01. 目覚め
フォーゲル子爵家の次男、ケネスに初めてその兆候が現れたのは、4歳の妹ナンシーと屋敷の庭を駆けまわっているときだった。赤い木の実を高く掲げ、ブルネットの髪をたなびかせて走る妹を追いかけていた。
「待てナンシー! その赤いやつは僕が先に見つけたんだぞ!」
「うふふ、私のほうが速いんだから!」
そう言うやいなや、前を走るナンシーは小石につまずいてバタリと倒れ、わっと泣き出してしまった。
ケネスはその光景に奇妙な既視感を覚え、同時に彼の頭の隅をチリチリとした刺激が流れた。とまどいながらその場に立ち尽くしていると、兄のジェームズが屋敷の窓から顔を出して、いつものように彼を叱った。
「こら、ケネス! またナンシーを泣かせたな!」
「あ、兄さん! 違うんだよ。これは、僕が見つけたやつをナンシーが横取りして——」
「妹のせいにしても無駄だぞ! さあ、もう昼ごはんの時間だからナンシーも連れて家に入れ」
まだ10歳のくせに保護者を気取る兄にそう言われ、しかたなく妹の手を取り屋敷へと向かう。
(さっきの変な感じは、一体なんだったんだろう? ナンシーの泣いている姿はよく見るはずなのにな)
わずかに動揺しながら屋敷のダイニングホールに入ると、食卓にはすでに家族全員がそろっていた。中央に座る父デイビッドの厳しい視線に首をすくめ、ケネスとナンシーはあわてて席に着いた。
食事の前に太陽神アマデウスと、フォーゲル家がとくに敬う武芸の神イワヌスに、みんなで祈りを捧げる。祈りの最中に薄目で様子をうかがうと、向かいのナンシーも半目でニヤニヤしている。このやんちゃな妹は、好奇心がとても旺盛で、クリクリとした目が印象的な美少女である。
その隣に座る兄のジェームズは、ナンシーとは正反対の真面目な少年で、今も目をつむり一途に祈りを唱えている。剣術が何よりも好きで、使用人や護衛にも好ましく思われているようだが、少々お節介なところがたまに煩わしい。まだ1歳の弟マートンもいるが、こちらは母クリスティーナの腕の中ですやすやと眠っている。
祈りが終わると、ようやく食事に手をつけることができる。昼食のメニューは、いつものようにヤギの乳で煮込んだオートミールだ。
なんの疑問もなく木のスプーンにすくってひと口含んだ途端、ケネスは思わず中身を吐き出しそうになってしまった。
(くさっ! 何か変なものが混ざったのかな?)
あまりの生臭さに少し咳き込みながら周りを見回したが、全員が顔をしかめることもなく平然と食べている。ケネスのボウルにだけ、異なるものが入っているとは考えにくい。自分の味覚のほうがおかしいことは明らかだ。
完食するのは不可能に思われたが、厳格な父の手前、せっかくの食事を残すわけにもいかない。涙ぐみながらオートミールを口に運んでいると、母のクリスティーナが話しかけてきた。
「そういえばケネスはもうすぐ6歳だったわね。今年もささやかなパーティーを開こうと思っているけれど、ほかに何か欲しいものはあるかしら?」
「そうだな……」
少し考えてみるが、とくに何も思いつかない。
(あれ? この間までは、兵隊人形が欲しいと思っていたのにな)
「ごめんなさい、もう何日か考えてみるよ」
うつむいてそう答えると、クリスティーナは不思議そうに首をかしげたが、子どもの気まぐれだと思ったのか、ゆっくり考えればいいのよ、と優しくケネスに声をかけた。
「ケネス兄さんが何もいらないのなら、私がその分をもらってあげる!」
ナンシーが素っ頓狂な声をあげると、家族は朗らかな笑いに包まれた。ケネスも作り笑いを浮かべたが、先ほどからの異常な事態に、心の中では途方に暮れてしまっていた。
昼食を終えると、フォーゲル家の男性陣は屋敷の庭に出て、剣術の稽古を始めた。尚武の気風が強いフォーゲル家は、三日に一回ほど弓術や馬術を含めた武術の稽古を行っている。
実戦に耐えうる力をつけるため、子爵家の私兵団から団長と副団長を交互に屋敷によび寄せ、講師をしてもらっている。当主とその長男が一番稽古に熱心であるため、ケネスや子爵家直属の護衛らも参加しないわけにはいかなかった。
剣術の稽古で最も輝きを放つ者は、嫡子のジェームズである。彼はまぎれもない剣の天才であり、たまに父デイビッドや護衛とよい勝負をすることもある。成人すれば王国の騎士団に見習いとして仕えることができるので、それを心待ちにしているようだ。
ジェームズと比べると、ケネスの剣の才は劣る。はっきりと言ってしまえば凡庸である。しかし、そのケネスの実力からしても、その日の彼のできはひどすぎた。
「ケネス! なぜ移動するときに足を擦るのだ!」
とデイビッドから叱咤されたかと思えば、
「打撃が軽いぞ! 寸止めせずに、最後まで叩き斬れ!」
とジェームズに剣を打ち払われる。
(く、いつもの木剣が妙に短く感じる!)
ままならない剣を必死に振るいながら、本当に今日の自分はどうしてしまったのか、と混乱の極みに達していた。
稽古も終盤になり、ケネスは防具をつけて、ジェームズと軽い模擬試合を行うことになった。もちろん、ケネスがジェームズにかなうはずもなく、ジェームズの巧みな足さばきの前に、彼の剣はむなしく空をきる。息も絶え絶えになるころ、ひときわ大きく空ぶって隙を見せてしまったケネスは、防具で守られた頭をしたたかに打ちすえられた。
彼の脳内に見たことのない大量の光景が流れ込んできたのは、まさにこのときだった。頭部への衝撃で意識の薄れゆく中、妙な現実感をともなう場面がスライドショーのように浮かんでは消えていった。
ワンピースを着た黒髪の女の子が転んで泣く姿、おいしそうなぶり大根とみそ汁、藍色の道着に身を包んで竹刀を振るう人々、そして遠くに点滅するビルの赤色灯——これまで目にしたことのないはずのシーンばかりだが、すべて妙に懐かしく思えるものばかりだった。
(なんだ、これは……)
そう思う間もなく、ケネスは意識を手放した。彼が前世の記憶を取り戻した瞬間であった。