリ・ベルが良い感じにブロック肉を半分平らげたのでそろそろ私たちも食事にしよう。進行は私、解説フローレン、開始はもちろんオードブルから」


自分で自分の機嫌を取ることと婚約者の機嫌を損ねることには定評のある王子様が、唐突に会話をぶった切るなり満面の笑みでフローレン嬢を促す。無駄に顔だけは整っている馬鹿の面を睨み据え、迫力系美人のお嬢さんは深く深く息を吐き出した。何かを堪えていらっしゃる、というのが分かりやすい行為だったので、おそらく敢えて見せ付けるかたちで心を落ち着けているのだろう。

噛み応えのあるお肉の質量とそこから滴る血の味わいが特別ブレンドと思しきスパイス類に底上げされた力強い旨味を感じつつ、ブロックなお肉をあっという間に半分消費した私の前でフローレン嬢が背筋を伸ばした。王子様も同じように自然な流れで姿勢を正し、気付けば対面席の二人は先程までのやり取りが嘘のような品の良さで対のように並んでこちらを見ている。


「失礼、時間が押しておりますので少々駆け足でお送りしますね―――――まずはオードブルこと前菜。王国料理のフルコースはまずこの前菜から始まります。最初に口にするものですから、ご覧のとおり量より見た目、食欲を駆り立てる豊かな彩りや盛り付けなどに重点が置かれていることが多いですね。一枚のプレートに複数の料理を少数ずつ組み合わせて提供するのがここ数年のスタンダードなのですけれど………本日は赤身魚で蒸し芋を包んだコンパクトサイズのアミューズ・ボールと季節野菜のビネガー漬けの二点のみご用意いただきました。来たるメインディッシュ等に備えて胃袋を整える役割を担わせるべく塩味や酸味のきいた料理が好まれるのも特徴です」


そう言って、彼女はずっと手を付けずにいた自分の前に置かれた料理にそっとフォークの先端を埋めた。薄めに切った生魚で何かを丸く包んだボールのような形状のそれは、表面を油で輝かせているのかきらきらと赤が際立って見える。同じプレートに盛り付けられたビネガー漬けのしんなりしたお野菜との対比がなんとも色鮮やかだ。ていうか私も普通に食べたい。刺激された食欲がそう言ってる。


「ちなみに、今回リューリさんにはご用意していないこちらのオードブルを始めとしたフルコースメニューについては食後に行う予定の王国フルコース理解度チェック………簡単な質疑応答形式の小テストにて一定以上の成績を修めていただければ明日にでも実践の名目ですべて食べていただけるよう手筈を整えておりますので、途中でちょっぴり飽きが来ても投げ出さないでいただけると幸いです―――――今日頑張ってお勉強すれば、その分豪華なお食事が明日のランチで出て来ますからね。具体的に例を挙げるなら、今は二種類だけのオードブルがリューリさんのやる気次第で最大四種類に増えたりしますのでその点ご留意くださいまし」

「あ、おまかせで注文したフルコースのオードブルが気持ち少なめだなって思ってたらフローレンお前そういう魂胆? さては私が発注したあとで食堂スタッフに追加オーダーしたな? 頑張った子にはご褒美作戦とは単純だが有効なことをする―――――王子様、最近それなりに頑張ってると思うんだけどそんな成長著しい婚約者に心躍るご褒美とかあったりしない?」

「ポジティブの塊はお黙りなさい。あまり五月蠅く囀るようなら寝言は寝てから言うものですので良質な睡眠をとれるよう新しい枕でも差し上げましょうか? 夢と現実の区別がついているとは思えない愚行をしでかすお馬鹿さんなどいっそクッションの海に沈んだまま浮かび上がってこなくて良くてよ」

「よし、デコラティブピローをフローレン持ちで新調してもらう言質取ったぞう! 今なら掃除も頑張れる気がするから模様替えしよう模様替え、そういえば前からこっそりやってみたかった壁紙自分で張り替えるやつ挑戦したいんだけど一緒にどう?」

「メンタル構造そのものが強靭過ぎていっそ狂人の領域ですわねこのアルティメット馬鹿ポジティブ………張り替えには専門家を呼んでください。ああ、壁の色を変更するのであればその旨ご連絡くださいましね。デコラティブピローとの兼ね合いがありますので」

「おっと。枕ひとつだけかと思いきやノリで要求したデコラティブピローをマジで新調してくれるっぽいのでここはひとつ“王子様”として調子に乗って踊るしかない」

「きっぱりと意味が分からないので食事に集中なさい馬鹿」

「そうだぞ踊ってる暇があるならちゃんとランチしろおうじさ―――――待って? あれだけ怒涛の勢いで喋り倒しておきながらいつの間に前菜完食したんだ?」

「私とフローレンくらいの熟練度があればテンポのいい遣り取りを途切れさせることなく食事を楽しみ適度に会話を弾ませながら次の料理を待つことくらいは朝飯前だぞうリューリ・ベル」

「朝飯前なら夜食か夕食だけど時間的に今はランチだろうが何言ってんだ王子様」

「はい忘れた頃に言語の壁。この場合で使った朝飯前というのは『朝食を摂る前のちょっとした時間でも出来ちゃいそうな簡単なこと』、もしくは『朝起きたばかりで空腹のときでも出来ちゃうくらい容易なこと』という意味であって今現在の食事の時間帯そのものについてはぶっちゃけ関係ないやつです」

「要するに、先程の殿下の発言は『この程度の芸当は自分たちにとって簡単過ぎる出来て当たり前のレベル』という意味合いになりますね。ちなみにですが補足しますと、朝食前という表現を『朝食を食べる程度の僅かな時間で』と解釈する場合もあるそうで………はい、オードブルが終わりましたので、続きましてはリューリさんにも馴染み深いであろうスープの登場です」

「フローレンさんもさりげなく前菜完食してるなぁと気付いた瞬間にスープが来た!?」

「びっくりしてるお前はお前でブロック肉のワイルド・ステーキが既に残り一口か二口くらいにまで消費されてるから人のこと言えないぞうリューリ・ベル」


補足を入れつつも先に進むフローレン嬢の安定感と、空いたお皿を回収してからスープ料理をサーブする給仕役の十二番さんの配膳タイミングに思わず叫んだ私に対してツッコミを忘れない王子様だが正直今回はどっちもどっちなのが周囲の反応から窺えた。


「えっ………ちょっと待ってフェアリーファミリーどういうことなの何が起きたの………? 一家団欒にほっこりしてたらいつの間にやら皆様の前から綺麗にお料理が消えてたんだけどアレはどういう理屈なの………?」

「いくらオードブルが少量とはいえあんな会話の応酬しながら品位もノリも損なわないまま流れるようにスープのターンだと………!?」

「末っ子ちゃんのお食事速度がいつも通りのファンタジーなのはもうお約束だから気にしないとしてフローレン様に殿下まで魔法のような技能をお持ちで………?」

「妖精さんのご両親が人間の枠におさまらないのは当然といえば当然だった完全に今理解した」

「高位貴族の方々の本気真似出来る気がしないんですけどあれが一流の風格か………」

「一見そっけないながらも自分の手元より相手の顔をちゃんと見てお話しするフローレン様からは貴重なデレの波動を感じる」

「波動が何かは理解不能だが普段お父様には冷たい対応がデフォルトであるお母様からの贈り物とくれば部外者でしかない私でも尊みを感じて踊るしかない」

「仲良し夫妻しか勝たん異論は認める」

「お父様に言われてちゃんとお肉をちょっとずつ切りながら冷める前に食べようと頑張りつつもご両親の遣り取りはしっかり聞いてる家族思いの末っ子ちゃんが勝てない世界線があって堪るか」

「どいつもこいつも幻覚見過ぎだろまとめて優勝だわありがとうございます」


うん。彼ら彼女らがどの世界線で生きているのかは永遠に謎ということにしておこう。ていうか本気で心底知らん。どうか謎のままであってほしい。

そんな気持ちでワイルドなお肉の最後のひとかけらを噛み締める私に向けて、フローレン嬢は新しく供されたスープに関する話を始めた。


「さて、スープについてですが、こちらはもう『音を立てて飲まないようにしよう』とだけ覚えていただければ問題ありません………が、お皿に少し残ったスープをスプーンで掻き集めるのは駄目です。スプーンで掬えなくなったならそれはそこで終わりの合図なのでどうか諦めてくださいまし」

「分かったそこはスプーンじゃなくてパンの出番なんだなフローレンさん」

「違います。パンの出番ではありません。優雅な紳士淑女たるものパンをスープに浸しはしません。スープの残量にかかわらずお行儀的な意味で禁止なのです―――――そちらがご理解いただければ次のリューリさん用の料理が来るまでの繋ぎとして食堂謹製スペシャルスープをご用意することも吝かではないのですけれど」

「え、相性抜群なパンとスープの仲を引き裂くとか王国民もしや人の心がない?」

「パンとスープとマナーの話が王国全土に住まう人民すべての心を問う事態に!?」


驚愕に仰け反るポーズをとった王子様の真隣で、優美なお嬢様はほんの少しだけ悩まし気な様子で目を伏せる。たったそれだけでド派手な美貌が憂いを帯びたものへと変わるのは目の錯覚か女優の技量か、困ったような表情でこちらを窺うフローレン嬢の声色はいつもよりちょっとだけ元気が無かった。


「リューリさん………スープに浸すのはタブーですけれど、お肉やお魚料理の余ったソースをパンですくうのは大丈夫な場合もありますので………人の心がないと判じるのは些か早計ではなくて?」

「スープは」

「駄目です」

「液体だろうが一滴たりとも糧を無駄にしない方針で育ってきた私には到底受け入れ難い話だと前置きさせてもらった上でこれだけは言わせてもらうぞフローレンさん―――――美味しいスープを残すのがマナーとかそんなものまったく理解出来ない正直ちっとも受け入れたくない王国民に人の心はないのか!!!!!」


「よ―――――よくぞ言ってくださいましたありがとうございますそちらの方ぁ!!!」


感極まったような声がして、フローレン嬢と王子様が二人同時に息ぴったりに静かに僅かに目を細めた。いつの間にか沈黙していた周囲一帯が見守る中で、どこからともなくやって来たぱたぱたと軽やかな足音の主が慌ただしく私に駆け寄るや否や熱意に輝く瞳でもって興奮気味に口を開く。


「ああ、力強いお言葉をくださった勇気のあるお方がどなたかと思えばまさか『妖精さん』だなんて! 先程のお声だけでは流石に分かりませんでしたけれどやっぱり貴女もこちら側でしたのね、こんなに嬉しいことはありませんわなんて頼もしいのでしょう、そうと分かれば貴女も一緒に巨悪に立ち向かいましょう楽しい学園生活のために!!!!!」

「落ち着いてくれお嬢さんまったく話が分からない」


ていうか知ったことじゃない。ぐいぐい迫ってくる女子生徒には生憎と面識がなかったので初顔合わせで同志みたいな扱いをされてもすこぶる困る。純粋に意味が分からなかったしどこからどう出て来たんだこの人と不審な目を向けずにはいられない―――――とりあえずフローレン嬢の纏う空気が体感二度くらい下がった気がするのでおそらく碌なパターンじゃないなこの人早めに逃げた方が良いと思ういやもうホントこれはまじで。


「たぶん行き違いがある。私はお嬢さんのことを知らない。そして『力強いお言葉』とやらをかけた覚えもまったくない。ちょっと今は忙しいので放っておいてもらえると助かる」


可能なら何も分からないままにお帰りいただきたい気分。そんな本音を多分に込めて、きっぱりと、拒絶の意でもって言葉を紡ぐ私の話はたぶん相手に伝わっていない。経験則がそう告げていた。

ていうか最近似たようなことがあった気がするけど気のせいか? そんな感じで迷惑です感を存分に醸してみたところでやはり相手には伝わっていない。だってこの好機を逃してたまるかみたいな気迫で私を見ている。やはりというか何というかで既視感とやらに見舞われた。


「ご謙遜を妖精さん! あなたの魂の叫び声はしかとこの耳で聞きましたとも! あんなタイミングもばっちりに大きな声で言い放ってくれた力強い救いの一言が行き違いなわけがありません!!!」

「絶対違うやつだと思う」


冷静に淡々と返したところで相手は聞く耳など持っていない。勘違いだろうが行き違いだろうが思い違いだろうが何でもいいからとにかくこの流れで勢いに乗せてこちらを味方として巻き込んでしまえ、みたいな圧を感じたが、しかし今回は驚く程に冷静さを保っている自分がいた―――――だって、今現在この場に居るのは私一人だけではないので。


「私とフローレンが居合わせるこの場で、というかこんなにも底冷えする眼差しを抉らんばかりに突き刺し続けているフローレンを無視してリューリ・ベルに絡もうとは見上げた根性と蛮勇だ―――――まったく褒められたものではないし命は大事にしなさいホントにとは思っても既に遅いけれど! オーディエンス! 手伝って―――――!!!」


オウェェエエェェェェェェェェェエエェェイッ!!!!!


唐突に良く通る声を食堂中に響き渡らせた王子様の台詞が終わるや否や、周囲一帯に陣取っていた他の食堂利用者たちが応えを返して席を立つ。爆発的な大合唱に肩を跳ねさせて狼狽える突撃お嬢さんを置き去りに、がたがたと騒々しくテーブルを移動させたり食堂の動線確保に努めたり何事かと見守る人々を速やかに空席に案内したりこの辺り一帯を封鎖したりとあらかじめ決められていたと思しき役割分担に徹しているらしい彼ら彼女らの動きには一切の迷いも無駄もない。明らかに訓練された練度の高さで行われるそれに私の意識がちょっとだけ遠のいてしまったのは内緒の話だ。

ていうかそもそも「手伝って」ってどういう呼び掛けしてんだこの馬鹿。手伝う方も手伝う方でどうなってるのかまったく分からん。チーム・フローレンだけでなくこの学園の生徒たちは一体何処を目指しているのか。そう問わずにはいられないが心の底から聞きたくない。

そんな複雑な気持ちを呑んで、余計なことは言うまいときゅっと固めに口を噤む。触れなくても生きていけることには敢えて触れるなってじいちゃんが言ってた。知らんぷりしとけってセスも言ってた。


「え―――――えッ!? なにこれどうい………ていうか今近くで殿下のこえあぁぁぁぁぁぁぁ嘘だぁフローレン様だぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁ!?」

「ああもうお馬鹿、止めなさい、フローレンの目の前で下手に騒いだら逆効果なのがどうして分からないのよもう―――――騒々しいわね! 今すぐお黙り! 喧しくてよキャロル・フーカーッ!」


切羽詰まっているような、大いに焦っているような、しかし慌てていようとも不思議と威厳を損なったりはしない程度の声量で、フローレン嬢が口を開く前に私たちが座るテーブル席へと鋭い言葉を叩き付けたのは派手な顔立ちに縦ロールが似合う強気な瞳のお嬢様だ。観客たちが空けたスペースの隙間をすたすたと優雅な早歩きで縫って現れた彼女の気配はつんつんと尖っていたけれど、少々強引とも取れる登場で発言権を掻っ攫ったマルガレーテ嬢はその迫力とは裏腹にどこか状況説明的な口調で矢継ぎ早に言葉を吐き出した。


「貴女ねぇ、普通に食事中だった私に面と向かって意味の分からない主義主張を繰り返していたと思ったら突然逃げ出すなんてどういうおつもり? 失礼にも程があるのではなくて? しかもなぁに、見ればこちらでランチを楽しんでいらっしゃった無関係の方々に突撃して随分一方的な様子で好き勝手に絡んでいたようですけれど………レディ・フローレンが居合わせていることにも気付かずリューリ・ベルさんに迷惑をかけるなんて本当に何を考えているの馬鹿なの!?」


途中までは貴族のお嬢様然としていたマルガレーテ嬢のお言葉だったがしかし最後あたりに関してはどうも素が出てしまった模様。なんというか悲鳴に近かった。ライバルであると公言して憚らないフローレン嬢につい先刻まで己が巻き込まれていた問題を知られてしまった八つ当たり、というよりも、むしろ彼女の目の前で現行犯にトラブルを起こしてしまった女生徒の身を案じるようなニュアンスを感じたのは私だけだろうか。


「まあ、ご機嫌よう、レディ・マルガレーテ………常に淑女の見本たれ、と礼儀や作法に厳しい貴女が、こちらのフーカー男爵令嬢のように少々お転婆が過ぎる方をあっさりとお許しになるなんて―――――休学前ならいざ知らず、お戻りになった後の貴女は随分とお優しいようで」

「ああ、ご機嫌よう、レディ・フローレン。勘違いをなさらないでね、私とて貴女と同じく高位の貴族家に生まれた身ですもの。他のご令嬢方の規範となるべく努める義務を忘れたわけでございません。もちろん、厳しいばかりではなく時には寛容さも必要であるとは重々承知しているのだけれど―――――過大解釈の慮外者をむざむざ見過ごしてしまう程、丸くなったつもりはなくってよ」

「そうですか、レディ・マルガレーテ。それを聞いて安心しました―――――で?」


この状況で貴女が成すべき最善のことを成しなさい、と言わんばかりの微笑みで、貴族令嬢ガチ舌戦序章をいきなりぶち上げたフローレン嬢は笑っていない目で吐き捨てた。怖い。シンプルにとても怖い。あまりの恐怖にマルガレーテ嬢に声を掛けようとしていた王子様と何事かを喚こうとしていたよく分からん女生徒の動きが凍った。

で? の圧がものすごい。騒々しかった食堂内が一瞬で静かになるレベル。

そんなフローレン嬢のお嬢様スマイルにマルガレーテ嬢のお嬢様スマイルが一瞬揺れたような気もしたが、そこは流石に自称ライバル。罅が入っても崩れることなく立て直す速さや繕う技術や一級品の更に上を行く。堂々と微笑み返す姿は生気と自信に満ち溢れていた。


「まぁ、手厳しいのね、レディ・フローレン。ご心配には及ばなくてよ。この私にこれ以上貴女方の昼食を妨げる気などあろう筈もないでしょう? 居合わせた他の皆々様も、お騒がせしてごめんなさいね―――――さて、フーカー男爵令嬢? ランチを楽しむ無関係の方々のご気分をこれ以上害さないうちに、私たちは場所を変えましょう………貴女の私へお話しは、まだ、終わっていないのでしょう?」


今回はあくまでイレギュラーであり私を始めとするフルコース体験面子はあくまでもどこまでも無関係。にこやかにそう言い切って、マルガレーテ嬢は綺麗な顔を私の程近くで震えている闖入者のお嬢さんに向けた。彼女がこの場にやって来てからの一連の発言から察するに、どうも食事をしていたところで喧嘩っぽいものを売られたらしい。額に浮かぶ青筋も納得の迷惑案件である。


「い、いえっ! 場所を変える必要はないかと思います、キルヒシュラーガー公爵令嬢! だってあなた様もお聞きなった通りこちらの『妖精さん』は私の主張に深く賛同してくださいました!!! 幸いにもキルヒシュラーガー公家の威光に屈する必要がない殿下とフローレン様もご一緒です! 場所を変えよう、などとおっしゃるのはこの場でこのまま話を続けてはご自身に都合が悪いからでしょう!?」

「見当違いも甚だしい上に察しが悪いにも限度があるでしょうレディ・フローレンが居るこの場所でどうしてそこまで強気なの貴女!?」


マルガレーテ嬢が悲鳴を上げた。信じられない、と全身全霊で主張する表情は切実な困惑に満ちている。これに関しては周囲一帯から同意と同情と労りの視線が掛け値なしの好意から寄せられているが本人はそれどころではないらしく一向に気付く気配がない。フローレン嬢でさえ憐れみの色を浮かべてマルガレーテ嬢を見上げていた。ちなみにこれは余談だが、なんかすごいかわいそう、とか同情百パーセントの眼差しで王子様が吐いた呟きについては本人が聞いたらブチ切れるやつだから絶対それ以上言うなよと思う。マルガレーテ嬢はフローレン嬢より対王子様の方が沸点が低い。


「いいから、いいからこれ以上傷を広げる前に貴女は大人しく一緒に来なさい! 確かにリューリ・ベルさんの発言そのものは私の耳にも届いたけれどもあれは絶対こちらの会話とは関係ない偶然タイミングが被った超奇跡的な一言だとどうして理解が及ばないのよ―――――基本食べ物関係にしか興味を示さないっぽいあの子がメチェナーテ侯子のマナー指導云々について気にするわけがないじゃない!」

「語るに落ちましたねキルヒシュラーガー公爵令嬢テーブルマナーは食べ物関連です!」


「え? なに? マナー指導? 知らんしどうでもいいし言ってない」


何言ってんだ、と突き放したら狂騒が一転して静かになった。

フローレン嬢と王子様は冷ややかな顔で沈黙している。ギャラリーたちは何も言わないがこれはいつものことである。

やっぱりそうよね、と納得顔で平然と佇むマルガレーテ嬢からこちらへとぎょっとした視線を移しつつ、ぱくぱくと口を開閉している女生徒が引き攣ったような聞き取り辛い声を絞り出した。


「え、そんな、そんな筈ありません。だって大きなお声で言っていたじゃありませんか妖精さん―――――『マナーとかそんなものまったく理解出来ない』と“王国”のマナーについて憤り『正直ちっとも受け入れたくない』と全面的に拒絶しながら『王国民に人の心はないのか』って大いにお怒りだったでしょうあなた!!!」

「ああ、なるほど経緯は不明だがとにかくミラクルが起きたっぽい」

「起こって欲しくはなかったですねこんな傍迷惑の極みなミラクル」

「略して極ミラクルとかどう?」

「語呂がいまいちではなくて?」


というか心底どうでもよくてよ、とフローレン嬢が吐き捨てる。どうでもいいと嘯きながら雑談に付き合ってやるあたりはかなり優しいと思うのだけれど、それを口に出したところで状況は好転したりしないし追加のお料理はやってこない。なので私は沈黙していた。周囲は勝手に死んでいた。たぶん勝手に蘇生する。もう持ち芸の域だろコレ、と脳内で再生されたのは三白眼の声だっただけれどきょろきょろ辺りを見回したところで本人はやっぱり居なかった。


「な、なんで殿下もフローレン様もそんな投げやり気味なんですか………!? お二人の方が遥かに近くで妖精さんの言葉を聞いていた筈なのにこの反応ってどういうこと!?」

「いや、近くで聞いていたからこそこんな感じっていうかなんていうか―――――いやもう引っ張る意味すらないな。リューリ・ベル、追加のお料理が運ばれてくる前に手っ取り早く解決しちゃいなさい。具体的にはさっきの台詞もう一回まるっと全部言える?」

「え? なに? マナー指導? 知らんしどうでもいいし言ってない」

「確かにさっきの台詞だけれども違うもっと前に言ったやつ!」

「絶対違うやつだと思う?」

「もっと前に言ったやつ、という私の指定が悪かったのか『絶対違うやつ』が出て来たけれどもごめんリューリ・ベルそうじゃない。というかお前こっそり疑問調にしてる時点で自分でもちょっと違うかなって薄々勘付いてるやつじゃん」

「お黙りになって馬鹿王子。ただの発言の再現にしても具体的に『どれ』かを示さなければ分かりようがないでしょう。流れを汲んで空気を読む、なんてそんな面倒臭いことをリューリさんがしてくれるとでも?」


呆れ果てた様子で小さく息を吐いたフローレン嬢が、少し疲れの滲む面差しを真っ直ぐに私へと向けた。そうして、彼女は言葉のとおりに具体例を示すのだ。空気を読まない読もうとしない面倒臭がりの辺境民にも分かりやすいような言い方で。


「リューリさん、大変申し訳ないのですけれど―――――スープは? と貴女に聞かれて『駄目です』と答えた私に対しておっしゃったあの時の発言を………そうですね、前置きは省略して構わないのでそのあと口にしたお言葉を再現していただくことは可能でして?」

「ああ、なんだ、そこまで戻るの? 別にいいぞ、フローレンさん」


大したことではなかったので私は素直に頷いて、困惑気味にこちらを見守る迷惑系女子とマルガレーテ嬢など一切気にせず声を張る。自然と音量が上がってしまうのはどうか大目にみて欲しい―――――だってやっぱり納得出来ないどうして駄目なんだ教えて偉い人。


「美味しいスープを残すのがマナーとかそんなものまったく理解出来ない正直ちっとも受け入れたくない王国民に人の心はないのかーっ!!!!!」

「ほぉぉら私が言ったとお………えっ? はぁ!? 美味しいスープゥ!?」

「そうです美味しいスープの話!!!!!」


ここぞとばかりに陽気な声を張り上げたのは王子様だ。待ってましたと言わんばかりに被せ気味のタイミングで、しかもフローレン嬢の醸す圧がすごいこんな拷問じみた状況下においてノリノリで発言権を主張出来る輩などこの馬鹿を置いてそう他には居ない。居て欲しいとも思わない。


「そちらのフーカー男爵令嬢なる女生徒が聞いたという言葉は確かにリューリ・ベルが大きな声で叫んでいたもので間違いないし異論はない―――――が! しかし現実は彼女の解釈とは全然違うというかやっぱり全然関係ないです何故って? 何故なら! まさに今こいつが再現したとおり、リューリ・ベルが受け入れられないと声高に主張していた『マナー』とは『スープを飲むときは深追いせずに掬えなくなったら諦めましょう』という王国式テーブルマナーの話であってキルヒシュラーガー公子とフーカー男爵令嬢のやり取りについてはまったく関係ないある筈もないこっちのテーブルだけの話だからだお分かりいただけただろうか!」

「うっ………そでしょありなのそんな話ぃぃぃぃぃ!!!!!」


轟く絶叫。いつもの流れ。鼓膜でさえも鍛えられたか動じる気分にすらならない私に、そのとき横から差し出されたのはほっこりほこほこ湯気と香りがふんわり立った優しい色合いのスープだった。クリーム系なのか淡いパステル調の緑色が白い平皿に良く映える。

ぱっと顔を上げて期待に輝く眼差しをフローレン嬢へと向ければ、彼女は優しく微笑んですい、と指先を滑らせた。それを合図に給仕係の十三番さんが静かにスープの横に並べてくれたのは植物で編まれた小振りな篭いっぱいに詰め込まれたパンである。


「たった数分でいろいろと予想外の出来事がありましたものね、特別に―――――あくまでも特別に、ですが………食堂謹製グリーンピースとオニオンとお芋のポタージュと相性抜群のふんわり白パン、そしてサービスでハードバゲット。リューリさんのお好きなように心行くまでご堪能くださいまし」

「と、いうことはフローレンさん。スープにパンをどぼんしていい?」

「だ、いじょうぶですしおかわり自由です」

「王国民に人の心はありましたやった大好きおかわり自由―――――!!!!!」


単純だなオイとか言われようとも叫ばずにはいられない。だっていやもうホントこれはまじで食べ放題と同じくらい愛して止まないからおかわり自由。ワイルドなお肉の塊からのスープとパンがおかわり自由。言葉は要らない。喜ぶしかない。スープを残すのがマナーですとか宣うテーブルマナーなんぞ知ったこっちゃねぇと密やかにぶん投げかけていた意見だって翻しちゃうインパクト抜群のおかわり自由。好き。


「フローレンお前さっきあれだけ譲らなかったのに今になって秒で甘やかすね? スープにパンどぼんは大丈夫じゃなくない? というかさっき『駄目です』って言い掛けただろう実のところ」

「まったく関係のないところから斜め上方向に妙な絡まれ方をした今現在、ただでさえ受け入れ難いと明言されてしまったテーブルマナー体験がぐだぐだした末に頓挫するくらいなら彼女の機嫌を取っておいてなんやかんや最後まで流した方が有意義であると判断しました。大丈夫でないのは百も承知ですが背に腹は代えられない状況です。文句がありますか馬鹿王子」

「反論してもいいが異論は認めんというお嬢様スマイルの圧がすごい。それについては私も概ね同じ意見だから落ち着いて。ほらほら見なさい予想を裏切らないリューリ・ベルの機嫌が持ち直したからフローレンも一息入れような。教育って難しくて大変」

「貴方がそれをおっしゃいますか諸々と紙一重の分際で」

「紙一重で天才かもしれないと思われてる私大勝利だな」

「ポジティブシンキングが過ぎましてよ殿下」

「ネガティブが服着て歩くよりマシだろう?」

「お黙り全要素ひっくるめて馬鹿」

「総括で馬鹿に落ち着く不思議!」


なんで楽しそうなんだお前。黙れと言われても黙らないことに定評のある王子様が五月蠅いというかもうここまでくると別に不思議でも何でもない。考えるな。感じるな。ただひたすらに慣れてしまえ。そんな雑な発想のもと私はもぐもぐと食事をしている。

内容そのものはさておくとして、王子様とフローレン嬢の会話には危機的要素など何もなかった。つまり放っておいて平気だ。安心して食い千切るパンが美味しい。ふかふかふわふわ焼き立て白パン。癖のないようで小麦粉が香るほのかな甘味が素朴に素敵。固めに仕上がったぱりぱりバゲットも単品でいただけちゃう美味しさ。スープに手を付けるその前にパンそのものの味わいをきっちりと把握しておくのは大事。


「何事もなかったかのように美味しそうにパン食べてるのだわ………かわ………小動物ちゃんかしら………というか、いざ同じ場で観察してみると本当にこういう面倒なことが普通に起きちゃうのがこの子の日常なのね………えっ………フローレン、ねぇこれ取り締まりとかそういうのをもっと強化しなくて大丈夫? 我が国最高峰の教育機関がこんな非常識な有様だと“北”の方々に認識されるのは些かまずいのではなくて?」

「あ、すまないがフローレンは今休憩中なので控えてもらえるかキルヒシュラーガー公子」

「貴方はいつからレディ・フローレンのマネージャーになったのかしらねレオニール殿下!?」

「はっはっは。マネージャーじゃなくて婚約者だぞう」

「そんなことは百も承知ですけれどいろいろとやらかしておきながら平然とそう言ってのける殿下の御尊顔の表皮の厚さは本気でどうなってらっしゃるの!?」

「ご覧のとおり整いまくった顔で申し訳のないことにシミも皺も見当たらない頑丈かつ張りのあるお肌だが?」

「あああああああ反論のしようがないところが口惜しいったらないのだわ!!!」


無駄に顔が良過ぎて腹立つッ! と何故かマルガレーテ嬢に対しては必要以上に『フローレン嬢の婚約者』であることを主張していくスタイルの馬鹿に縦ロール嬢が激昂した。認めたくはないが認めざるを得ないという現実に対する憤りか、瞬間的に着火して柳眉を逆立てるその様は手負いの獣を思わせる。似た者同士がツラ突き合せたら最終的に意気投合するか潰し合うかの二択しかない、と言っていたのは族長だったがどうやら誇張ではなかったようだ―――――ことあの人の体験談に関しては間違っても聞いてはいけない系のものが多いので詳しく聞いたことはないけれど。


「え、えええ………なによこれ………なんだかよく分からないことになってる………」


さっきまでは渦中にいたのに今となってはもう外野、王子様に突っ掛かるマルガレーテ嬢に完全に放置されている状態の女生徒がぽつりとそんなことを呟いた。今のうちに何故逃げておかないのかが割と本気で分からない。

直前までは確かに彼女が注目を浴びていたような気もするが、顔面偏差値が異常に高いトップオブ馬鹿と縦ロール嬢が悪役令嬢究極系美人のフローレン嬢を挟んでお貴族様の品位を損なわない程度にぎゃんぎゃんと言い争う場面においては大抵の存在など霞んでしまう。

民族的に容姿の系統が違うため“王国民”たちに『妖精さん』などと呼ばれがちな異質存在の私でさえこの面子と並べば背景枠だ。のんびりといただくスープ美味し―――――待ってこれなにこれ初めて飲んだ美味しい。

フローレン嬢曰く『グリーンピースとオニオンとお芋のポタージュ』には一見して何の具材もなかった。平皿に突き立てたスプーンでくるりと円を描いたところで固形物らしいものは見付からず、とろみのついた重ための液体に僅かばかりの波紋を広げる。今まで目にしたスープの色は透明なものか黄色系が多かったような気がするが、鮮やかながらも優しく淡い緑というのは目新しい。見慣れないお料理はわくわくしちゃうな、と今日もお手軽に転がっている感動体験に感謝して、私はひたすらスプーンでスープを掬っては飲んでいた。

青臭さを完全に消し去った豆類と思しき風味と牛乳の甘味が互いを引き立て合う癖のない仕上がりは見事なもので、ちょっと舌の上でざらつくかなぁ程度にまで細かく潰され撹拌されたオニオンやお芋が隠し味兼腹持ちアシスト要員として大変に良い仕事をしている。アクセントをちょっと足したい場合はひとつまみの塩と粗めに砕いた胡椒を推したい。絶対にもっと美味しくなる。

どぼん、と浸した白パンを齧ったら優しさの相乗効果で眼球が潤んだ。スプーンで掬い切れなくなっても諦めずハードなバゲットで綺麗にお皿を拭って食べたら力強く幸せな味がした。


「すいませーん! スープとパンおかわりいいですかー! 許されるならもうお鍋ごとお願いします食堂のおばちゃーん!!!」

「あらあら、まあまあ、あっという間のご完食だこと。お子様の嫌う食材ランキングで毎年上位にランクインするグリーンピースのポタージュをそんなに気に入ってもらえたのなら、試行錯誤した料理人たちの苦労も浮かばれるというものだわ。マナーに関してはもうまったく褒められたものではないけれど、好き嫌いせずいっぱい食べるのはとても好ましくて良いことだものね、健やかに大きくお育ちなさ………待って? お鍋ごと? どうなのそれは? 流石に飲み過ぎではなくて―――――お待ちなさいそこのチーム・フローレン! その寸胴鍋をどうするつもり!? 食べ放題コーナーの追加メニューじゃないのは見れば分かりますお止めなさい流石にそれはテーブルマナー勉強会の主旨から大きく外れるでしょうすぐに厨房にお返ししなさ―――――にこやかにパンを満載したワゴンを用意しないで食堂スタッフ! さては全員ノリノリね!? 開き直りの境地なの!?」

「そういう貴女もお楽しみのようでなによりでしてよ、レディ・マルガレーテ」

「何をおっしゃっているのかしらね嫌だわレディ・フローレンったら! ところでリューリ・ベルさんのテーブルマナー体験を行いますと張り切っていた貴女は何処へ行ったの!? パンとスープの共演を許すだけに留まらず、寸胴鍋まるごとスタンバイまで容認するなんて淑女の鑑らしくなくてよ!? 率直に申し上げて自暴自棄ではなくて!?」

「私一人が張り切ったところでどうにもならないことはある、というのを幸いにも思い出せましたので、まぁこういう日もあるでしょうと割り切ってフルコース・ランチに舌鼓を打っておりますがそれがどうかしましたか」

「うっ………『貴女がもっとちゃんとそこの男爵令嬢の言動を管理していればこんなぐだぐだすることもありませんでしたよ』という言外の圧を感じるのだわ………実際そのとおりでしかないから返す言葉もないのだわ………ごめんなさい、今回の件に関しては本当にわざとではないのよ。リューリ・ベルさんが“王国”の文化を学ぶための場に水を差したことについては謝罪します。賠償についての詳細は後程」

「よろしくてよ」

「感謝致します」


では、これにて私は失礼を、と綺麗な感じで締め括り、まるで示し合わせたかのようなぶった切り方で微笑みを交わしたマルガレーテ嬢とフローレン嬢の絵面に方々から感嘆の吐息がこぼれた。双方ともに他者を押し退ける美貌を備えた鮮烈に目立つお嬢様なので、多少状況が散らかっていようが彼女たちだけを注視していればおかしなことなど何もない。

そう―――――チーム・フローレンのお嬢さん方が運んで来てくれたパンと寸胴鍋を私が笑顔で抱え込んでいようが王子様がそれを見てあまりの豪快さに大笑いしていようが様子のおかしいギャラリー各位がこちらのテーブルを見てきゃっきゃしていようがそんなことはどうでもいいのである。でっかいお鍋からダイレクトにいただくグリーンピースのポタージュ美味しい。


「ちょっ………ちょっと、ちょっと待って! なんでこの流れで私まで退場させられそうっていうかキルヒシュラーガー公爵令嬢に連行されそうになってるんですか!? さりげなく腕引っ張らないでください!」

「撤収のタイミングを見誤るのも大概にして欲しいのだけれど!?」


有耶無耶のうちにこっそりと突撃めんどくさいお嬢さんを回収してくれようとしたマルガレーテ嬢の気遣いは不発に終わったようだった。マナーに則り緑色のスープをちょっぴり残して完食したフローレン嬢と王子様の表情は呆れを通り越して既に無である。ちなみにこれは余談だが、こんな意味不明な状況下でも己が役割に忠実なチーム・フローレンのお嬢さん方は食器を下げたり水を新しくしたり次の料理を運ぶタイミングを見計らっているようだった。魚の切り身のソース添えと思しきとっても洒落た一皿をスマートに未来の国王夫妻の前へと配膳しているのがその証左である。状況に慣れ過ぎているというより状況そのものに関する自我の一切を排除して給仕に徹する姿勢はもう心が強いというか神経が図太い―――――そして、突撃してきた例の女生徒の神経はその上を行く極太だった。


「止めてください、ここであなたに連れて行かれたら私が一方的に妖精さんたちに絡んだ痛々しい勘違い女みたいな印象で終わっちゃうじゃないですか!」

「え? 違うの?」

「違いますけど!?」


マルガレーテ嬢による連行に抗っていた女生徒が必死の形相で張り上げた声に思わず反応してしまった私は、実のところフローレン嬢たちが黙々と口に運んでいるお魚さん料理が美味しそうだったので気を紛らわせたくてしょうがなかった。事前に聞いていたとおり私の分がないことは百も承知しているのだけれど、特別に用意してもらったらしいパンとスープが充実していたところで食べたいものは食べたいのである。

なので、その気持ちを宥めすかすために敢えて面倒臭そうな方に意識を向けることにした―――――それでなくともなんとなく、反射で聞いてしまう程度には引っ掛かるものがあったのだ。だって、痛々しいかどうかはともかく不幸にも起きた偶然の聞き間違いが判明しても即時撤退しないような危機管理能力に不安しかないお嬢さんだとは思っていたので。

そんな私からの現評価など露程も知らないであろう彼女は高らかに声を張り上げた。


「そもそも、私がキルヒシュラーガー公爵令嬢にお声掛けしたのはひとえに編入生仲間であり友人でもあるティトく………いえ、メチェナーテ侯子を思い遣ってのこ」

「あ、ごめんなんかそのパターン聞いたことあるんでいいです要らないですさようなら」

「最後まで言わせてすらもらえない!?」


なにやら自分に酔った感じでエスカレートしていきそうだった口上を途中でぶった切ったら非難がましい目で見られたが正直痛くも痒くもない。だって紛れもない本心である。メチェナーテ侯子と呼ばれているのがでっかい馬鹿二号ことティトだというのは私も記憶しているが、彼のためを思ってマルガレーテ嬢に絡む女生徒という構図に出くわすのが初めてではないというのも同じようによく覚えている。ていうかごく最近の出来事だからな。立て続けに同一あるいは似たり寄ったりなパターンを持って来ないでいただきたい。偶然だろうが何だろうが公爵令嬢への対抗手段に便利だからかとかそういう理由に関わらず私を巻き込むのは止めてくれ。流行らせない欲しい迷惑だから。そろそろ怒るぞ全面的に。


「要らないってどうしてですかぁ! こっちはお高くとまった上位貴族様の親切ぶって押し付けられる横暴に抵抗しようと必死なだけなのにぃ! 良かれと思って、とかあなたのためを思って、とか平気な顔して言ってくるただの嫌がらせでしかない所業を止めて欲しいだけなのにぃぃぃぃ!!!」


涙声でそんなことを言い始めた突撃聞き間違いお嬢さんに、マルガレーテ嬢が何とも言えない複雑怪奇な視線を向けた。物言いたげではあるものの、実際に口に出す言葉を見付けかねて戸惑っているような―――――どうすればいいのか迷っているような、逡巡の窺える眼差しを。


「ああ、なるほど。さては貴女―――――前回の、ハウゼン家のご令嬢の件があったから、それで対応を決めかねてこんならしくもないことになってしまったわけですか。普段の貴女なら身分相応に弛まぬ努力で磨いて培った矜持の高さで突っ撥ねてあっけなく終わりにしていたでしょうに………本当に、随分と丸くなりましたのね? レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー」

「言葉が過ぎてよ、レディ・フローレン。そんな筈がないでしょう?」


お魚料理を綺麗に食べ終えてナプキンで口元を拭いつつ、フローレン嬢は穏やかな声でそんな台詞を口にした。ライバルと公言して憚らない相手に名前を呼ばれた縦巻き髪のお嬢様は、そんな戯言を鼻で笑って美しい顔に嘲笑を浮かべる。それは自嘲に近かったけれど、彼女の高潔さを損なったりはしない不思議な魅力に満ちていた。


「ええ、そうですね、マルガレーテ。孤高たれ、と振舞う貴女。キルヒシュラーガー公爵家のご息女がそんな優しさを己に盾突く男爵家に引き取られた元平民のお嬢さん相手に持ち合わせる筈がありませんもの………ところで、そちらの―――――フーカー男爵令嬢でしたね? お高く気取った上位貴族様の親切ぶって押し付けられる横暴………とは、一体なんのことでしょう?」


にっこりと。フローレン嬢が作成した不自然なくらいの眩しさを伴う完璧な淑女の微笑みを、真正面から受けてしまった私の背筋に悪寒が走る。理由はまったく分からない。分からないがとにかくぞっとした。命を脅かされる場面でもないのに故郷の大自然で鍛えられた生存本能が気を抜くなと喧しく告げている。

王子様の反応を確認すれば、彼は真顔で大人しくしていた。フローレン嬢の方には目を向けずひたすらにこちらを注視している。黙っていれば本当に瑕疵の見当たらない“王子様”でしかない見た目の男は素晴らしく整った顔面で小さく唇だけ動かした。私に向けて、無音のまま、しかし分かりやすくはっきりと。


―――――すごくやばい。


端的だった。そんなことは見れば分かる。言われなくても直感で分かる。これはやばい。何がやばいってフローレン嬢の機嫌がよろしくないにも限度がある。さっきまではまだ大丈夫そうだったのに今となってはもうやばい。表面上はにこやかに穏やかに完全無欠で慈愛に満ち溢れた高貴な女性の佇まいだがしかし悪寒がものすごい。チーム・フローレンのお嬢さん方でさえその場から三歩程後退していた。マルガレーテ嬢が真顔になって居住まいを正し呼吸を整え全ての神経を研ぎ澄ますレベルでフローレン嬢が戦闘態勢。対王子様でもないのに仕様が本気だ。とどのつまりはすごくやばい。

何が切っ掛けになったのか私にはさっぱり分からなかったが王子様には明白だったらしく首を横に振っていた。残念ながらもう駄目なやつです残念でした本当に、と諦観が如実なジェスチャーだった―――――その絶望に気付いていたのは、私たちくらいのものだったけれど。


「き、聞いてくださいますか、フローレン様!」


気付いていない側だったらしいというか、そのフローレン嬢の醸す圧は自分ではなく“ライバル”と目されるマルガレーテ嬢へと向けられたものと解釈したらしい突撃神経極太お嬢さんが現状考え得る最良の味方を得たと目玉をきらきら輝かせていたがその認識は間違っている。そんな彼女の幸せな思考回路に一瞬だけ渋面を浮かべたマルガレーテ嬢は即座に腹を括ったらしく、敢えて開きかけた口を閉じることで傍観の意思を表明していた。

そして笑顔の崩れないフローレン嬢のお隣で、どうも何事かを考えていたらしい王子様はおもむろに十二番さんがサーブしてくれたばかりの氷菓子が入った小さな容器を私の目の前へと押し出してくる。それが“王国”で言うところの一般的なテーブルマナーとやらからは遠く外れた行いである、とは経験上なんとなく推察出来たが、今この状況でそれをする意味が分からず私は大袈裟に首を傾げた。

くれるんだろうな、というのはまぁ分かる。けれど意図が分からない。理由を説明してもらおうにも今は余計な音を立てない方が良さげっぽいので聞くに聞けない。とりあえず食べたい欲求には逆らいようがなかったので、フローレン嬢から醸される圧から一時でも目を背けようと私は氷菓子に手を伸ばした。

そうこうしている間にも、近場の混沌は加速していく。


「そう、そうなのです、フローレン様! ご説明させていただきますと、キルヒシュラーガー公爵令嬢は平民からメチェナーテ侯子となった編入生のティトくんに『貴方、仮にも侯爵家の養子になった身で未だテーブルマナーのひとつすら満足に覚えていないのかしら!?』と公衆の面前で詰った挙句さも親切を装って自分が指導してやるからありがたく思うように、などと居丈高な発言をなさったのです!!! たんじゅ………いえ、純粋なところがあるティトくんは普通に感謝していましたが、ご存じのとおり彼は貴族になってまだ日の浅い元平民の編入生です! そんな貴族初心者のマナーがなっていないからと人前で悪し様に罵られ強制的に教育と称してキルヒシュラーガー公爵令嬢の親切ぶった独善を押し付けるのは果たして如何なものでしょうか!」


「いやそれ本人が感謝してるなら別に気にしなくていいんじゃないか?」


ぴたっ、と空気が静かになっちゃうこの現象にはもう慣れた。

そうです私が言いました。そんな気分で、開き直って、私は氷菓子を食べ終えた。

デザートにしてはあまりにも小振りに思えてしまう器は食堂備品の水用コップの半分くらいのコンパクト加減。そこに満たされていたものは細かく砕かれた色付きの氷で、食感しゃりしゃり味わいすっきりの甘さ控えめ柑橘フレーバーが爽やかな心地になる一品だった。温かいスープを大量に飲んだ後に少量ながらもひんやり冷たい氷のお菓子は臓腑に響く。だけどもぶっちゃけたったの二口であっさり終了してしまったのでもっといっぱいボウルでくれてもいいんじゃないかな。

何故だか我が意を得たりとばかりに口元を緩めている王子様に、私は空の容器を振りながらお行儀悪く要求をひとつ。


「王子様。もらっておいて言うのもあれだけど足りないからこのデザートおかわりで」

「リューリ・ベル、それはデザートじゃない。王国式のフルコースにおいてお魚料理とお肉料理の間には口直しのためにと供されるちょっとした氷菓子があってな。お前が今食べたのはそれです。ちなみにオレンジのソルベだぞう」

「へえ。フルコースとやらに組み込まれてるお菓子類ってデザートだけじゃないんだな。ん? わざわざ口直しのためだけにこんなちょっとだけの氷菓子の用意をするのか“王国民”」

「そうですねぇ、“北の民”の方々については寡聞にして存じ上げないのですけれど、ことこの“王国”において人間の舌というものは本来とても繊細で食べ合わせに左右されやすいものですから………味の濃いもの、油分が多いもの、刺激が強いものが続くとお口の中が麻痺したり薄味のものが感じ難くなる、ということが起こり得るのです。よって、美味しいものを十全の状態で味わうために一度お口の中をリセットして次に臨む、という意味合いで、魚料理と肉料理の前に口直しとして氷菓を挟むのが一般的なメニュー構成ですね」

「ちなみにこれは捕捉だが、そういう口の中をさっぱりさせる用途で提供される食べ物なので傾向的には柑橘系フルーツの搾りたて果汁かそういうものを含んだシロップだとかで作られている場合が多いな。清涼感が強いハーブの類も結構好まれていたりする」


疑問に答えてくれたのは、平素となんら変わらない様子の冷静沈着なフローレン嬢プラス馬鹿だった。例の女生徒とのやり取りは私が口を挟んだせいで停滞しているようなので、こちらの会話にとりあえず感覚で混ざってくれたのかもしれない。

しかし私の意識そのものは彼女の前に置かれたままで手付かずの氷菓に向いていた。口直し用なるオレンジのソルベの表面が早くもちょっと溶けかけている。なんて繊細で儚い氷だ。ここが“北”の大地ならそんなこともないだろうが、寒過ぎて強度がっちがちの凶器に様変わりする可能性(というか危険性)があるので考えるだけ無駄だと思考を投げた。ここは私の故郷ではなく“王国民”の住まう“王国”なので、繊細で儚いままの方が食べやすいに決まっている。


「そうか、料理の種類がいっぱいあると考えることもいろいろ増えてバランス取るのが大変なんだな。ところで余計なお世話かもだけどフローレンさん早く食べないと口直しのソルベが溶けちゃうぞ? ただのちょっとしゃりしゃりした美味しいジュースになっちゃうぞ?」

「残念ながら私は今少しばかり忙しいのでよろしければリューリさんがお召し上がりになってくださいまし」

「いただきますどうもありがとう」

「お礼を言ったと思った矢先に食べ終わってるってどういうことなの!?」

「落ち着くがいいキルヒシュラーガー公子。リューリ・ベルはこういう生き物だ」

「人類どころか生物としての広義でなくてはおさまらない器!?」

「あら。殿下も殿下というカテゴライズの単なるトップオブ馬鹿ですもの、何の不思議もないのではなくて? レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー」

「おっと。おかえり、フローレン」

「何をおっしゃっていますの貴方」


「当たり前みたいに脱線するの止めてもらっていいですかねちょっとぉぉぉぉぉぉ!!!」


絶叫、咆哮、騒音公害。それらすべてを凝縮した苛立ちまくりの大声に、私を始めとした面々が面倒臭そうな視線を向けた。ひとつめのソルベを食べる合間にぽろっと横槍を入れた自覚はあるのであまり強くは言えないが、しかしあのとき口にした言葉は無関係な第三者としての率直かつ単純な本音である。

例の聞き間違いお嬢さんは涙の膜が張った双眸で悔しそうにこちらを睨み、納得いかない我慢出来ないと声の限りに吠え立てた。


「気にしなくていいんじゃないか、なんて簡単に言わないでくださいよ! そんなことが言えるのは『妖精さん』が特別だからでしょう!? “北”から来た辺境民のあなたが王国の礼儀作法やしきたりを気にせずのびのび過ごせているのはあくまでも『あなた』が例外だからで、やれ身の程を弁えろだのはしたない振る舞いはするなだの目障りだの何だの言われたことも押し付けられたこともないくせに―――――やりたいことをやりたいように、そう選ぶことを許された側が、そうじゃない側に強制しないで! あなたなんて結局は運が良いだけの辺境民のくせに!!!」

「ああうん、それは間違ってないぞ。お嬢さんの言うとおりだ」


あっけらかんと肯定したら、驚きに目を見開いたのは興奮状態のお嬢さんではなく側で聞いているだけだった二人の公爵令嬢だった。表情豊かなマルガレーテ嬢はともかく淑女なスマイルを得意としているフローレン嬢さえもびっくりしている。

そして誰かが何かを言うより、私が続きの文言をぽいっと放る方が早い。


「だけど私の運が良いのと、さっきのお嬢さんの話は全然関係ないじゃんか」

「………………は?」


なんとも締まりのない呟きには、あんなにも激しく言い募っていた熱の名残さえもない。関係ない、と言い切った私は勝手気ままに言葉を綴る。誰も口を挟んでこないのは唖然としているからだろう。遮るものは、何もなかった。


「確かに私は運が良い。この“王国”に来てからずっと、基本、食うに困ってない。衣食住は保障されてる。ランチタイムに絡まれることは今も含めてたくさんあったが、それはまぁイレギュラーってやつだろうから数えるだけ無駄な話だな。いろんな便宜を図ってもらってることも最近になって知ったけど、結局のところ私はただただお嬢さんの言ったとおりに『運が良い』ってだけなんだろうさ」


だって、例えば今日のように―――――テーブルマナーを教えて欲しい、と世間話のノリで頼んだら馬鹿王子様の婚約者なせいか常に多忙らしいフローレン嬢がわざわざ時間に都合をつけて実地で教えてくれるのだ。テンションが高くてやたらと五月蠅い王子様というおまけ付きの状態ではあるものの、諸々の段取りやら何から何まで親切に面倒を見てくれる。彼女だけに留まらず、チーム・フローレンのお嬢さんたちや食堂のおばちゃんたちだって、“招待学生”の私のために給仕役をしたりフルコースメニューを作ってくれたりといろんな融通をきかせてくれる―――――この“学園”は『学ぶ意思を持つ者に対して平等に学ぶ機会を与えるための場所』だと最初の頃に教わったけれど、これに関して私は他より優遇されているに違いない。運が良い、の一言だけであっさり片付けてしまって良いのかと思うくらいの好待遇。

それを享受している身だとはっきり自覚した上で、私はひょい、と肩を竦めた。


「自分が知りたいと思うことしか基本覚えようとしない、どうでもいいことはどうでもいいまま深追いしないこのスタンスが許されてるのは確かなことだ。そこに関しては否定しない。知りたい、って自分から頼んで教えてもらってるくせに、結局自分の価値観ばっかでせっかく用意してくれたフルコース体験の工程をぐっちゃぐちゃにしてる私の態度が主催のフローレンさんたちに咎められないのもただ運が良いだけなのは本当だ―――――だけどさぁ、お嬢さん」


あくまで、それはそれとして。


「それとさっきのお嬢さんの主張はまったく関係ないだろう。お高く気取った上位貴族様の親切ぶって押し付けられる横暴が許せない、とか傲慢極まる独り善がりを止めて欲しい、とかそれってただ運に恵まれてるだけの“辺境民”でしかない私とは何の関連性もなくない? それともあれか、“私”に許されてるんだから他の生徒たちにも全員それを適用すべきってそんな感じの話だったか? 違うだろ。それは私やフローレンさんや王子様を巻き込んでマルガレーテさんに訴えかければ解決するって話じゃない。だってマルガレーテさんにはそんな決定権はない、フローレンさんや王子様や私にだってそんなものない。それはもっと上の偉い人たちが決めることであって、いくら身分が高かろうが一介の学生がどうこう出来るような話じゃないのは当たり前で―――――そもそもの本筋じゃ無かった筈だ。熱が入り過ぎるくらいお嬢さんが真剣なのはよく分かったけど落ち着けよ、収拾つかないだろ」

「わぁ、リューリ・ベルが真面目なこと言ってる………というかお前、いつもと同じフリーダムさで全然気付いてなかったけれどもフローレンが用意した王国式フルコースの体験プランをしっちゃかめっちゃかにしているという自覚はちゃんとあったのか。自重とか出来てないだけで」

「王子様にだけは言われたくない」

「間違いなさ過ぎて何も言えない」


殊勝な態度で肯定するなり口を噤んだ王子様にフローレン嬢が睨みを利かせているうちに、また雑談で脱線しないよう私は自分の言いたいことを言い切っておくことにした。無関係ではあるけれど、そうしておかないと十一番さんたちがフローレン嬢たちに提供しようとしているお肉料理をのせたお皿が一向に届かない気がしたので。


「問題を大きくし過ぎると肝心の本筋が疎かになりがち、って恋愛小説をたくさん読破した宿屋のチビちゃんも言ってたぞ。例外だの運が良いだの何だのぽっと出の私に気を取られて余計な装飾付け足してないで、最初にお嬢さんが何言いたかったか一回整理して良く考えろよ―――――結局お前、なにが気に入らないの?」


気に入らない、ということは、許せない、と同義である。少なくとも自分自身にとってはそれくらいの感覚で、ほとんどの“北の民”にとっても概ね同じことだろう。故郷の外側に住む人々は私たち程シンプルではなく複雑な思惑を絡ませながら酷く面倒に生きている。私にはそれが理解出来ない。

口に出して、態度で示して、言葉で伝えてもらわなければ、一生かかっても分からない。


「わ、わたし、は………キルヒシュラーガー公爵令嬢が、ティトくんにテーブルマナーを強制するのが、それをわざわざ教えてあげようっていう偉そうな態度が、あんまりだと思って」

「でも本人は感謝してたんだろ? そう言ってたのはお嬢さんじゃん。経緯は知らんけど言われたティトが納得して受け入れてたんなら、別に他人のお嬢さんがとやかく口挟むことじゃなくない?」

「そんなの、公爵家の方のご厚意なんか断れるわけないんだから嫌でも癪でも表面上は感謝しておくしかないじゃないのよ! そんな経験したことのないあなたには分からないでしょうけどね!!!」

「うん。分からん。分かんないから手っ取り早いことしてもいい?」

「なによ手っ取り早いことって!?」


憤怒に吊り上がった双眸で私を睨み据えて詰め寄る女生徒にまったく取り合わないかたちで、こちらの遣り取りを物言いたげな目で見守るだけに留めていたマルガレーテ嬢を一瞥してから前を向く。

対面席の美男美女は、まるで私に任せておけば大丈夫だと言わんばかりの安定感で優雅にお肉を食べていた。実は視界の端っこで見えていたから知っていたけどちょっと待って。ずるくない? この状況下で平然と、紳士淑女然とした雰囲気のまま一流の風格で料理を味わう胆力は流石の一言に尽きるけれどもずるい私もお肉が食べたい。このごたごたが終わったらきっと次の素敵なステーキが出て来るって信じてる。

第二のワイルド・ステーキを夢見て私は王子様にさらっと聞いた。


「王子様、お前いつもの馬鹿みたいなノリで今すぐこの場にティト呼べない?」

「やだリューリ・ベルがこの私に頼み事とか珍しい。王子様ちょっと頑張っちゃおう、はい聴覚が敏感なギャラリー各位はフローレンを見習って今すぐ耳を塞ごうなー。いくぞー、せーの―――――メチェナーテ侯子いますぐ食堂集合ーッ!!!!!」


即時対応してくれるノリの良さだけはホントにすごい。そして相当声がでかい。薄々思ってはいたのだけれどこいつ本気で声張り上げるとものすごい音量出しやがる。私の肺活量に匹敵しそう。いや、これは肺の強靭さもあるが声の張り方や通し方を理解し尽くしているからこそ可能な芸当といったところか。防御が間に合わず大音量に鼓膜をやられたらしい面々が奇怪な呻き声を上げていた。

ていうかおい嘘だろ王子様。呼べない? と聞いたのは確かに私だがそんな原始的なお呼び出しの報せを真っ先にチョイスするか普通。もっと誰かに居場所を聞くとか伝言を頼むとか常識的な範囲の声量で近くに居ないか確認するとかそういうのを思い描いてたんだよこっちは。

あんなにも五月蠅かったのにちゃんと“声”として認識出来る発音だったのは純粋にすごいと思うけれど、普通の神経ならまずやらないと思うし五月蠅いものはとにかく五月蠅い。私を睨んでいた例の女生徒も近距離で大声をくらった関係で耳を押さえて蹲っている。フローレン嬢に倣うのが早かったマルガレーテ嬢は似たような距離感でも無事だった。明らかにドン引きしていたけれども。


「え………レオニール殿下の声帯はいったいどうなってるのフローレン………咄嗟とはいえ耳を塞いだのに脳髄にまで到達するような大音声だったのだけれど………」

「二時間程度なら休憩なしで声の質を落とすことなくスピーチを続けられる喉ですが、水分補給が許されるのなら更にもう一時間は余裕でしょうね。瞬間的に声を張った場合は割と広範囲まで届くようですがきっちりと測ったことはないので何とも申し上げられません―――――個人的な体感としては我が家の番犬の全力威嚇より五月蠅いと思いますけれど」

「平然とお答えいただいたついでにもうひとつ質問してよろしいかしら? 不審者を怯ませるために最上級の訓練を受けているであろう番犬よりも大きな声を出せる王族って何者でして?」

「いやあ、何者? と聞かれても、ボイストレーニングは欠かしたことのない意識の高い“王子様”だとしか答えようがないぞうキルヒシュラーガー公子」

「何をしれっと私たちの会話に混ざってらっしゃるの!? ちょっとレディ・フローレン、貴女の婚約者はどうしてこうも王族っぽくない能力ばっかり無駄かつ無意味に高いのかしら!?」

「まぁ。嫌だわ、レディ・マルガレーテ―――――そんなもの、私が一番知りたくてよ」

「申し訳ありませんレディ・フローレン私の口が過ぎました。愚問でしたごめんなさい」


虚無に近い表情で淡々とそんな台詞を返したフローレン嬢に真剣かつ速やかに詫びるマルガレーテ嬢と、いつの間にやら席を立ってそんな二人の間に割り込む王子様というシュールな絵面。なにこれ。かろうじて鼓膜防御が間に合った強運な一部の生徒たちはそんな三人の様子を眺めていろいろ好き勝手に囁き合っているが私は何も聞いていない。お姉様大好き妹君とか男が間に挟まる悪とか聞こえたとしても意味分からん。なにそれ。


「うあ………あ、あー、あーあー………うう、なんかまだ耳が遠い気がする………なんなのよもう、信じられない………」


両耳を手で押さえたり離したりしながら発声を繰り返して聴覚機能を確認しているらしい例の聞き間違いお嬢さんは、見たところかなりげんなりしていた。まさかこの国の“王子様”からあんな馬鹿でかい声が放たれるとはまったく思っていなかったらしく、耳を塞げとの忠告に従わなかったばっかりに相当なダメージを負った模様。

そんな女生徒の有様に憐れみの色を一瞬浮かべ、マルガレーテ嬢は苦々しい顔で王子様から視線を逸らして矛先を私へと固定した。フローレン嬢も同じように、けれどいくらか柔らかい目付きでこちらの顔を見ながら言う。


「リューリさんがおっしゃっていた『手っ取り早いこと』、というのはつまり、メチェナーテ侯子の召喚でしたのね。確かに、部外者がとやかく言うより本人に直接聞いてしまうのが一番早くて堅実な解決策ではあるのでしょうが………」

「それが出来れば、の話でしょう? ねぇ、レディ・フローレン。今だって昼食時の食堂でここまで大騒ぎになっているのにちょっと根が素直過ぎるくらい人の良いあの子が出て来る気配さえないのだもの、その時点で彼は近くに居ないと分かりそうなものではなくて? だいたい、いくらレオニール殿下が名指しで呼び出しをしたところで、声も届かない距離に居たんじゃすぐに駆け付けようもな」


「すいませーん、なんかさっき食堂集合って声が聞こえた気がしたんですけど俺って呼ばれてましたかー!?」

「本当に来た!? このタイミングで!? メチェナーテ侯子さては貴方いつ出ようか機会を窺っていたでしょ………ってなんで窓から入って来ようとしてるのかしらこの子は!?」


分かりやすい状況説明をありがとうマルガレーテ嬢。

ツッコミの才に恵まれた麗しいお嬢さんが口にした情報そのままに、図ったようなタイミングで(まぁそこは偶然なんだろうけれども)食堂に登場したメチェナーテ侯子ことティトは能天気極まる明るさを隠すことなく朗らかに―――――換気のために開け放たれていた食堂の窓の枠を掴み、ひょい、と身軽に乗り越えた。屋外テラスに繋がっている窓と同じ構造の出入り口からではなくごくごく普通の窓からである。

流石に私でもやったことない。食堂に至るまでの道をショートカットしたことはあっても出入りの際は扉を利用している。窓は人間の通り道じゃないって宿屋のチビちゃんも言っていた。あと食堂のおばちゃんに怒られたくないから絶対嫌だ。

しかし、この場合誰よりも激怒するのは規律と礼儀を重んじるマルガレーテ嬢その人であり、案の定ティトの着地と同時に彼女の怒号が飛んでいく。


「メチェナーテ侯子! 何をしているの! 平民上がりの養子といえど、貴い身分に名を連ねたならそれに相応しい振る舞いをなさいと何度言わせれば気が済むのかしら!? ちゃんと入口からお入りなさい! 食堂の窓はやんちゃ坊主のための出入り口などではなくてよ!」

「え、あっ、公女様だ! こんにちは、今日もお綺麗ですね! すみません、外に居たから緊急事態なら窓から行った方が早いと思ってつい!!!」

「目上の者への礼儀を欠かさないその心掛けは大変結構。けれど、この場合は挨拶よりも謝罪の方を優先なさい。貴方にそのつもりがないと分かってはいても、言い訳前のご機嫌取りに美しいと諂われているようであまり気分の良いものではなくてよ。心証としても素直に受け取れないわ―――――深呼吸する時間をあげるから、言葉遣いも含めてもう一度よく考えて口を開きなさい」

「申し訳ございません。火急の用件かと最短でこの場に駆け付けることばかりに気を取られ、食堂を利用する皆様への配慮を疎かにしてしまいました。以後このような………ええと、このような振る舞いをすることなどないよう己を律し………なんか違う、じゃなくて、侯爵家の者として恥じることのないよう努める所存です!」

「最後勢いで言い切ればセーフというわけではありません。そんなやり遂げた顔をしようが合格ラインには程遠くてよ」

「ですよね。はい。すみません公女様………あ、でも公女様が今日もお綺麗なのはお世辞じゃないです。本当に」

「貴方は何を言っているのかしら? この私が美しいのは当たり前よ。決まっているでしょう? そんな聞き慣れて面白味のない台詞は既にお世辞ですらないのだわ………それとあの、その、さっきの………言い淀む前の途中までなら及第点を出してあげなくもないわ! これからも頭の弱いお馬鹿さんなりにせいぜい精進することね!!!」

「やったー途中までだけど公女様に褒められた!」

「え、今ので喜べちゃうの………? 私が言うのもアレなのだけれど、物事の捉え方だとか考え方とかメンタル面とかポジティブ過ぎるんじゃないかしらこの子………」


絵に描いたような高飛車お嬢様っぽい発言をしていたマルガレーテ嬢が一転して弱り果てた様子で眉尻を下げる程のメンタル強度を誇る男子が王子様の他にも居たとかあんまり知りたくなかったな。登場するなり誰にも口を挟めないような勢いでぽんぽんと会話を成立させた馬鹿二号と縦ロール嬢を他人事目線で眺めやり、唖然とした様子で同じ方向を見ている女生徒に私は何気なく声を掛ける。


「なぁ、私もそんなに詳しくはないけど、ティトとマルガレーテさんは前見たときもあんな感じだったぞ。マルガレーテさんの物言いきつくてもティトは気にしてなさげだし、友達とまではいかなくても仲が悪いってわけじゃなさそうだし―――――お嬢さん、もしかしたら私のパンとスープの話の聞き間違いと同じでなんか違ってるかもだから確認した方がいいんじゃないか? たぶん一番手っ取り早く納得出来ると思うんだけど」


どう? と促した私の目の前にことりとお肉のお皿が置かれた。しかも一枚じゃなくて二枚。フローレン嬢と王子様が自分たちの食べていたお肉料理とまったく同じものを追加注文した上でこちらへと差し出してくれたらしく、彼と彼女は似たような面差しで食べて良いとだけ告げてくる。なにごと? いやまぁ食べるんだけどな。お肉料理美味しそうなんで。


「さて、役者も揃ったところで時間も残り少ないことだし私が仕切らせてもらおうか――――――メチェナーテ侯子、よく来てくれた! 急に呼び出してすまなかったな! 食堂を利用中の生徒各位、彼が窓からこんにちはした件については“王子様”が緊急で呼び付けたせいということで不問に付してくれると助かる! はい拍手をありがとう話が早い! メチェナーテ侯子、こっちに来てくれ。ちょっとした事実確認を頼む!」


一斉にぱちぱちと手を打ち鳴らす音が方々から聞こえる食堂の中で、私はお肉をもぐもぐしている。左手に持ったフォークでお肉の端っこを固定して、右手のナイフで小さく切り取る作業にはもう既に慣れた。

場の空気を掴むことに長けた王子様の声は拍手の只中にあってもよく通るから、元気な了承の返事とともにティトがこちらへと歩み寄ってくる。大柄な彼は急がなくともすぐさま私たちが陣取るテーブル席まで辿り着き、一礼してから直立不動の姿勢を保って王子様の言葉を待っていた。


「さて、お前を呼んだのは他でもない。単刀直入に聞くけれども―――――メチェナーテ侯子がそちらのキルヒシュラーガー公子から『テーブルマナーの習得を強要されている』と小耳に挟んだのだけれど、教わりたくもないことを無理矢理教えられるのは正直嫌だなぁ、とか思ってたりする? 彼女にいじめられたりした?」

「はい! 公女様にテーブルマナーを覚えなさいとは言われ………待って!? いじめって何の話!? アインハード狙いだった人たちに追っ掛け回されたことならあるけどそれと公女様は関係ないし逆に気に掛けていただいたのでいじめとか意味分かんないんですけど!? 全然嫌とか思ってないですし言ったこともないんですけど何それ小耳に挟んだって何処から情報ですか殿下!?」

「何処から、ってこちらにいらっしゃる貴方のご友人からですけれど」


こうなってはただ沙汰を待つのみ、と厳かに覚悟を決めた面持ちのマルガレーテ嬢が冷静に、これ以上ない程落ち着き払った声で情報源を提示する。ティトがものすごい勢いで、まったく状況が飲み込めないみたいな顔を向けた先に立っているのはもちろん例の女生徒で、彼はその姿を正面から捉えて少し眉間に皺を寄せた。


「んん? キャロ、じゃないフーカー男爵令嬢? あれ? なんで貴女がそんなことを? 何がどうなってそんな誤情報が殿下方や公女様にまで?」

「厳密に言えば、私のところから始まった騒ぎを殿下方にまで広げてしまったのよ。これは自分のところでしっかりと問題を抑えられなかった私の落ち度でしかないわ………ハウゼン子爵令嬢に続きフーカー男爵令嬢と………前回といい今回といい、メチェナーテ侯子の人徳を私が考慮していなかったのが悔やまれる無様な事態でしてよ」


マルガレーテ嬢が溜め息交じりに吐き出した小さな自嘲と自虐に、誰よりも早く反応したのはたぶんティトだったと思う。私はすっかり観客気分で一皿目のお肉を完食していた。美味しさのあまり記憶がない。美味しかったという記憶しかなくてちょっと驚く今日この頃。もう一皿あって助かった、ありがとう王子様とフローレン嬢。


「いや公女様に落ち度とかないです! 前回のクラーラさんの件だって公女様が悪いことなんか一個もなかったんだから今回もないパターンですよ俺の勘結構当たるんで! むしろ直感だけを頼りに生きてるとこあるんで大丈夫です公女様いい人です自信持って!!!」

「なんで私がメチェナーテ侯子に慰められているのかしら!? あとお気遣いは痛み入りますけれど直感だけを頼りにする生き様はきっぱりと止めておきなさい! レオニール殿下がそういう芸風で生きて行けるのはレディ・フローレンの献身があってこそのミラクルだから下町はともかく貴族社会でそんな生き方を続けていたら碌なことにならないのだわ! 主に周りの面々が!!!」

「はっはっは、ねぇなんで今の流れで私の方に飛び火した?」

「日頃の行いを省みてくださいまし直感フルスロットル馬鹿」

「省みた。いつもありがとうフローレン。婚約者が優秀有能だと馬鹿でも“王子様”のままで生きていけるという典型的なモデルケースとして私の名は確実に後世に遺るな!」

「ポジティブもそこまで極まれば一周回って殺意が湧きますのでふざけたことばかり吐き散らしてないでもっと別の方向性を模索しなさい馬鹿王子。まだ間に合いましてよ」

「おそれながら公女様、殿下の生き様は直感だけじゃ無理だと思うので俺には無理です」

「そうね………これは天性の才能的な何かが備わっていないと無理でしょうね………」


他の面々がテーブル周りをぐだぐだと賑やかにしているのを尻目に、十三番さんが注いでくれた新しいお水をぐいっと煽る。美味しかったという記憶そのものが洗い流されることなどないが、きっとこの先出会えないであろう美味しい食べ物との邂逅はいつだって全力で楽しみたいので。


「おおっと、話が逸れていた。失礼、フーカー家のご令嬢―――――それで? メチェナーテ侯子はこのとおり何の害も迷惑さえも被っていないようなので、きみの心配は杞憂であったと『めでたしめでたし』で終わりたいんだが………どうもきみの様子を見るに、承服しかねているようだ」

「え? なんで? キャロルさん、なにがどうして俺が公女様にいじめられてるとか思ったの? 切っ掛け何? ごめんだけど俺は頭が良くないから言われないと分かんない―――――平民から貴族になったって同じ経緯があったから、“編入生”の先輩として俺によくしてくれたことにはそりゃぁもちろん感謝してるけど、お世話になってる公女様に迷惑とか絶対かけたくないから教えてくれないとすごく困るんで教えてくださいお願いします」


挑発のような誘導な王子様の言葉を受けて、根っこが単純で素直なティトが無言の女生徒を問い詰めていく。純粋であるだけ鋭い言葉はまるで刃物のようだった。お皿の上の芸術品を右手のナイフで切り取って、左手のフォークで口に運ぶ。私だけが食事を楽しんでいる。

だって私は関係ない。

それまで沈黙を貫いていたお嬢さんの少し乾いた唇から、強張った声が紡がれた。


「今朝、始業前のことです。メチェナーテ侯子が、キルヒシュラーガー公爵令嬢とお話しているところに居合わせました。校舎の出入り口でしたので、登校の時間帯だったこともあり他にも周りに何人か、同じような生徒たちが居たと思います。お二人とも声が良く通るので、ただ近くを通りがかっただけでも会話の内容が聞き取れました。前後の内容までは分かりませんが、キルヒシュラーガー公爵令嬢が『仮にも侯爵家の養子になった身で未だテーブルマナーのひとつすら満足に覚えていないのかしら!?』と強い口調ではっきり彼を詰っていたのは確かです」


さて、真面目な話が始まったらしいので好機は今に違いない。邪魔が入らないうち美味しいお肉を頬張る私だ。

フローレン嬢と王子様が食べていたものと同じメイン料理は柔らかい牛さんのお肉を炭火で焼き上げ塩気と酸味が絶妙に調和した癖のないソースを添えたもの。おそらく食べ頃になった牛さんの希少な部位を使っているのだろう、ワイルドなステーキは質感ガッツリで命と血の味が素晴らしかったがこちらはお貴族様が口に運ぶメニューに相応しい丁寧な仕事に技術が光る。お肉なのにどうしてするんと喉の奥に溶けてしまうんだ。もっと居残ってくれていいのに舌で潰せる柔らかさだから噛んでもないのにすぐ消える。歯とか使わなくていいから咀嚼の必要性ゼロだ。

え? お肉が飲み物感覚? そんな馬鹿な。そんな馬鹿な!?

びっくりし過ぎて二回言った。いやまぁ心の中でだけれども。

一流のプロに調理され、洗練された料理というものはこんなにも人類を幸せにするのか―――――すごい、すごいぞフルコース料理。プライド全部盛りって感じが特に!

お肉は飲み物としても優秀と私が新たな知見を得る横で、真面目な話はまだ続いていた。


「あと、『この私が一度だけ指導役をして差し上げるから、泣いて感謝してしっかり覚えて貴族の所作を学びなさい』とメチェナーテ侯子に一方的に提案を押し付けているところまでは聞こえました。ありがとうございます、という彼の言葉もだいぶ小さかったのですが聞き取れました。ですが、公爵位を戴く家柄の方に逆らえる者などこの学園には数える程しか存在しません―――――自身が望んでもいないことを、逆らえない身分の相手から親切ぶって押し付けられるのは、あんまりだ、と思いましたので。今朝の記憶が色褪せないうちにキルヒシュラーガー公爵令嬢に苦言を呈させていただくに至った次第でございます」


嘘など一切吐いていない、これが唯一の真実であるとの信念に裏打ちされた口調。感情を押し殺しながら淡々と連ねられた事務的な報告書のような内容のそれを聞き終わったティトが食堂の天井を仰ぎ見る。

そしてそのまま口早に、怒涛の勢いで喋り始めた。


「ああうんはい分かった全部分かりました分かった上でとりあえず最初にこれだけは言わせてくださいキャロルさん改めフーカー男爵令嬢―――――なんっっっっでたまたま聞こえたそこだけ切り取って公女様が悪者みたいにされなきゃいけないわけ!? クラーラさんとロジャーの時もそうだったけどこの学園に通ってる人たちの一部は公女様を何だと思ってるんですか普通に失礼でしょキルヒェンシュラーガー公爵令嬢や殿下方にご迷惑をおかけする前にまずは俺に経緯を聞くなりしてくれりゃいいじゃんなんでそうしないのどういう思考の飛躍だよ聞けよ! 知り合いなんだしさぁ! あっ!? やった、勢いでようやくお名前言えたー!!!」

「見逃してあげたい気持ちはあるのだけれどもごめんなさい。私の家名はキルヒェンシュラーガーではなくキルヒシュラーガーなのよ、メチェナーテ侯子………貴方、手紙の宛名は書けるのに、どうして口で言おうとするとこんなにも上手くいかないのかしらね………」

「あああああごめんなさい大事なところだったのに未だにちゃんと言えなくてホントごめんなさい公女様のお名前そのものはちゃんと頭に入ってるんですいっぱい綴り書いて覚えたから手紙にはちゃんと書けるようになったのになんで口頭だと駄目なんだよもうめっちゃ発音練習してるのにぃぃいぃぃい」


頭上を振り仰いでいたと思ったら感情任せに叫び散らしてふとしたことでぱっと笑顔になって、しかしマルガレーテ嬢に名前が違うと指摘された次の瞬間にはこの世の終わりのような落ち込みっぷりで頭を抱えて床にしゃがみ込む馬鹿二号の情緒どうなってんだよ。あまりのテンションの振り切れっぷりに誰一人として追い付けない―――――なんてことはまったくなかった。

こういうテンションに慣れているプロ、或いは限りなくこの勢いに近いノリで常日頃から生きている馬鹿が、幸いにもこの場には揃っているのだ。言うまでもなく、美味しいお肉をごちそうさました私のちょうど目の前に。


「役者だけでなく情報も概ね揃ったようですし、頃合いといったところでしょう。出番でしてよ、レオニール」

「そうだなぁ、もうすぐデザートだし。食後の紅茶も楽しみたいし、リューリ・ベルに理解度チェックの小テストも実施しなきゃだからそろそろ本格的に巻こう―――――はい注目! 偶然だろうがメチェナーテ侯子、そしてキルヒシュラーガー公子! お前たちは今とても気になる情報をぽろりとこぼしたことにお気付き? はい双方ともに気付いてなさそうなんできょとんとした顔のお前たちに王子様から質問だ―――――先程の遣り取りを踏まえるに、もしや二人って文通仲間? つまりは割と仲良しなのでは?」


ぶっこんでいく王子様。マルガレーテ嬢はそれを受けて、ちょっと答えに困っていた。


「文通仲間だから仲が良い、と申し上げるには些か事情が異なるのですけれど………確かに殿下のご指摘のとおり、私たちはここ数日で書状のやりとりをしております」

「あ、そうなんです。殿下たちもご存じだと思いますが、俺この間公女様から『アインハードがいろいろやらかした件』でメチェナーテ侯爵様宛のお手紙をお預かりしまして………それを侯爵様にお渡ししたら『公女様にお渡しするように』ってその日のうちに返信を託されました。で、親切にしてくれた公女様にお前もちゃんとした礼状を出しなさい、ってアドバイスをもらったので、公女様宛に手紙書いて一緒にお渡ししたんです―――――『気持ちはともかく貴方の書いたコレは貴族の作法に則った書状には程遠くてよやり直し!』って丁寧に添削された上でリテイクくらって書き直そうにも手紙の作法とかまったく知らなかったんで図書館で調べようとして結局意味不明で半べそかいてたらたまたま会った公女様に『分からないなら分からないって最初に言いなさいよこの子は!』って怒られて、なんやかんやで公女様が手紙の書き方の練習がてらに文通してくださることになりました! そのおかげでめっちゃくちゃ字とか文章力上達したなぁって侯爵様たちに褒められたんですよ! 頑張ってるからご褒美に、ってお貴族様御用達レストランの高級ディナーに連れてってもらえることになったのも公女様のお力添えがあってこそです!」

「待って待って待って待って待って待って本当に待ってそんなことある!? 宗教的暗示にかかってない!?」


宗教的暗示ってなんだそれ。集団幻覚といいやばい要素に囲まれ過ぎだろ王国民。思っていても口には出さない。美味しいお肉の余韻が逃げる。

どうもティトが語る内容が信じられない神経極太お嬢さんが声を荒げまくっていたが、気持ちは分からないでもないのか周囲のギャラリーたちは一様に「そんなことある?」みたいな顔をしてマルガレーテ嬢のことを見ていた。彼女は気まずそうな顔をして、けれど豪奢な縦ロールから覗く耳の赤さは誤魔化せない。


「この私を相手にそんな見え透いたおべっかをよくも口に出来るわね………いくらなんでも平民と大差ない知識しか持っていない子にちょっときつく言い過ぎたかしら、と思って慣れないことをするものではないのだわ………こんな裏のない褒め殺しとかそれこそ慣れてないのだわ………」


聴覚の鋭さにあわせてそれなりに距離が近いからこそ聞き取れたマルガレーテ嬢の呟きが心なしかちょっと泣きそう。純粋な善意や好意の類にあまり強くない性質らしい。地位とプライドが高いばっかりに難儀なお嬢様である。

動揺を顔に出さないよう繕うことに忙しいせいか、彼女はティトが神妙な顔をして言い出した台詞を止められなかった。


「暗示にかかってるのはむしろそっちの方だと思うよ俺。だって公女様、いい人だもん。かっこよくて優しい人だよ。同じ平民上がりの編入生同士頑張ろうね、ってキャロルさんに親切にしてもらったことは忘れてないし感謝してるけど、俺と公女様が今朝喋ってた内容の一部だけ聞いて知ったかぶって酷いこと言ったりしないで欲しい―――――友達だ、と思ってる人に、優しい人が悪く言われるのは嫌だよ」

「メチェナ………ああもう、目を覚ましてティトくん! 高位貴族様の押し付けのお情けは優しさなんて言わないのよ!?」

「ハァ!? 超格式高いレストランに連れてってもらえることになったけど『嬉しいけどテーブルマナーに自信がないどころか高級過ぎて緊張してお腹痛いので辞退のしかたを教えてください』って情けないこと手紙に書いたら『そんなことで侯爵家の方々のお気持ちを踏み躙るのは本意じゃないでしょう上手い言い訳を考えるくらいならディナーの日までにテーブルマナーを頑張って完璧にマスターしなさいお馬鹿ッ!』って真っ当に叱咤激励してわざわざ指導役名乗り出てくれた公女様の純度百パーセントのご厚意のどのへんが押し付けのお情けだか言ってみろなんでそんなに公女様ばっかり悪者にしたがるんだよ目ぇ覚ますならなアンタの方だいい加減にしろ―――――!!!」

「なんっ…………え? エェェェェェェェェッ!?!?!?」


叫んでいるうちに頭に血が上ったらしくものすごい声のボリュームで吠え出したティトに負けじと睨んだ女生徒の声が珍妙な感じに引っ繰り返る。いやまさかそうはならないでしょうよ、みたいな顔でマルガレーテ嬢に視線をやる彼女の顔色は紙のように白かったけれど、派手な美貌の縦巻き髪お嬢さんは華奢な両手で顔を覆って自分の殻に閉じ篭っていた。恥ずかしさが限界を超えたらしい。見た目とのギャップがえげつない。


「嘘でしょティトくんそんなことある!? えっ、まさかキルヒシュラーガー公爵令嬢本当にただの親切心でティトくんのためにテーブルマナーを教えてあげるって言ってたの!? あの偉そうな物言いで!?」

「だぁぁぁぁぁぁからそうだっつってんじゃんクラーラさんの時といい公女様なんでそんな信用ないの!? いい人じゃんどっからどう見ても! この際はっきり言っちまうけどアインハードの件といい白い人に絡む連中といい何ここ節穴の集い!?」

「言ったぁぁぁぁぁぁぁ! リューリ・ベルがいつか言いそうな台詞としてファンクラブ内で密かに話し合われていたパワーワード・ランキング第二十八位にランクインしていた『節穴の集い』をまさかのメチェナーテ侯子が言ったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


叫ぶ面々。弾ける熱気。楽しそうに空気を盛り上げる空気を読まない王子様。なんて無意味なランキングで遊んでるんだ王国民。ていうかおいそれ二十八位ってことは残りあと二十七以上はランキングとやらに入ってる言葉があるってことか。なにそれ逆に言いたくない。

冷めた目をして無言を貫く無心な私の真正面で、十一番さんが持ってきた紙に素早くざっと目を通すフローレン嬢に意識を向けていた人はきっと誰も居なかった。それでも騒がしい食堂内で、彼女がひとたび口を開けば大抵の人の聴覚機能がその美しい声を拾い上げるのは冗談のような本当だけれど。


「なるほど。男爵家の養女、キャロル・フーカー………最近どこかでその名前を見た気はしていたのですけれど、特に関係がないものとリストから外してしまったのはどうやら間違いだったようです―――――いつまで思案に耽っておいでなの、レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー」


恥ずかしがってる場合か戻って来い、とライバルからダイレクトに焚き付けられて反応しないわけがない。マルガレーテ嬢は即座に顔を上げ、先程までの弱々しさが錯覚だったと見紛うばかりの気位の高さで胸を張る。


「あら、どうしまして? レディ・フローレン。私、遅れ馳せながら売られた喧嘩を買って差し上げようと心意気を新たにしたところなのですけれど、完璧な貴女が間違いを犯すようなイレギュラーでも起きたのかしら?」

「ええ。と、言いますか、事の真相をお伝えします」

「え? これで終わりじゃなかったの?」


このぐだぐだとしたトラブルはまだ完全に落着しないのか、と当事者である女生徒以外の誰もが抱いたであろう台詞をマルガレーテ嬢が口にした。もう一人の公爵令嬢は、座ったままで手元の用紙から静かに顔を上げて言う。


「そちらのフーカー男爵令嬢、今までの話を聞いていた限りどうも『自分より地位の高い者』ないし『自分では逆らえない相手』に言動を制限、強制されたようなご経験があるようで………そういった深い心の傷からメチェナーテ侯子と貴女のやりとりに過剰なまでの反応を示してこんなことになってしまったようなのですけれど」


一度そこで言葉を区切って、ひどく平坦な声色で、フローレン嬢は真相を述べた。


「彼女、エッケルト侯子と仲良くしていらっしゃった貴女の縁戚のご令嬢方に大変親切にしていただいたようですよ―――――平民から男爵家の養女になった気苦労の絶えない身の上で、それでも挫けず学業に励む健気で好感の持てる女性………と、彼が褒めたという理由で」

「へぇ、あの手の肉食お嬢様方に親切にしていただ………待ってそれが普通の親切じゃないことは流石に馬鹿の俺でも分かる、つーかアインハードが関わってるとマジ碌なことになんねーじゃん俺の時といい今回といい何あいつカスの一等星!?」

「あっはっはっはっはっはっはこいつ磨けばどんどん光るなぁ!!!」


ティトが放り投げた切なる叫びに大喜びで手を叩いている王子様のテンションがウザ過ぎる。場を和ませる意図があるのかないのかは本人のみぞ知るところだが半分以上の割合でどうせいつものノリでしかないのでトップオブ馬鹿は一回黙れ。フローレン嬢のリクエストに応えて沈黙という美徳を選択しろ。

そしてアインハードなる迷惑な男の名前を聞いたマルガレーテ嬢からは表情が消えた。表情どころか一切合切の感情を一瞬で削ぎ落とした彼女はフローレン嬢と同格の恐ろしさと圧力に満ちている。端的に言って超怖い。


「失礼、レディ・フローレン。お手元の資料を頂戴しても?」

「ええ、もちろん。構いません。ご覧くださいまし、レディ・マルガレーテ」


そんな彼女のテンション急下降にティトが忙しなく慌てていたが、当のマルガレーテ嬢ご本人はびっくりする程冷静だった。冷静にフローレン嬢から一枚の紙を受け取って、ざっと内容を流し見た後でふぅと悩まし気に息を吐いたあと軽く眉間に手を当てて指先で軽く揉む姿はどこからどう見ても麗しい、憂える淑女の佇まい。


そして、見るからに性格がきつそうな顔立ちをした高貴なる身分のお嬢様はにこやかに己が持っていた紙っぺらを引き裂いた。


躊躇いもなく一息に、憎しみを籠めて力強く、華やかな微笑みを貼り付けたままビリッと思いっきり実行する様はシンプルになんかもう怖い。

ひっ、と短く悲鳴を上げて反射で距離を取ったのは何やらいろいろあったらしい押し付けがましい親切もどき絶対許さないお嬢さんだったけれど、そんな彼女を追うが如くマルガレーテ嬢は立ち位置をずらしてなんと正面から相対した。


「ねぇ、フーカー男爵令嬢? 不躾で申し訳ないのだけれど、およそ数ヵ月に亘って貴女に親切に接し続けた方々の名前を私に教えてくださらない? もちろん、このマルガレーテ・キルヒシュラーガーが恐ろしくてしょうがないのであれば無理にとは言いませんけれど」

「ひえぇぇぇぇぇぇぇぇごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ」


怖かったらしい女生徒が秒で壊れた。さっきまでの気丈な態度は一体どこへ行ったやら、もしかしたら何か嫌な記憶の蓋が全開になってしまったのかもしれないがその様子を見たマルガレーテ嬢もまた瞬間的に態度を変えた。蹲って必死にごめんなさいを繰り返している女生徒を傲然と見下ろして、彼女は凛と声を張る。


「何をそんなに謝っているの、貴女が今一番するべきことは私への謝罪などではなくてよ!」

「すみませんすみませんすみません謝罪はもちろん公爵令嬢様に男爵家の養女如きが物申した不敬をつぐな」

「違う!!!!! そんなもの要らないわ! というか私の言い方が悪かったようね! ごめんあそばせ! 少しばかり気が急いて言い間違えてしまったのだわ、なので言い直しますけれど―――――貴女が今一番にするべきことは専門家によるカウンセリングを受けることだと思うので、告げ口のようで私に教えるのは気が咎めるというのなら、そちらのカウンセラーを通した上で対応していきたいのだけれど?」

「カウンセ………えっ。なんて? 専門家? 何をおっしゃってるんですか?」


どこから出て来たカウンセラー。困惑が恐慌を塗り潰したらしく泣き喚いてぐちゃぐちゃになった顔をおずおずと上げる女生徒に、マルガレーテ嬢はさもありなんと当たり前みたいに言ってのけた。


「貴女こそ何を言っているのよ。心に負った深い傷のせいで貴族社会の常識すら度外視してしまうほど精神的に追い詰められて、ささやかな聞き間違いひとつで人生を棒に振る一歩手前まで思考力判断力が落ちていたのよ? 一度ちゃんとした専門家に話だけでも聞いてもらいなさい。トラウマを刻んだのは我が一門の恥晒しで間違いないとのことですし、カウンセラーの手配や療養の費用などはもちろんこちらが負担します。フーカー男爵家への説明も当然我が公爵家から―――――なあに? その締まりのない顔。別に大した手間ではなくてよ。どのみち、エッケルト侯子の寵を争って道徳の道を踏み外しかけたり恋の鞘当てで疲弊したり失恋で心神喪失気味のご令嬢方を片っ端からリストアップしてレディ・フローレン協力のもとカウンセラーを斡旋していたから………西方貴族の家系はともかく派閥が違うと厄介なのよね、学生たちの恋愛沙汰だろうが生家の不利になるかもしれないことはおいそれと漏らすわけにいかないし、守秘義務があっても専門家の方の家柄は考慮した上で紹介しないと軋轢が生じかねないし………とにかく、今更一人くらい増えたところでこちらはどうってことなくてよ。貴女は何も気にすることなくカウンセリングをお受けなさい」

「協力を要請された側の私は想像以上の忙しさに思うところがあるのですけれど?」

「想像以上にエッケルト侯子に人生トチ狂わされかけてた子が多かったのよごめんなさいねレディ・フローレン! そしてこれは独り言だけれどあの顔だけ口だけ万年次席には然るべき処置が下されるでしょうよ!!!」


独り言の音量が到底ただの独り言ではおさまらないパッションに溢れていたがそこを指摘してはいけない。なんなら二大悪役令嬢顔お嬢様たちとセスとティトとその他不特定多数のお嬢さん方は集団で訴えても良いと思う。私は別に加わらないけど。


「なるほど。最近やたらと忙しそうにしているなぁと思ったらそこまでキルヒシュラーガー公子の世話を焼いていたのか、フローレン。道理で王子様ほったらかし気味」

「時間がないのでお黙り馬鹿」

「軽口叩く暇さえないの!?」


王子様がまた馬鹿なことを言っているのはフローレン嬢に丸投げするかたちで無視しておけば大丈夫だろう。軽口を叩いている暇はない―――――だってチーム・フローレンのお嬢さん方がてきぱきとテーブルの上を片付けて新しい食器を用意している。

ない、と言われていた私の分も予定を変更してくれたのか例の小さいスプーンがちゃんとセッティングされていた。ありがとうございます給仕のプロ。言ったら失礼かもしれないけれどお嬢様じゃなくなっても生きていける技能の習得ばっちり済んでいらっしゃる。


「あ、あの………その、すみません………おそれながら、発言をお許しいただけますでしょうか、キルヒシュラーガー公爵れ」

「お黙り! 今この場でこれ以上貴女の話を聞く気はなくてよ!」


私にはよく分からない不可視の何かに圧し潰されて今にも死にそうな掠れた声で発言の許しを請う女生徒に、傲岸不遜の権化のような圧を纏ったお嬢様が吠える。それは誰がどう見てもあまり褒められたものではない権力で人民を抑圧する悪い為政者じみていたが、そんなマルガレーテ嬢に不安げな目を向ける者はほとんど居なかった。


「今更、かもしれませんけれど、デリケートな問題を抱えているならそれはこんな人目の多い場所でするようなものではないでしょう………というか、私が困るのよ。ええ、そう、とても困るわ。身内の恥の上塗りもここまできてしまうと流石にね? だから他でもない私の都合で、貴女がこれ以上余計なことを口走ったりしないよう専門の者を手配します。心配しなくてもきちんと国家資格を有した身元のはっきりした人を見繕って差し上げるから安心なさって? 情状酌量の余地ありとはいえ不勉強な男爵家の養女が公爵令嬢に公衆の面前で酷い難癖をつけたのですもの、この程度で済ませる温情に感謝して欲しいくらいでしてよ―――――まぁ、なんて間抜けなお顔かしら? 何を驚いていらっしゃるの? だって私はとても親切な公爵家の娘なのですもの。貴女が再三主張していたとおりの女で間違いなくてよ、ごめんあそばせ」


だからとっとと立ちなさい、と高圧的に命じる割に、柔らかい声には棘がない。べしょべしょに泣き濡れて立ち上がった男爵令嬢の顔はそれは酷いものだったけれど、今となっては熱のない目から伝う涙の透明さは悪いものではない気がした。

最後にきちんと頭を下げて、どこからともなく現れたオルテンシア嬢と他女生徒の皆さんさんに連れ添われてその場を歩き去っていく頼りない後姿を眺めながらティトが小さな声で呟く。


「アインハード狙いのご令嬢方より公女様の方が偉いのに、逆らえない人の最上格相手にどうしてキャロルさん突っ掛かったんだろ………」

「え? 何言ってんだお前。そんなの分かりきってるじゃん」


デザートに、と提供されたわざわざ表面の焦がしたプリンにがんがんと小さなスプーンを突き立てながら、私は顔さえ上げることなく適当な感じで思ったままをしれっと言った。


「権力振り回して数の暴力で好き勝手してくる面倒な女子の集団より、権力あっても自分一人で行動してるマルガレーテさんの方がなんとかなりそうだろ」

「なんとかなりそう、と判断されている点には断固として異議を申し立てましてよ―――――ってちょっとお待ちなさいリューリ・ベルさん、クレームブリュレのカラメルをそんなふうに中央から全力で叩き割っては駄目よ!? お皿の縁に沿うように立てたスプーンで周囲を軽く叩いて端から削っていくようにカスタードクリームとカラメルを垂直に掬い上げて同時に食べるのが一番美味しいのよそれは!!!」

「なるほど、中央からぶち割ると変な感じに上の焦げた砂糖の層がぐちゃっとしちゃって確かに食べにくい感じがするな。教えてくれてありがとうございますマルガレーテさん。おかわりくださーい!」

「食べ終わって即おかわりしないで! 王国式フルコースのデセールに基本おかわりのシステムはなくてよ!!!!!」

「申し訳ありません、ただいま表面のカラメルに焦げ目をつけているところですのでもう少しだけお時間をいただきたく」

「たった今おかわり注文した分が既に最終工程ってどういうことなの食堂スタッフ!?」


落ち着き払って私のおかわりデザートについての情報を教えてくれた十三番さんにマルガレーテ嬢からのツッコミが飛ぶ。先程までの真面目な空気は既にどこかに吹っ飛んでいて、王子様やフローレン嬢は何事もなかったかのようにお上品にデザートを食べていた。

ところで焦がしたプリンの表面をスプーンで叩き割って食べるなんて最初に思い付いたひと天才か? 香ばしさと苦味と食感がプリンの新境地を開拓しててナチュラルに感動したんだけど。


「リューリさんが今おっしゃった『なんとかなりそう』の部分についてはもう少し真面目に捉えておくべきでしょうに………その様子ではまったくと言っていい程にお気付きでないご様子ですし―――――ところで、レディ・マルガレーテ? 貴女、いつまでもこちらでのんびりしていてお時間の方は大丈夫でして?」

「まぁ、レディ・フローレン。ご心配には及ばなくてよ。ランチは既に済ませております………というか、食べている途中でフーカー家のご令嬢に絡まれて彼女がリューリ・ベルさんの方に走り去ってしまってから慌てて残りを口に運んで完食を優先させたせいでうっかり出遅れてしまったのよね………美味しいランチを残すのは料理人に失礼だから極力したくはないのだけれど、こんなことになるくらいなら即追い掛ければよかったわ」

「食堂のおばちゃんたちへの配慮を忘れない公女様は悪くないので大丈夫です!」

「常々不思議だったのだけれど、貴方はどうしてこの私にそこまで全肯定の姿勢を貫けるのかしらね―――――ああ、そういえば。ごめんなさいね、メチェナーテ侯子。貴方も忙しかったでしょうに、わざわざお呼び立てした上にこんなトラブルに巻き込んでしまって」

「あ、それはなんてことないんでお気になさらず、です公女様。そもそも呼ばれたのは殿下にですし、忙しいっつっても午後からの剣術科の訓練で使う備品の準備してただけで………ぶっちゃけセスとの障害物走タイムアタックに負けたペナルティで全部俺がやることになったから余計時間掛かっただけなんで」


「うん? ちょっと待とうかメチェナーテ侯子。つまり今日セスは当番がなくてフリー?」

「え? はい、その筈ですよ」


マルガレーテ嬢とティトの会話に突然出て来た三白眼の名前に誰より早く反応したのは目を丸くした王子様だった。追加でもらったデザートの器の端っこをスプーンで突きつつ、今日まだ見ていないセスの話題に意識の一部を割いておく。


「おかしいな、セスのやつ。今日は剣術科の備品当番日だからフルコース体験には付き合えないと今朝方はっきり断られたんだが………」

「障害物走タイムアタックで勝った方が今日の当番免除な、って俺がセスに持ち掛けられたのは午前中の話ですけどそれもう確信犯的にサボろうとしてる気がしますね」

「いやシンプルに面倒臭くて付き合いたくなかっただけじゃないか?」


思わず口に出してしまったが私は密かに確信していた。だってセスはああ見えてお貴族様の出身である。当然テーブルマナーなんぞは呼吸の如くに習得しているから今更私に付き合ってフルコース体験に顔を出すなんて面倒の極みに違いない。


「おかしいな………フローレンの提案通り、参加してくれたらスープ料理のパイ包みを提供すると確約したのにあのパイ料理過激派がそれに釣られないとはどういうことだ」


そりゃ逃げるよな、と一定の理解を示しながらぼりぼりと苦く香ばしい砂糖の塊ごとプリンに似た味のデザートを味わっていたときにうっかり拾った王子様の独白に、私は引っ掛かるものを覚えた。


いやだってあのセスが大好物のパイ料理に惹かれないとかあるわけないだろ。


そんな世界の真理を前に、スープのパイ包みと聞いて私が思い至ったのはひとつの可能性だった。


「質問していいか王子様―――――スープ料理のパイ包みとやらは、王国のテーブルマナー的にはパイの部分を余すところなく食べていいやつなんだろうな?」

「あっはっはっはっはっはっはっは何を言い出すんだリューリ・ベル。説明するとスープの入った器にパイで蓋をするパイ包みを食べるときのマナーはナイフでスプーンが入るだけの穴を開けたあとスプーンでパイをスープに崩し入れながら食べるので何の問題も―――――あったな。器の縁に残った部分はスープ同様深追い不可だ」


私は静かに深呼吸して、フローレン嬢に視線を固定した。

どうかされまして? と言わんばかりのお嬢様スマイルを浮かべている彼女を不安げな顔で見守っているのはマルガレーテ嬢だったのだが、そんな縦ロール嬢の様子に釣られてちょっと落ち着きを失くしているティトはさっさとランチに行けよと思う。

食べかけのデザートの器を手に、小さなスプーンを握り締めた私はフルコース体験を企画してくれた親切な公爵令嬢に向けて重々しく言葉を吐き出した。心の底から純粋に、申し訳ありませんという気持ちを込めて。


「フローレンさん、ごめんなさい―――――テーブルマナー、ちょっと無理」


スープ料理で躓くとは誰も思っていなかった、とは何かの報告書に記された何処かの誰かの本音である。



実のところ五万字くらいありました実にすみません。

そんな長さにお付き合いいただき本当にありがとうございます。感謝の念に絶えません。常に。


そして今更ではございますが、今年もよろしくお願いします。

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[一言] 作者様 読み終えた達成感とその勢いで感想をでっち上げた爽快感に包まれながら風呂に入ったのですが、感想の書き忘れに気がつきましたので追加させてください。 マルガレーテ嬢、安定のポンコツストッ…
[一言] パイ包みスープは飲み干したあとフチに残ったパイのかすを齧ってる時が1番幸せ。アメリカンドックの棒に残った奴も同様。日本人なら土鍋炊きにおけるご飯のおこげを考えればマナーなんてクソ食らえなるの…
[一言] 作者様 お元気そうで安心しました。 ブックマークの位置変更を忘れて、前話も読み直して既読だったと途中で気が付きましたが、最後まで読んでから、こちらの今世紀最大の長編(当社比)に挑ませてもら…
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