プロローグ
大学院で経済学を研究している青木隆太郎は、セミナーで教授陣に詰問されていた。
「それで? 君の研究はどこに新規性があるの?」
「はい、先行研究は主に市町村レベルのデータを用いていましたが、私の研究は郵便番号レベルのデータを――」
「その程度データを細かくしたところで、新しいことがわかるとは思えないけど?」
「それだけではなく、降水量を操作変数として使用することにより――」
「降水量? おいおい、このケースでは操作変数に使えないこと、常識的にわかるよね?」
「え? あ、はい……」
隆太郎は必死に研究のアピールポイントを強調するが、たちどころに反論され言葉に詰まってしまう。
「あのね、青木君、しっかりしてくれるかな。ちょっと準備不足みたいだから、今日はこれでおしまいね」
あきれ顔の指導教官がセミナーの終了を宣言すると、聴衆はあっという間にいなくなってしまった。数人の後輩が気遣わしげな視線を向けてくるが、やがて彼らも静かにその場を立ち去る。
一人壇上に取り残された隆太郎は、プロジェクターを消すことも忘れてしばし立ちつくした。
(なんでこうなっちまったんだろうなあ……)
虚空を見つめながら、この状況に追い詰められた原因を考えずにはいられなかった。
国内で一番の大学院に入学した当初は、隆太郎も理想に燃える経済学徒だった。財政赤字や低い労働生産性といった、日本が抱える諸問題への処方箋を提示し、日本を誰もが幸せに生きることのできる国にしたいと思っていた。しかし、その遠大な目標にいたる道には巨大な障害が立ちはだかっていた。
(結局のところ、才能がなかったっていうのが一番なのかな……)
大半の経済学大学院生と同じように、隆太郎の専門は実証分析だ。計量的な手法を用いて、所得と購買についてのデータを分析している。紙と鉛筆だけで理論をあみ出して食べていける研究者はひと握りなので、これはおかしなことではない。
しかし、実証研究といえども、多くの人に引用されるような論文を書くのは簡単なことではない。新たなデータを手に入れるための根気や、因果関係をうまく抽出する手法を思いつくひらめきが必要だ。隆太郎にはどちらもなかった。入学して数年もすると、耳目を集めるような研究は難しいことがありありと見えてきてしまった。
現状を認識したところでため息を一つつくと、隆太郎はのろのろとセミナールームを退室した。家路は小雨がぱらついている。ややうつむきながら駅前を通りがかると、間近に迫った参議院選挙のために候補者が演説をおこなっていた。
「最後のお願いでございます! みなさまのお力でどうか、どうか、私を国政へとお送りください!」
傘をさしていないので、メガネが濡れて視界が悪そうだが、それも有権者のシンパシーを誘う作戦なのだろう。
候補者の金切り声を聞きながら、隆太郎は自分の能力以外に夢を阻むもうひとつの理由を思い出していた。
(よい研究は本当に人々の生活をよくするんですか、ってね)
研究結果が政策として採用されるためには、国民に広くその長所が知られなければならない。しかし、政策の経済学的なメリットというのはキャッチーなフレーズであらわすのは難しいことが多く、その広報はないがしろにされる傾向がある。
たとえば、国内の電波周波数帯をオークションで分配する、という制度のよいところを選挙の街頭演説で説明したりするのは、もう不可能に近い。結果的に、一般にはわかりづらいけれども利点の大きい施策が、実行されることなく学術雑誌に死蔵されてしまう。
例外として、学者としての実績がたまたま有力政治家の目にとまって、経済財政諮問会議のメンバーや日本銀行の審議委員になることも考えられる。そうなれば直接的に影響力を行使することができるが、いうまでもなく、取り立てられるのはコネと幸運に恵まれた者だけだ。
博士課程も4年目になる隆太郎は、そういった現実に直面して、すっかり研究生活に嫌気がさしていた。それなら大学院を辞めてさっさと就職すればよさそうなものだが、この年齢で実務経験もなく、取り立ててビジネスに有用な分野を勉強しているわけでもない隆太郎を、ポスドク以上の賃金で雇ってくれる企業が見つかるとも思えない。
多くの同級生は一流の金融機関や官庁に就職し、すでに役付きになっている者も多い。研究者を志した数少ない仲間もアメリカやイギリスに留学し、ノーベル経済学賞受賞者や、新進気鋭の若手教授のもとで心躍る研究をしていると聞く。
そんな才能にあふれる仲間を見て、もう少し早く研究に見切りをつけられればよかったのだが、地道な方法で大成することもあるはずだ、などと言い訳をしているうちに肝心のモチベーションまで失われてしまった。
(単位取得満期退学ってことにして、バイト先の予備校に就職するかな……)
最近はそんなことを考えているが、いまだに踏ん切りがつかずにいた。
足取りも重く、電車で40分の一軒家に帰ってくると、母親が出迎えてくれた。
「おかえり隆太郎。今日のセミナー発表はどうだった?」
「あ、ああ。教授もまあまあだねって……」
「じゃあ博士取得も近いわね! 隆太郎はどこの大学で先生になるのかしら!」
この年齢まで自分を実家に置いてくれる両親に、嘘をついていることがつらい。
「そういえば、久しぶりに香子から手紙が届いたのよ」
そう言って、母親はクリーム色の封筒を差し出した。中身の上品な便箋には、妹の香子からの近況報告がつづられていた。隆太郎よりもふたつ年下の香子は、赤坂に本部を構える法律事務所に就職し、現在は知的財産関連の法務を学ぶためにニューヨークへ派遣されている。
ロースクールで今学期も無事に終え、一流ローファームでのインターンシップが決まったようだ。幼いころは、隆太郎と一緒に英語、ピアノ、剣道に水泳などの習い事に通い、ふたりとも文武両道の秀才とよばれたものだが、いつの間にか差がついてしまっていた。
読み終えた手紙を返して二階に上がろうとすると、また母親が話しかけてくる。
「隆太郎、少ししたら夕飯できるから。最近あんたもお父さんも本当に運動不足みたいだから、かなりローカロリーにしてあるわよ。ぶり大根に海藻サラダでしょ、それから――」
「わかった、また後で降りてくる」
夕飯メニューを自慢する声を背にして自室に荷物を置き、バルコニーに出る。
(やれやれ、どうしたもんかね……)
柵にもたれかかり、遠くに点滅するビルの赤色灯をぼんやり見つめていると、にわかに胸部に違和感を覚える。
(ん?)
次の瞬間、押しつぶされるかと思うほど猛烈に胸が苦しくなり、視界にもやがかかる。
「……かっ」
とっさに助けを呼ぼうと思ったが声にならない。みるみるうちに視野まで狭くなり、平衡感覚が失われる。
(なんっだよ、これっ)
そう思う間もなく、隆太郎は意識を手放した。