プロローグ 雪の降る町
『そんなことよりランチにしたい』『どうでもいいからランチしてた』の前日譚その1。
お手柔らかにお願いします。
“町”には雪が降っている。
私にとっては馴染み深い、もはや当たり前と同義の天候。視界に白がちらつく分には珍しくもない光景で、だけど、穏やかにしんしんと降るそれが“町”というものを彩る様はほんの少しだけ新鮮に思えた。吐いた息は白く、吸い込んだ夜気もまた相応に冷たい。けれど、凍える程ではなかった―――――あくまでも主観の話だけれど。
それでも大陸最北端の“町”として、相応しい景色ではあるのだろう。整然と立ち並ぶ家々は雪の絶えない土地特有のどっしりとした構えで、積雪の重みに潰れるような脆弱さなど微塵もない。どこもかしこも白かった。ぼうっと夜の町並みを照らす家々の明かりは幻想的で、大自然が施す雪化粧さえ存分に活かそうと言わんばかりの計算され尽くした美しさがある。降り積もる雪と同じくらい、ここで生き抜いてきた人々の歴史と繰り返され続けた営みが積み重なって出来たもの。
初めて目にした“町”という集合体に素直な感心を覚えながら、私は雪が敷き詰められた真っ白い通路を歩いていた。控えめな夜の静寂に、ざくざくと雪を踏み締める音だけが響いている。それなりに積もってはいるけれど、埋もれてしまう程ではない。至極当たり前であるから難儀だとは到底思わない、そんな気軽な足取りで、ある程度の距離を稼いだところで気紛れに来た道を振り返った。
伸びる足跡は一人分。背後に聳え立っている頑強な石造りの背の高い壁は、右から左に視線を振っても途切れることなく続いてる。かつては“城塞都市”として名を馳せたらしい北境の町の名物たるそれは、遥か昔に築き上げられたという堅牢無比な防壁だった。事実、あれの頑丈さに関しては疑う余地もないことである。なにせ突破されたことがない。私ですら、それを知っている―――――あの壁の向こう側からやって来た、稀なる異邦人でさえ。
あれは境界線である。
かつて幼かった時分、故郷の大人たちに連れられてこの壁を目にした記憶があった。今見ているものと同じものだが、あの時見たのは反対側である。この町にとっては裏側だろうが、私たちにとっては表側だった。遠目に見ても巨大な壁だったことを憶えている。隣り合った山脈の間をちょうど封鎖するかたちで聳える、衰え知らずの通せんぼの壁。
『―――――あれより先は我らが地でなく、あれよりこちらは我らが故郷』
誰にともなく呟いたのは、かつて耳にした大人たちの言葉だった。故郷の言葉。明確な線引きで、覆らない認識でもあった。大陸北端、雪と氷で閉ざされた過酷な極北の地で狩猟を糧として生きる私たちを壁向こうの人々は“辺境の民”と呼んでいる。壁の内側に存在するという“王国”に属する者たちとは決定的に違うもの。そういう意味合いを込めて、彼らは私たちのことをそう呼び表すのだと聞いていた。
気配を感じて、振り返る。
再び壁を背にするかたちで、町の方へと向き直ったらいつの間にやら人が居た。数にして五。分類するとしたら一人と四人。全員が体格の良い男性で、横並びに整列した四人は揃いの衣装に身を包み、意図は何だか分からないけれど奇妙な姿勢のままで静止している。指先まできっちりと伸ばした状態の右手を、まるで日除けの庇でも作るように肘から曲げて頭まで掲げる意味はなんなのか。
首を傾げる私をよそに、横並びの四人より一歩前に出た位置で同じ姿勢を保っていた一人が唐突に声を張り上げた。
「―――――! ――――――――――!」
うん、何言ってるのかまったく分からん。
予想はしていた。だって“辺境”からやって来た私に彼ら“王国民”の公用語とやらが理解出来るわけがない。そもそも言語体系が違う。首を傾げ続けるしかなかった。なるべく目玉をまん丸にしながら、これらの仕草は万国共通であると信じるより他に道はない―――――もっとも、厳密には“王国”の他に“国”なんてものは一切存在していないらしいのだけれど。
詳しくは知らない。私は私の故郷についてしか知らない。
首を傾げ続ける私と、謎の姿勢を保ち続ける五人。穏やかな白が舞い踊る町にしてはあまりにも虚しい沈黙が、十数秒程も続いた頃。
『わたし 待つ あなた』
今度の言葉は理解出来たので、私は首の傾斜を戻した。聞き慣れた、とまでは言わないが、先頭に立っている一人がたどたどしく発音した単語の意味は故郷のものにやや近い。まったく同じではないけれど、最初の言葉より内容は拾える。
『ん? 貴方は少しなら喋れるのか? 私が何を言っているかは分かる?』
『わたし 待つ あなた』
“北”の言葉で話し掛けたところで返って来る単語の意味は変わらない。それは意味を理解しているというより、ただ教えられた音の連なりをそのまま繰り返しているようだった。困ったように首を振りながら、たぶんリーダー格であろう先頭の彼は『ようこそ』と歓迎を意味する単語を口にする。
『待つ 案内 あなた わたし お城』
庇を作る謎ポーズを止めて、身振り手振りでそう告げる先頭の男は、あとから知った話であるが結構偉い人らしかった。必死に手足を動かしながらこちらと意思疎通を図ろうとしている人がそんな地位が高かったなんて思いも寄らない。閑話休題。
案内。お城。あなたとわたし。合点がいった。ああ、とひとつ頷いて見せる。
『もしかして、族長が言ってた“お迎え”ってやつか? 偉い人に会うとは聞いてたけど』
『あなた! 案内! わたし! お城!!!』
その文節だと『私は城です』という意味になるけどたぶん違うんだろうなぁ、と言語の壁に思いを馳せつつ、私と自身と遥か後方に佇む町中で一等豪華な建造物―――たぶん、あれがさっきから言っている“お城”だろう―――を交互に指差す案内係っぽい男の人に、私はすたすたと近付いて行った。ところで後ろの四人はまだ謎のポーズを保っているけどあれは疲れないんだろうか。謎だ。
『分かった。貴方たちと一緒にあそこに行けばいいんだな?』
頷いて、目の前の彼らを指差してから“お城”とやらに指先を移す。こくこくと食い気味な勢いで肯定してくる案内係さんの顔には安堵を通り越した達成感のようなものが浮かんでいた。大袈裟であるが、分からなくもない。言葉が通じないって大変なんだなぁ―――――ああ、今から覚えなきゃいけないのか、と他人事に出来ない確定事項を呪う。
『こっち どうぞ お客 外』
恭しく道を開けた五人の動きは訓練された者のそれで、雪に足を取られるだなんて無様を晒すこともない。行動に一切の迷いがなかった。そして、壁向こうから来た“辺境の民”である私をきちんと客として扱っている。言葉は不自由していたって、その目を見れば理解は出来た―――――仕事に誇りを持つ者の目だ。私にはそれが好ましい。だから疑わずに従おう。
事前に聞いていた話でもあった。私が境界を越えて来たのは、とある事情で乞われたからだ。“王国”に行って来て欲しいと族長から名指しで頼まれたので、つまりは“北の民”の総意である。“王国”でも結構偉い人―――――族長曰く、この“町”の主なる“北の大公”とそれより偉い“国王”とやらの許可も既に取り付けてあるとかなんとかでなるほど大人の事情は分からん。
まぁいいか。族長も「細かいことは気にしなくていいからお前の好きにしておいでー」っていつも通りゆっるいこと言ってたし。
分からないなりに割り切って、五人の案内係さんに導かれる私は呑気に町並みを観察していた。雪に覆われていても分かる石畳で舗装された道。煩雑なようで調和を以て適度に密集した家々。生活道路に等間隔で設置された外灯は絶えず白い光を放ち続け、窓からこぼれる営みの灯りは温かなものに満ちている。
『良い場所だ』
呟いて、唇の端をほんのりと緩めた。
心からの賛辞である。自分たちとは違うものでも良いと思ったものは認めよ、とは故郷のじいちゃんの言葉だった。それは人生を豊かにするコツで、そこに境は存在しないとも。
懐かしいものを思い出すかたちで、私はひっそりと背後を見遣る。すっかり離れてしまったところで異様に立派な通せんぼの壁は、町中に居れば立ち位置に関わらず何処からでも見えるらしかった。それほどまでに背が高く、それほどまでに横幅が広い。
『あれより先は我らが地でなく、あれよりこちらは我らが故郷―――――』
降り続ける雪にも霞まない壁の、今となってはあちら側。そこには私の故郷があって、およそ人類が住み暮らすのに向かない過酷極まる大自然が何処までも雄大に広がっている。だからと言って生物が居ないと言うわけではなく、隔絶された土地だからこそ今尚残る神秘もあった。
本当に、お伽噺のような神秘で満ちた『幻想』が。
そうして、こちら側の人々は長い長い年月の中でいつしか忘れてしまったのだろう。きっと正しく伝わらなかった。私たちは閉鎖的だったから、極力関わってこなかったから、必要最低限の接触しかしてこなかったから伝わらなかった。
伝わらない方がいいこともあると私たちは知っていたから。
どうして“王国”は通せんぼの壁を築いたのか、どうして彼らは片田舎の少数民族如きに過ぎない“北の民”相手に丁寧な態度を取り続けるのか。従えようとしないのか。事を構えようとしないのか。
どうして此処、大陸北部の“王国”北端、北境の町の人々は壁を隔てて隣り合う“辺境民”の私たちを“狩猟の民”と呼び表すのか―――――古来には“幻の狩人たち”とも綽名されて来た歴史を含め、私はそれを知っている。
たかが人間如きでは到底突破出来ない強度で築き上げられたあの壁が、正確には何を阻むためのものなのか、今尚壁の向こうで生きる私たちだけが憶えている。
『あなた なに? 名前』
声を掛けられたことに気付いて、意識と視線を向けた先には歩き続けている案内人が居た。そう言えば名乗っていなかった気がする―――――ていうか族長、適当だな。其処は流石にあらかじめ先方に伝えておくべきなのでは?
自分の名前を尋ねられているのだとようやく思い至った私は、“お城”へと続く雪塗れの階段を危なげなく上がりながら故郷の言葉で答えを返した。誇りを以て名を告げる。
『リューリ』
訪れた経緯が何であれ、絡む思惑が何であれ、たった一つの目的だけを胸に故郷の“外側”へとやって来た―――――私は私として此処に居る。そう、宣言するように。
『私は、リューリ。リューリ・ベルだ』
この物語は基本的にすべてリューリの視点で書きます。ご理解とご了承の程を。