12.ベンチで食べよう食後のおやつ
構成の段階で長いなぁ、とは思っていましたが書いてる途中で流石に分割を決意しました。
それに伴い結局再構築レベルのリテイクをすることにしたはいいものの、まさか利き手の指の爪をガッとやってしまい病院のお世話になるとは思ってなかった地味に不便。言い訳です。ちゃんと治りました。
ある意味「新しい試み」という解釈でスルーっと流していただけると幸いです。
ぽんっ、と空に弾けた煙が風に流されて消えていく。ぽぽん、ぽぽぽんっ、と連続で弾けては次々と白い尾を引くそれが何というのかは知らないが、故郷でよく見た狼煙とは上げる目的が違うのだろうとは思った。いい天気だなぁ、と呑気な気分で見上げる蒼穹には白煙が細く棚引いている。
「いい天気だなぁ、リューリ・ベル! 絶好の観戦日和だぞう!」
上がりに上がったテンションを隠すつもりすらないらしい王子様の声が喧しい。五月蠅いから真隣で騒ぐなよ、と視線で訴えてみたところで相手に伝わる筈もなく、陽の光を浴びてきらきらする金髪が視覚的にも五月蠅い王子様はきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいた。何がそんなに楽しいのか私にはまったく理解出来ない。けれど、周りも似たり寄ったりでむしろ騒がしい方が普通です、みたいな雰囲気に満ちていたから、たぶんこれはこういうものだと受け入れて流すことにする。
私が今居るこの場所は、初めて訪れた場所だった。学園の敷地内にこんなものがあったのか、と思う程度には巨大な建造物である。正直な話、建造物、と言うよりは、やたらと人を収容出来る楕円形の座席群にしか見えなかったのだけれど。
『闘技場』と呼ばれているらしいこの石造りの不思議な施設は、今日のランチのデザートで食べたチョコレートがけの焼き菓子に似ていた。生地を輪っか状に成形する利点はまるで分からなかったものの、真ん中に穴がぽっかり空いたあれは随分と見ていて面白かった―――――うん。何となくカタチが似ているかもとは思ったものの、この闘技場とやらについてはまったく面白味を見出せそうにないな。そんな気分で、周囲を見渡す。
階段状に造られた座席はざっと見上げたところ四階建てで、天井部分には屋根がない。けれど、座席上にはぽつぽつと大掛かりな天幕が張られているので陽の光は適度に遮られている。それに対して中央部分、座席がぐるりと取り囲んでいる石造りの巨大な舞台には太陽光が直に降り注いでいた。そこに列を成して並ぶ男子生徒たちの集団を一階席から眺めやり、暑そうだなぁ、とぼんやり思う。
「そうか。そりゃ良かったな、王子様。ところでこれ私も見てなきゃ駄目?」
めんどくさい、という本音を包み隠さない表情で率直に問いを投げたところで、王子様は何も答えずただただ微笑むだけだった。その向こう側に腰掛けていたやたらと姿勢の良いお嬢様が、優雅さを一切損なわない所作で扇を広げてやんわりと言う。
「学園恒例、剣術科生徒による個人対戦式定期模擬試合―――――通称『剣術大会』ですので。残念ながら、学園に所属する生徒であれば観戦は義務となっております。“招待学生”のリューリさんも、もちろん例外ではなくてよ」
「うん。それはさっき聞いたけど。ていうか、ぶっちゃけ宿屋のチビちゃんが言ってたから実のところ『剣術大会』そのものについては知ってたっていうか………ホントにやってたんだな、『一部の輩にとってはカッコいいところ見せて女子に騒がれるための頑張りどころ』にして『大体のお花畑にとっては公然と意中の男子の勇姿を熱烈に眺め回して応援してあわよくば試合後にカッコよかったですとか差し入れ片手に押し掛けてあわよくばお近付きになれるかもしれないと夢見る絶好のアピールチャンス』こと剣術大会とかいうパフォーマンス茶番」
「男子サイドへのさらっと感に対してお花畑たちには容赦がない! 珍しいことに冒頭から飛ばして来たなぁ宿屋のチビちゃん! ん? いや、この場合はこのタイミングでチビちゃん語録出すリューリ・ベル? どう思う? フローレン」
「別段どうとも思わなくてよ。おチビさんのコメントについては私も概ね同意見ですし………ですが、ええ。そうですねぇ。強いて言うなら『剣術大会』という催しそのものの意義を履き違えているごく少数の方々に今の的確な表現を聞かせて差し上げたい気分でいっぱいです」
うふふふふ、と扇子の向こうで上品に笑い声を転がしているフローレン嬢だがその目はまったく笑っていない。王子様が笑顔のままにちょっぴり冷や汗をかいていた。美しい所作でゆっくりと広げた扇子を閉じながら、派手な美貌のお嬢様は歌うように言葉を紡ぐ。
「と、まぁ、それはさておき。せっかくですので、リューリさんには宿屋のおチビさん知識と一緒に『正しい剣術大会の意義』についてもきちんと覚えていただきましょうね」
「絶対要らない知識だと思うので遠慮したいぞフローレンさん」
即座にお断りの文言を唱えた私の表情は完全なる無だった。意思表示はしっかりとしておくに限るという分かりやす過ぎるくらいの態度で、しかし華やかなるフローレン嬢は欠片も動じたりはしない。どころか「予想していました」と言わんばかりの鷹揚さで緩く頷いて、先程閉じた扇の先端がすぅっと優雅に虚空を滑る。それに釣られて何気なく顔ごと視線を向けた先には、食堂のおばちゃんが立っていた。身体の前面部に大きな籠のようなものを抱えたスタイルのおばちゃんが、座席間を移動しながら何やら物を売り歩いている―――――ランチ激戦という通常の食堂業務を終えたばかりだというのに働き者過ぎて頭が下がる思いでいっぱいだけれどおばちゃんそれなに売ってるんですか食べ物ですか食べ物ですね。フローレン嬢の蠱惑的な声が、容赦なく私の鼓膜を揺らした。
「お話を聞いていただけるなら、あちらに見えます食堂出張移動販売中の物売り食堂スタッフさんからお好きなものを買い放題ということで如何?」
「買い放題ですかフローレンさん」
「買い放題でしてよリューリさん」
私の真っ直ぐな問い掛けに、真っ直ぐな答えが返される。その力強さに嘘はない。見栄でも虚勢でも引っ掛けでもなく、フローレン嬢はただありのまま事実として単純に答えただけだった。それを理解しているからこそ私はこっくりとひとつ頷く。
「気前が良過ぎて最高か。食べます。聞きます。すいませ――――ん! おばちゃ―――――ん! 次こっちにお願いしま――――す!」
了承の意を示した直後に流れるような淀みのなさで、ぶんぶんと大きく手を振りながら少し離れたところで移動販売業務に勤しむ食堂のおばちゃんに声を掛けた。呼び掛けに気付いたおばちゃんが了解、とばかりに手を振り返してくれたのを視認して満足げに手を下ろす私の隣で、王子様が何とも言えない目をしている。
「はっはっは、全力でランチした後だってのにまだ食べる気だぞうこのフェアリー。そしてそんなリューリ・ベルを食べ物で釣ることに一切迷いのないフローレンのあからさまな買収テクニックになんて言っていいのか分からない、でも正直言ってなんか羨ましいので私にも何か買ってくださいプリーズ!」
「お黙りになって、馬鹿王子。そこは全額自分が出す、くらいの甲斐性を持ち合わせなさいまし」
「私にそんなものが標準装備されていたらお前の眉間に寄る皺はもっとマイルドで済んだと思う」
「自覚があるなら自重なさい馬鹿」
「いつになく醸される圧が強い。ハーブティーでも一緒に飲んでちょっとリラックスしない?」
「あら、素敵なお誘いですこと。でしたら、ええ、そうですね、殿下のお言葉に従って仲良く濃縮タンポポ茶でもいただくことにしましょうか」
「いやそれ常軌を逸したレベルでやたらと苦いってお茶だよね!? 名前の可愛らしさに反して味がちっとも可愛くないってめちゃくちゃ評判のアレだよね!? 一緒に飲んでくれるってあたりまだ優しさは残っているけれどもベクトル間違え過ぎじゃない!?!?」
「十秒以内に飲み切れなかったらもう一杯追加して差し上げます」
「優しさの欠片すらなくなった!!!!!」
声に滲んでいる悲壮感はともかく傍目にはただの仲良しさん。と、いうことで部外者でしかない私は呑気に移動販売中のおばちゃんが持って来てくれたワゴンの中から食べたいものを選んでいく。お昼が終わった時間帯だからかちょっとしたおやつ感覚でつまめる軽食系が多かった。これなら全部網羅出来るな、と考えを秒で改めた私は「全種類一個ずつください」とにこやかに晴れやかに言ってのける。お腹いっぱい食べたいと思えばお腹いっぱい食べられる“王国”のこういうところは好きだ。ところで濃縮タンポポ茶とやらは扱ってないらしいぞフローレンさん。苦過ぎて無理、って脱落者が相次いだから今はもう普通のタンポポ茶しか置いてないっておばちゃんが言ってる。
「フローレン様が………あのゴージャス系クールビューティー枠筆頭フローレン様がタンポポ茶っておっしゃった………こころなしか可愛らしいフレーズに心のほっこりが止まらない………」
「おかしいな………さっきネタで買ったこのタンポポ茶、苦みの中に甘さが広が………え………? お砂糖入ってる………? クセの強い甘さが美味しいオブ美味しい………」
「思考回路は元からだったがとうとう味覚まで狂ったか………あ、すいません俺にもタンポポ茶ください」
「お兄ちゃんの試合を家族で見に来たはいいけれど、開会式が始まる前から既に飽きて物売りさんの軽食ラインナップに夢中な末っ子ちゃんに甘いお母様となんか駄々捏ねてるお父様………ゴフッ………」
「気持ちは分かるが吐血はするな! トマトケチャップであれ無駄にはするな! もったいない妖精さんの祟り(物理)に遭うぞ!!!」
「ああああああワゴンの中身一種類ずつ全部詰めたトレイお膝の上に乗っけてにこにこご満悦末っ子ちゃんがわいいいいいいいいいいいいいい」
「なんやかんやタンポポ茶と一緒にマンゴーラッシー買ってあげてるお母様の優しさに周囲一帯大号泣」
「ていうかお父様やっぱりお財布持たせてもらえてない事実にどんな顔したらいいのか分からないの」
「笑顔でお布施すればいいと思………はっ………ご家族が一階席最前列にいらっしゃるせいでお顔が見えない会話が聞こえない見えてはいても物理的に遠い同志各位が血の涙を………!?」
「書き留めろ! 日刊食堂の妖精さん改め明日のファンクラブ情報紙になんとか捩じ込むから書き留めろぉぉぉぉぉ!!!!!」
始まるのは『剣術大会』の筈なのに聞こえてくる声の数々は驚く程にいつも通りで何の集まりなんだこれは。なんて、そんな率直な疑問なんてものはたった今私の膝の上に鎮座まします移動売店全ラインナップに比べたら些事だったので放置した。タンポポ茶とマンゴーラッシーを同時に手渡されて素直に喜んでいる王子様のメンタルについてはもう触れない方向で可決して、恙無くお支払いを済ませてくれたフローレン嬢にはありがとうと頭を下げておく。報酬を先払いで受け取ったからには、約束通りちゃんと真面目に彼女の話を聞かなければならない。そんな当たり前に単純な理屈で。
「はい、それではお勉強の時間です。と言っても、リューリさんに回りくどい説明なんてものはそれこそ不要の極みでしょうから大胆に噛み砕いて参りましょう。建前など省いてまず本音―――――ぶっちゃけてしまえば“学園”における『剣術大会』を開催する意味は宿屋のおチビさんの言葉通り、概ねパフォーマンス目的です」
「わぁい、掴みの上手さに比例する情け容赦のない導入」
真顔で言い切るフローレン嬢の横で呑気にタンポポ茶を啜りつつ笑顔でそんなコメントを差し込む王子様の精神性に若干恐怖のようなものが芽生えた。今この絵面が異様過ぎて怖い。対比がえぐくて退避したい。そんな気持ちを押し退けるように揚げ芋の袋に塩を入れた。慣れた手付きでしゃかしゃかと袋を上下に振りながら、ごくごく普通の流れでもってお勉強モードに移行したらしいフローレン嬢の講義を傾聴する。
「ただし、このパフォーマンスの目的はあくまでも『剣術科生としての自分の価値』を手っ取り早く周囲に示すこと。対人戦に優れている、剣技の冴えに自信がある、実力は相手に及ばずとも戦況を引っ繰り返せるだけの策を咄嗟に打ち出せる、応用力に富んでいる、本番に強い、普段はパッとしなくても土壇場でこそ輝く等々………日々“学園”で研鑽を積んで高めてきた筈の己の価値を、対人戦というかたちで分かりやすく知らしめるためのアピールの場にしてパフォーマンスの舞台。全生徒が注目する中で正々堂々闘って、芳しい評価を得ることが出来れば将来有望と目される―――――つまり、箔が付くことによって卒業後の進路の幅が広がる。それこそが『剣術大会』を定期開催する意義なのです。けして女子にモテたいからとか自分の想い人がカッコいいと再認識して恋人獲得のために奮い立つとかそういう馬鹿げた直情思考に基いた行事などではなくてよ。断じて」
最後に付け足された一文によってフローレン嬢の憤りは如実に伝わってきたのだけれど、卒業後の進路がどうとか言われたところで“北”に帰るだけの私にはいまいち理解が及ばなかった。塩が馴染んだ揚げ芋をかりかりほくほくと堪能しつつ、水で渇きを潤しながら疑問はその場で訊いておく。
「ハクガツク、ってのは正直よく分かんないんだけど………そもそもこれ観られるのって学生と先生くらいだろ? 学園内の人間にアピールしたところで将来とかに繋がったりするのか? やるなら外部からも観客募らないと効果いまいちなんじゃない?」
「ええ、流石の着眼点です。リューリさんのおっしゃる通り、これはあくまで学園行事。その時期に学園に在籍している生徒と教師しか見られません。なので、生徒たちは今日の結果を各自で実家に伝えるのです。面白おかしく脚色して、興奮のままに誇張して、優勝したのは誰だった、誰それが強かった誰それは有望だ、彼は将来王族の近衛に召し上げられてもおかしくない実力者だ―――――なんて、少しばかり大袈裟なくらいにね。前評判、というものは、意外と大切なんですの」
「いざ卒業、という時期になったところで、採用のために己の実力を測ってもらうための場が用意されるとは限らないからなぁ。事前に将来有望との噂が立っていればいいところから声も掛かりやすいし、選ぶ方も分かりやすい。際立って優秀な者がいれば希望はそこに集中するし、逆に評価が芳しくない者や話題性に乏しい者は限られた進路しか選べなくなる。明け透けに言えば『剣術科』に所属しているのは実家を継げない貴族の子弟が圧倒的に多いからな―――――騎士としてちゃんと身を立てられるかどうか、というのはダイレクトに死活問題だぞう。『剣術大会』の結果というものが必ずしも採用や決定に結び付くわけではないけれど、選考時の指標になる程度には重要視されているな」
「ですので、少しでもいい評価をつけてもらおうと悪い意味で躍起になる者も少なからず存在はするらしいのですけれど………たとえごくごく一部の生徒が故意に誰それを持ち上げようとしても、あちらこちらに流れる噂を元に情報を精査すれば自ずと真相は汲み取れます。むしろ、その程度のことが出来ない輩ではこの先が思いやられてよ」
「まぁ、ざっくりと雑に説明はしたが難しく考えることはない。要するにここで頑張っておくと将来ちょっぴり楽になる、ついでにきゃあきゃあと黄色い声で応援してもらえてモチベーションも気分も上がる、程度の認識で十分だ」
眉間に難しい皺を寄せつつ補足を入れてくる王子様だがお前その顔絶対にタンポポ茶が苦いだけだろう。かりっかりの揚げ芋の端っこを奥歯で思いっきり噛んで砕いて香ばしさを堪能し続けたいのでわざわざ口には出さないけれども、しかしだったらますます外部から観客を募った方が理に適っているのでは、と疑問が解消されない私に、フローレン嬢は微笑んだ。
「ちなみに『外部から広く観客を募る』という件については防犯上の都合で却下というか、過去に我が子の晴れ舞台を目に焼き付けたい保護者各位やら見目麗しい子供たちが真剣に剣を交えるのを拝みたい方々やら剣術にまったく興味のないお祭り気分の野次馬連中までとにかく人が集い過ぎて収拾がつかなくなって以来ずっとこの形式なんですのよ」
「そしてこれは余談だが、各業界の関係者や一定以上のお偉いさんだけに招待状を配るという方式を試したこともあるにはあった。招待状にプレミアついて買収転売が相次いで社交界が大混乱したので即刻中止になったらしいが」
「もしかしなくても“王国民”は娯楽に飢え過ぎてやしないか」
「娯楽と刺激に飢えている、という件についてはこの王国の“王子様”として否定しかねるところではあるが、常に食欲に忠実なお前に言われるとなんとなく腑に落ちないものを感じるぞう………ところでものは相談なんだがそのドーナツボールひとつくれない? タンポポ茶が苦くてそろそろしんどい」
「ヤだよ。甘いのが欲しいならフローレンさんが買ってくれたマンゴーラッシー飲めばいいじゃん」
「やだもうリューリ・ベル考えてもみなさい、今マンゴーラッシーに頼ったら二度とタンポポ茶に口付けたくなくなっちゃうでしょうが! と、いうわけで食べたら喉が渇くくらいパサついたドーナツボールでタンポポ茶を中和して飲み込むのがベスト!!!」
「うん。そのドーナツボールとかいう揚げ菓子なんだけど、全部食べちゃったんでもうないぞ」
「今の遣り取りの何処に六個入りのドーナツボール完食する時間があったのお前!? 早食い過ぎてびっくりしたわそれでちゃんと味わえたのかどうかが疑問でしょうがないけれども!」
「全体的にハードな食感で重ための生地の外側を厚めに揚げることにより食べ応えはばっちりながらも小麦粉の風味を活かしたほのかな甘みに咀嚼と嚥下が止まらない美味しさだったな」
「めちゃくちゃ味わった上でしっかり秒速完食してた―――――!」
タンポポ茶を片手に五月蠅い王子様だが容器の中身はまだ半分も残っているのでひたすら頑張れ。苦いもののお供に甘いもの、という気持ちは分かるがフローレン嬢に買ってもらったこれら軽食の数々はすべてがすべて私のおやつだ。そして塩気がきいたもののあとには甘いものの味が引き立つ。そんな理屈で揚げ芋の次に口の中に入れたころころと丸っこい揚げ菓子―――ドーナツボールとかいうらしい―――は一口サイズの可愛らしさで、しかしお手軽だったからこそひょいひょいと簡単に食べ尽くせてしまった。ランチに食べたあの輪っか状のデザートと味が結構似ていたあたり、もしかしたら焼くか揚げるかの違いがあるだけで生地は同じなのかもしれない。個人的には揚げてある方が好み。というかこの軽食ラインナップ、総じて揚げ物が多いなぁ。お腹に溜まるこの感じが素晴らしいとしか言えない。
「ああ、そうこうしている間にようやく開会式が始まるようで………はい、それではリューリさん。チュロスを食べながらでいいので正面の舞台にご注目くださいまし」
ギザギザした表面に不思議な香りのする粉末をこれでもかこれでもか、と塗した棒状の食べ物をがじがじと噛み千切って短くしている私に向かって淑やかにそう告げたフローレン嬢の言葉がちょうど終わった頃合いに、何か楽器を打ち鳴らすような騒音レベルの合図があった。臓腑の底に響くようなそれは闘技場内の空気を震わせて、落ち着きのなかった場の賑わいをあっという間に駆逐していく。四方八方の視線はすべて中心部の舞台へと注がれて、そこに並ぶ男子生徒たちは全員微動だにしなかった。そうして生まれた奇妙に浮付いた雰囲気の残る沈黙の中で、その集団の前に立つ一際体格の優れた成人男性が大きく息を吸い込む。
「静聴! 今大会の進行審判を務める剣術科担当筆頭教員、デズモンド・カークマンである! そして時間が惜しいので、長ったらしい前振りの類は一切合切無しとする! とりあえず『剣術大会』はトーナメント式の勝ち抜き戦だということだけ頭の片隅に覚えておけ! 応援席! 騒ぐのは構わんが度を越した野次の類は品性を疑われるのでくれぐれも止めるように! この場に整列している剣術科生! やるからには全力で勝ちに行け! 当然だが不正は一切許さん! 手抜きの類も認められん! 『剣術大会』とは剣術科に属するすべての生徒が等しく実力を発揮出来るようにと与えられた数少ない機会である! 全剣術科生もとい選手各位は悔いなきように己の力を出し切るがいい! 俺からは以上だ! では、これより選手生徒による宣誓を行う―――――代表、アインハード・エッケルト。前へ!」
「はっ!」
ざっくりした口上をさっくりと終わらせたデズモンド教諭に大音声で呼ばれた名前の主こと涼やかな顔立ちの男子がひとり、規則正しくずらりと並んだ剣術科生の集団から一歩外れて前に出る。最前列の中心に控えていたらしいそいつのことを私は知らなかったけれど、えらく華やかな歓声がそこら中から聞こえてきたので女子には人気があるのだろう。私は当然興味がないので無反応を貫いたけれど、フローレン嬢がしれっと捩じ込んで来た情報には割と興味を惹かれてしまった。
「ちなみにですがあの選手宣誓、本来なら剣術科で主席の成績を修めているセスが行う筈でした」
「なにそれ相当面白い」
真顔で思わず本音を吐いて、二本目の棒状スイーツ(こちらはあまり匂いのきつくない舌に溶ける粉砂糖の味)を銜えたまま視線を舞台側へと戻す。円形状の闘技場に集う人々による衆人環視の真っ只中で、背筋をぴしりと伸ばした男子が声高らかに何事かを叫んでいた。その音域は高過ぎず低過ぎずしっかりと通る発音の良さで、語る言葉は軽薄ではないが取り立てて厳格なわけでもない。誇り高き“学園”の剣術科に属する一生徒として正々堂々戦うことを誓うという、宿屋のチビちゃんに聞いたことがあるような気がしないでもないありふれた感じの台詞だった。あれを―――――あの騎士道精神とやらを重んじた創作物によくあるようなやたらめったら捏ねくり回されてなんだか気取った系の台詞を、あの三白眼が声高に全学園生徒の前で宣言していたかもしれないとか面白過ぎるだろう腹筋が攣るぞだってちょっと想像した時点でもう思わず笑顔になるレベル。
「本人が全力で嫌がって拒否ったのはまぁ察しが付くとして、もし仮に実現していたら手放しで一見の価値ありだったのになんでセスじゃなくてあの男子なんだ?」
「あれやるくらいなら『剣術大会』そのものを欠席する、みたいな勢いで現役王城近衛騎士と拮抗する実力者であるデズモンド先生に啖呵切った結果なんやかんやで『先生と勝負して一本でも取れたら宣誓役免除』という無茶振りにも程がある約束を取り付けてきたと思ったらマジで一本取って合法的に堂々と次席のアインハードに代表押し付けたセスの話する?」
「するも何もお前もう全部べらべら喋っちゃってるじゃん王子様」
呆れながらも水を一口、舌に残る甘ったるさを喉の奥へと流し込む。雑談混じりに眺めていた剣術科次席とかいう生徒の出番は終わったのか、いつの間にか何事もなかったかのように元々居た場所へと戻ってしまって私にはもう誰が誰だかすっかり分からなくなってしまった。ざっと確認したところでセスの姿も見付からない―――――ていうかあの三白眼、そこまでするほど嫌だったのか、選手宣誓とかいうあれやるの。先生と本気で交渉して避けるくらいには本気の本気で嫌だったんだろうなと心の片隅で思いつつ、面白がって悪かったなとこの場に居ない相手に詫びた。冷静に考えるまでもなく、私だってあれをやれと言われたら全力で嫌だし断るし。
「それでは順次始めるぞ、第一試合出場者以外は解散!」
デズモンド教諭の一声で、整然と並んでいた男子生徒たちがばらばらと四方へ散っていく。舞台の上に残された男子二人が互いに挨拶して教諭の合図を皮切りに剣での打ち合いを始めたが、私にとっては退屈なだけで手元のおやつが減っていくばかりだ。棒状のお菓子は四本目、チョコレートが生地に練り込まれているのかほろ苦さと甘味が同時にやってきて三本目に食べた蜂蜜がけよりは幾分か落ち着いた印象。食べ終わる前に決着がついて、流れるように二戦目、三戦目が始まるのだが全員知らない顔である。いつだったか実際にこの目で見て触った鋼の棒を、名前も知らない男子生徒たちは必死に振り回して戦っていた。
「なぁ、これ何が面白いんだ? 全然良さが分からないんだけど」
「だよなぁ。知ってた。と、いうわけで―――――そんなリューリ・ベルでも楽しめるように実況の王子様が出動しようと思うわけだが実況席に似合うのはタンポポ茶じゃなくてお水じゃないかなー。どう思う解説のフローレン」
「リューリさんをダシにしてさりげなく追加のタンポポ茶を回避しようだなんて許されなくてよ馬鹿王子。すみません、殿下にもうひとつタンポポ茶を」
「ははははは嫌だなぁフローレン、私そんなこと目論んでな………流れるようにおかわりが来た!? 流石は“学園”の食堂のおばちゃん商品提供のタイミングが絶妙!」
やだー! と言葉で泣き喚きはしても差し出されたタンポポ茶を大人しく受け取るあたり教育が行き届いていると思う。そして通り掛かった食堂のおばちゃんにすかさずタンポポ茶を頼むフローレン嬢も淀みなく笑顔で差し出すおばちゃんも猛者だ。すいませんこっちにお水ください。
と、そこで一際大きな歓声が会場全体から沸き上がる。何事かと思って舞台を見遣れば、いつの間にか変わっていた顔触れの片方に珍しく見覚えがあった私はちょっとだけ目を丸くした。
「ああ、メチェナーテ候子ですか。実技の成績は悪くない、と小耳に挟んでいましたのに、予想よりも早い出番ですね。実力者であればあるほど後ろに回されるのが通例だとばかり思っていたのですけれど」
「うん。そこはフローレンの言う通りだぞう。ただ、ティト・メチェナーテに関しては“編入生”だからそのあたりで調整が入ったっぽい。セスに聞いたら『十位内には食い込めるんじゃねぇの』らしいから―――――たぶんじゃなくても逸材だろうな」
「あら、あのセスにしては随分と高く買っているようで」
ころころと上品に笑うフローレン嬢の横では、王子様が渋い顔でタンポポ茶を一気飲みしている。一杯目を飲み干したところで二杯目が控えている現実には絶望感しかないだろうに、ノルマのような当たり前さで次のコップを持ち上げるその根性はすごいと思った。びり、と何かが包まれているらしい包装紙を豪快に破る私はといえば、観客に手を振りながら退場していく勝者を見ている。
それは、いつだったかスターゲイジー・パイをセスと食べていた時に突撃して来たやつだった。なので顔に見覚えがある。細かいところは忘れたけれど、馬鹿ではあっても悪いやつではなかったような頭が悪いやつだったような―――――だからどうした、と聞かれたら、どうもしないとしか言えないけれど。
なんとなくそのまま目で追った先で、ティトとかいう名前だった気がするその男子は何故かランチボックスを受け取っていた。それも観客席でわいきゃいと騒ぎ立てている女子とかからではなく、舞台の出入り口付近に設置されたスペースで食べ物と飲み物を剣術科生に配布している食堂のおばちゃんたちからである。
「食堂のおばちゃんたち働き過ぎでは?」
感心は素直に滑り出た。若干の心配も混じっているそれは、しかしおばちゃんたちが配布していたランチボックスの中身を視認して何処かへと吹っ飛んでしまう―――――ちょっと待ってあれ観客席で売り歩いてるラインナップにはなかったよおばちゃん。剣術大会を観戦するよりお弁当の中身の方がずっと気になるに決まっていた。北の大地で狩り暮らす“狩猟の民”の視力を侮るなかれ、見ようと思って気合いを入れればある程度の距離を隔てていようが結構ばっちりはっきり見える。
「フローレンさん、あそこで食堂のおばちゃんたちが配ってるのは何なんだ」
「え? ああ、あれは『剣術大会』出場者への専用昼食です。過去に一度ドーピング―――肉体を使う競技において、より良い成績を得るために薬物を使って運動能力などの向上を図る不正行為ですが―――を行った生徒が居たようで。以降『剣術大会』に出場する生徒は規定時間以降“学園”が提供する専用食しか食べられないというルールが設けられました。あちらで配布されているのは、剣術科生だけが食べられる特別ランチということです」
「それってつまり剣術科生じゃない私は絶対食べられないやつなのでは………?」
「この世の終わりみたいな顔してるとこ悪いけれどその通りだぞう、リューリ・ベル。あれは人数分しか用意がないから部外者は絶対食べられないやつだ」
「あああああああああ」
心の底から悔しかったので思いっきり呻いて顔を覆った。ともすれば獣の唸り声にも聞こえそうな低音に隣の王子様が慄く気配があったがそんなことはどうでもいい。ひどい。食べたいのに食べられないのひどい。ランチはしっかり食堂で食べたし今も軽食楽しんでるけど一度視界に入れてしまった食べたことない美味しそうなものを絶対食べられないというのはひどい。王国のそういうところ嫌い。
「ええ………嘘でしょこんなにダメージ受けちゃう? お腹そこそこいっぱいだろうしさっき買ってもらった軽食もまだ残ってるのに更なる食べ物希求しちゃう? あまりの悲痛な嘆きっぷりに剣術大会そっちのけでこの辺一帯のギャラリーの痛まし気な視線が大集中―――――っていうかなんかもう見てらんない、ものすごく可哀想になってきた。フローレン、これなんとかなったりしない?」
「流石になんとも………ならなくてよ………………」
珍しく、絞り出すような声でどうにもならないと言い切ったフローレン嬢の言葉を受けて、私はそれじゃあしょうがないなと立ち直りも早く顔を上げた。嘆いたところで無理なものは無理だ。だったら嘆くだけ無駄である。
「じゃぁいいや。ごめん。取り乱した。もう大丈夫だ。そういうわけで、今ある料理を美味しく食べる」
「うーん、流石はリューリ・ベル。立ち直りの速さには定評があるな」
「殿下がそれをおっしゃいますの?」
「私の場合は立ち直る以前に折れたりめげたりしないからなぁ。フローレンと共に過ごしたこの付き合いの長さの分だけ打たれ強さには自信があるぞう」
「育て方を間違えましたか」
「方向性は合ってたと思う」
フローレン嬢に育てられた的な趣旨の発言については特に異論ねぇのかよ。自分と年齢近い女の子に育ててもらってる件について思うところはないんだろうか、ないんだろうな、王子様だもんな。
そんなツッコミを胸に秘めつつ無言を選んだのはひとえに二人が仲良しさんだからである。下手に異物が混ざらない方がきっとこの二人は良く回る。なんとなくそんな直感があった。なので、私は先程破った包装紙をぴりぴりと取り払っていく。中から顔を覗かせたのは、パンとソーセージだけで構成されたシンプルなホットドッグだった。いつか食べた粗挽き胡椒のそれとは漂ってくる匂いがまったく違う。鼻の奥に突き刺さるのは嗅いだ経験の少ない香りで、この“王国”に来てから初めてかもしれない予感がした。未知のものには心が躍る。どんな味がするんだろうか。故郷ではきっと食べたことのない類の味な気がするけれど。そんな気持ちで、いつも通りに、私は食べ物を口にする。
――――――びり、と。
背筋を駆け上がる衝撃があった。舌に鋭い痛みが走って鼻の奥に広がっていく。瞳孔と毛穴がぶわっと開く感覚は私の人生経験上あまり良くない記憶であり、具体的に言い表すなら明らかな危険信号だった。本能が警鐘を鳴らしている。脳髄が激しく主張しているのは「この異物をすぐ吐き出せ」という命令以外の何物でもなく、しかし同時に「食べ物」であると間違いなく認識しているものを吐き出すことは私がこれまで培ってきた価値観上酷く躊躇われた。というか、毒でもないのに吐き出すなんてそんな選択肢は最初からない。
けれど身体は正直で、なによりいろいろ限界だった。
咀嚼が出来ない。飲み込めない。けれど吐き出すのはしたくない。口の中がびりびりと灼け爛れていくような熱と痛みのせいで眉間には深い皺が寄る。それでも顎を動かして口の中に転がる塊を噛み砕いたのは意地だった。眼球に水の膜が張る。生理的に浮いた涙は零れ落ちる程ではなかったけれど、視界をぼんやり滲ませるには十分過ぎて邪魔だった。水は何処だ、と探していた手がひんやりとした瓶を掴む。かつてない速度でそれを飲み干そうと動く私の手が、そこで横から伸びて来た誰かの手によって阻まれた。
邪魔をするな、と睨んだ先には難しい顔をしたセスが居る。
ちょっぴり涙目になっている関係で視界はぼんやりとしていたが、見慣れた部類の三白眼を見間違えるような距離ではなかった。
「水は飲むな、余計広がる―――――飲むならせめてこっちにしとけ」
硬直する私の手から水を取り上げてベンチに置いた相手がそう言ってから差し出してきたのは、なんだか黄色い液体だった。どこかで見たような気もしたけれどとにかく余裕の消え失せた私はセスにもらった液体を無言で思いっきり呷る。ほんの少しだけ温くなったそれは水よりとろみのある液体で、口の中に留まっていたホットドッグの欠片をさらって喉の奥へと流れていった。遅れてやってきた優しい甘さは“北”にはなかった異郷の味で、おそらくは南国由来の華やぎが口腔内を刺して暴れた痛みをゆっくりと和らげていく。
ほ、と一息吐いた私の手から食べ掛けのホットドッグを回収したセスが、歯型によって出来た断面を一瞥して器用に片眉を跳ね上げた。チッ、と響く舌打ちは苛立ちに彩られてやたらと鋭い。
「おい、とりあえずこれでも食ってろ」
甘いモンは落ち着くまで止めとけ、と淡々とした口調の厳命とともにセスが寄越してきた箱の中身は目にも楽しい色鮮やかさでぴっちりおさめられたロールサンドと、そして潰した芋がいっぱい詰まった陶器製の器である。表面にはこんがりとちょうどいい焼き目がついていて、箱に同梱されていた木製スプーンを突き立てたら挽肉とチーズが内側から出て来た。見るからに美味しそうだったので、提供者への礼もそこそこにぱくぱくと勢い良く掻き込んでいく。黄色くて甘い飲み物のおかげでたいぶ楽になったとはいえ、未だびりびりとした違和感が尾を引く中で潰した芋の柔らかさとミートソースが絡んだ挽肉と癖の少ないチーズの旨味は非常にありがたい緩和剤だった。ああ、味が分かるって、やっぱりすごく大切だ。
「って、あ―――――! リューリ・ベルお前私のマンゴーラッシー飲んだな楽しみに取っといたのに酷い!!!」
「るっせぇこの馬鹿!」
真隣りから突如として上がった非難に、そうかさっき飲んだのは王子様のマンゴーラッシーだったかどうりで見覚えがあった筈だ、と芋を食みながら気付いた私を挟んで何故だかセスがいきなりキレた。私から回収した例のホットドッグを手に不機嫌そうな顔で立ったまま、着席している王子様とその奥に居るフローレン嬢までもを視界内におさめた三白眼は自らの幼馴染たちに向かって苛立ちも露わに吐き捨てる。
「テメェらがじゃれ合ってんのはいつものことだし今更だがな、それでも一応この白いのからせめてどっちか一方はなるべく目ェ離さねぇようにしてろや! 連れて来たなら最低限の面倒くらいちゃんと見ろ―――――フローレン! 馬鹿王子はともかくテメェがついてて、なんでリューリが激辛ホットドッグなんてネタ系料理食ってやがる監督不行き届きだろうが!!!」
フローレン嬢が固まった。セスに怒鳴られて固まった、というより、その言葉が意味することに気が付いた直後に停止していた。信じられないようなものを見る目をこちらに注いでくる彼女に合わせて、三白眼の怒りを聞き取ったらしい近場のギャラリーの面々も皆一様に私を見てくる。一番反応が鈍かった王子様がことりと首を傾げたあとで、その整った顔立ちにじわじわと驚愕を広げていった。ところで私は潰した芋料理に夢中なので、この辺一帯の面々は揃いも揃って『剣術大会』の観戦を放棄していることになる。それでいいのか王国民。
「え? ん? んんんんん!? 激辛っておま………リューリ・ベル、お前あの生粋の辛党連中でも六割強の確率で投げ出すデビルズ・ホットドッグ食べちゃったの!? 嘘でしょうっかり買っちゃってたにしてもなんであんな見ただけ嗅いだだけでヤバいと分かる刺激臭の塊を迂闊にも口に運ぼうと思った!?!?」
「馬鹿も休み休み言えレオニール、こいつは北の“辺境民”だぞ。大陸中の食文化がごっちゃになった“王国”料理のバリエーションの多さに毎日感激して食ってるようなやつに王国民でもヤベェと思う料理とそうじゃない料理の区別なんざ付けられるわけねぇだろうが。食ったことねぇ初見のモンは見た目がアレなスターゲイジー・パイでさえ食って確かめるタイプのやつにそんな理屈が通るかよ」
鼻で笑って凄むセスの言葉に「納得しか出来ない」みたいな表情を浮かべるギャラリー各位の悟りの境地がよく視認出来るということは、私の眼球の表面を覆っていた涙の膜は綺麗さっぱり蒸発して元の状態に戻ったらしい。同じく納得の意を示していた王子様が、そこでふと何かに気付いた様子でのんびりとその場にて挙手していた。
「あ、でも待って、一個言わせて。だってこの北の食いしん坊、割とスパイシーな料理も今まで平気で食べてたじゃん。カレーとかスパイスがっつり系のパンとか余裕で堪能してたから、てっきり駄目な味のものなんてないと思ってたんだけど………リューリ・ベル。もしかして辛いの駄目だったの?」
「いや、辛いのは別にいいんだけど―――――味分かんないくらい痛いのはちょっと」
「………痛い?」
不思議そうにそうぼやいたのは、硬直していたフローレン嬢だった。私はひとつ頷いて、セスの掌におさまっているデビルズなんとやら―――それにしてもあんなシンプルな見た目のホットドッグに随分と物々しい響きの名前を付けたものである―――を指差しながら端的に答える。
「それ、口に入れたら痛かったんだよ。しかも舌がびりびりして味も何もしなかった。毒と間違えて吐き出そうとしたけどちゃんと食べ物だったからな、なんとか飲み込もうとして無理矢理噛み砕いてもやっぱり痛いし、正直私じゃそのホットドッグを美味しく食べてあげられない―――――もとい、味がしなくなるくらい痛くて飲み込めないような味付けをどうしてするんだ王国民。おばちゃんの作ってくれる料理に文句を付ける気はないけれど、ちょっとこれは理解出来ないぞ」
もっもっ、と一度潰されたことによって滑らかな舌触りに仕上がっている芋を食べつつ真顔できっぱり言い切る私を横目に、ずっと立ちっ放しだったセスが溜め息を吐いて補足を入れた。
「辛味を感じる器官っつぅのは厳密に言やぁ味覚より痛覚に近ェモンらしいからな………要はトウガラシやなんかの辛味成分を身体が受け付けねぇとかその辺だろ。こればっかりは個人で違うからどうしようもねぇしどうも出来ねぇ体質と嗜好の問題だ。けどな、口に入れただけで涙浮くレベルで傍目にも分かりやすく拒否ってたんだぞコイツ。テメェら真横に居たんだからさっさと気付いてフォローしたれや」
なんで俺がこんな世話焼いてんだ、と言わんばかりの不本意さを前面に出して押し黙ったセスは、言い終わったなり私の隣に腰を下ろしてホットドッグを齧り始めた。パイ料理でも何でもないのに、あの「痛い」だけの物体に平然と噛み付いて咀嚼してもぐもぐと消費していく姿に私はもはや言葉も出ない。唖然とした様子のフローレン嬢も同じく何も言えないようで、ただ能天気な王子様の声だけが私たちの間を流れていった。
「そういやセス、パイ料理さえ絡まなければ割と辛党だったよなぁ―――――流石にそのレベルの激辛物体を顔色一つ変えないで食べられるとは思いも寄らなかったけれども」
「食ったら意外と何とかなったわ」
がふがふとホットドッグを食い尽くしたセスが涼しい顔でしれっと言う。更には私に「飲むな」と忠告した水を平気な顔で口に含んで、こちらに寄越したランチボックスの箱から適当にロールサンドをつまんでいた。あの刺激物を完食したあとですぐに味が分かるのか。驚愕に見開いている自覚がある目で隣のセスをガン見しつつ、私は思わず口早に問う。
「セスお前まさか舌が馬鹿なのか」
「おう喧嘩売ってんのかリューリ」
買うぞ、と即座に応じるセスはいつもとまったく変わらなかったがしかし疑いは晴れない。あんなものをぺろりと平らげるその神経が心配である。そんなこちらの眼差しと問いを一笑に伏した三白眼は、なんと何処に隠し持っていたのか揚げ芋入りの袋を取り出してこれみよがしに振って見せた。
「撤回するならこれやるぞ」
「セスの味覚はかなり普通」
「なんか引っ掛かるがまあいいだろ」
「わーい。ありがとう普通の三白眼」
いっそ清々しい雑さだなオイ、と短いセスのツッコミを最後に遣り取りを終了させた私たちの周りで「きょうだいとうとい」という世迷言が複数聞こえてきたのだけれど、とりあえず私たちに血縁関係はないのでそれはただの幻覚ですと強めに主張しておきたい。
「ところでこの潰した芋なんだ?」
「ミートソースに絡めた挽肉のマッシュポテト包みことコテージパイもしくはシェパーズパイ」
「お前がパイと名の付くものを他人に譲った事実に驚く」
「名前にパイを冠してようがパイ生地使ってねぇからな」
今明らかになる無類のパイ料理好きことセスの好物判定の詳細に、ごくごく一部のギャラリー(女性陣)の目に一瞬だけ灯る強い光。そこで私は唐突に気付いた。
「いやいやいや。そうじゃなくて。あまりに自然体だったから全然気にしなかったけどそういやお前なんでここに居るんだ。『剣術大会』とやらには出なくていいのか?」
「あ? あー、シード枠ってモンがあってな、その関係で準決勝まで俺の出番はねぇんだよ。で、待ち時間相当長くてだりぃからメシ食いにこっち出て来たらテメェがなんかびやっとしてたからつい気になってちょっと見に来た」
「待って、『びやっとしてた』って私それ一体どういう状態? 気になり過ぎる。びやっとってなんだ」
「俺にも分からん」
「ふざけろ馬鹿舌」
「揚げ芋返せ」
「絶対イヤだ」
取り返される前に食べてしまおうと即座に揚げ芋の袋を開けた私はそこで、ふと引っ掛かるものを感じて三秒程その場で静止する。セスから受け取ったこのランチボックス―――――これってもしかしなくても、先程フローレン嬢が教えてくれた『剣術大会』出場者に配られる専用の食事というやつでは?
いや問題はそこじゃない。そして私は二度見した。とりあえずこれでも食ってろ、という雑さで寄越されたランチボックスとその持ち主であるセスとを往復するかたちで二度見した。不機嫌そうな三白眼が訝るように細められる。
「ンだよ、リューリ」
「いやセス、お前―――――さっきフローレンさんが言ってたんだけど、『剣術大会』出場者って専用の食事以外食べちゃ駄目って話じゃないのか? 思いっきりあの痛辛いホットドッグ食べちゃってたけどあれセーフ?」
沈黙が下りる。
セスは無言だった。瞬き一つしない三白眼はどこともつかない場所を見ている。なんとなく、セスから視線を外して反対側を向いてみた。王子様とフローレン嬢が微妙な顔でセスを見ている。
「………セス。何をうっかりしてますの、貴方」
「食っちまったモンはしょうがねぇだろ。今更どうにもなんねぇよ」
「開き直るんじゃありません。どうするつもりですの、本気で」
「いやどうするもこうするもうっかりルール違反やらかしたから棄権するってだけだろうが」
真顔で言い切る三白眼に恥じ入る様子は一切なかった。言い訳もなければ後悔も見当たらないその在り様は真っ直ぐで、ただやらかしてしまったからにはその責任を負わねばならないという潔さに満ちている。これまた珍しいことに、王子様の目に強い呆れの色が差した。
「剣術科で主席取っといて流石にそれはどうなんだセス」
「主席だろうが何だろうが違反は違反なんだから通さなきゃならねぇ筋はあるだろ」
「うん、言ってることはすごいまともだし潔過ぎてカッコいいとさえ思えるくらいの態度なのに発端がホットドッグのうっかり食いなあたりで何とも言えない気分になっちゃう幼馴染たちの心情汲んでくんない?」
「知るかよ、ンなモン」
しょうがない、と割り切って誤魔化しもしないスタイルはいっそ清々しいけど、それで本当に大丈夫なのか。実はあのデビルズなんとかを自分でどうやって消費したものか考えあぐねていたところをセスがさらっと引き取ってくれたので本気で助かっていた私、珍しく罪悪感的なものが喉の辺りをぐるぐるしていてせっかくの揚げ芋が美味しくない。
フローレン嬢の目が険を帯びる。鋭い眼光の向こう側に苛立ちが鈍く透けていて、彼女にしては怒っていると分かる声は硬かった。
「どういうつもりですの、セス」
「別にどういうつもりもねぇよ」
肩を竦めて嘯いて、セスはあっさりと席を立つ。棄権する旨を伝えに行くのだとは会話の流れで知れていたが、事情を説明したらなんとか出場出来ないものかと悪足掻きじみたことを考える程度には申し訳のない気持ちだった。
はぁ、と嘆息したフローレン嬢が滑らかにその場に立ち上がり、傍らの王子様を一瞥してから私へと視線を向けてくる。
「失礼。リューリさん、私、少々席を外しますので―――――申し訳ありませんけれど、この馬鹿をよろしくお願い致します」
ナチュラルに馬鹿の世話を押し付けられた件については軽食を奢ってもらった恩があるので今回は何も言わない所存。げ、と言わんばかりに顔を顰めたセスを伴い何処かへと歩き去るフローレン嬢の背中を眺めつつ、どこからともなく聞こえて来た「保護者同伴でごめんなさいしに行くお兄ちゃんの図」という世迷言についてはスルーした。だから年齢の近いお嬢さんを保護者枠に据えるのは何故なんだ、あの派手な美貌のお嬢様に頼り甲斐があり過ぎるせいかと考えながらもセスからもらった揚げ芋の美味しさに即全部どうでもよくなる私である。
「さて、それじゃぁリューリ・ベル。おっかないフローレンが所用でどっか行っちゃったことだしちょっと羽でも伸ばさない?」
「お前フローレンさんが居なくなるとホント突然調子に乗るよな。あと人間に羽はないから伸ばしようがないと思うぞ。足伸ばす、とかならまだ分かる」
「毎度お馴染み言語の壁! 『羽を伸ばす』っていうのは普段自分の思い通りに行動出来ないような人がゆっくり休んだり思うまま振る舞ったりするときに使う表現の一種だぞう。ちなみに『足を伸ばす』になると楽な姿勢で寛ぐとか遠方に行くとかいう意味になるのでそこのところは覚えておこう、テストに出るかもしれないから」
「錬金術科のテストにはたぶん出ないけど説明どうも。言うてお前、いちいち羽なんか伸ばさなくても常に自由だし思うまま行動してるし好き勝手振る舞いまくってるじゃん何ほざいてんだ王子様。フローレンさんに怒られろ」
「毎日何かしら怒られて最早日常化しているから慣れ切ってる自分が居るんだよなぁ」
「行いを改める気が更々ない、ということだけはよく分かったぞこのトップオブ馬鹿」
「そんなに褒められると照れちゃうぞう」
「どうしよう流石にポジティブが過ぎる」
照れるな頬を赤らめるなきゃぴきゃぴするな何この生き物。メンタル強度が異常過ぎてたまに私じゃ扱い切れない。宿屋のチビちゃんに聞いていた“王子様”という人種に対しての認識がごりごりと削れて塗り替わっていくのに若干の恐怖を感じつつ、隣り合って座っている存在からほんのちょっぴり距離を取って自衛を図る私だった。
「うーん。しかしどうしたものだろう。ぶっちゃけ誰にも絡まれていない状態のリューリ・ベルと目的もなくサシで駄弁るだなんて経験ないからいまいちテンポが掴み辛い………『剣術大会』そのものも現段階では“王子様”的に流し見程度で十分だし………この際だから一緒に実況遊びでもする?」
「食事中のやつ掴まえて遊び感覚でそんな提案して来る王子様って“王国”的にどうなんだよ………別に無理に喋んなくても普通に座って試合見てれば? 私はなんか食べてるだけだし」
「それはその通りなんだけれども、なんとなく今までの体験上それだけじゃ物足りない気がしてしまうと私に流れるエンターテイナーの血がそこそこ五月蠅く騒ぐんだよなぁ」
「エンターテイナーの血ってなんだよお前“王子様”じゃないのかよ」
「間違いなく王子様だぞう―――――だけどなぁ、リューリ・ベル。“王子様”という肩書持ちは一種のエンターテイナーだ。この辺りの感覚は、きっと宿屋のチビちゃんやお前の方が分かると思うが?」
そう言って、隣では王子様が笑っている。誰よりも王子様らしい顔をして、誰よりも馬鹿馬鹿しい輝きで、楽しそうに能天気そうに唇の端を吊り上げていた。それは、何故だかなんとなく、彼の婚約者の笑い方によく似ているような気もしたけれど。
「いや、チビちゃんは知らんけど。そんなの私に分かるわけないじゃん。“北”には“王子様”なんか居ないし」
「だよなぁ。知ってた!」
いつものように、王子様が晴れやかな顔できらきらと憂いなく笑っている。いつの間にか周囲の視線は闘技場の中心に釘付けで、王族の青年と辺境の民が喋っているだけの盛り上がりも盛り下がりもない場面には誰も関心を払っていない。
「ふとした疑問なんだけど、リューリ・ベルとセスが『剣術大会』で対戦したなら一体どっちが勝つんだろうな?」
「そりゃあセスが勝つだろうよ」
悩むまでもない質問に率直な答えを返した筈が、王子様の目は点になった。言葉になんかしなくたって「予想外」だと語る目が雄弁過ぎて少し笑えて、私は飄々と肩を竦めてロールサンドを一口齧る。果物とクリームが巻かれたそれは瑞々しいというよりはほんの少しだけ水っぽくて、だけどぱさぱさしたパンにはその潤いこそちょうどいい。
「おっと、これは見所だな」
王子様が囁いて、闘技場の中でぐるぐるしていた熱気が呼応するが如く破裂した。それは黄色い歓声だったり囃し立てる野太い声だったりと一貫してなどいなかったけれど、爆発してひとつに混ざってしまえばどうしようもないエネルギーでぐわんぐわんと耳に五月蠅い。
「―――――戦、ティト・メチェナーテ! アインハード・エッケルト! 前へ!」
そんな騒音にだって負けないデズモンド教諭の大音声が、何度目かの選手入場を叫ぶ。呼ばれた名前にはどちらとも聞いた覚えがあったので、私はロールサンドを飲み込んでから顔を上げて前を見た。そこには剣という鋼の棒を携えた男子が二人対峙している。ゆったりとした速度で歩み寄り、互いに礼をしたあとで踵を返して距離を取り、また再び向き直ってどちらともなく構えを取った。私の目には無駄としか映らない非効率的な扱いにくい鈍器はしかし、それを専門に扱うことを学んだ彼らの手に掛かれば敵を倒す武器足り得るだとはかつての決闘騒ぎの後で王子様から聞いた話だ。皆が皆、彼らを見ている。剣を手に手に武を競い優劣を決める戦いに、誰もが熱に浮かされた目で狂乱的に騒いでる。その光景をぼんやりと、他人事のように捉えていた。事実、他人事だったから。
「セスが棄権するとなると、優勝候補筆頭はあのアインハードだろうから。王国式のちゃんとした『剣術』とはどんなものなのか、これだけはちゃんと見ておくといい。あれはああやって使うものだと正しく認識出来たなら、お前相手には重畳だろうさ」
熱狂の中にあってさえ王子様の声は通りがよくて、隣に座っているせいもあってかきちんと聞き取ることが出来る。あまりに真面目ぶっているから一瞬お前は誰なんだと問い質したい気分になったが、すっかり冷めたタンポポ茶と格闘しながら眉間に深い渓谷を刻んでいる間抜け面の持ち主は間違いなく王子様その人だ。
そういやセスが剣使ってるところ、結局ちゃんと見たことないな。
このままだと目にする機会もなく故郷に帰る日を迎えそうだと頭の片隅で考えて、しかし別段残念でもなかった。まぁいいか。そんなもんなくても三白眼は三白眼だしパイ好きはパイ好きだしセスはセスだ。その程度のいつも通りさでもらったランチボックスを空にして、すっかり痛いのも落ち着いた今ならもう甘いものだって食べられると軽食のクリームサンドビスケットの包み紙に手を掛ける私の視界には剣を携える男子が二人と間に佇むデズモンド教諭―――――と。
今か今かと開始の合図を待つ張り詰めた緊張感の中、そこで異質な動きをしたのは慌てて舞台上に駆け寄っていく一人の成人男性である。連絡役を受け持っているらしい名前も知らないその人は、デズモンド教諭に何事かを伝えるなり忙しさを隠しもしない様子で慌ただしく元来た道を走って行った。遠目にも険しい顔をしたデズモンド教諭が目を伏せる。何事か、とざわつく空気をまるで一喝するように、がばりと顔を上げた強面の男性教諭は間違いなく今日一番に馬鹿でかい声で言い放った。
「傾聴ォ! 非常に残念ではあるが、止むに止まれぬ事情により『剣術大会』は中止となった! 只今をもって一切のプログラムを終了、生徒たちは随時解散の上本日の午後は各科講義室にて自習とする! 追って担当教諭より伝達事項があるだろう! 私からは以上、解散!!!」
えええええええええええ!?
消え失せた熱量とは別種の不平不満のようなものが方々から音の洪水のように中心へと流れ込んでいく。そんなブーイングを一身に受け止めながらもデズモンド教諭は動じなかった。解散、と素っ気なくも有無を言わせない語調で力強く厳命する姿はまさに体育会系である。興が削がれた顔をした者たちがそれでもしょうがないと分かっているのか次から次へと席を立ち、観客席の出入り口は俄かに混雑して渋滞していた。
「これは―――――妙だな。何があった?」
微動だにせずその場に留まる王子様が呟いて、タンポポ茶に苛まれていた筈の顔に今は不審の色が濃い。何事かを考え込んでいる目はここではない何処かに飛び立ったようで、大人しい分には手が掛からないという理屈から私は特に何も言わない。これ、王子様を放置して錬金術科の講義室に行っても私問題ないよなぁ。だって先生そう言ってたし、今更だけど王子様とフローレン嬢がどこの学科所属なのか知らないから送って行きようもないわけだし―――――なんて、思案を巡らせていた私の第六感にささやかな反応があった。
舞台を見遣る。
観客席の生徒たちが退場する様を見送っているデズモンド教諭の視線は円形状の闘技場をくまなくチェックしているようで、私と視線は合わなかった。違う。
ティトとかいう見覚えのある男子は大会の中止という宣言に些か面食らった様子だったが、中止は中止で仕方がないとあっさり割り切りをつけたのかその場でぺこりと頭を下げてすたすたと出口に向かっていた。違う。
消去法で残っていたのはあと一人だけである。選手宣誓をしていた彼が、セスに代わって代表役を引き受けたらしいアインハードなる剣術科の次席生徒が、何故かこちらを向いていた。視線は私に合っていない。けれど、こちらを向いている。おそらく目算は合っている。だったら誰を見ているのか―――――敢えて考えるまでもなく、私の隣で思案に耽る王子様を見詰めている。
「さっさと帰るぞ王子様」
「あいだだだだ待って待って首根っこ掴んで持ち上げないでせめて人間扱いして!? ていうかどうしたリューリ・ベル、なんかちょっぴり急じゃない?」
「一刻も早くフローレンさんにお前を返却しないことには私が困ると気が付いた」
「返却ってそんなレンタル品みたいな物言いってあんまりじゃない? 仮にもこの国の王子様だぞう? せめて『城にお帰り』とか『ハウス』とかその辺りのハートフル系で頼む」
「なぁ、それって微妙に人間枠じゃなくない? 野性生物とかペットとかどっちかっていうとそういう系じゃない?」
「人生を適度に楽しむコツはハードルを低めに設定しておくことだとの学びを得ているので問題ない。ぶっちゃけ私レベルともなればそんじょそこらの弄られキャラとは魂のステージが違うぞう」
「え? 魂のステージってなんだそれ。厚めに切ったお肉に糧の魂がこもっているならそりゃありがたくいただくけども」
「うんリューリ・ベルそれステーキな。私が言ったのはステーキじゃなくてステージ」
「ああ、なんか森の中とかに建てるっていう木造建築」
「ん? 木造建築でステージ………ああ、なんだコテージかってコラ―――――! お前さっきから音の響きで適当にアタリをつけるんじゃありません! 頭の出来は悪くないんだから前後の文脈から読み解こう!?」
「馬鹿みたいに騒いでる元気があるならその声でフローレンさん呼べよそっちの方が絶対早いんだから」
「えー。束の間の自由を自ら手放せとか酷なこと言うなよう友達だろう?」
「え、王子様友達居たのか。じゃあフローレンさん見付からなかったらお前の身柄そっちに引き渡していい?」
「全方向においてナチュラルに酷い!!!!!」
首根っこを引っ掴んだままずるずる引っ張っている王子様がなにやら喚いているけれど、騒ぎを聞き付けたフローレン嬢がすっ飛んでくるなんていう都合の良い展開は今日に限ってはやってこない。セスもセスで見付からず、学園の校舎に戻ろうと動く人々の生温かい視線に晒されながら王子様を連行するのはいくらか精神にくるものがあった。
探したところで目当ての二人が見つかることは結局なくて、別に一人で大丈夫だと申告して来た王子様とは闘技場を出たところで分かれて私は一人で錬金術科の講義室へと歩を進める。
そしてこの時はまったく知らなかったし想像してもいなかったけれど―――――その日を境に学園内からあの三白眼が姿を消した、とまことしやかに囁かれている噂が私の耳に入ったのは、それから三日後のことだった。
結果として珍しくお花畑が出て来ない回(つまり導入が長いという反省案件)