15.クラッチ・アフタヌーンティー
おかしいぞ、どうしてこんな、長いんだ。
文字数を見てナチュラルに一句出来てしまいました。削って削って削った筈なのにどうしてここまで嵩張ったのか。そして気を付けていたつもりがとても見辛い。添削のために読み返しても見落としがある気がしてなりません。
読者各位におかれましては「長い」「しつこい」「読み難い」「疲れた」というお気持ちを抱かれること請け合いかと存じますが、その際はどうかこうスクロールをしゃーっと、思いっきりしゃーっとしておいてください。
なにはともあれ、お待たせしました。
引っ張り過ぎのお茶会閉幕劇、梅雨入りの暇潰しになれば幸い。
とっくに終わった、と思っていたのは私だけだったりするのだろうか。
そんな気分でクランペットをもぐもぐしながらぽろっとこぼした呟きは、幸か不幸か当の本人にばっちり届いていたらしい。鼻のあたりを中心に包帯をぐるぐる巻きつけてなんともシュールになった顔がこちらの方に向けられるなり、相手は驚愕に目を見開いてわなわなと大袈裟に震え始めた。
「き、ききききき、貴様ァ! リューリ・ベル! 何故貴様までこんなところに………いや、理由なんてものはどうだっていい! そんなことより“辺境民”! 貴様ふざけるのも大概にしろ! 昼休みの食堂で貴様が私に何をしたか、よもや忘れたとは言わせんぞ―――――このアインハード・エッケルトの顔をこのように傷付けておきながら、伏して許しを請うどころか菓子を食う手を休めもしないとは一体どういう了見」
だぁん!
と、けたたましい音がして、なんだか鬱陶しい言い回しで私のことを指差しながら貴様貴様と喚いていた面倒臭そうな包帯まみれが一瞬にして静かになった。急にでっかい音を出されるとこちらとしてもびっくりするので出来れば控えていただきたい―――――なんて本音はテーブルの上の空きスペースに分厚い書類の束を思いっきり叩き付けたとは思えない優雅さで口元に手をあててにこにことした表情を繕っているマルガレーテ嬢には断じて言えない。
笑顔のままに怒気を醸すという高等なお嬢様テクニックをこっそり横目で見遣る私に一切頓着することなく、それはそれは優しい声で縦ロールのご令嬢が言い放つ。
「お黙り、と言ったのがどうやら聞こえていなかったようね。馬鹿は嫌いよ。馬鹿なんですもの。ああ嫌だ、なんて不愉快なのかしら。何度言わせれば気が済むの? しかもなぁに? この私の言葉を無視して事もあろうに“お茶会”の正式な招待客であるリューリ・ベルさんにその態度―――――ねぇ、お前。そんなにも、私の不興を買いたいの?」
であれば大成功でしてよ、と好戦的に締め括る苛烈な美貌のご令嬢は、まさに“学園”の女生徒たちの上位に君臨するという『悪役令嬢』そのものだった。
フローレン嬢は何も言わない。視線だけは鋭いままに乱入者のことを見据えていたが、敢えて発言を控えることでマルガレーテ嬢に場を譲っている。つまり、その方が都合が良いのだ。でなければフローレン嬢が大人しくしている理由がない―――――だってこっちも怒ってるもんな、何も言わずに視線だけで「私も甚だ不愉快でしてよ」って分かりやすく主張してるもんな。言葉は使わず目で語る。すごいぞ貴族のお嬢様。
そんなこんなで口を挟まない方が良さそうだなぁ、と直感的に悟った私は静かにティーカップを持ち上げた。クランペットの塩味に紅茶の渋味をプラスして、再び甘いものを詰め込むためのコンディションを整える。
「ごっ、誤解です、レディ・マルガレーテ! 貴女のご気分を害する意図などこのアインハードにある筈もなく………ですがレディ、事は一刻を争うのです! ご歓談中のところを割り込む我が身の無礼を謝罪はしますが、しかし今はままごとの茶会になどかまけている場合ではございません! 復学したばかりの貴女の耳には未だ入っていないのでしょうが、西方貴族の上位に名を連ねるエッケルト侯家の次期当主、このアインハードがよりにもよって、辺境の民のみならず王族とその御婚約者から許し難い辱めを受けたのです! それも食堂という公共の場で! これを黙って見過ごせば我らの沽券に関わりましょう、どうか哀れな私めをお救いください、レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー!!!」
何やら長ったらしい台詞をもったいつけて喋っているが、お嬢様方のお茶会に乱入ぶちかましておいてそのテンションってすごいなお前。マルガレーテ嬢やフローレン嬢の浮かべるとっても素敵なお嬢様スマイルが心なしか怖いのちゃんと見えてる? 顔面クラッシュした張本人の私が言うのもアレではあるけど視力検査ってやつしてもらった方がいいぞ。ちなみに私は両目とも「見え過ぎちゃって逆に測定不能ですね」って言われたのでたぶん“北の民”の大多数は測定不能になると思う。
と、もっちりもちもち食感のパンケーキっぽいクランペットをもぐもぐもぐもぐ齧りながら完全なる他人事感覚でそんなことを考えていた私の横で、マルガレーテ嬢はばっさりと「ああもう最悪」と口にした。とても小さな声だったので他の人たちに聞こえたかどうかまでは流石に不明だったけれど、強めの圧が醸される淑女然とした微笑みを見ればその心情はお察し案件―――――暗黙の了解でもあるのだろうか、フローレン嬢を始めとするチーム・フローレンのお嬢さん並びにオルテンシアなるお嬢さんはどうも静観を貫くようで、私も倣うことにする。
マルガレーテ嬢、オンステージ。淡いながらも豪奢な金髪に隠れがちな額にしっかりとした青筋を装備して、優美な雰囲気はそのままに縦ロール嬢は声高らかに笑った。
「ほほほほほ。こちらが聞いてもいないことを回りくどくぺらぺらと………いよいよその耳は飾りのようね。人の話を聞く気がない者の言葉をどうして私が聞かねばならないのか教えてもらいたいものだけど―――――それこそ時間の無駄でしょうから、はっきりさせておきましょう。アインハード・エッケルト。お前を助ける? この私が? そんなもの嫌に決まっていてよ。冗談にしても馬鹿げているわ。どうしてこのマルガレーテ・キルヒシュラーガーがお前を救わなければならないの? 三股をかけていたとかいう不誠実極まりない輩に、私が情けをかけるとでも? 仮にそうであるのなら、なんておめでたいのでしょう………こんな男がエッケルト侯家の跡取りだなんて、残念どころの話ではないわね」
「そんっ―――――な、な? 三股って………お待ちください、レディ・マルガレーテ。何故、どうして貴女がそれを」
「ご存じなのですか、って? つくづくおめでたい脳味噌ですこと。何もおかしなことなどなくてよ。だって、あの時あの瞬間、私もあの場に居たんだもの」
歌うように彼女は言う。可愛らしい、と思える程の朗らかさで軽やかに弾む声は年頃のお嬢さんに相応しい。けれども細めた瞳の奥には獰猛な光が揺れていて、獲物に飛び掛かる寸前の肉食獣の目によく似ていた。
てっきり相手は知らないとばかり思っていたことを知られていたと知った輩の方は、包帯に隠れていない部分の肌を急速に青褪めさせている。構うことなく、マルガレーテ嬢は落ち着き払って穏やかに滑らかに言葉を続けた。
「ええ、知っていますとも。レオニール殿下の世間話感覚でお前のだらしない人間関係が面白おかしく暴露され、何やら過去に失敗したらしい杜撰極まる計画をレディ・フローレンに看破され、みっともなく取り乱して暴れた挙句食べ物に八つ当たりなんかして、“招待学生”ことリューリ・ベルさんの怒りを買ってトドメを刺された西方貴族の恥晒しが―――――よりにもよって、よりにもよって! 次代のトップレディが取り仕切る小さな社交場たる“お茶会”で―――レディ・フローレンの目の前で―――この私の顔にどれだけの泥を塗りたくればお前は気が済むというのかしら!? 相応の覚悟はあるのでしょうね、アインハード・エッケルト!」
それは正しく咆哮であり、紛れもない彼女の本心だろう。マルガレーテ嬢には迷いがなかった。明らかに邪魔者を疎んじていると断定出来る強めの口調ではあったものの、可能な限り自制して声を荒げまいと努める姿は高貴な身分のお嬢様に相応しい気高さと厳しさに満ちている。言われた方はもう狼狽えまくって完全に挙動が不審だけれど。
そして、私は知っていた―――――こういう流れで大体うっかり余計なことを口走ってしまうのがめんどくさい馬鹿の特徴であると、経験則で知っている。
「な、なん、なっ………何を言うかと思えばこのッ………! 既にご存じであったなら―――――否! あの場に居たというのなら!!! 何故貴女は斯様な場所で、よりによって王族まで巻き込み公衆の面前で西方貴族を貶めたレディ・フローレンや“招待学生”の身分を盾に高位貴族子弟を暴行するような狼藉者のリューリ・ベルとともにままごと遊びなどに興じていらっしゃるのか! この“学園”において王族とその婚約者に次ぐ地位の高さに在りながら―――血統だけで判断するならレディ・フローレンなど取るに足らない高貴な出自でありながら―――キルヒシュラーガー公爵令嬢にして現“西の大公”が孫娘、誇り高き西方貴族の最も古く最も濃い血を受け継ぐマルガレーテ・キルヒシュラーガー公女がこの有様とは嘆かわしい!!!」
はい。なんか今隣からめちゃくちゃすごい音がしました。
ボキッとメキッの中間みたいな結構鈍い音がしました。
故郷でちょっぴり無茶した際にうっかり骨折やらかして自分の体内からごきゃっと響いたあのときみたいなえっぐい音が隣のお嬢様からしましたマルガレーテ嬢今の音一体全体どっから出したの? 指? 首? 縦ロール?
理由はまったく不明だけれど、弧を描く唇の角度がものすんごいことになっているマルガレーテ嬢の方が怖くて思わず目を逸らした私の視線の先には呆れた顔をしながらもゴミを見下ろすかのような冷めに冷め切った眼差しで馬鹿畑を射竦めるフローレン嬢。こっちもこっちですごい怖い。
こういうときはおやつを食べよう、助けてもちもちクランペット―――――無意識のうちに食べ切っていた。本能的恐怖を察知すると食欲が増していけないいけない。美味しかったですありがとう塩分。おかわり!!!!!
「嘆かわしい、とはよく言ったものね。軽々しく『西方貴族』という言葉を乱用するお前こそが一番西方貴族を貶めているのだけれど、それに気付きもしない愚か者には丁寧な説明が必要なのだと私は今痛感したわ。もう一度だけ言ってあげましょう、己が分を弁えることさえ出来ないエッケルト侯子アインハード―――――その不愉快な口を閉じなさい」
聞き分けの無い愚図は嫌いよ、とマルガレーテ嬢が微笑んで、その表情のまま毒を吐く。相手に口を挟ませない、覇者の品格を滲ませて。
「ままごと遊びと言ったわね、アインハード・エッケルト。お前こそ状況を分かっていて? 此処が何処だか、私たちが誰だか、ちゃんと理解しているの? 分かっていないのでしょうね。でなければこんな愚行には及びようもない筈だもの。いいこと? 愚かなエッケルト侯子。つい先程も教えてあげたけれど、ここはレディ・フローレンが取り仕切る貴族令嬢の“お茶会”よ。交流の場。情報を収集するところ。有力な者と顔を繋ぎ、より良きものを得るための下地を整えるための舞台。或いは手持ちのカードを切ってマウントを取り合う戦場かしら。ただ女ばかりで紅茶を飲んでお菓子を食べて喋るだけのお気楽極まる場所だとでも思った? ここで上手く立ち回れない者は多かれ少なかれ消えていくわ。背負った家ごと消えていくの。流行りに乗り遅れて傾ぎ、時代に取り残され廃れ、強きに跳ね除けられて落ちる。隙を見せれば付け込まれるわ。油断をすれば食い荒らされるわ。利害の一致は喜ばしいわね。反目し合う者同士でも、一時的に手を取り合って何かを成すこともあるかもしれない―――――ところでお前、エッケルト侯子。この場に集っている面々の顔を今一度よく御覧なさい? 貴族令嬢ランキングなんて俗なものがあったとしたら上位陣が揃い踏みね? 間違いなく次の社交界を牽引していく人材が集結しているのだけれど………そんな私たちの目の前で、お前は何をしているの? 無作法にこの場に乱入し、招待客であるリューリ・ベルさんに絡んだと思えば嘆願を願い出ながら不愉快極まる言葉を吐いて、“お茶会”をままごとと軽んじて私たちの不興を買って、『西方貴族』の品性と矜持にどうしようもない瑕をつけて―――――ねぇ、教えてちょうだいな? アインハード・エッケルト。わざわざ女の戦場にまで恥の上塗りをしに来たの?」
怒りを最大限抑えたところでどうにも堪え切れなくて思わず表に出てしまったらしいマルガレーテ嬢の激情は、愚か者の逸る心を容赦なく削り取るくらいには堂に入ったものだった。お上品さを損ねない程度に敵意を剥き出しにして睨まれた相手がますます言葉を詰まらせる中、ころころと場違いに転がったのはこれまた品のある声だ。
とても穏やかな声だった。けれど響きは力強くて、人を惹き付ける華がある。もう一人の主役級にしてこの“お茶会”の主催者の、満を持しての参入である。
「ねぇ、レディ・マルガレーテ。私ふと思ったのですけれど、もしや貴女はほんの少しだけ誤解をされているのではなくて? だって、昼日中に食堂で失神されたエッケルト家のご子息でしたら、確か保健室にて保健教諭付き添いのもと静養中とのことですもの―――――復学直後でお忙しくされていた貴女がそれを知らないのは当然として、そんな方がこの場所に来られる筈がありませんし………仮にそうだったとしても、数時間前に失神してしばらく意識不明であった身であのように元気良く振舞えるのもおかしな話ではないかしら?」
「え? フローレン、急に何言っ――――――あら、ああ、なんてこと! この私としたことが、なんて恥ずかしい勘違いを………ごめんあそばせ、見知らぬ貴方。どうか許してくださいましね、親類縁者と似ている気がしてついつい身内にするような物言いをしてしまったの。けれども、貴方も貴方だわ。こちらの誤りを正すどころか、それに乗じて長々とこの私をからかうだなんて―――――今回のところは私の手落ちということで特別に不問としますけれど、次はなくてよ。注意なさい!」
フローレン嬢が突然に切り出した発言に眉を顰めた一秒後、何かを察したらしいマルガレーテ嬢は急な方向転換であっさりと表情を作り変えた。攻撃性を引っ込めて、けれど棘は残したまま、しかしどうにも憎めない年頃の驕慢な少女のように。それは僅かな困惑から閃きを得た瞬間にすぐさま自分を切り替えるような無理のない鮮やかな転身で、方向性は違うにしても落差の激しさに関しては王子様といい勝負だと思う。
二人の筆頭お嬢様たちの軽やかな会話を切っ掛けとして、その場に張り詰めていた嫌な空気があっという間に霧散した。フローレン嬢とマルガレーテ嬢の間でどんな意思疎通が図られたのかはまったく分からないけれど、他のお嬢さん方がさして不審がる様子も見せずに追従して殺気を引っ込めるのは一種の芸術じみている。
なお、先程のフローレン嬢の発言については若干の引っ掛かりを覚えたものの―――――おかしくない? とは思ってもそこを突いてしまうのはたぶん余計でしかなくて、だから私は沈黙を選んだ。なんとなく、の感覚でしかないが、成り行きをぼんやり見守りながらこっそりお菓子をつまむには何の不都合も生じないので。
「………は? え? レディ・マルガレーテ、何を言って………?」
分からないなら分からないなりに大人しくしておけばいいものを、思考停止に陥りながらも未だこの場に留まった時点でお前は既にどうしようもない。そんな気持ちで、ガーリックライスを無駄にした馬鹿―――――もとい、なんかその馬鹿によく似ているらしい包帯の人に気のない一瞥を向けた私の左隣。マルガレーテ嬢は獲れたての新鮮なお肉のように色鮮やかなマカロンを片手にぞんざいな声で雑に告げた。
「はいはい。もう人違いだと分かってしまったのだから、そういう悪ノリは要らないわ。入る部屋を間違えただけなら最初から素直に申告なさい。もっと早くにそうと答えれば私だって妙な勘違いで噛み付かなくて済んだのよ? ………あら、貴方、何をのんびりしているの? 道化の役回りだからといって、客でもない私たちを相手に愚鈍を装うことはなくてよ? ああ、謝罪も言い訳も要らないわ。先程宣言した通り、貴方の無作法も戯言も私はすべて不問に付します―――――どうぞ、心置きなく今直ぐに退出なさっては如何?」
さっさと出て行けこの間抜け、という心の声が聞こえた気がする。お上品な言い回しではあるが、一口サイズのマカロンをにこやかに頬張る縦巻き髪のお嬢様の目は寸毫たりとも笑っていない。これ以上何か余計なことを言うなら迷わず食い殺してやるからな、みたいな気迫が感じられた。まさに肉食系女子である。使い方間違ってる気がするけど。
先程までとはまったく別種のひやっとした空気を感じた気がして、直後私のティーカップには温かい紅茶が追加された。基本どんな状況下であっても“お茶会”で飲み物を欠かしてはいけないという執念のような根性を感じる。どうぞこちらをお召し上がりください、と目線だけで柔らかく語りかけてくれた仕事の出来る十三番さんは蜂蜜入りの容器まできちんと置いて行ってくれた。ありがとうございます。
紅茶はやっぱり渋くて慣れないので味をちょいちょい変え足しながら消費した方が飽きなくていい。淑女としては邪道だろうが淑女じゃないので知ったことかとの開き直りもそこそこに、湯気をくゆらせるティーカップの中の紅茶にどばどば景気良く蜂蜜を投入する私の耳朶をフローレン嬢の声が打つ。
「まぁ、レディ・マルガレーテ。親類の方と勘違いしてしまった照れ隠しなのは分かりますけれど、言い方が少々厳しいのではなくて? あちらの方、貴族の女性陣が催す“お茶会”の重要性を微塵も理解していなかったようですし………おそらくは私ども貴人の文化に馴染みのない階級の出なのでしょう。爵位を戴く家格の者なら大なり小なり知って然るべき常識をまるでご存じないのですもの、もっと優しい言葉遣いで丁寧に退出を促して差し上げては?」
「なるほどねぇ。貴女の言うことも一理あるわ、流石はレディ・フローレン。そこに思い至らないなんて、やはり私はまだ未熟ね。ごめんあそばせ、見知らぬ殿方。やっぱり遠い縁戚筋に似ているという固定概念が未だに拭い去れないようで―――――でも、ねぇ。どうしてかしら? ちゃぁんと別人だと分かっているのにどうしてそう思ってしまうのかしら? よくよく見れば似ても似つかないとは一目瞭然だというのに………だって、ねぇ? 如何に格好良く振舞うかにばかり執心していたエッケルト侯子よりも、随分と個性的なお顔立ちをされているのだもの。ええ、本当に個性的。間違える方がどうかしていたわね。自分の粗忽さが嫌になるわ」
憂い顔で儚く己を嘲笑って見せるマルガレーテ嬢だったりするが、個性的、というその表現には別の意味があるような気がしてならない。あとで王子様あたりに聞いてみよう。フローレン嬢には絶対聞かない。貴族令嬢の親玉みたいな人だから絶対分かってるだろうけど、なんか怖いから絶対聞かない。
肌寒いような錯覚は、温かい紅茶で緩和した。蜂蜜をたっぷり入れたので甘くて飲みやすくて素敵。
「あら、そんなに気に病むこともないのではありませんか? レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー。誰しも間違いはあることですし、己が欠点を見つめ直してすぐさま受け入れる柔軟さは貴女の度量あってこそ。確かに一部女生徒たちからは美男子との呼び声も高いエッケルト侯子でしたけれども、あくまで『観賞用として優れていただけで中身には大して惹かれない』との意見もそれなりに多かったようですし………なまじ親戚という身内枠で最初から接していた貴女の場合、外見よりも内面の方で強く認識されていたのではなくて? 思えばあの方、私とはさして接点はありませんでしたけれども、物語の登場人物さながらに硬派を気取った『カッコいい騎士様』的な言い回しを好んでいたような気もしますもの。そう―――――それこそ、その点に関しては、あちらの方とよく似ていないこともなかったのではないでしょうか」
「まあ! 貴女に褒められるだなんて悪い気はしなくてよ、レディ・フローレン。そしてその意見には同意するわ。確かにエッケルト侯家のアインハードは親戚の私から見てもそんな感じだったもの。周りより顔が良かっただけに女性人気は高かったのだけれど、侯爵家の跡取り筆頭格だというのに“学園”の『剣術科』を選んだ時点で何を考えているんだか私には理解出来なかったわ。で、入った『剣術科』の同年代にはベッカロッシ侯子が居るでしょう? 同じ侯爵家の出身だからかしら、ベッカロッシ侯子には昔っからやたらと対抗意識を燃やしていたからその延長線で彼と同じ『剣術科』に入ったのかもしれないけれど―――――結局、実技でも座学でも“学園”の女生徒人気でも一度も勝てた試しがないんだもの。そろそろ無駄に張り合うのを止めて次期侯爵としての自覚を持って将来のための勉強をなさいと私はずっと思っていたわ! そんな有様だったから、次期侯爵と期待されていたのに婚約者の一人も居なかったのよね。というか、未だ候補者すら定まっていないだなんてご当主であるエッケルト侯爵は何をお考えなのかしら?」
「まぁ、そのような経緯でしたの? まさか私はてっきりこの“学園”に御婚約者ないしその候補者がいるものだとばかり思っていたのですけれど………そうなりますと―――見目は良くても素行の悪い振る舞いばかりで遠巻きにされていたセスと違って―――社交的で情熱的な女性に優しいエッケルト侯子、と評判だったかの方は、お相手探しに少々の苦労を要するかもしれませんねぇ。その手の話題に事欠かない方って、遊び相手としてはともかく生涯のパートナーとしては倦厭されるものですし」
「ええ、まったくその通りよ。ところで、レディ・フローレン。私が聞いたところによると、エッケルト侯子のアインハードは今日食堂で失神した際にたまたま打ち所が悪くて顔に怪我をしたと聞いたのだけれど―――――その件について、何かご存じ?」
「ええ、存じ上げておりますとも。何でも結構な勢いで顔から床に激突してしまったらしく………エッケルト侯子を保健室にお連れした親切な通りすがりの生徒曰く、『出血はすぐ治まったけれど、心なしか鼻が少し曲がっていたような気もします』とのこと。鼻の形が崩れるとお顔全体の印象もだいぶ変わってきますから―――――美男子と持て囃されていたエッケルト侯子には、同情を禁じ得なくてよ」
「あぁら、それはそれは不運なことね。自分の顔立ちに関しては並々ならぬ自信を持っていたもの。今はまだ保健室で静養しているらしいから意識が戻ったかどうかすらも私はまったく知らないけれど、お見舞いの品とカードの手配だけは大至急しておいた方が良さそうだわ………ねぇ、レディ・フローレン。時期外れなのは承知だけれど、カントウ花が手に入るような店があれば教えてくださらない? この際鉢植えでも構わないのだけれど」
「まぁ、レディ・マルガレーテ。『仲間』や『愛嬌』といった花言葉が有名な花を敢えて殿方のお見舞いに?」
「さらりと花言葉を言い当てる教養は流石ね、フローレン。ところでその二つ以外には特に思い当たらないのかしら?」
「あら。意味深長ですね、マルガレーテ………確か『真実は一つ』と、あとは………『処罰は行わねばならない』なんて物騒なものもあったような」
「博識ねぇ、レディ・フローレン。私はそんなもの初めて聞いたわ。とても勉強になりましてよ、ありがとうございます」
「あら、レディ・マルガレーテ。滅相もないことでございます」
おほほほほほほ、と淑やかに転がる『悪役令嬢』の二重奏。芳しく香る紅茶の匂いとお上品な言葉の刃。
蒼白になった顔面を必死にぺたぺた触ることで形を確かめようとしているが包帯が邪魔で分からないらしい招かれざる客はぶるぶると小刻みに震えていて、なのにこの場に居る高貴な身分のお嬢様方はまったくそれを気に掛けていない。
控えめに言って地獄だった。
テーブルを隔てたこちらとあちらにはどうしようもない壁がある。お嬢様同士のガチバトルも大概しんどいものがあったが、お嬢様同士がタッグを組んで標的を同じくしようものならもう手も足も口も出ないということが分かった。
女狐と女豹のガチバトルも女狐と女豹のタッグバトルも碌なモンじゃないやつです。
と、萎んだ気持ちで小さく齧ったケーキのような素朴なお菓子は予想に反してちょっと苦い。甘味の中にちょっとした苦さが残るこの感じ、紅茶と似ている気もするが渋味よりは苦味に近くて別物であると判断した。一口目はちゃんとお菓子らしく甘い。しかし生地に混ぜ込んである種のような何かが曲者、つぶつぶを噛み砕く度にひとつまたひとつと味が深まる。それを支えるたっぷりバターの旨味とコクのハーモニーに幸せを感じずにはいられない。
「糖質とカロリーの塊は人類の心を豊かにします」と食堂のおばちゃんが言っていた。名言である。間違いない。
なので、貴族のお嬢様方もお菓子を食べて落ち着いて欲しい。怒気とか覇気とか冷気とかそういうものを放出する特殊技能を引っ込めて欲しい。あまり触れた経験のない複雑怪奇な言葉の棘は私には難解が過ぎるので。
そんな気持ちで粒々入りのケーキを小皿に一つずつ移してそっとフローレン嬢たちの前に置いたらだいぶ生温かい目を向けられた。なんでだよ。給仕係を務めてくれている十三番さんのようなてきぱきと全体に気を配る動きとかは無理だから、自分の席に座ったまま思いっきり手を伸ばしてそれぞれ両隣のフローレン嬢とマルガレーテ嬢のところにお皿を置いただけだぞ私は。
「あら、私たちにもシードケーキを? ありがとう、ちゃんとお皿に取り分けて皆に配れるなんて良い子ねぇ。横に彩りでジャムを添えるともっと見栄えが良くなるから、覚えておいて損はなくてよ?」
「私たちとリューリさんは同年代でしてよマルガレーテ」
「はっ………! つ、ついつい初めてお茶会に参加した小さなレディを見守るような気持ちになってしまっていたわ………! 気を悪くされたならごめんあそばせ、わざとではないのよ、リューリ・ベルさん」
「別に気にしてないぞマルガレーテさん。なんかジャム要る? いっぱいあるぞ―――――ごめん。私が紅茶に入れて飲んでたせいでもうほとんど中身残ってなかった」
「貴女はまったく気にしなくていいのよしょうがないわだって美味しいのだものパンに塗ってもお菓子に使っても紅茶と一緒に楽しんでも良いまさに万能のアイテムだからついつい使い過ぎてしまうのもまぁ無理からぬ話よね学園食堂謹製の新鮮果物ジャムシリーズ!!!」
「マルガレーテさん滑舌もだけど肺活量もすごいよな。王子様といい勝負じゃない?」
「私が言うのもアレですけれど、滑舌の良さと肺活量に関してリューリさんがそれをおっしゃいますか」
「というか、あんな自爆型無差別級エンターテイナーみたいなレオニール殿下といい勝負だなんて言われると流石の私も困ってしまうのだけれど………え? ねぇ、フローレン。私、あの方といい勝負なの?」
「自覚がないなら自覚なさいましレディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー」
「どういう意味かしらねレディ・フローレン!?」
フローレン嬢がしれっと言って、マルガレーテ嬢が噛み付いて、十一番さんとオルテンシア嬢は十三番さんが届けてくれたシードケーキの小皿を受け取りつつ和やかな雑談をしている。すっかり平和が戻った“お茶会”に人心地ついた心境で―――――しかし、私は気付いてしまった。気付かないフリをしているうちに大人しくこの場を去るであろうと期待していたお邪魔虫が、未だこの場に留まるべく怒りに燃えた目で私たち全員を睨み付けたことに、真っ先に気が付いてしまった。
「どいつもこいつも………どこまでこの私を蔑ろにするつもりかっ………!」
女子特有の音域の高さで交わされる会話の下を這うような、低く押し殺した呻き声を拾った私の眉根が強く寄る。
正直な話本当に、これ以上このお嬢様たちを馬鹿な発言で刺激するのは本気で止めていただきたい。空気が重たくなるんだよ。雰囲気が悪くなるんだよ。美味しいものは美味しく食べたい。寒いだけなら慣れてはいるが、お上品に小難しいトークを延々聞き続けているとなんだか疲れるし落ち着かないのだ。飢餓と飽食以外の理由で胃が痛くなるのは許容しかねる。であれば取るべき手段はひとつだ。
私はとうとう重い腰を上げて対象を摘まみ出す決意を固めた。それが一歩遅かった、と思い知った時にはもう、「剣術科次席によく似た人」として片付けられようとしていた包帯の人は余計なことを口走っていたけれど。
「そもそも、そもそも貴様さえ………そうだ、そうとも、リューリ・ベル! この耐え難い屈辱は全てが全て貴様のせいだ! 貴様さえ邪魔をしなければ、何もかも上手く運ぶ筈だったのに!!! ベッカロッシを追い落とし、剣術大会で優勝を飾り、晴れてレディ・マルガレーテに求婚しキルヒシュラーガー公爵家へと婿入り出来た筈なのに!!! 私の将来設計の悉くを台無しにしたばかりか………こっ、このアインハードの顔に、この美貌に治らない瑕をつけたという張本人が! どうしてレディ・マルガレーテにまで気に入られた様子で人の気も知らず談笑している!? それは、そこは―――――キルヒシュラーガー公爵令嬢の関心は、彼女からの賞賛は、私こそが得るべきものだったのに!!!」
『……………………は?』
この談話室に存在している私を除いた女子陣営、実に五人分の声がものの見事に唱和した。
間の取り方、声の質、浮かんだ表情の系統までもを恐ろしい精確さで統一し、多重音声でありながらたった一人が発したかのようなぴったりとした揃い方で、最短でしかないたったの一音は最速で空気を一変させる。
王子様。三白眼。聞こえていないだろうけれど頼む今すぐお湯をくれ。熱湯でいい。熱湯がいい。沸騰直後の熱いやつを即時デリバリーしてください。クレープを注文しに行ったまま未だ戻らない十二番さんでもいいですとにかく温かい何かをください。
馬鹿畑が余計なこと言ったせいで部屋の中が“北”になりました。具体的には「過酷極まる永久凍土帯」と“王国”側には評判らしい私の故郷に匹敵する程に極寒の様相を呈しています。
絶対に今は口を開くな、と本能が激しい警鐘をがんがんと打ち鳴らし続ける中、ごとんと音がしそうな勢いでマルガレーテ嬢が唐突に首を傾げる様を見た。もちろん横目にであって、とてもじゃないが直視は出来ない。
「気のせいかしら。気のせいよね? 私、疲れているのかしら? なんだか途轍もなく聞き捨てならない妄言を聞いた気がするのだけれど―――――ねぇ、レディ・フローレン。貴女には今の、聞こえまして?」
「ええ、まことに残念ながら。気のせいではなくてよ、レディ・マルガレーテ。私にも確かに聞こえました。空気も読まず状況も考えず未だこの場に留まり続けたエッケルト侯子によく似た方の創作劇でしょうけれど―――――随分と作り込まれているようですから、乗って差し上げるのも一興ではなくて?」
「主催の貴女がそうおっしゃるなら私には何の異存もなくてよ。そうと決まれば、皆様、拍手を―――――まだ演目が始まってもないのに観客が冷めていては無粋だわ。道化はおどけるものですもの。ええ、ええ、許可しましょう。今、この場においてのみ、あれは『私の縁戚であるエッケルト侯家のアインハード』ということにして劇を楽しむことに致しましょう」
何の感情も込められていない平坦な声で言い終えて、マルガレーテ嬢がぱちぱちと短い拍手を道化役におくる。賛同の意思表示替わりか四人分の拍手があとに続く中、剣術科次席の馬鹿畑が雰囲気に呑まれて大人しい間に縦ロールのお嬢様は切り込んだ。
「で? アインハード・エッケルト。お前はさっき何を言ったの? この私に求婚する? 我が公爵家に婿入りする? 何なのかしらその妄言は。どういうつもりかしらお前。剣術大会に優勝した暁には愛する人に想いを告げる予定だった、とは耳に挟んでいたけれど、それはあくまでお前自身がそうと話して伝えたという『親しく付き合っていた女生徒』たちの誰かがお相手なのでしょう? その場しのぎの言い逃れで私の名を出されたところで不快感しかないのだけれど、何か申し開きはあって?」
「ございます! ございますとも、レディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー! そもその話こそが妄言なのです! そのように誤った情報が事実として広がっていること自体このアインハードには許し難いこと、すべては私を貶めんとする根も葉もない無責任な噂の類!」
セスに関する無責任な噂を持ち出して私のランチタイムを邪魔しまくっためんどくさいのが何か言ってる、というツッコミを敢えて飲み込んだついで感覚で小さなジャムタルトを飲み下す。口の中をお菓子でいっぱいにしていても空気を読んで黙っているように取れるこのタイミングを逃す手はない。
一人もぐもぐとおやつを消費し続ける私の姿は視界に入っているだろうに、今は噛み付く時間も惜しいのか男は構わず先を続けた。
「確かに、確かに私と親しくしてくれていた女生徒たちの幾人かにそのような相談を持ち掛けたことはございます。ですが彼女たちはあくまでも友、『親しくしていた』とは言っても友人付き合いの範疇であって色や恋の絡むそれとはまったく異なる間柄! 少なくとも私はそのように認識し、友人としての立ち位置で仲を深めて来たつもりでしたが―――――どうやら彼女たちの方は、その限りではなかったようで」
嘆かわしい、と言わんばかりの憂いを帯びた表情で、弁明は一度区切られる。敢えて言葉にするまでもないが内容は最低の部類だった。“王国民”でもない私がそう直感したのは恋愛小説という媒体を通して「王国民の好む色恋沙汰」というものを面白可笑しく解説してくれた宿屋のチビちゃんの功績ではなく、両隣の悪役令嬢顔ツートップの醸す気配がどんどんと尖っていくからで、間に挟まれている私の体感温度は下降の一途を辿っている。
マルガレーテ嬢はともかくとして、フローレン嬢の機嫌まで過去最高に悪い気がした。過去最低、というべきなのかもしれない。王国語がちょっと分からなくなった。同年代の女の子たちの目に宿る殺意が鋭利過ぎる―――――同時に、そう感じている自分自身の危機管理能力は正常だという場違いな安堵が胸を過った。
ぺらぺらぺらぺら気持ち良さそうに都合の良い自論を展開している空気を読めない馬鹿にはきっと、致命的にそれが欠けている。それを証明するが如く、言い訳は未だ終わっていない。
「まったく、予想もしておりませんでした。敢えて第三者に吐露することで己を奮い立たせようと『剣術大会で優勝出来たら愛しい人に想いを伝えようと思っている』とは友人たちに話したものの、まさか彼女たちがそれを自分自身に宛てた私からのメッセージであると捉えるなどとは夢にも思わず―――――ましてや、そんな不幸な行き違いの果てに友人たちがベッカロッシの食事に毒を盛ろうとするなど私が予知できる筈もなく………結局のところ、このアインハードの抱く思いと彼女たちが私に期待していたものはまったく別のものだったのでしょう。無論、親しく付き合っていたのは事実ですので情の無い仲ではありませんでしたが、それはあくまで『友として』であり異性へのそれとは異なるもの。実際、私はただの一度として彼女たちに愛を囁いたことなどございません。エッケルト侯子たるもの紳士たれ、との教えに則り世の女性には等しく優しく丁寧に接してまいりましたが、それがまさかこのような誤解を招くとは本当に残念で残念で―――――ああ、なんということだ! すべては関わった女性方に要らぬ期待を持たせてしまった我が身の不徳の致すところ! このエッケルト侯子アインハードの持って生まれた美貌と気質が招いた悲劇なのでございます―――――私がお慕いしておりましたのは、まだ木剣も満足に扱えないような幼き頃に一目見て恋に落ちた、レディ・マルガレーテただ一人だと言うのに」
それっぽい言葉で締め括り、おそらくはキメ顔でマルガレーテ嬢に熱っぽい眼差しを送ったであろう男の顔にはしかし包帯が巻かれている。カッコつけたところで台無しだった。例え包帯がない状態でカッコつけたところで今まで喋っていた内容が内容であるだけに盛り上がる筈もなかっただろう。
ときめきも何も生まれはしない。胸が高鳴るわけもない。チビちゃんが聞こうものなら怒涛のダメ出しを並べ立てた後「リテイク!」とやり直しを要求しそうな場面でしかし、フローレン嬢は冷静だった。
「つまり―――――セスの食事に下剤を盛ろうとしたとした三人の女生徒の行動はあくまで貴方の与り知らぬ勘違いの末の暴挙であり、エッケルト侯子が剣術大会優勝の栄冠を手にした暁に想いを伝えようとしていたのはこちらのレディ・マルガレーテで、親しくしていた例の三名はあくまでただの友人であって、それ以上でもそれ以下でもないと?」
「左様です、レディ・フローレン。昼に食堂でお会いしました時は気が動転して碌な弁明も出来ないままそこのリューリ・ベルに卑怯な不意打ちを喰らって保健室に運ばれてしまいましたが、今申し上げたことこそが嘘偽りのない真相というもの! 畏れながら私が『少なくとも三股をかけていた』などという話はありもしない殿下の妄想に他ならず、この身が恋焦がれて止まない愛しい人とはそちらのレディ・マルガレーテなのです! 本来ならば剣術大会にてベッカロッシを打ち負かし、夢物語の騎士が如く麗しき公爵令嬢に跪いて愛を乞うはずが―――――殿下の戯れとリューリ・ベルの狼藉により、この身と誇りに取り返しようのない深手を負うこととなりました。つきましてはレディ・フローレン。貴女には、それらを踏まえてこのアインハード・エッケルトの名誉を回復する義務があるのでは?」
それが当然の責である、と断じている者特有の傲岸さと余裕の表れか、軽く顎を持ち上げて着席したままのご令嬢各位を見下すようにそう言ってのけた男に対してマルガレーテ嬢が爆発するより私が口を出す方が早かった。
「え? 元から回復するようなモンもないのにどうしろってんだよ。無理じゃない?」
「口を挟むなリューリ・ベル! というか何が無理なものか! 懸かっているのは私の名誉だ、王族でありながら事の真偽を確かめもせず公の場でした発言で我が身を貶めた殿下の婚約者たるレディ・フローレンにはそれを回復する義務がある!」
「そもそもお前の言う名誉って何?」
根本的に分からないことを素直に聞いただけだったのに、その場に満ちたのは沈黙だった。ある意味いつものパターンである。
それを分かっていないらしいマルガレーテ嬢は困惑気味に眉尻を下げて私を見詰めていたけれど、フローレン嬢がひとつ目配せをしただけで開きかけた口を閉じていた。止められない、ということは、つまり何の問題もない。そういう解釈でいいと思う。たぶん。
「ふん、名誉が何たるかも知らないとは………流石は辺境出身の、狩猟しか取り柄がない蛮族だ。ああ、失礼。それならそれで分からないのは当然だろうな、無理もない―――――いいか、よく聞けリューリ・ベル! 名誉、というのは評判であり、他人から才覚や能力や言動について優れた評価を得ているという事実が示す人間の価値だ! つまり、今やこのアインハードの価値は貴様や殿下の食堂での行いによって酷く損なわれた状態にある! レディ・マルガレーテに求愛したとてこの状況では色好い返事など望みようもないのは自明の理、ならば損なわれた名誉を回復してからやり直せば良い! そしてそれをレディ・フローレンが務めるのは当然のむ」
「三股をかけていた、というのは最早揺るぎようのない周知の事実であるにも関わらず『こちらは友達だと思っていたのに向こうが勝手に勘違いした』、『そんなつもりはなかったのにすべては女性方を惑わせる罪作りな自分が招いた悲劇』などというふざけた言い訳を振り翳す不誠実極まる輩の何処に名誉と言って差し障りない価値があるのかしらねレディ・フローレン」
「―――――しかも『愛しい人に想いを伝えようと思っている』と本腰を入れたお付き合いをにおわせるような発言を全員にしておきながら、本命だという『愛しい人』は親しくしていた女性陣よりずっと高位のご令嬢。剣術大会などの公式行事で優勝を飾った、等の箔を付けて臨みたくなるのも分からなくはない高嶺の花ですけれど、勘違いさせた女性陣の暴走とやらを特に諫めることもなく己に都合の良い解釈で自信たっぷりに振舞っていた食堂での様子を鑑みますに………あら、いやだ。あわよくばご友人方に泥を被ってもらって美味しいところだけ掠め取り、素知らぬ顔で本命の女性に愛を告げるつもりだったのかもしれなくってよ、レディ・マルガレーテ」
「ああ、嫌だわ、そんな屑! 厚顔無恥にも程があってよ! 友人にしろ恋人にしろ、仮にも親しくしていた女性たちにそんな心無い振る舞いをする器の小さな殿方なんて私は絶対に願い下げだわ!」
「ええ、まったく、本当に………元より存在しないモノを回復させる手立てなどあろう筈もないでしょうに、そんなことも分からないなんて私の知るトップオブ馬鹿以下の貧相極まる理解力でしてよ」
偉そうぶって名誉の何たるかを私に語って聞かせていた馬鹿の台詞を思いっきり遮りに行ったマルガレーテ嬢に一瞬物申したげな視線を向けたものの、話を振られた刹那にはもうきっちり切り替えて足並みを揃えているフローレン嬢ホント器用過ぎない?
なお、突然横からぶん殴られたみたいな顔してる包帯野郎の内心についてはまったく知ったことではないので無視して齧った薄焼きパンに似たお菓子はちょっぴりばさばさした食感。水分を飛ばし過ぎたような乾燥気味の生地には型押しされた模様があって、うっすらと表面を覆うように甘い膜が張られている。中に詰め込まれているのはもったり系のジャムだったりやや焦げたような苦味の香るソースだったりで乾いた生地の重たさが程良く緩和された組み合わせ。今食べたのは気持ちスパイシー。あ、こっち干しブドウ入ってた。当たりか?
「な、なぜ………何故ですか、レディ・マルガレーテ………私が三股をかけていた、などという話は事実ではないと、ただの誤解でしかないのだと散々ご説明しましたのに! 殿下の妄言を鵜呑みにして私をお疑いになるばかりか、事もあろうに我らの政敵とも言えるレディ・フローレンと慣れ合い派閥を同じくするエッケルト家の私をこうも無下に扱うなど―――――許されない、ライバルの言葉は信じるくせに、この私のことは信じないだなんてそんなことがあって堪るか! キルヒシュラーガー家のご令嬢がエッケルト侯子を信じないだなんて、そんな馬鹿な話があって堪るか!!!」
「え? 何言ってんだお前―――――ライバルのこと信じちゃ駄目って、セスのこと信じてたお前が言う?」
思わず口から飛び出した台詞は奇妙な沈黙を生み落とし、静止画のように固まった面々を他人事のように眺めながら薄焼きパンをもそもそと齧る私の時間だけが動いている。包帯に覆われていない口元を歪めて剣術科次席が皮肉っぽく笑った。
「はっ! 空気の読めない大飯食らいが一体何を言うかと思えば―――――馬鹿馬鹿しい! このアインハード・エッケルトがあのベッカロッシを信じていただと!? まったく、何処をどう曲解したらそんな意味の分からない世迷言をさも真実を指摘するが如く恥じらいも無しに語れるのやら………何時この私があの男のことを信じたというのか! あったとしたら鳥肌ものだぞ! 気色の悪いことを言うな! そんなことあるわけないだろうがッ!!!」
「いや、普通に信じてたじゃん」
「馬鹿め! だからそんなことあるわけな―――――」
「セスが勝つ、って思ってただろ。この間の剣術大会で」
ぴたり、と相手の動きが止まった。図星を突かれたからではない。私が何気なく紡いだ言葉にまだそこまでの鋭さはない。予想外の方向から飛んで来た石を上手く避けられなかっただけだ。間隙を縫う一撃ではあっても致命傷には至らない。
だから、私は先を続けた。
「剣術大会っていうあの催し物で、あいつが勝つと思ってた。自分と優勝を争う相手はセスを置いて他には居ないってお前自身が思ってた。あいつと戦ったら自分が負けるって他でもないお前が思ってた。でなきゃ重度のカッコつけ野郎が仲良くしてたっていう女の子たちに『あと一手及ばないような気がしてならない』なんて気弱なことは絶対言わない。普通にやったらセスが勝つって、あっちが万全の状態で挑んだところで自分じゃ到底勝てやしないってお前自身が思ってたなら―――――それって『信じる』のと何が違うの? セスが勝つって思ってたなら、それはあいつの実力をお前が『信じてた』ってことにならない?」
「幻想的容姿の妖精さんからまさかの哲学的問答!?」
「少々違う気もしますが言いたいことは理解出来ますので経験則でアドバイスをひとつ―――――私たちはほんの少しの間だけ静かにしていましょうね、マルガレーテ」
びっくりしているマルガレーテ嬢をやんわり嗜めるフローレン嬢の密やかな声は面白そうに弾んでいたけれど、呆気に取られたままの男子はそれにまったく気付かない。ぽかん、と力なく開いたまま塞がらない口がもごもごと、そんな馬鹿なと否定を紡いだ。
「私はけしてそんなことは………いや、そんなことはない! 此度こそ勝つのは己であるとあの日の私は信じていたとも!」
「そうか。だけど、少なくともお前の友達とかいう三人のお嬢さん方には難しいって心配されちゃったんだな。仲良くしてたお前じゃなくてセスの方が強いって、その三人はあいつを信じてお前が勝つとは思わなかった、と」
「う、五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い、よく分かってもいないくせに考えなしの適当さで誇り高き王国貴族を惑わす詭弁を弄すなリューリ・ベル!」
「悪い、途中聞き取れなかった。あと小難しい言い回しじゃなくて分かりやすい王国語で言ってもらえると助かる。ていうかさぁ、セスが万全のコンディションで居る限りお前が勝つのは無理っぽい、って思ったからこそ三人とも下剤なんか用意したんだろ。結局は使われなかったらしいけど………そう考えるとお前って、あんまり信用されてなくない?」
「止めろ! うるさい! それ以上言うな!!! そんなことはある筈がない! 彼女たちは私の勝利を信じてくれていた筈だ!!! 現に私が本番を前に不安な気持ちを吐露した時、彼女たちは皆一様に『ベッカロッシ侯子は体調が優れないと聞きましたので今日こそは貴方が勝てますよ』と笑って励ましてくれたんだぞ!!!」
「いや本番前にも弱音吐いてたのかよお前案外メンタル弱いな………あ、そうか、これだなチビちゃん。そういう精神的に参ってる様子を『俺のこんな情けない姿を晒せるのは世界で唯一君だけだ』的なニュアンスで見せることによって女子の母性本能を刺激しつつ貴方なら大丈夫ですからねってよしよし慰めてもらうパターン。え? 三人全員と?」
「そんなわけがないだろうが! 付き合っている女性同士のバッティングを避けるのは初歩も初歩、ちゃんと時間差で一人ずつ会話出来る機会を設け―――――ハッ!」
やべっ、みたいな顔をしてマルガレーテ嬢の方を向く包帯面の慌てっぷりなど何のその、麗しい縦ロールのお嬢様は健やかに何の憂いもない表情でお上品にクッキーを食んでいた。トップオブ馬鹿をスルーする際のフローレン嬢に勝るとも劣らない鮮やかなシカトである。
「ちがっ、違うのですレディ、今のは何というか間違いで言葉のチョイスを誤りまして」
「ところでお前、自分のために優勝候補筆頭だとかいうセスの食事に細工しようとまでしてくれた女の子たちのこと結構軽く扱ってるっぽいけど流石にそれはどうなんだ? お前が『自分』にカッコつけて告白するつもりだと思ったからセスに勝ってもらわなきゃ困るってその人たちは下剤準備したんだろ? なのにお前がホントに好きなのはここに居るマルガレーテさんだっていう―――――ぶっちゃけた話、最低では?」
「そうですね、リューリさん。恋にかまけた彼女たちの行動に少なからず非はあったとしても、乙女心を利用する屑は率直に言って最低でしてよ」
「しかもそれ、利用した後は知らぬ存ぜぬであっさり捨てて、別の女に平然と乗り換えるつもりだったんでしょう? 最低も最低な底辺の最悪よ」
「そう考えるとゴミ程の価値もないつまらない殿方ですね、レディ・マルガレーテ」
「そうね、レディ・フローレン。いっそ屑籠ごと廃棄して焼却処分するべきでは?」
おほほほほほほほ。と、ティーカップを片手に笑い声を綺麗に重ねる悪役令嬢顔の美女二人。あらあらうふふと和やかに綻ぶ唇にミニタルトを持っていく十一番さんとオルテンシア嬢。私の目の前にさりげなく新しいクッキーの大皿を置いてくれる十三番さんにはありがとうございますとお礼を言って、人型に抜かれた薄めのクッキーを頭からがりっと噛み砕いた。
手遅れには違いないけれど、とりあえず忠告はしておこう。
「なぁ、そこの包帯の人。燃やされる前にごめんなさいして早く帰った方がいいと思うぞ」
「う―――――う、うるさい! 貴族令嬢特有の言葉遊びが怖くてエッケルト侯子が務まるか! そうだとも、貴様が何をどう引っ掻き回そうが一歩も退いてなるものか………私にはもう、後がないんだ!!!」
その咆哮に意味などないが、その言葉には嘘もない。
“お茶会”参加者全員と対峙しているその男子生徒は紛れもなく本気でそう思い詰めて、だから必死に吠えている。主催者であるフローレン嬢と関係者らしいマルガレーテ嬢がこれをどうやって片付けるのかは私の理解の埒外だった。
「ここで引き下がろうものなら本当に何もかも失くしてしまう………それだけは絶対に認めない! いいや、許してなるものか!!!」
ぽりぽりさくさく軽快に食べられる薄い人型のクッキーはさっき食べた薄焼きパンと少しだけ似た味がする。点と曲線で構成されたこざっぱりとした顔が、能天気そうに元気な笑顔で己が身体を食い千切る私を受け入れているのが可笑しかった。
剣術大会で何か仕掛けなければ「セスが勝つ」と信じた反面、自分の勝利を信じなかった輩を突き動かすものが何なのかは知らない。同時に、さして興味もなかった。
「冗談ではない、認めて堪るか、ベッカロッシが私を差し置いてキルヒシュラーガー公爵家に婿入りするような悪夢など!!! レディ・マルガレーテとベッカロッシの婚約だけは絶対に何があったとしても断固阻止せねばならんのだ!!!!!」
だからこそ―――――興味も関心もなかったからこそ、耳から入って来た情報に対して反射のように浮かんだ言葉をそのまま言っちゃったりするのである。
「えっ? マルガレーテさんセスの婚約者だったの?」
「何それ初耳なのだけれど!?!?」
がちゃーん! げほげほばさばさばさーっ!
ティーカップを引っ繰り返さんばかりの勢いで受け皿に叩き戻したマルガレーテ嬢の反応速度が素晴らしい。そしてこれまた珍しいことに、フローレン嬢が噎せていた。紅茶を飲んでいたタイミングがちょっと不運だったらしい。他のお嬢さん方も似たり寄ったりの慌ただしさでどたばたしていて一気に賑やかさが増した。この光景、たぶんすごく貴重。
「え? は? 何なのそれは。どういうことよフローレン。ベッカロッシ侯子との婚姻なんて私聞いていないのだけれど? 王都ではそういう噂でも?」
「ありません。それは絶対にあり得ません。私も初めて耳にしました。王都、学園、我が公爵家の情報網にファンクラブのネットワークも含め―――――そのような噂や妄言の類は今の今まで聞いたこともなくてよ、マルガレーテ」
紙ナプキンを口元に押し当ててつつもきっぱりとそう断言したフローレン嬢の声にもはや乱れは一切なく、げほんげほんと紅茶で噎せていた先程までの醜態などは全力で無かったことにするらしい。そうよねぇ、と普通に応じているマルガレーテ嬢は呑気なもので、フローレン嬢の回答を疑う素振りなど微塵もなかった。彼女程の情報通が知らないのであればそれは「無い」という信頼感が窺える。フローレン嬢が違うって言うなら違うんだろうなと私も思った。
「な―――――レディ・マルガレーテ! 何故そのようにお隠しになるので!? レディ・フローレンにまで口裏合わせを頼むなど、一体どういうことなのですか! キルヒシュラーガー公爵家はそれ程この婚約を秘匿したいと!?」
「だから違うって言っているでしょう本当に人の話を聞かないわねお前! というか、驚きのあまり一瞬本気にしてしまったけれどよくよく考えれば私とベッカロッシ侯子の組み合わせなんてレディ・フローレンが言った通り普通にあり得ないじゃない! あの方と私の婚姻なんて王国中を引っ繰り返したところで成立などするものですか!!!」
「え………セスとマルガレーテさんってそこまで言う程仲悪いの………?」
「あああああ違うのよそうだったわ貴女ベッカロッシ侯子におにぎりもらってたものねそうよねお友達が悪く言われたら気分良くないわねごめんなさいねリューリ・ベルさんでも違うのよ誤解なのよー!!!」
「ああもう、はいはい。落ち着きなさいまし、マルガレーテ」
ぱんぱんぱん、とフローレン嬢が滑らかに手を打ち鳴らすことで混沌とした状況の一時的な沈静化に成功した。荒ぶるマルガレーテ嬢までもが素直にすとんと着席し直して大人しくフローレン嬢に助けを求める視線を向けているあたりがすごい。
「これ以上の脱線は流石にもう疲れてしまいますので、軽く情報整理しながらリューリさんにも分かるよう簡単に説明していきましょうね。はい。まず第一に、セスとマルガレーテの婚姻ですが、これについては完全にエッケルト侯子の誤解かと思われます。何故なら―――――血縁関係的利権においてほぼ無駄でしかない組み合わせですので」
「難しい話の気配がしたのでざっくりでお願いしますフローレンさん」
「ええ、ではもうざっくりと。端的に申し上げますに、セスのお兄様とご結婚されているのがキルヒシュラーガー公爵家―――――マルガレーテと血統的に近い西方貴族の上位侯爵家の方ですので、あちらにはこれ以上ベッカロッシ侯家との縁を結ぶ必要がありません。公爵位を継ぐマルガレーテに未だ婚約者が居ないのは政治的な事情であり所謂大人の都合なので大胆に割愛するとして、つまりマルガレーテとセスを一緒にしたところで特に何のメリットもないので普通に考えてあり得ないのです。“貴族”は上位であればある程そのあたりの組み合わせ掛け合わせに気を配りますからね―――――はい。その顔を見るにエッケルト侯子にはご理解いただけたようで何よりでしてよ。リューリさんには今の説明で何となくお分かりいただけて?」
「あの三白眼に兄弟とかいたの!?!?」
「そっちの方が気になってしまいましたか………ええ、年の離れたお兄様とお姉様がいらっしゃいます。セスはあれで意外なことに三人兄弟の末っ子でしてよ」
「まじか。私と同じで一人っ子の風格ばりばりの割には面倒見がいいと思ってたら上に二人も居たのかセス―――――そうか、なるほど。よく聞こえてくる『末っ子ちゃん』の謎が今すべて解けた気がする」
「残念ながらそればかりは確実に貴女の気のせいかと存じます」
私の閃きを即座に否定したフローレン嬢に同意するかたちでチーム・フローレンとオルテンシア嬢にまで首を縦に振られてしまった。謎は何も解けていなかった、と認めざるを得ない結果である。ちぇ。
「とにかく、セスとマルガレーテが婚約者の関係にある―――ないし、今後婚姻を結ぶ予定である―――などという認識はそれこそ妄想妄言の類。伯爵位以上を賜る家の者であれば誰しもが即座に理解するであろう否定要素の模範的最適解が存在するあり得ない組み合わせであるにも関わらず………この私やマルガレーテ本人でさえ知らなかったその話、エッケルト侯子はいったいどちらで小耳に挟まれたのでしょうね?」
尋問モードに入ったらしいフローレン嬢の恐ろしさは相対している者のみぞ知る。しかも今回はマルガレーテ嬢まで相手を問い質す気満々なので、私の両サイドはとても豪華だ。「両手に花」とかいう王国語はきっとこういうときに使うんだろう―――――ただ美しいだけではなく、夥しい棘と滴る毒で全身をこれでもかと武装した、なんとも彩り鮮やかでお触り厳禁の華ではあるが。
「そんな、まさか………いやしかし………レディ・フローレンの言う通り………ベッカロッシの兄君と西方侯爵家のご令嬢が既にご成婚されているなら、レディ・マルガレーテの相手としてわざわざ奴が選ばれる可能性など………と、いうことは………」
そしてそんなお嬢様たちに睨め据えられている男はといえば、ぶつぶつぶつぶつと一人呟いて情報整理に忙しい。雑然とした頭の中をすっきりさせて己が納得出来るだけの結論を出したときにはもう、場違いなくらいに明るい顔で高笑いさえ上げていた。
「は、はははははは! なんだ、ただの取り越し苦労か! やはり何かの間違いだったか! ベッカロッシがレディ・マルガレーテと婚約するなど、あの男が公爵家に婿入りするなど―――――次期エッケルト侯爵であるこの私より地位が上になるなどと、そんなことがある筈なかったのだ!!!!! 考えてみれば『ベッカロッシ侯子は卒業後に公爵位を賜ることになっている』だなんて与太話以外の何でもない! 実家の侯爵家を継げない立場の次男坊でしかない奴がそんな大出世を遂げるには婚姻くらいしか手段はないが、“王国”に四家しかない公爵家の中で未婚かつ婚約者のいない適齢期のご令嬢などキルヒシュラーガー公女以外にないため彼女との婚約が整ったのかと大いに焦ってしまったが―――――なんだ、蓋を開けてみれば笑うしかない馬鹿話だ! ありもしないものを信じた挙句それを奪おうと急いた私のなんと愚かしいことか!!!」
セスとマルガレーテ嬢の婚約云々が勘違いだった、という事実にテンションが上がっているようだが今のお前の発言で勘の良いお嬢様各位の目付きが更に凶悪に鋭くなったことに一刻も早く気付いて欲しい。
高笑いが響く不愉快な部屋で、だいぶ数を減らしていた人型クッキーのひとつをマルガレーテ嬢がつまみ上げる。見惚れる程に細い指が想像以上の力強さで遠慮なくクッキーを二つに折った。頭と胴体が泣き別れた音はあまりに軽やかだったので、未だに続く高笑いに負けてすっかり掻き消されてしまったけれど―――――それに続くマルガレーテ嬢の重々しく響く地を這う声は、誰にも何にも阻まれない。
「へぇ。そう。つまりお前―――――別に私のことが好きだから求婚したというわけではないのね? ベッカロッシ侯子がこの私と結婚して公爵位になってしまうと愚かにも思い込んでいたから、将来的に彼が自分より高い地位になってしまうのが嫌だったから、だから私が復学する前に剣術大会で優勝しようとしたんでしょう? 家格がほとんど互角ならあとは当人の資質次第、というのは王国貴族の通説だもの………で、結局上手くいかなかったから妙な噂を流して貶め『婚約者に足る資格なし』との烙印を押した上で自分がそのポジションを掻っ攫い公爵家に婿入りしようとした、と」
要はそういうことでしょう? とマルガレーテ嬢は唇の端を片側だけ器用に吊り上げて、亀裂のような微笑みに割れたクッキーを捻じ込んだ。
図星を突かれた包帯の人の高笑いはもう止まっていたが、今度は縦ロールのお嬢様こそが声高らかに笑う番だ。ああおかしい、と嗤う姿は誰がどう見ても怒り心頭、火を噴く前の山のよう。
「うふふふふふふ本当にもうどうしてこんなふざけた屑が私たちと同じ空間で同じ空気を吸っているのかしら酸素を消費するだけ無駄なら今すぐ自発的に息を止めてくれればいいのに未だのうのうと生き恥を晒し続ける愚かしさを見るにそんな気遣いは期待出来そうにないわねこんな底辺が縁戚なんて間違いなく我が一族の汚点でしてよ―――――気が変わったわ、エッケルト侯子。お前のために、私から、おじいさまにお手紙をしたためましょう」
優しい声で、彼女は言った。
それを聞いた包帯の人の顔には傍目にも明らかな生気が宿り、勝利を確信した期待の色が涼やかな目を燃え立たせる。前半が不穏過ぎた早口言葉状態だったマルガレーテ嬢の言葉の都合の良いところだけを聞き取ったからこその反応だった。だからこそ、その後に続いた死刑宣告はダイレクトにストレートにトドメだったのだけれど。
「自意識過剰、自惚れが強く視野狭窄が酷く状況認識能力は低く脳味噌は一面の花畑で、貴族の子弟としてあり得ない貴族的常識の著しい欠如に加え貴族的な立ち回りもままならず、異性への配慮を疎かにするばかりか関係の清算も上手く出来ない致命的な杜撰さ浅はかさ愚かしさが目立つ―――――このような人材は我が西方一門には不要、エッケルト侯家の次期当主としては不適格であると具申します。理解の遅いお前にも分かる言葉で言い直すなら『エッケルト侯爵は大至急後継ぎを再考された方がよろしいのではないかしら?』という旨のお手紙をしたためるのでお前は心置きなく安心して何処か私の目に触れないところで大人しく死んだように静養していなさい」
直訳すると、お前は要らない。たぶんそれで合っている。
何気なく二枚取ってしまった人型クッキーの表情はやっぱり愛嬌のある笑顔だったが、手描きなためかよくよく見るとほんの少しだけ印象が違った。一方はどこか能天気で、一方はなんとなく賢そうだ。私の主観でしかないけれど、どちらにしてもこの空気にはおよそそぐわない表情である。
重ねて齧って噛み砕いても、味は別に変わらなかった。美味しいものは美味しいまま、記憶の中に微笑みを残して私の胃の底へと消えていく。
「まぁ今更でしかないけれど、己が分を弁えられるようになれば最悪でも子爵位くらいは継がせてもらえるのではなくて? 良かったわねぇ、アインハード。名家に生まれた恩恵で、どうしようもないお馬鹿さんでも従属爵位にはありつけるんですもの」
「な………なんっ………はぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
理解出来ない、したくない。そんな感情が迸る心底不本意そうな絶叫に、しかしマルガレーテ嬢は動じない。もはや五月蠅いと窘めることもなく馬鹿は馬鹿でしかないと割り切ったらしい晴れやかさで紅茶を楽しむ横顔には堂々たる気品が満ちている。
「ふざけないでいただきたい! たかがレディ・マルガレーテ………公爵令嬢如きの進言で我が父が考えを変えるなど、そんな話あるわけが」
「ふぅん。『たかが』、『公爵令嬢如き』ねぇ………たかが侯爵家が子弟如きの失言なんてもう突くのも馬鹿馬鹿しいわ。ええ、確かに私自身は何の権限も持たないただの生意気な小娘よ。王子様の婚約者でもなければ名の知れた才女でも現実離れした妖精さんでもないわ―――――だけど、私はマルガレーテ。マルガレーテ・キルヒシュラーガー。西方一門の頂点に立つ“西の大公”の孫娘にして最も濃い血を受け継ぐ者。その血に懸けて、この名に懸けて、我が一族が歩む正道に綻びを許してはならないの。それが上位貴族ともなれば尚更、どんな小さな可能性とて見逃すわけにはいかないし、声を上げずにはいられないわ。今一度胸に刻みなさい、アインハード・エッケルト。私たちは誇りで出来ている。それをかなぐり捨てたお前に、侯爵家の当主は務まらなくてよ」
そう宣言したお嬢様は、きっと今この場に限って言えば誰よりも気高い人だった。マルガレーテ嬢自身がライバルだと全身全霊で認めていたフローレン嬢さえ脇に追いやってしまう程、今この瞬間に限って言えば彼女だけがきっと主役だった。
「誇りですと? ご冗談を! 西方貴族の敵役とも呼べる立ち位置におわすレディ・フローレンと一緒になって“北の民”を呑気に愛でる貴女のような温いプライドと一緒にしないでいただきたい! このアインハードが何時、誇りを手放したと仰いますか! 誇りがあるからこそ負けたくないと、セス・ベッカロッシの後塵を拝してなるものかとの決意を胸に奮い立ち、己が持てる手のすべてを使ってありとあらゆる方法でエッケルト侯子としての誇りを守らんとしたこの身の何処に落ち度があると!?」
恥じ入る様子など微塵もなく、堂々と朗々と男は問う。さながら恋愛小説の求婚シーンさながらに自信に満ち溢れた振る舞いは、その顔を覆う包帯さえなければ素晴らしく絵になったのだろうが現実は無情なままだった。
シュールなものはシュールなまま、いつもより少ない観客たちの小さな小さな失笑を誘う。彼女たちには分かっていて、私や目の前の男子にはよく分かっていないもの。
「ああ、己に課した自負心と肥大した自尊心はまるで別物だということすら、お前は理解していないのね。温い、と言うならそれはお前よ―――――お前の認識はあまりに温い!」
それは、まさしく断定だった。勢いに任せてその場に立った彼女の縦ロールがぶわりと広がる。背筋を伸ばして胸を張り、目線は真っ直ぐ逸らさない。
女豹と呼ばれているらしいお嬢さんは、優美に勇猛果敢に吠えた。
「とても極端に言ってしまえば人間は競争する生き物だもの、自らが『ライバル』と定めた者に負けじと励むのは当然のこと、張り合おうが反発し合おうがその闘争心自体は大いに結構! その衝動を否定はしないわ。在って然るべきものだもの。この者にだけは負けたくない、劣ったままでは居られない、今は遠く及ばずともいつかは必ず勝ってみせる………そうして奮起し己を磨いて遥か高みを目指す気概は何一つとして恥ではないわ。むしろそれは誇るべき私たちの成長点よ、生き物としての本能よ―――――なのに、お前は何だというの、アインハード・エッケルト。定めた理由は何であれ、向ける思いが何であれ、彼の者が己にとっての避けて通れぬ壁であるならベッカロッシ侯子はライバルでしょう。私にとってレディ・フローレンと同じ、他の誰でもないお前が身命を賭して超えねばならない称賛すべき者でしょう! 相手にとって不足なし、ライバルは強ければ強い程それを乗り越え打ち負かした自分自身が優れているとの明確な証明足り得るのだわ! 少なくとも私にとってはそうよ。レディ・フローレンはそういう相手。私が、私の力でいつか超えねばならない壁だわ。最大にして最強の、これ以上ないくらい上等で嫌味なくらいに完璧で大ッ嫌いな好敵手。私の誇りを懸けて挑むに相応しいまさに最高のライバルよ。私にはそれが誇らしい。私の認めたライバルが、私なんかよりずっと強大で遥か高みに居ることがとてもとても誇らしい。だからこそ私はこう言うわ、アインハード・エッケルト―――――お前と一緒にしないで頂戴」
歯を剥き出しているわけでも、牙を見せ付けているわけでもない。マルガレーテ嬢はただ吐き出す言葉で相手を圧倒しているだけだ。
ひたむきな目。射竦める眼光。彼女の台詞の一つ一つには覆せない自信があって、誰も口を挟めない程の力強さに溢れている。
人を惹き付けて止まない華に私を含めたすべての視線が吸い寄せられている中で、右隣に座すフローレン嬢だけがふっと吐息をこぼした気がした。見ていたわけではなかったけれど、きっと微笑んだに違いない。呆れたような、諦めたような、しょうがないわねと気を許したような、そんなささやかな反応で。
それに気付かないマルガレーテ嬢は、威風堂々と前だけを見ている。
「他人の足を引っ張ろうとするのは見苦しいからお止めなさい。好敵手を前にしておきながら、目先の欲に目が眩んで卑怯な手段でライバルを貶め自ら壁を低くしようとした矮小極まる器のお前と同列扱いなんかされたくないわ。飛躍の好機を自ら潰して一体何になるというの? 自分で自分の価値を損なって何になるというのかしら。そんなことをしたところで、己が本当に優れているのだと胸を張れるわけもないでしょうに―――――ベッカロッシ侯子に負ける前に自分自身のどうしようもない甘さに敗北を喫した愚か者が、みっともない自己弁護の延長で声高にプライド云々を語るんじゃないわよ! 挑む側なら正々堂々、真っ向勝負で打ち負かしなさい! それが我ら西方貴族―――いいえ、私たちという生き物の―――譲れない矜持というものでしょう!!!」
気位の高いお嬢様は強い口調でそう結び、ご令嬢らしからぬ熱さを湛えたその弁舌には実のところ善も悪もない。彼女はただ自分が信じているものをストレートに放出しただけで、それをどう受け止めどう判断するかは個々人の自由によるのだろう。
だから、私がどう感じたかもそれは私の自由なので。
「なんかカッコいいな。マルガレーテさん」
「ええ。こういう方なんですのよ。昔から―――――今も尚」
独り言でしかない感嘆に、応えてくれる声がある。囁き程度の大きさで、けれどきちんと聞き取れたそれは控えめな賛同とも取れる意外な内容だったから、私は声の主を見た。
紅茶によく似た色の髪を持つ派手な美貌のお嬢様が、にっこり笑う人型クッキーを手にほんのりと唇を綻ばせていたのを目撃出来たのは幸運だ。
「なんだ。やっぱりマルガレーテさんのこと結構好きなんだな、フローレンさん」
「誤解でしてよ、リューリさん。別に好きではありません――――ただ、嫌いでもないだけで」
「別に好きでも嫌いでもな………ええっ!? つまりは無関心てこと!? ライバルなのに!? なにようそんなの酷いじゃないのよちゃんと意識しなさいよー!」
こちらの会話が聞こえてしまったのか唐突に雰囲気をがらりと変えて声を引っ繰り返して抗議してくるマルガレーテ嬢だが言うまでもなく温度差が酷い。余談だがオルテンシア嬢があまりの落差に耐えかねたのか両手でがばっと顔を覆った。ちょっと目尻に涙浮いてたけどそれは上役の不憫さを思っての涙なのかそれとも別の意味合いなのかが若干気になるな聞きたくはないけど。
「ふんっ! まぁいいわ、別にいいわよ、ええ! まったく構うものですか! 余裕綽々に取り澄ましたお上品なその仮面をいつか剥いで差し上げましてよ! 私は逃げも隠れもしないし、貴女だってそうでしょう! せいぜい私に追い抜かれないように己を磨き続けることね! 油断に慢心でもしようものならすぐさま足元を掬われるのが貴族の常というものですもの、一瞬の気の緩みも許されないなんて頂上の花は大変ですこと………そう遠くないうちに貴女の重荷を下ろして差し上げますのでご安心なさって? レディ・フローレン」
「まぁ、なんて心強いのかしら。この私にはそのお気持ちだけで十分でしてよ、レディ・マルガレーテ。なので、ええ、お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきますわね?」
鈴の音のようにころころと、無責任に転がる笑い声。両側から聞こえてくるそれらに挟まれた私自身はといえば、なんというかでもう慣れたので普通にクッキーを齧っていた。
女の子はお砂糖で出来ている。お砂糖と、スパイスと、あとは素敵なものがたくさん集まって女の子たちをつくっている。
どこかで耳にしたフレーズの横に、私はそっと書き込みを加えた。彼女たちは誇りで出来ている。きっと「素敵なもの」の中に入っている一つがそれなのだろう。
「ああ、レディ………貴女は分かっていらっしゃらない………誰もが、貴女方のように、誇り高く在れるわけではないのだ」
それは恵まれているのだと、羨むように男は言った。完全に生気の抜けた独り言でしかなかったそれは、お嬢様方の会話に埋もれて彼女たちには届かない。聴覚が他より優れているらしい私だけが拾えた台詞は、しかし何の意味もない。僻みといえばそれまでだ。きっと言い訳でしかないとは流石の本人も気付いている。
だってもうとっくに終わっていた。包帯に隠されていない目は、決着が既についているのだと分かった者の特有の光がある。
なのにどうして留まるのだろう―――――なんでここまで必死なんだ?
疑問は結局解消されない。
何度目かの放置を食らった男はそれ以上この場のお嬢様方に対して失言を吐き出すこともなく、けれど途方に暮れた面持ちのまま動き出そうともしなかった。
そして私は実のところ、ちょっぴり忘れかけていたのだが―――――ノックに続いて開け放たれた談話室の扉から、いつになく忙しない足運びで入室しながら口上を述べる十二番さんを見て「そういえばクレープ待ってたんだった」と思い出してから首を傾げた。
あれ? “クレープ”って十二番さんが両手に持ってるアレなのか? なんかどう見ても建造物のミニチュアっぽいんだけどあれはクレープであってます? なんとなくだけど違くない? 直感が違うって言ってるんだけど。
「遅れて申し訳ありません。十二番、戻りましてございます。恐れ入りますフローレン様、至急お耳に入れ―――――え?」
品位を損なわない程度の早歩きで一直線にフローレン嬢へと向かっていた十二番さんの足取りが、びくりと硬直気味に止まった。彼女が部屋を辞した際には絶対居なかった珍客をたった今発見したからだろう。どうも横を通り過ぎる段になって初めて存在に気が付いたらしい。チーム・フローレンのお嬢さんにしては視野の狭まりが著しいが、それ程急いでいたのだと思えば仕方がない気もしてしまう。
唖然と開いた十二番さんの唇が何事かを紡ぐその前に、突如包帯の人が動いた。
「オディール!」
咄嗟に名前を呼んでしまったらしいフローレン嬢の声色はいつになく緊迫に強張って、それに重なるタイミングで上がった悲鳴は女性のもの。顔を包帯でぐるぐる巻きにされた状態の不審者にいきなり腕を掴まれたら大抵の人は叫ぶと思う。なので、十二番さんの反応はごくごく一般的と言えた。
ところで本名はオディールなのか。頑なに番号呼びを主張していた彼女の名前をうっかりと知ってしまったことに謎の罪悪感が芽生えた―――――ってそんなこと言ってる場合じゃなさそう。
とりあえず放っておくわけにもいかない、という個人的解釈に基づいて、私は椅子から腰を浮かせた。ちょうど、まさに、その瞬間。
「頼む、少しでいいので大人しく―――――ああくそっ! なんだこれ邪魔臭い!」
掴まれた腕を振り解こうと抵抗していた十二番さんの持っていたお皿が、包帯野郎のもう一方の手に勢い良く叩き落された。上に乗っていた建造物のミニチュアも当然ながら一緒に落ちる。床に落ちた衝撃であっけなく壊れてしまったそれは、しかし陶器製のお皿が割れたような破砕音を伴わない。
血相を変えた十二番さんが引き攣った顔で悲痛に叫んだ。
「あああああああなんってことしてくれたのお菓子の家がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「は? なんだと、お菓子のい―――――ぶぼぉッ!?」
包帯男がぶっ飛んだ。無様な感じに吹っ飛んだ。それはもう景気良くぶっ飛んだ。
正確に言えばぶっ飛んだのはテーブルセットの椅子であってつい先程まで自分が座っていたそれをぶん投げたのは言うまでもなく私なわけだがそんなことはどうでもいい。
きちんと狙ってぶん投げた椅子がクリーンヒットした結果床に倒れてぴくぴく痙攣している馬鹿から視線は切らずに重心を落とす。軽く、自然に、落とし過ぎずに。跳躍のための予備動作は高いところから低いところへ静かに水を流すが如く、滑らかに無駄なく淀みなく、けれど限りなく早く。
「え、うそ、なに今の? 投げたの? 椅子を? リューリ・ベルさん? 椅子ってあんなに飛ぶものな―――――」
「今すぐそこから離れなさいオディール!」
困惑するマルガレーテ嬢と即座に状況を把握して手早く指示を出すフローレン嬢を等しくその場に置き去りにして、私は前方へと跳んだ。
飛翔ではない。跳躍である。魔法や奇跡の類ではない。身体機能と筋組織に頼って思いっきり床を蹴っただけだ。単純に助走なしで大きくジャンプしただけだったが、テーブルそのものの存在を無視して距離を詰めるには十分だった。
着地点は目測通り、床に落っこちて無残に崩れた―――――お菓子の家なるものの手前。
「えっ………ここからあそこまでさらっと跳んでいったわあの子………もしかして本当に妖精さんなの………? “北”の地が育んだ雪妖精………?」
「いえ、確かに“北”で育まれたのは間違いないのでしょうけれど―――――あれはどちらかといえば過酷な環境下で“狩猟の民”として生き抜いてきたことで培われた異常な筋力と身体能力がなせる業ではないかしら」
「つまりフィジカルがフェアリーなのね」
「どうしても妖精さん扱いしますか貴女」
厳かに納得の意を示すマルガレーテ嬢に冷静な視点でツッコむフローレン嬢の声を聞きながら、しかし私の意識のすべては床上の残骸へと向いている。
ミニチュアサイズの、壊れた家屋だ。墜落した際の衝撃で接合部分が外れでもしたか、屋根や壁といったパーツのほとんどはその原型を留めたままに床の上で倒壊していた。テーブルの向こう側に居たときは(いくら視力に自信があるとはいえそれにまつわる知識も発想もまるで無かったので)流石に分かりようもなかったが、この距離で見ればもう分かる―――――これはお菓子で出来た家だ。
飴細工で飾られた窓の嵌まる壁は固く焼かれたクッキーで、薄く跡が付く程度に施された押し模様は煉瓦のそれ。焼き菓子の片面をクリーム状のペーストで覆うことでカラフルに柄をつけた扉はきちんと開く構造だったらしく、ひょっこりと顔を覗かせる位置に配されていたであろう小さな住人がチョコレートの柱に潰されていた。砂糖菓子で出来た微笑みが、なんとも言えない物悲しさを誘う。
炭色と枯木色のパーツを交互に並べて整えたらしい屋根の部分には丁寧に篩った粉砂糖を塗すことで雪が降り積もっているかのような演出が施され、更には軒下に氷柱まで設置する執念すら窺える芸の細かさ―――――間違いなくこれ食堂のおばちゃんたちの力作ってやつですね。
そう思った時にはもう身体の方が勝手に動いていた。膝を折ってその場にしゃがみ込み、脳裏に過る「床に落ちた食べ物はばっちぃから食べちゃいけません!」という王子様の正論(幻聴)なんてなんのその、比較的無事そうな屋根を拾い上げて軒下の氷柱ごと端っこの部分をぼりぼり齧る。後方からかなり高音域の非難じみた悲鳴が轟いた。
「こ、こらー! 何してるのよ食べちゃダメでしょう!? ヘクセンハウスならあとでいくらでも新しいの買ってあげるからそんな落ちたのぺっ、しなさい! お腹壊したらどうするの! 良い子だから今すぐぺってしなさーい!!!」
「いえ、ですからリューリさんは私たちと同年代………ああもう、聞いていませんわねこのポンコツ令嬢天然仕立て。それはさておき、十二番? クレープを注文しに行った筈が、貴女どうしてお菓子の家を?」
「それなのですがフローレン様、いろいろと食堂側にも都合というものがあるようで………正直なところ、アフタヌーンティー・デリバリー・デラックスをもぺろりと食べ尽くすリューリさんに満足していただけるような量のクレープを今から用意するのは流石に残りの食材的に厳しい、ということで―――――可能な限りの材料を集めて急遽作成してもらったのがあちらの『“北境の町”風お菓子のおうち~雪妖精と冬の調べ~』でございます」
「ああ、なるほど。言われてみればその通り、確かにあれだけのスイーツ類を拵えた後でクレープの食べ放題にまで万全を期すというのはいくら王都学園食堂の精鋭スタッフとて備蓄的に難しいでしょう………私としたことが、見誤りました。そんな状況でも可能な限りこちらのオーダーに応えようと機転を利かせてくれた食堂の方々のプロフェッショナル魂には本当に頭が下がります―――――デザインのチョイスとネーミングのセンスからしてさては食堂常駐スタッフの技術と熱意を総動員したリューリさんのための超大作をこの短時間で組み上げるとは」
冷静さを失わないフローレン嬢の分析は耳に入ってはいたものの、氷柱を模したさっぱり味の飴と甘味を抑えて苦味を押し出した炭色クッキーの夢の共演に新たな境地を見出した私は無心でもぐもぐするのを止めない。故郷にそこそこ自生していた生命力のやたらと強い薬草に似たひんやりと鼻に抜けるような清涼感のある独特の味にチョコレートは大変よく合うのだと知った。飴とクッキーでは硬度が違うので食べにくいと言われればそのとおりなのだがそんなこと気にもならないレベルでこの掛け合わせは大正解です。個人的にとても好み。たぶん大抵の“北の民”にはクリーンヒットするお味。ありがとう食堂のおばちゃんたちの熱意。ありがとうこれを実現し得る発想と技術力の高さ。
忘れちゃいけない枯木色の屋根パーツはキャラメルベースだったけれども齧ったら塩が入ってた。心なしか炭色クッキーより生地の粒子が粗く感じるのでたぶんこっちはショートブレッド、甘味も苦味も新境地も分け隔てなく引き立てる塩分の存在最高です。
「屋根おいしい」
「やだもうホント無邪気で可愛い。うんうん、そう、美味しかったの? 良かったわねぇリューリ・ベルさ―――――じゃなくて食べちゃ駄目って言ってるでしょう!? 清々しいくらい聞き分けのない生粋の食いしん坊ちゃんね!? フローレンも止めなさいよこういうのは早めに駄目って強く叱らなきゃこの子のためにならないでしょうが拾い食いが癖になったらどうするのありとあらゆる意味で!!!」
「ずっと気になっていたのですけれど貴女のそれは何目線ですのレディ・マルガレーテ・キルヒシュラーガー」
「私のことはどうでもいいから今はあの食いしん坊フェアリーの拾い食いをどうやって止めるか考えて頂戴レディ・フローレン!」
騒がしいマルガレーテ嬢と落ち着き払ったフローレン嬢のきゃぃきゃぃと賑やかな遣り取りを右から左に聞き流し、お菓子の屋根を食べ尽くした私は膝を伸ばしてその場に立った。倒壊した上に屋根もなくなってすっかり廃墟と化している美味しい家屋のミニチュアをたっぷりと三秒は見下ろして、ぐるんと勢いよく顔を向けた先にはもう死にそうな顔でふらふらと身を起そうとしている許し難い馬鹿が居る。
「一度ならず二度までも食べ物を粗末にする馬鹿に命の大切さを教えるには『きっちり半分殺すのが一番手っ取り早い』って族長が言ってた気がするから今からお前半分殺すな」
「何処の蛮族のルールだそれは!?」
蛮族じゃねぇよ“狩猟の民”だよ私たちにとって食料関係は生命活動的にも価値観的にも一番しっかり示しつけとかなきゃいけない絶対に譲れない部分なんだよ。
そんな気持ちで平坦に、いっそ感情など削ぎ落として私は一歩を踏み出した。椅子の直撃で吹っ飛んでから床に仰向けで倒れていた包帯面の男が絶望的に焦った声で力一杯何事かを叫んでいたがそれだけ元気があるのなら死なない程度に半分削っても全然問題ないと思う。
「分かった、私が悪かった! というか今回は本当に悪気なく悪意なく不幸な事故だ! だがこのアインハードがお菓子の家を台無しにしてしまったのは確かに貴様の言う通り、それについては全面的に私も大人しく非を認めるのでここはひとつ穏便に話し合いの場を設けて欲しい! 人類にはそのために言語機能が備わっている!!!」
「さっきからここに居るお嬢さんたちの話を碌に聞かずに散々喚いてめちゃくちゃに言い負かされた挙句食べ物を粗末にしやがった馬鹿とどんな話し合いしろってんだよ。それともあれか? 宿屋のチビちゃんから聞いたことある『拳で語り合う』とかいう流れ? それならそれでも別にいいぞ。要するに殴り合いだろう? じゃぁ王国語よりそっちの方が得意だ。穏便に拳で語り合ってやるよ。べらべらべらべらお喋りするよりそっちの方がお前も楽だろ? なぁ、剣術科次席とかいう包帯の人。きっちり半分で止めてやる。そのあとお前が台無しにしたあのお菓子の家の壊れたやつ全部口の中に詰め込んでやるから食べ物のありがたみを痛感しろ」
拳を握ってにこやかに、友好的にそう持ち掛けつつ歩み寄る度に相手が震えた。椅子の直撃の衝撃から完全に立ち直っていないのか、思えば今日のランチタイムから数えてこの男は満身創痍である。肉体的にも精神的にも割とずたぼろな気がするのに、それでもこの場に居続けたのはある意味すごい根性なのかもしれない。
もっとも―――――糧を粗末にする馬鹿に、称賛も感嘆も敬意も誠意も私はまったく持ち合わせないけれど。
「と、いうわけで、そこのお前。廊下に出ろ。ここで暴れて残ってるお菓子に何かあったら私が困る。だから出ろ。この部屋から出ろ。これ以上、お嬢さん方の“お茶会”を変に寒々しくするのは止めろ―――――これ以上ぼろぼろにされる前に、部外者はもう外に出ろ。半分死んで反省して、せめて素直に『ごめんなさい』って自分から謝れる馬鹿になれ」
謝れる馬鹿と謝れない馬鹿では圧倒的に前者の方が偉い。どっちも馬鹿ではあるけれど、素直に素朴にごめんなさいと頭を下げて自分の非を認められる馬鹿の方が心情的にはまだマシだろう。
具体例としては王子様だが腹立たしさは一切中和されないのでそこのところは注意したい。そして物には限度があるし、大抵は時と場合による。それを言い出したらキリがないので詳しくはフローレン嬢にでも聞いてくれ。あの人そのあたりのプロだから。
上から目線の台詞を最後に、私は唯一の出入り口たる木製の扉を指した。包帯に覆われていない目が不愉快そうに歪むなり、勝手なこと、と低く唸る。
「誰のせいでこうなったと………まぁ、いい。リューリ・ベル。貴様がそこまで言うのであれば相手になってやるとしよう。優勝の栄冠には手が届かずとも剣術科次席に名を連ねる私の実力に偽りはない。食堂では不意を打たれて遅れを取ったが―――――たかが“北”の狩猟民族、食い意地と怪力だけが取り柄の娘に真っ向勝負でこの私が負ける道理などないのだから」
そう言って、包帯の人は気取った仕草で隠し持っていたらしい小型のナイフっぽいものを何処からともなく取り出した。おい。待て。話を聞け。というか今まで私の台詞の一体何を聞いてきた。
部屋を出ろって言ったのにこの場でやり合う気満々なのはなんでなんだよ耳悪いの? それかお前、さてはわざと聞いてないな?
ほらお前が分かりやすく凶器なんてモン見せびらかすから距離を取った上で静観してたお嬢様方にめちゃくちゃ緊張感走っちゃったじゃん。まだ鞘に納まってる状態だから中身の刃が潰してあるかどうかは謎だけどそんなことは一切関係なく既に物々しい雰囲気じゃん。
どうすんだよこれ。めんどくせぇな。なんかこう上手いことどうにかならない?
ふわっとした感じに他力本願なことを考えていた私には、この場に居合わせた誰よりも緊張感が欠けている。
その上を行く緩い声が、ノックとともに転がった。
「失礼。麗しく咲く花々のご歓談を遮って申し訳ない。火急の要件につきご寛恕の程を―――――フローレン、入っていい?」
「空気をお読みになって馬鹿王子」
「空気読んだから今なんですけど!? はい応答があったということで入室の許可が下りたと解釈しました入りまーす!!!!!」
五月蠅い五月蠅いもう声だけで主張しまくってる存在感が五月蠅い。なのに何故だか懐かしく感じて私はちょっと脱力した。
気安く馴れ馴れしく能天気な声とセットで騒がしく扉を開け放ち、いつもよりやや慌てた足取りで談話室に入って来たのは言わずもがな王子様然とした稀代のトップオブ馬鹿である。登場だけですべてを持って行くタイプの顔面偏差値はそのままに、若干の焦りを滲ませた目がフローレン嬢の無事な姿を捉えて安堵に緩む様を見た。
「良かった―――――キルヒシュラーガー公子と一緒にいるのにフローレン今日は喧嘩してない!」
「お黙りになって馬鹿王子」
開口一番それですか、と半眼になったフローレン嬢の隣でマルガレーテ嬢がすごい渋面で王子様のことを睨んでいたがあちらに関しては置いておこう。
張り詰めた糸は切れないまま、けれど一気に緩んでしまった。それがなんだか馬鹿馬鹿しくて、私は僅かに目を細める。なんとなく、唐突に、なんだかどうでもよくなった。
「仮にも殴り合おうという相手から、安易に目を離すものではないな」
限界ぎりぎりまで低めた声には狩る側の愉悦が浮かんでいる。耳元で囁かれた言葉に対し、私は驚く程冷静だった。逆に言えば驚くことでもなかった。
例え背後を取られているとしても、首元に何か細長いものが宛がわれている感触があるにしても―――――事態に気付いたマルガレーテ嬢たちの切羽詰まった金切り声さえ、私にとっては何一つ驚愕には値しなかったので。
だって分かり切っている。王子様が入室してきた直後から私の視線と意識がまるごと完全にそちらへ向いたから、その機を逃さず攻めて来た。相手が自分を見ていなかったからすかさず近付いて背後を取って、急所に凶器を突き付けた。言葉にすればたったそれだけで、だから驚くことでもない。
「おっと、今更慌てても遅い。動くな。既に勝敗は決した。貴様の首に突き付けられたナイフの感触くらい分かるだろう? ふん、やはり食堂では不意を打たれただけだったな。真っ向勝負ではこの結果だ。少しは我が身の傲慢さを改める気にな」
「うっさい耳元でべらべら喋るな」
慌てた覚えも慌てる予定も全然ないから安心しろ。勝者の余裕でそんなことをぺらぺらと喋っている剣術科次席の台詞は途中で止まった私が止めた。
具体的にはこちらの耳元で喋り倒している馬鹿の顔目掛けて握った拳の裏側というか手の甲を叩き込んだだけなのだがおそらく綺麗に入った気がする。手応えが良かった。いい音もした。肘から先を動かすだけの最小限の打撃だったがきちんと手首の力は利かせたので体重を乗せ切っていなくてもそこそこの威力はあっただろう。
これで仕留められなかったとしても追撃を加えればいいだけなので、問題などあろう筈もない。打ち込みの瞬間に行った腕の引き戻し動作から流れるように真後ろへ繰り出した肘打ちも程良く胴体にめり込んだ。
流れのままに身体を回転させて、私の背後を取ったぞと勝利宣言していた輩に最小限の動きで向き直る。
多少戦意は衰えたようだが完全喪失とまでは言えない。一見してそれが読み取れたから、しょうがないなぁと駄目押しを決めた。
握った拳を緩く開いて、親指を除く手指を伸ばす。殴打ではなく刺突の構えで、さてとどこを狙おうか、と緩やかに思考を巡らせた。
とりあえず首から上は止めよう。後ろを向かずに放った一撃は案の定顔の中心あたりを痛烈に強打していたらしく、これ以上鼻周りを狙うのは流石にやり過ぎ判定が―――――と、武器を持った馬鹿を前に呑気なことを考えていた私の視界の端っこに、そのタイミングで何かが映った。
「そこまでにしとけや、面倒臭ェ」
そうして聞き覚えのある声で現実に紡がれたそれは、私と包帯の人の間に半身を滑り込ませてきたセスが放ったものだった。二人の間に割り込むように、というよりは私から相手を庇うかたちで、実際セスの鋭い眼光は「これ以上暴れるんじゃねぇ白いの」と言わんばかりの圧を醸し意識もこちらにのみ向いている。
「裏拳肘打ち四本貫手ってどこの格闘チャンプだテメェは」
「私は“狩猟の民”であってそれ以外の何かじゃないぞ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ」
「じゃどういうこと言いたかったんだよ」
ぽん、ぽん、と言葉が返るその空間に流れているのは気安さといつものノリだけで、お互いの間を一瞬だけ走った縄張りを争う獣のような睨み合いの火花はどこにもない。私に殴られた顔と腹を押さえた状態で呆けている包帯の人を背後に庇いつつ、しかし意識も注意も何もかもをこちらに向けている三白眼は眉根を寄せて少し首を傾げた。
「あ? そう言われてみりゃ特に中身なんざねぇな」
「この三白眼正直過ぎて笑う。そういうのありか?」
「ありだろ」
「ありかぁ」
「ねぇ、毎度毎度不思議なんだけどお前らどうして何時でも何処でもナチュラルに雑談出来ちゃうの? セスもリューリ・ベルも何でなの?」
「知るわけねぇだろ」
「どうでもいいしな」
「息ピッタリにぶん投げないで全力野生児ダブルフリーダム! というかセスお前何さっきの!? どういう仲裁の仕方してんの!? そこは普通女の子―――いやまぁリューリ・ベルはなんかもう性別『リューリ・ベル』みたいな気がするけど生物学上はそっち分類―――を庇って入る場面でしょうが!!! 逆! あまりにも! 配役が逆!!!!!」
びっくりする程いつも通りに、なんら変化のない当たり前さで会話を成立させる私とセスにいつも通りの賑やかなノリで喧しく絡んでくる王子様だがちょっと待ておいトップオブ馬鹿お前台詞の途中でなんかちょっと引っ掛かること口走らなかったか?
それを追究する前に、鼻で笑った三白眼が言い返す方が早かった。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ、レオニール。つぅかさっきの見てたならテメェにだって分かるだろうが―――――俺がエッケルト側に割り入ってなきゃ今頃このアホ意識ねぇぞ」
「ふざけるな!!!!!」
このアホ、とセスに指差されていた張本人の包帯男が、本日一番の憎しみがこもった五月蠅いことこの上ない音量で憤怒と怨嗟を吐き散らす。元々鋭い造形の三白眼に何の感情も浮かべることなくそれを眺めているセスは、相手を笑いもしない代わりに顔色の一つも変えなかった。
そこには深い溝がある。温度差があって、壁がある。ライバル関係にあるらしい二人がきちんと対峙している姿を私は初めて目撃していた。
「言わせておけば図に乗って………思い上がるのも大概にしろ、軍閥貴族筋でもなければ騎士家系でもないベッカロッシ侯家から出た異端児が! 貴様に情けをかけられずとも、私であれば問題なかった! 万全とは言い難い状態だろうが私であれば、貴様には未だ及ばずとも剣術科の次席としての実力は確かなこの私が、たかが狩猟民族如きに実戦で遅れを取る筈がない! 貴様なんぞに助けられずとも窮地を乗り越え勝利してみせたさ! そうとも、このアインハード・エッケルトが狂犬と名高きセス・ベッカロッシ………貴様以外の何者かに、ライバルでもない女生徒に、負けることなどあるものか! 貴様に勝てないことはあっても貴様以外の何者かに勝てないだなんてそんなこと―――――」
「俺より強い『リューリ・ベル』に、テメェが勝てるわけねぇだろ」
「あるわけな………えっ………はあ!?」
さらっとセスが言い放った一言に包帯の人の声が引っ繰り返る。走る激震。謎の沈黙。それをぶち破ったのは最早耳に慣れてきてしまったトップオブ馬鹿のハイテンションさで、ギャラリー不足で盛り上がりに欠けようがお構いなしの能天気っぷりを存分に発揮していたりする。
「おおっと、ここでまさかのカミングアウト―――――! あの自他共に認める重度の負けず嫌い一番絞りこと『勝つまで続ければ負けてねぇ』と幼少期から豪語していたセスの口から『俺より強い』発言が飛び出す日が来るとは天変地異の前触れか!? あまりのインパクトの巨大さに言われた側のエッケルト侯子どころかフローレンをはじめとする高位貴族のご令嬢各位も開いた口が塞がってないぞうコレはもうレア真面目にレア! ていうかうっそマジでセスお前それってガチなやつ? 余談だけど前にリューリ・ベル本人にセスと剣術大会で対戦したなら一体どっちが勝つんだろうな、って聞いたら『セスが勝つだろ』って言ってたぞう?」
「そりゃテメェの聞き方が悪ィだけだろ、レオニール」
呆れたように切り捨てて、三白眼がこちらを向いた。敵意も害意もまるでない、ただこちらを見ているだけの毒にも薬にもならない視線は、しかし真っ直ぐで逸らされない。真剣そのものの双眸で、淡々と剣術科の主席は言う。
「質問の仕方が間違ってんだよ。『剣術大会で対戦したら』? そう聞かれたらこの白いのは俺が勝つって答えるしかねぇわ。だってコイツに“剣”なんざ、扱えるわけねぇんだから」
「………あ。なるほど。そりゃそうだ」
王子様は即座に納得して、それは自分の聞き方が悪かったのだと素直に認めた。三白眼はまだ私を見ている。
見定めるでもなく、ただ見ている。
「剣術大会ってのはその名の通り、剣で戦うのが前提だ。鍛え抜かれた鋼の塊を振り回す連中の祭典だ。“王国民”にとっての“剣”は、道具で、武器で、戦うためのモンで―――――基本的には対人用だ。少なくとも、王国内に広く流通する剣や俺ら剣術科の生徒が使う“剣”はその用途のためにつくられたモンだ。リューリに使えるわけねぇだろ。辺境の“狩猟民族”だぞ? 獣狩りには向いてねぇよ、あんな鋼の棒っきれ。やたらと力が強ェから振り回すだけなら楽勝だろうが、それなら棍棒と変わんねぇ。だから間違いなく俺が勝つ。こと『剣術大会』に限定するならツールもルールも何もかも、この白いのには勝てる要素が無い」
確かにセスの言う通り、私は剣を扱えない。道具として使いこなせない。武器として正しく振るえない。使ったことがないからで、使う必要もなかったから。
そして、同時にルールを知らない。作法もしきたりも暗黙の了解も禁則事項も何もかも、“王国”の決まり事に関係のない“北”から来た“狩猟の民”だから。
だから私はセスに勝てない。確実に、純然たるただの事実として―――――こと『剣術大会』に限っては。
だけど。
「そうじゃねぇなら話は別だ。勝ち負けの基準どころか強い弱いの前提が根本から変わってくるからな。何でもありのルール無用なら俺じゃなくてリューリが勝つだろ」
剣など使わないとして、ルールなど定めないとして、ただ単純に正面から潰し合うだけとしたのなら。
セスは、私を見て言った。
「極端な話、強いか弱いかの判断を『生き残るか死ぬか』で雑に言やぁ、教員も含めてこの“学園”に集まった誰一人この白いのに勝てやしねぇだろ」
場数が違う。覚悟が違う。生きて来た世界の土台が違う。
極寒の地で生きるか死ぬか、命の遣り取りを日常的に繰り返しながら経験を積み重ねて生き残り続けた“狩猟の民”の一人として、私はその視線に相対している。奪わなければ奪われる、そんなシンプルな世界の生き物として、ごくごく普通に立っていた。
武器も持たず、ありのまま、だけど前を向いていた。
「だってコイツ、躊躇わねぇじゃん。例えば今は大人しく学生に混じって飯食ってようが一度切り替えてこうと決めたら手加減とか制限とか一切ねぇだろ。強いかどうかなんてモンは簡単に測れやしねぇんだ。力が強いヤツ、技術があるヤツ、すばしっこいヤツとまぁ世の中いろいろ居るが―――――見ただけちょっと喋っただけで、全部を測れる筈もねぇ。辺境民だからなんだってんだよ。女生徒だからどうしたってんだよ。笑わせんじゃねぇぞ、エッケルト」
何も言わずにセスの言葉を傾聴していた包帯の人に鋭い眼差しを突き刺して、淡々とした声に名前を呼ばれた剣術科次席の肩が跳ねる。怒気はなかった。憤怒も怨嗟も、ありとあらゆる悪意の類が困惑に塗り潰されていた。
「昔っから鬱陶しく俺に突っ掛かってきやがって、花畑に近ェ面倒臭さは確かに変わっちゃいねぇがな―――――テメェ、そんなことも分かってねぇ雑魚じゃなかった筈だろうが」
それを言ったセスの心中など、私に測れるわけもない。当然と言えば当然で、何故か不思議な気分になった。フローレン嬢とマルガレーテ嬢の間に感じた何かとは違うけれど、近くて遠いものなんだろうとなんとなくのあたりをつける。
不機嫌そうな面構えがデフォルト化している三白眼の言葉は文句のようにも聞こえたし、挑発と受け取れなくもない。
「そうか………はは。そうか………貴様がそう言うのであれば………ベッカロッシが己より強いと認識しているのであれば、私がリューリ嬢に勝てる道理はないな………」
肩の力が抜けたような生気のない声で呟いて、アインハードという剣術科の次席は疲れたように目を閉じた。身体はぼろぼろ、プライドはずたずた、後がないのだと思い詰めて無様だろうが足掻きに足掻いたお花畑の住人は、大嫌いな三白眼に言われた何かしらでとうとう諦めがついたらしい。
「皆様、お騒がせしてまことに申し訳ありませんでした。このアインハード・エッケルト、誇り高き侯爵家の者として潔く己が非を認め猛省したいと思います」
「今更殊勝に振舞ったところで今更でしかないということを忘れないで頂戴ね道化」
「はははははは仰る通りですねレディ・マルガレーテそれでは道化はいい加減撤退致しますとも私某侯爵家のご子息とは縁も所縁もございません故どうか何卒その方には累の及ばぬようご配慮の程を!」
「あら、ようやく幕引きかしら? 随分と長めの演目だったわねぇ、個人的には纏まりがいまいちでもう少し洗練さが欲しかったところですけれど、レディ・フローレンのご感想は?」
「まぁ。辛口ですのね、レディ・マルガレーテ。素人の創作即興劇ですもの、練り込み不足で少しくらい不格好なのも味なのではなくて? ところで殿下。何故こちらに?」
「それがなぁ、フローレン。保健室で静養していたエッケルト侯子が少し目を離した隙に行方不明になったとかで、すわ人攫いか事件かと今有志各位で学園中を全力捜索しているところなんだ―――――例の三人の女生徒の他にも親しくしていた女子が居た、という情報がファンクラブネットワーク経由で流れてきてなぁ、痴情の縺れで大惨事になる可能性も捨て切れないから心配で。血の雨とか降るのは嫌だぞう」
「まぁ、それは一大事ですねぇ。けれども、殿下やセスが談話室にまで探しに来て見付からない、となりますと………もしや急な腹痛に見舞われてご不浄に籠っておられるのでは?」
「………えっ」
フローレン嬢が慈愛に満ちた微笑みを湛えつつちらりと包帯の人を一瞥したが、それを聞いた王子様は悟ったように穏やかな表情で「そうかもしんない」とか頷いていた。
談話室からそそくさと出ようとしていた包帯の人はその場に一時停止して信じられないようなものを見る目で貴族のお嬢様を凝視している。
太陽のような眩しさで明るさと華やかさを炸裂させて、マルガレーテ嬢も頷いた。
「きっとそうよ、レディ・フローレン! 急な腹痛、よくあるわよね。お腹でも下してしまったのかしら―――――聞けば昼食を食べ損ねたらしいし、目が覚めて空腹に負けて保健室を抜け出したところで何かよくないものでも食べてご不浄から離れられなくなったんじゃない?」
「まぁ、レディ・マルガレーテもそう思われます?」
「ええ、貴女と同意見よ。床に落ちていた焼き菓子でも拾って食べてしまったのかしらね?」
「さぁ、それは―――――どうでしょうね」
マルガレーテ嬢とフローレン嬢はお上品に会話しながら、ちっとも笑っていない目で包帯の人を同時に見た後で床に落ちて倒壊しているお菓子のお家に視線を移す。
王子様やセスが来たところで忘れられるわけもない、馬鹿の愚行により台無しにされた美味しい焼き菓子製のおうちに対する誠意を見せろと私は言いたい。ぶっちゃけあのまま帰ろうとしたらもう一度床(お菓子の家)目掛けてダイナミックなフェイスクラッシュしてやろうとか思っていたからナイスです。包帯の人はあの二人に泣く程感謝した方がいい。なのに、言い逃れようとしている男はおどおどと何かを言い募る。
「お、落ちているものを食べるのは衛生的にどうかと………」
「誰が落としたんだったかしらねぇ」
「リューリさんは食べましたしねぇ」
「食べ物を粗末にする輩は命を粗末にする輩らしくてよ、レディ・マルガレーテ」
「まぁ、そんな命知らずは私なら絶対に捨て置かなくてよ、レディ・フローレン」
おほほほほほほほ、と二重奏が転がって、間近で聞いていた王子様の目が心なしかどこか遠くを見ていた。えげつねぇな、と呟いたセスは露骨にあらぬ方向を見ている。
「あれまだそんなに怖くない方だぞ」
「数十分で慣れやがったなリューリ」
「殺伐としたお茶会に一人で放り込まれたら数十分でこうなったんだよ」
「それに関しては割とマジですまんかったと思ってはいる。何か奢るわ」
「最高かよセス。超許した」
「秒で許す判定出て笑った」
「塩胡椒がっつりのお肉食べたい」
「どういう食欲してんだテメェは」
お嬢様方の監視の目が光る中で床に落ちたお菓子の家の残骸を丁寧に拾い集めて着ていた上着に包んだ状態でやっと部屋を出て行った招かれざる客を見送りつつ、私とセスは安全圏で呑気にそんな話をしていた。リクエストを伝えたところでげんなりとした目を向けてこようが止めておけとか言わないあたりは好感の持てる三白眼である。
「ところであいつ、ここ出たらあのお菓子の家の欠片どっかに捨てちゃうんじゃないか? まぁそんなことしやがったらいよいよ野鳥が皮膚を啄み始めるまで学園のてっぺんから吊るすけど」
「発想がナチュラルに物騒だなリューリ。まぁ部屋の外で待機してる三馬鹿にそうさせないよう婚約者連中が指示出してたから大丈夫じゃねぇの?」
「居たのか三馬鹿」
絶対お嬢様たちの“お茶会”が怖くて入って来なかっただろお前ら自分の婚約者さんたちの怖さをもっときちんと知っておけ、とイアンとヘンリーとザックのことを心の中だけで罵って、王子様も交えた上で何やら真面目なお話合いをしているっぽいフローレン嬢に一声掛けた。
「フローレンさん、“お茶会”ってそろそろ終わる? セスがお肉奢ってくれるらしいから私先に帰っていい?」
「えっ、妖精さんもう帰っちゃ………待って? 今からお肉を食べるの? お菓子をあれだけ食べておいてお肉が食べられるの貴女?」
「お菓子はもう十分食べたので今はいい感じに生焼けのお肉をがっつり塩胡椒で食べたい」
「お砂糖で出来てるみたいな笑顔で血の滴るようなレアをご所望!?」
「そこまではっきりお肉が食べたい気持ちになっている、ということは、もう引き留めるのは無理でしょうねぇ………よくってよ、リューリさん。本日はお付き合いまことにありがとうございました。急なアクシデントはありましたが、美味しいお菓子とクレープ食べ放題を今度こそご用意しておきますので気が向いたらまたご参加くださいましね」
「うん、ごちそうさまでした―――――行くぞセス! お肉は牛さんだと嬉しいです!」
「どうせ牛だけじゃ足りねぇんだから鳥も豚も全部頼めやもう」
「最高、の更に上を行く王国語があったら教えてくれ叫ぶから」
「大体分かったから叫ばんでいい」
「察しが良いなお気遣いの三白眼」
「まともな褒め方覚えろや白いの」
隣に並んで違う歩幅で同じ速度で歩きつつ、私とセスはぽんぽんといつも通りの気安さで会話しながら部屋を出る。その直前に、呼び止められた。
「あ、そうだわ―――――リューリ・ベルさん! 退室する前に教えて頂戴。ピスタチオナッツクリームをお土産にしていいかどうかを伺うために“北”の大公様と貴女の故郷の代表宛てにお手紙をしたためたいのだけれど、そちらの代表者は“北の民”の族長さま? でいいのよね? お名前は何と仰るの?」
「ん? たぶん“族長”って書けばそれでちゃんと届くと思うぞ。族長はほとんど“族長”で通ってて本名で呼ばれてるの聞いたことないし」
「そういうわけにもいかないの、“王国”の貴族が出す手紙にはきちんとした書式や作法があって―――――って、呼ばれているところを聞いたことがない? もしかして、貴女“族長”さまのお名前を知らなかったりするのかしら?」
「いやいやいや。流石の私でもそれはないぞ、マルガレーテさん」
例えど忘れ的な何かでうっかり思い出せなくなっても完全に忘却の彼方ではない。というか、あんな強烈な族長を忘れるだなんていくらなんでも無理がある。本人に一度でも会ったことのある“北の民”なら全員が全員そう答えること請け合いなのだが、王国民である彼女たちにそれを逐一説いたところで微塵も理解は出来ないだろう。
談話室の扉に手をかけて木製の扉を押しながら、私は事も無げに言葉を綴った。
「名前なんか書かなくたって、“族長”宛てだっていうのが分かれば北境の町の人たちが伝えてくれると思うんだけどなぁ………ま、それが“王国”のルールって言うなら私がとやかく言うことじゃないか。族長の名前なら『ハーシア』だぞ」
あまりにも“族長”で通り過ぎているためにまるで使われない音の羅列は、私たち“北の民”を束ねる強大にして唯一なる者を示すための記号である。みんなが族長をそう呼ぶことは他でもない自分自身を含めて未だ聞いたことがないけれど、当の本人がそう名乗っていたから彼の名前はそれなのだろう。
押し開けた扉から視線を外して、部屋の中に居る人たちに向けて私は発音を繰り返した。族長の名前。当人が存命である限り、たった一人にしか許されていない、私たちにとって意味のある単語を。
「ハーシアだ―――――ハーシア・ベル」
「そう、どうもありがとう。ハーシア・ベルさまとおっしゃ………………え?」
「じゃ、私はもう行くな。お邪魔しました。お肉行くぞセス!」
ベル? と気の抜けたマルガレーテ嬢の声も驚愕も置き去りに、硬直していたセスを引っ張って私は軽やかに廊下に飛び出す。
ばたんと閉まる分厚い扉はその瞬間だけすべての音を耳に都合良く遠ざけて、お肉食べたいと逸る足が三白眼を引き摺るかたちで前へ前へと駆け抜けて行った。
目が滑る文面、取っ散らかる話題、お嬢様たちの回りくどいトークその他を乗り越えこの後書きに辿り着かれたあなた様に心からの感謝を。読んでくださって、ありがとうございます。
【おしらせ】
作中の会話にて「キルヒシュラーガー公女」「キルヒシュラーガー公子」と同じ人物を指しながら異なる呼び方が出て来ますが、こちらは誤字ではございませんのでご報告には及びません。ご留意ください。