08. 八百長
(この世界の商会をちょっとナメていたかな……)
リバーシの存在がどこからクライン商会に漏れたのか、ケネスには見当がつかなかった。リバーシとそろばんを注文した木工職人にはきちんと口止めをしてある。
アスターがリバーシの詳細をどこまで知っているのか定かではないが、遊ぶ様子を一度でも見ればそのルールは容易に想像できるだろう。クライン商会がリバーシを製品化して売り出すまでに、それほど時間がかかることはなさそうだ。
これまでの計画は変更せざるを得ない。のんびりと資金を貯めてから少しづつリバーシの在庫を積めばよいと思っていたが、木工職人にはもう注文を入れたほうがよさそうだ。なにせあの木工所は完全な家内制手工業なので、リバーシを一枚生産するのにも数日を要する。かなり前もって生産を始めなければならない。
ケネスはさっそくメイドに手付金を持たせて木工所へつかいにやった。こちらからストップをかけるまで、リバーシをひたすら生産するようにお願いしたのだ。この勝手な注文がデイビッドにまで伝わると面倒だが、結局はケネスの自己資金でまかなっているので、文句をつけられても言い逃れできるだろう。
当然のことであるが、同時に支払うべき代金も調達しなければならない。ケネスはリバーシ大会により熱を入れるようになった。
これまでは昔とった杵柄だけで戦っていたが、これ以降は本格的にリバーシの戦術研究も行うようになった。すると3割を下回っていた対ナンシーの勝率も、五分五分にまで押し戻すことができた。
(妹に知能的に劣っているのかもしれないと思ったけど、僕もまだまだ捨てたもんじゃないな)
密かに自信を取り戻すことができたのは、思わぬ副産物だった。
その日も、いつものようにビスケットを現金化するために、メイドのエミリーをよびつけた。売買のついでに、ナンシーがゲームに負けてまた泣いたことをおもしろおかしく話していると、ふとエミリーのしばり上げた髪が目に入った。その見覚えのある赤毛を見て、ケネスはすぐにぴんと来た。
「……エミリーって、名字はなんだっけ?」
「アスターでございます」
(お前かよ!)
エミリーのフルネームはエミリー・アスター。つまり、彼女はクライン商会ベリオール支店長の令嬢だったのである。彼女がリバーシの情報を父親に漏らしたことは疑う余地がない。
ケネスは彼女をどやしつけたい衝動に駆られたが、それはおそらく筋違いというものだろう。エミリーは狡猾さとはかけ離れた女性である。領主の息子がゲームに興じる様子を微笑ましいと思い、父親に職場での一コマを伝えたにすぎない。恐るべきは、それを聞いただけで商機を嗅ぎつけた支店長のほうだろう。
(壁に耳あり障子に目ありだわ……まあ、この世界では障子というか板戸だけど)
今後は出入りの多い貴族の屋敷に住んでいるということを自覚して、プライバシーに気を使わなければならないようだ。
その後、ひと月ほどの間に、リバーシと並行して何枚か剣闘士くじを買った。しかし、なかなか初回ほど大きく勝つことができない。あの勝ちはビギナーズラックだったということもあるだろうが、もうひとつ大きな理由がありそうだ。
(あのときは素人がいっぱい来ていたから、倍率がファンダメンタルズからかけ離れてたんだよね)
あの団長と副団長の対戦はドリームマッチであったがゆえに、普段は観戦しないような市民もたくさん闘技場を訪れていた。その多くは、英雄であった団長が衰えつつあることを知らず、彼に大金を賭けたのである。そのため、団長のくじには本来の実力よりもだいぶ低い倍率がつけらることになった。ケネスがかっこつけていうところの「ファンダメンタルズ」とは、剣闘士の実力を株式投資における企業の稼ぐ力になぞらえたものである。
しかし、闘技会を素人が観戦しようがしまいが、ケネスがお金を稼がなければならないことに変わりはない。木工所にリバーシの注文を出しているので、その支払いをおぎなって余りある勝ち方をしなければならないのだ。
より正確に剣闘士の勝率を予測するために、イロ・レーティングのアップデート定数をより高くしてみたり、新人がスタートするレーティングを1500から変えてみたりした。しかし、そういった対策が劇的な効果を生むことはなかった。
妙案を思いついたのは、いつものように剣術の稽古でジェームズに打ちのめされているときだった。
(いてて……。でも、僕はここで負けてもどうってことないけど、剣闘士たちは家族の生活もかかっているんだよな……)
このとき頭をよぎったのは、レビット教授が2002年に出版した研究である。彼は「ヤバい経済学」という一般向けのヒット作を著したことでも知られている。
この研究は日本の相撲界における「八百長」の存在をデータから証明したことで話題となった。
レビット教授とその共著者のダガン教授が着目したのは、角界において「勝ち越し」が重要な意味を持つことである。力士が場所の15戦で8勝以上できるかどうかは、来場所以降の番付や待遇に天と地ほどの差をもたらす。それが動機となって、場所の終盤で勝ち越せるか微妙な力士は「八百長」を行っているのではないか、と著者らは考えたのである。
結果は彼らの考えたとおりであった。千秋楽でカド番を迎えた力士は、番付から予想される勝率よりも、実際の勝率が25%も高かったのである。
この相撲界における「八百長」であるが、一時期ニュースで話題になったような金銭の授受をともなうケースは実は少ない。互いの生活を守るためとはいえ、あからさまに八百長を行うのはリスクが高い。そのため、力士たちはより暗黙の了解に近い形で、勝ち星を貸し借りしていると考えられている。
また、土俵際の攻防でふっと手控えてしまうだけで勝敗がひっくり返るため、本人が無自覚なことすら考えられる。このように、この手の無気力試合は明らかな証拠が存在しないため、取り締まりが難しいとされている。
ケネスはレビット教授らと同じことを闘技会の対戦成績で検証してみた。剣闘士の場合は、相撲のように勝ち越すことに意味があるわけではなく、どのリーグに属しているかが重要である。これを念頭に置いたうえで、シーズン終盤に降格の瀬戸際にある剣闘士の勝率を、レーティングによる期待勝率と比べてみた。
すると、どうやら降格がかかった剣闘士の最終戦の勝率は、事前の期待勝率よりも30%ほど高いことがわかった。
(生活がかかると必死でしがみつこうとするのは、どこの世界でも同じだね)
分析に用いた勝敗データには、終盤まで降格するかわからない剣闘士のサンプル数が少なかった。そのため、この勝率差の数字が正確なのかは自信がないが、ある種の「八百長」が存在するのは確かなようである。
好都合なことに次の闘技会はちょうどシーズン最終戦だったので、ケネスはここで降格のかかった選手に大きな金額を賭けた。実証分析に基づいた投資ではあるが、この日も結果が明らかになるまでは気が気ではなかった。
賭け金を託したポールが、銀貨を倍にして帰ってきたときには心底ホッとしたものだ。これで木工所への支払いが滞ったり、親に資金を無心したりすることもない。
(町工場のおやじさんにでもなった気分だ……)
ケネスは、この件で初めて資金繰りの苦労を味わったのであった。