02. 現状認識
前世の記憶がよみがえってから数日後、ケネスはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。ジェームズの打撃で気を失ったあの日の夕方、意識を回復したケネスはふたつの記憶のギャップでパニックに陥ったのだった。
突然取り乱したケネスのせいで、屋敷は上へ下への大騒ぎになったが、母クリスティーナに背中をさすってもらっているうちに、なんとか平静を装うことができるようになった。後日、ナンシーにその騒動をからかわれたのは言うまでもない。
あの騒ぎと言葉遣いの変化で、家族や使用人に少々不審に思われたようだ。6歳児が知っているとは思えない難しい単語が口をついたり、貴族にふさわしくないくだけた口調で話してしまったりした。
前世の記憶を取り戻したことが露見すると、どのような仕打ちを受けるのかはっきりしないので、これはどうもまずい。隆太郎のヨーロッパ史の記憶をたどれば、最悪の場合、魔女狩りの対象にされてしまう可能性もありそうだ。
冷静になったあとは、努めていつもどおりに振る舞った。これが功を奏したようだ。ケネスが騒いだのは、剣術の稽古が厳しかったために、少し赤ちゃん返りをしたからだ、という結論に落ち着いた。
(ずいぶん情けない話で片づけられてしまったけど、前世の記憶を持っていることがバレるよりはましか)
彼はそう納得することにした。
言葉遣い以外の日常生活も、あのときからかなり面倒になってしまった。とくに食べ物の問題が顕著だ。美食の街、東京の記憶を持つ舌にとって、質素倹約をよしとするフォーゲル家の食事が、我慢ならないものだからだ。
普段はライ麦の黒いパンが主食で、これに豚肉の塩漬けやソラマメのスープなどが添えられる。おかずには、塩をまぶしたりマスタードを塗ったりするだけの、非常に素朴な味つけがなされる。白い小麦のパンや、鶏卵といったものは高級品で、子爵家程度ではときたまありつくことができるくらいだ。
料理の素材や味つけもさることながら、栄養と衛生の管理も気になってしかたがない。育ち盛りのケネスにとって、栄養補給は一生の骨格や筋肉のつき方を左右する大問題である。食事に占める肉の割合が高いので、タンパク質はそれなりに摂取しているものの、あらゆるビタミンが足りていない。
(え? もしかして、一番栄養がある食べ物ってヤギ乳のオートミールなわけ?)
もっとも積極的に食べるべきなのが、あの臭いドロドロであることに気づいたケネスは、いずれこの国に食文化の変革をもたらすことを、静かに決心したのだった。
いつもどおりの日常を過ごしつつ、思考を深めるにつれ、自分が青木隆太郎という青年の生まれ変わりであるという事実が、実感をともないはじめた。同時に、地球の知識と大人の思考力を手に入れてこの世界を相対的に評価することができるようになった。
自然とこの世界のことをもっと知りたくなったので、屋敷の書庫やデイビッドの執務室にある基本的な資料に目を通してみた。わからない語句がところどころにあったが、おおよその情報を得るのに支障がなかったのは幸いだった。
まず驚いたのは、当然のように暮らしていた近世ヨーロッパ風のこの世界が、いかにスケールの小さなものかということだ。
(王都は憧れの大都市だと思っていたけど、人口25万人って、日本で考えると府中か調布くらいの規模感だよな)
王都というのは、このドーバー王国の都デールのことである。ケネスの住むベリオールの街は、その王都から見て東方に位置しており、周辺の村3つと合わせてフォーゲル領を構成している。ブナやナラの木が森をなしており、良質な木材を近隣にも輸出していること以外は、農地が広がる特徴のない領地である。
ドーバー王国は、科学や文化が日本とは比較にならないほど遅れているということも、一目瞭然だった。日本では護衛艦に戦闘機を搭載するか議論になっているというのに、こちらではいまだに騎兵が軍の花形である。
科学のかわりに、めくるめく魔法が飛びかうのかと思えば、残念ながらそういうこともない。魔法の威力が一般的なファンタジーのイメージからかけ離れているのだ。
火魔法と聞けば、ゲームに慣れ親しんだ日本人は大軍を焼き尽くす炎の壁を想像するだろう。実際には、ファイアボールのような攻撃魔法すら存在しない。かなり長いこと修練を積んでも、マッチ程度の火を指先にともすことが精一杯なのである。結果的に、魔法は暇を持て余した貴族が楽しむ、道楽のようなものだと考えられている。
(魔法学校から招待状が届くことはない、というわけですか)
魔物はたしかに存在するが、こちらも野生の猛獣とさほどの違いはなく、その体内から取れる小さな魔石が、多少効率のよい燃料として用いられるくらいである。
(指輪を捨てる冒険に出ることもなさそうだね)
この世界の実情はケネスをやるせない気持ちにさせたが、一番文句をつけたいのは、自分が次男であるという事実だった。子爵とはいえ、貴族に生まれついたこと自体はとてつもない幸運であるが、ドーバー王国では長子相続が大前提である。
フォーゲル家においても、長男であるジェームズが家督を継ぐことに議論の余地はない。兄ができそこないであったならば、少しは可能性があったのかもしれないが、武を尊ぶフォーゲル家において、剣の天才である彼の人気は高い。
家督を相続しないケネスは、成人後は子爵家を離れることになる。慣例により、一代限りの士爵として雀の涙ほどの俸給をもらって暮らすことになりそうだ。端的にいえば、ケネスが子爵家に期待されている役割は兄のスペアであり、ジェームズに何かない限りは将来的に庶民同然の暮らしをすることになる。
うだつの上がらない大学院生であった隆太郎が、どのような苦悩を抱えていたのかケネスはもちろん知っている。せめてこの人生は華々しく飛躍したいと思うのに、この仕打ちである。
(なんのために転生したんですかねえ)
経済学徒たる隆太郎に内政で活躍するチャンスを与えなかった理由はなんだ、と輪廻転生の神に小一時間ほど問い詰めたてやりたいと彼は思った。
しかしながら、境遇を嘆いてばかりいるわけにもいかない。領地経営に携わることができないのであれば、今後の身の振り方を考える必要がある。まずはフォーゲル領の官僚となり、ジェームズの右腕として辣腕を振るうことを想像してみた。
(……最後の決定権は兄さんが握るし、フラストレーションが溜まりそう)
脳裏に浮かぶのは、官僚となった日本の同級生が、国会対応のために夜通し待機する姿であり、無能な国会議員に顎で使われる姿である。この選択肢は早々に消した。
大人の知恵を総動員して頭をひねること数日、ケネスはようやく結論にたどり着いた。商会を立ち上げることだ。やはり転生した以上は、自分の前世の強みを活かすべきだろう。職人、聖職者、百姓と、ドーバー王国において取りうる選択肢をひとつずつ挙げてみたが、自らの知識が少しでも役に立ちそうな職は、商人以外に思いつかなかった。
商会を立ち上げることにしたのはよいが、先立つものがなければどうしようもない。父親に出資してもらうのが手っ取り早いのかもしれないが、実績もない6歳の子どもに、金を貸す親はどこにもいないだろう。それに、今後独立した経営を保つために、なるべく自らの持株比率を高くキープしておきたい。
(株式の制度もないこの世界に、持株比率なんていう言葉は変か)
自分の考えにケネスは思わず笑ってしまったが、要は自分の金で商会を立ち上げ、将来的にも自分の好きなように経営したかったのである。
元手を稼ぐために、まず小規模な商売を始めることにしたケネスは、木工職人に渡りをつける方法を模索した。ただちに実用化して売れそうなものは、ボードゲーム、そろばんと、千歯こきくらいしか思いつかなかったからだ。
そろばんは、自分のための計算具としても考えていた。エコノミストとしての能力を十分に発揮するには、データを分析する計算力がなくては始まらない。
(誕生日祝いとからめて、木工職人について聞いてみるか)
そう考えたケネスは、執務室にいたデイビッドを訪ね、話を切り出した。
「父さん、誕生日祝いの話だけど、我が家御用達の木工職人に会わせてもらえないかな?」
「木工職人?」
「そう、木工職人に、自分だけの遊び道具を作ってもらいたいの」
「普通、おもちゃを欲しがる子どもは『遊び道具』などという言い方はしないものだがな……」
(うっ、やってしまった)
「それはともかく、街の商店で売っている兵隊人形ではだめなのか?」
「うん、贅沢だということはわかっているけど、どうしてもフォーゲル領の木でできたおもちゃがいいんだ」
「ほう、なかなか感心なことを考えるようになったな。それならば、今度ポールたちを連れて木工所に行くといい」
「ありがとう、父さん!」
心を躍らせるケネスに、続けてデイビッドは言う。
「うむ、それにケネスも大きくなったし、剣闘士の闘技会に今度連れていってやろう」
「け、剣闘士って……」
(古代ローマかよ! 殺し合いとか見たくないな)
「心配するな。我々が普段している模擬試合と変わらないものだ。レベルが高いだけでな」
「そ、そっか! 楽しみにしておくよ。ありがとう、父さん!」
心中を見透かしたかのような言葉に驚いたが、こうしてケネスは無事に木工職人を紹介してもらえることになった。