13. 事業売却
ミード商会のウォルトンから、地球と変わらないワインの存在を聞き出したケネスは、おいしいワインの青田買いで稼ぐことにした。
一般的にワインは、熟成したあとに味見をするまでよしあしがわからないと考えられていた。しかし、プリンストン大学のアッシェンフェルター教授が発表した研究は、その常識を変えてしまった。
彼によれば、夏の間の平均気温と8月と9月の降水量を調べるだけで、その年に作られるボルドー・ワインの将来価格がわかるというのだ。その理由として、赤ワインの原料である黒ぶどうのできは、
・生育期に十分暑かったか
・収穫期に雨に打たれなかったか
という2つの要因でほぼ説明できるからだと主張した。
1989年、教授はこの理論をもとに、今年のワインは最高のできになるはずだ、との予測を公表した。これはその年のワインが熟成されはじめてからまだ3ヶ月足らずの時期だったので、既存の評論家はその単純すぎる予測をこぞって批判した。
しかし、その後ふたを開けてみれば、1989年は教授の予想どおり最高のビンテージとなり、研究が正当であることが明らかになった。今ではワインの価格づけそのものに、教授の価格推定式が応用されている。
ケネスはこの知識を用いて、他の商人を華麗に出し抜こうと考えていた。しかし、さすがに論文の正確な数字を覚えているわけではないし、ボルドー・ワインの数字がこの世界に当てはまるとも思えないので、価格を予測する式を改めて推定しなければならない。そのためには、何はともあれデータが必要だ。
まずは、ワインの取引価格を調べるためにミード商会の者を屋敷に呼びつける。丁稚の小僧とともに自らやってきたウォルトンは、母クリスティーナとの商談を済ませると、ケネスのもとを訪れた。
さっそく、これまでに仕入れたマーリーズ領の瓶詰めワインの卸売価格を教えてくれないか尋ねると、なんらかの見返りが必要だという。
「我々も利のために商売をしているわけでして、今後ベリオールで何がしかの融通をしていただけると期待してもよろしいのでしょうか?」
とこれは付き添いのレベッカを見据えていう。子爵家の者とはいえ、7歳の子どもが対価を提供できるとは考えていないようだ。
咳払いをしてウォルトンのこちらに注意を向けると、ケネスは交渉を切り出した。
「ウォルトンさんはリバーシというゲームを知っていますか?」
「ええ、おもにクラインさんが販売されていますが、フォーゲル子爵家の紋が入ったものも子爵様や男爵様の間で売れておりますね?」
さすがにベリオール支店長だけあって、流行の品には精通しているようで話が早い。
「フォーゲル家の紋が入ったリバーシを販売する事業をお譲りしようと思うのですが、その売却価格から差し引くという形でいかがでしょう?」
「事業の売却……ですか?」
ケネスが木工所に外注して近隣の下級貴族や商人に販売しているリバーシは、クライン商会が販売する高級品と廉価版との挟撃を受けて、今後は売り上げが伸びなやむことが予想される。ケネスには経営のノウハウがあるわけではないし、製品の模倣も容易なので、挽回することもできずにズルズルとシェアを減らしていくことは明らかだった。そうなる前に、クライン商会に対抗できる存在にビジネスを売却してしまおうというわけだ。
しかし、この世界において商売のネタは子々孫々引き継いでいくものであり、事業を売却するという概念自体が存在しない。ウォルトンが戸惑っていることに気づいたケネスは、もう少し噛みくだいて説明することにした。
「ええ、要はミード商会さんがリバーシを販売する際に、フォーゲルの家紋を入れることを許可する、ということですよ。さらに私たちはこの商売から手を引き、製品を注文している木工所や顧客に紹介状をしたためて差しあげましょう」
「これはこれは……つまり子爵家のリバーシに関わる商売を代行し、そこから上がる収益は我々の懐に入れてしまって構わない、ということですかな?」
「そのような理解でよろしいかと思います」
「それでその、それに対していかほどお支払いすればよろしいのでしょう?」
(難しいのはそこだよね)
企業や事業を売却する際に、値段を決めるためにその企業や事業の価値を評価することをバリュエーションという。隆太郎の友人には投資銀行やベンチャー・キャピタルに勤めるその分野のエキスパートが何人もいるが、彼自身にはかなり基本的なファイナンスの知識しかない。
(ざっくりした割引キャッシュフローを計算すればいいか)
子爵家やミード商会にとってそれほど大きな金額にはなりそうもないので、今回はかなり簡便な方法で割り出すことにする。
「先月リバーシの売り上げは金貨20枚ほどでしたが、木工所への支払いや使用人の給料を差し引くと手元に残るお金は金貨6枚ほどでしたね。ミード商会さんであれば生産を拡大して利益を五割増しにできるでしょう。月々金貨9枚を生むガチョウの値段ということです」
「そのガチョウをいかほどで買い取らせていただけるのでしょう?」
(そこで割引キャッシュフローの出番ですよ)
「ウォルトンさんは他の商会に金貨1枚貸したら一ヶ月後にいくら請求しますか?」
「銭貨を70枚ほど上乗せして返してもらうかと」
月利7%は日本であれば貸金業法でアウトだと思いつつ、ケネスは説明を続ける。
「それはつまり一ヶ月後の金貨1枚と銭貨70枚が現在は金貨1枚の価値しかないということです」
「ほう」
「そして金貨1枚の借金は二ヶ月後には金貨1枚と銭貨145枚になりますね」
「……さようですね」
「二ヶ月後の金貨1枚と銭貨145枚は現在においては金貨1枚の価値しかないということです」
「……」
「このように将来の金貨を現在の価値で評価する場合には一定の率で割り引くわけですが、これを月々9枚の金貨に当てはめて未来永劫足し合わせた場合こちらになります」
そろばんをパチパチと弾いてケネスが提示した金額は以下のとおりである:
金貨9枚 / 7% = 金貨128.57枚
「ちょ、ちょっと待ってください」
ウォルトンが目を白黒させていたので、一から丁寧に説明すると20分ほどで理解してもらうことができた。
しかし、計算方法を確認しても評価額には不満が残るようだ。私程度のものが利益を五割増しにできるとは思えない、ということのようである。
「では、支払いを金貨85枚とする代わりに、家紋使用料としてリバーシを一枚売り上げるごとに銭貨20枚を収め、これまでのワイン取引価格を私に教えるということでどうでしょう?」
このようなロイヤリティ契約であればミルトン商会側のリスクを少し減じてやることができる。
ウォルトンは再提案を快諾し、ケネスは自分の手に負えない事業をようやく厄介払いすることができた。また、当初の目的であるビンテージごとのワインの価格データを手に入れることに成功したのだった。