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06. 対数表

 ビスケットで小遣いを稼ぎはじめてしばらくすると、そろばんが木工所から届いた。さっそく包みを開けて使い心地を確かめると、満足のいくものに仕上がっていた。日本で見慣れたそろばんに比べると、珠が丸くて大きいうえに、枠も厚くて無骨だが、注文どおりに珠がスムーズに上下に動き、十分に実用に耐えるものであった。


(まあ、ここからが大変なんですけどね……)

 そろばんを手に入れたのはよいものの、ケネスは前世でそろばんが達者だったわけではない。友人の中には放課後に習っている者も何人かいたが、両親が時代錯誤の習い事として捉えていたために、隆太郎がそろばん塾に通うことはなかった。


 そろばんの経験といえば、小学校の算数の授業で数時間ほど触れた記憶しかない。その授業では、足し算と引き算を少しだけ練習したあと、掛け算は九九と足し算の、割り算は九九と引き算の組み合わせだということを教わっただけである。

 

 とはいえ、前世の後悔をしていてもはじまらない。そろばんの練習も兼ねて、ケネスはイロ・レーティングの計算に必要な対数表を作成することにした。


 対数表とは、0.01から10.00まで、0.01刻みの数字すべてに対応する指数を羅列したものだ。高校数学の教科書の巻末に載せられているといえばわかりやすいだろうか。今後、データ分析に必要となることを見越して、ひまのある幼少期のうちに作ってしまおうと思ったのも、今取り組む理由のひとつである。


 計算に必要となる、テイラー展開の公式は暗記しているので問題はない。しかし、対数表には自然対数表と常用対数表の二種類が存在するうえ、どちらの表も埋めるべき数字の数がとても多いので、作成するのに膨大な時間がかかる。


 テイラー展開した数式に値を代入して、そろばんで計算した結果を表の一マス目に書き込むなり、ケネスは今後費やすであろう労力と時間を想像してげんなりとしてしまった。

(一マス埋めるだけで、こんなに時間がかかるんかいな……。これはひょっとすると、一年近くかかる大プロジェクトかもしれないな……)

 ケネスがいうこの大プロジェクトは、表計算ソフトを使えば20秒で終わるので、億劫になるのも無理はない。


 だが、実は対数表の作成に彼よりも時間をかけた人物が存在する。対数を発見したネイピアである。彼の時代には、ケネスの使っているテイラー展開がまだなかったため、対数表を作るのに20年もかかったという。この事実をケネスが知っていれば、少しは彼の励みになったのかもしれない。


 計算があまりに面倒なので挫折しそうになったが、よく考えてみるとほかにやるべきこともあまりない。武術の稽古以外に定まった日課といえば、母やレベッカから文字やマナーを少し教わる程度だ。

(そもそも、そろばんの練習も兼ねているからな……)

 ケネスはそう気を取り直した。そしてしばらくの間、そろばんを弾いては値を求め、表のマス目を埋めていく日々を過ごすのだった。






 対数表を完成させて、ベリオールの剣闘士全員分のレーティングを計算し終えたのは、それから約一年後のことだった。対数表を作りはじめた当初はもっと時間がかかることを予想したが、やはり子どもの脳みそは柔軟であるらしく、そろばんの計算速度はどんどん向上した。二種類の対数表以外にも、今後必要となるであろう標準正規分布表にまで手をつけて、こちらもマス目が半分ほど埋まっている。

 

 まずいヤギ乳のオートミールを積極的に食べたことが功を奏したのか、ケネスの身長も10センチほど伸びていた。ジェームズは剣術にますます磨きをかけ、護衛のポールとほぼ互角の腕前にまで達している。弟のマートンは簡単な言葉を話すようになり、ときたま母のクリスティーナを喜ばせているようだ。


 しかし、ケネスを最も驚かせたのはナンシーの成長だった。

(ただのおてんばかと思いきや、僕より賢いかも)

 外を駆けまわっていただけのころには気づかなかったが、ナンシーは頭の回転がとても速い。定期的に開かれたフォーゲル家のリバーシ大会では、はじめのうちこそケネスは連勝で小銭を稼ぐことができた。しかし、二ヶ月もするとコツをつかんだナンシーがケネスと同じくらい強くなり、手に入るビスケットの量がどんどん減ってしまった。今では対ナンシーの勝率は3割を下回っている。


 ナンシーのせいで、稼ぐことのできたタネ銭は想定より少なくなってしまったが、妹が賢いおかげでよいこともあった。四則演算をゲーム感覚で教えてやると、こちらも飲み込みが早く、なんなくそろばんで計算することができるようになったのだ。今では、うまくおだてながら標準正規分布表の作成まで手伝ってもらっている。

(もうフォーゲル領の官僚より計算得意でしょ、これは)

 彼女の計算速度と正確さを見るにつけ、ケネスはそのように感心するのだった。


 誕生日祝いとして、デイビッドは今年もケネスを闘技会に連れていくことにした。これを聞いたケネスは、この機会に剣闘士くじデビューを飾ることに決めた。レーティングの計算が終わったので、今なら各剣闘士間の勝率がわかるし、タネ銭となる手持ちの貨幣も銀貨5枚ほどある。


 ドーバー王国では金貨と銀貨、それに銭貨が流通している。各貨幣間のレートは両替商が行う日々の取引によって決まるが、現在はおおよそ金貨1枚に対して銀貨10枚、銀貨1枚に対して銭貨100枚程度で交換されているようだ。商品の相対的な価値が日本と著しく異なるので、貨幣の価値を日本円に換算するのは難しいが、銀貨一枚で職人の家族が1日生活することができるといわれている。


 当日、ケネスは無邪気な顔を装って観戦を続け、お目あての対戦が始まるのを待った。夕方になり、その日最後の対戦カードが掲示板に張り出されると、ひときわ大きい歓声が上がる。私兵団の団長と副団長の直接対決である。このふたりの実力は上位リーグでも抜きん出ており、ベリオールにおけるドリームマッチといえるだろう。


 ケネスは、すばやく張り出されたくじのオッズに目を走らせた。団長は1.5倍、副団長は2.25倍と表示されている。これを見てケネスはにやりと笑う。

(なるほど、マーケットの判断では団長の勝率は60%なのね)

 このとき、ケネスは頭の中で団長と副団長のそれぞれに賭けられた銀貨の比率をすばやく逆算していた。

 

 たとえば、団長に銀貨600枚、副団長に400枚の銀貨が賭けられたとすると、事務局の取り分である銀貨100枚を差し引いて、くじの配当として観客に還元される銀貨は900枚である。それらはすべて勝利者のくじを買った人に渡されるので、団長が勝った場合には銀貨1枚あたり1.5枚、副団長が買った場合には2.25枚が払い戻されるということだ。また、銀貨1000枚のうち600枚が団長に賭けられているので、観客全体としては団長の勝率を60%と考えていることになる。


 団長はラシーア帝国との十年戦争を生き残った唯一の現役剣闘士であり、フォーゲル領内においてはまぎれもない英雄である。近年は肉体的な衰えを隠せないとはいえ、いまだに眼光は鋭く、高い統率力を誇っている。団長と副団長が闘技会で最後に戦ったのは一年近くも前のことであるが、このときは団長がかろうじて勝利をおさめた。このビッグマッチの記憶が観客に強く残っているのだろう。


 しかし、ケネスの見たては他の観客と大きく異なっていた。

(もう過去の栄光なんだよ、残念ながらね……)

 団長はここ二年ほど平凡な剣闘士に不覚を取ることがあり、レーティングを1750にまで落としている。これに対して、壮年の副団長はその数値を1835にまで伸ばしていた。文句なしに最強である。レーティングの違いが85というのはそれなりの実力差であり、62%の確率で副団長が勝つはずである。


 そして、2.25倍になるチャンスが62%あるということは、副団長のくじの期待収益率は以下のように計算できる:


    2.25 × 0.62 - 1 = 0.395


 期待収益率39.5%というのは、すばらしい投資である。ケネスがニヤニヤするのも無理はない。もちろん団長が勝利する可能性もあるので、用心のために賭ける銀貨は2枚にとどめることにした。

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