EP085 変態の背中
桟道を下るペースは、ユキエと一緒の時よりも明らかに速かった。
だが勿論、余市にとっては余裕でついて行けるレベルである。
「ほお…流石だな余市。このペースでもついて来るとわ!」
直ぐ後ろにぴったりと張り付くように追従してくる余市に、ガーネットは感嘆の声を漏らして振り向いたが、直ぐにその表情は曇ってしまった。
彼女は、余市の顔をうっかり見てしまったのである…。
「何だその顔は?走る時はいつもそんな表情をしているのか!?」
ガーネットが指摘したのも無理はない。
余市は珍しく笑顔だったのだ。勿論、余市の笑顔だから、それは即ち客観的に見ればキモイ顔である。
その事実は、もとの世界であるうがこの異世界であろうが関係ない。
頬を赤らめたまろやかなキモ面で鼻翼だけを忙しなくヒクヒクさせて、ガーネットの真後ろにひっついていたのである。
言うまでもなく、余市は雌の匂いを吸い込むことに必死になっていたのだ。
響やユキエのものとは違う、野性味溢るるそのフレグランスは新鮮で、気分を妙にハイにしてくれていた。
「おい!聞いているのか!?」
「ムホッ!」
余市は我に返ったが、流石に遅すぎたようだ。
「済まないが…先頭を代わってくれ。清泉の洞窟は知っているな?」
「お…おう」
「とりあえず、そこを目指してくれ」
そう言うと、ガーネットは余市を前に行かせるように後ろへと退いた。
事前知識として余市が変態であるということを響から聞いていた上に、実際にあんな表情までされては、もはや疑う余地はない。
嫌な沈黙が続いた。
急いては事を仕損じる!と肝に銘じ、ついさっきまで己に対して固く自制を誓っていたにも関わらず、余市はまたしても仕出かしてしまったのだ。
ガーネットとしても気まずいだろう。
己に非は微塵も無いとはいえ、今回、余市は助っ人としてついて来てくれているのだ。
それに金品などの見返りを約束したワケでもない。今のところはある意味、完全に慈善のみで動いてくれているに等しい。
そんな相手に対して、エロい目で見られたくらいで叱るわけにもいかなかった…。
まだ旅の序盤も序盤である!
村を出てから数分足らずなのだ!
そんな気まずいプレッシャーを背中に感じ、余市はガーネットから逃げるように無意識の内にペースアップしてしまっていた。
流石の女兵士長ガーネットをもってしても、このペースは速過ぎる。
普段は、自分について来れない部下たちに対して、男のクセにだらしがないぞ!と声を荒げている立場だが、余市は余りにも速過ぎた。
そんな兵士長としての普段のプライドと、先ほどからの気まずさも手伝って、徐々に離れて行く余市の背中に声を掛けられずにいた…。
そして桟道を下り切って地上に出た瞬間、余市は更に数段階ギヤを上げたのである!
後ろのガーネットを全く気にも掛けていない風だ。
声を掛ける機会を失い、完全にガーネットは置いて行かれてしまった。
無理について行こうと限界まで頑張ったせいでペースも完全に乱れ、ついに膝に両手をついて立ち止まってしまった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
何という速さと持久力をしているんだ!?アイツは…。
ひと息ついて頭を上げた時には、余市の背中はもうとっくに見えなくなっていた…。
余市はガーネットに自分が変態だと完全にバレてしまった事実を直視するのが怖くて、必死に走っていたため、あっと言う間に清泉の洞窟入口に辿り着いてしまった。
そしてそこで初めて、ガーネットを置いて来てしまったことに気付いたのである。
「何をやっているんだ!?オレはっ!!!」
思わず叫んでしまった。
相手は兵士長とはいえ女!しかもオレの今の運動能力は常人のそれではないのだぞ!
気まずさ以上に、ガーネットに対する申し訳なさが込み上げてきていた。
そしてその気持ちがMAXになった時、余市は猛スピードで引き返し始めていた。
とんだ体力の無駄遣いだが、じっとして待っている方が何倍も心身健康上、良くないと判断した結果だった。だが、その判断が結果として功を奏したのである!
数百メートル戻ったところで、余市はガーネットを視界に捉えたのだが、何と!彼女の前には、二メートルほどもある昆虫が立ち塞がっていたのだっ!!
赤を基調とした派手な斑点模様と長い脚…アレは紛れもなくハンミョウ!!
地上を超高速で徘徊する肉食昆虫で、その敏捷さに於いてはオサムシやゴミムシの比ではない!しかも翅が退化しておらず飛翔も可能なのだ!何よりも脅威なのは、その鋭い大顎である!
これまでの狩りではたまたま出くわさなかったが、もしもユキエと一緒の時に目の前に現れたなら、その圧倒的な敏捷性から、正直、ユキエを無傷で守り切る自信はない。
ガーネットの表情は険しい。恐ろしい相手であることを当然知っているのであろう…。
なっ!!!
よく見ると、彼女の右足からは大量の血が噴き出していたっ!!!
走っているところを横から奇襲されたに違いない。
オレが一緒なら、こんな結果になっていなかったかもしれないのに!
「ウオオオォォーリュアアアァァーーーッ!!!」
軍配を念じることも忘れて、余市は脊髄反射的にハンミョウの背後に跳びかかり、ギコを思いっきり叩き込んだ!!
がっ!すんでのところで避けられてしまった!
余市はそのまま転がるように、ガーネットの目の前に移動すると、ギコを正面に構え、ハンミョウを睨みつけた。
真正面に立って見ると、その巨大な複眼と長い触覚、そして禍々しい大きな顎が、想像以上に恐ろしい!!
「よ、余市…済まぬ。不覚をとった」
「…」
謝らなければならないのは余市の方である。
何か言葉を返してやりたいが、一瞬の隙が命取りになる!
今はそんなコトよりも目の前のコイツに集中せねばならぬ時っ!
ハンミョウは触覚だけをゆっくりと動かしながら余市を見据えている。
余市も複眼を睨む。
だが、複眼に動きなどある筈もなく、全く次の行動が読めない。
ヤツの頭部までは最低でも一歩は踏み込まねば届かないだろう…。
だが、その一歩を詰めるよりも速く、動いた瞬間にあの大顎が襲ってくるのは必至。
ギコを振り落とす時間はない。
むっ!…そうかっ!
ヤツは昆虫、動いた物に素早く反応する筈!
誘導してみるか…。
余市は微動だにしないまま、腹話術のように小さく囁いた。
「動かず聞いてくれ…オレを信用して欲しい。一歩でいい…三秒後に左に動いてくれ」
そしてガーネットが指示通りに動いてくれることを信じ、心で三秒を数える。
一…二…三!
その瞬間、余市は何もない左の空間目掛けてギコを迷わず振り下ろしたっ!!
がっ!その瞬間!
何も無かった筈のその空間に、ハンミョウの頭部が物凄い速さで現れたのである!
頼む!!間に合ってくれっ!!!
グシャアァァーーーーッ!!!
ギコはハンミョウの頭部と胸部の併せ目に真横からヒットしていた!
そのまま練習で培った薪割りの要領で、真っ直ぐに真下へと振りきる!
そして完全に頭部を切り落としたのだった。
昆虫だけに触覚や大顎は激しく動いているし、頭の無い胴体は狂ったように転がり回っている…。
だが、これでもう危険は完全に去ったのだ。
ギコを鞘に収めると、後ろで声がした。
「た…助かったぞ!礼を言う。ありが…」
「信じて…信じてくれてありがとう」
ガーネットの言葉を遮って余市は言った。
そして思いきって続ける。
「その…済まなかった。オ…オレ…変態だから…さ。アハ…アハハ…」
「そうか…それは響に聞いて…うぅっ!」
そこでガーネットは呻きながら倒れ込んだ!
改めて見ると、太腿の出血がかなり酷い!
「コレを食べるんだ!飲んでも構わない」
丁子と水筒を渡す。
「分かった…済まぬ」
「もう謝らないでくれ!オレの方が悪いんだから」
「…」
ガーネットは黙って丁子を飲み込んだ。
何の疑問も抱かずに口に含んだことから、丁子の効力については、ロースもしくはユキエの一件で聞き及んでいたのかもしれない。
あとはこの出血をどうにか止めないと…。
だが包帯のようなものはないし…どうする?
伸縮性のある何か…。
くうっ!仕方ねぇー!!
余市は金嚢に手を突っ込んで念じた。
そしてそれを取り出すと、ガーネットの太腿の付け根にそれを巻き付け縛り上げる。
「それは…いったい?」
「…気にすんな。まだ履いていない新品だ!」
「はっ!」
そこでガーネットも気付いた様子だ。
それが、ダミー用途として購入した紫色の豹柄のパンティであったことに!
「…嗤えよ。遠慮すんな」
「ふふ…本当に変態なのだな。余市」
ちっ!本当に嗤いやがって。
だが、響の予見した通り、早くも変態としてそれなりに役に立ってしまった…。
変態でもなければ、こんなに都合よく、包帯代わりになるようなモノを持参していなかっただろうから。
そう考えると何だか無性に悔しい!
気付けばハンミョウは動いていなかった。流石に死んだようだ。
「冥福祈捧極楽浄土」
いつものように軍配を掲げていたなら、脳内にアナウンスが鳴り響いてステータスやレベルが上がっていてもおかしくない程の戦闘だった筈…そう考えると少し残念だが、ガーネットを救えたのだしヨシとする。
レベルやステータスは戦闘時以外でもちょくちょく上がるが、戦闘でのそれらの上昇には軍配が不可欠なのである。
「ん…久しぶりにレベルが上がったようだ」
ガーネットが呟いた。
あくまでも軍配を掲げる必要があるのは転移してきた者だけであって、この異世界の一般人には関係ないのだ。
出現したクリスタルに触れると、エメラルドのようなふたつの小さな石が現れた。
「何と!それは翠玉!」
ガーネットが驚きの声を上げた。
高価な物に違いない。
余市にとっては初めてゲットする物質である。とりあえず金嚢に仕舞う。
獲得したアイテムは後でふたりで分けるとして、旅の途中で発生した荷物は、全て金嚢に仕舞っておけば安全である。
旅に出る時に、ガーネットの荷物も金嚢に入れてやったのだが、それを見たガーネットはその切れ長の赤い目を丸くして驚いていた。小さな金嚢に全てが吸い込まれるように収納されてしまったからだ。
続いて余市はガーネットに背中を向けてしゃがんだ。
「何のマネだ?」
「オレにおぶされ!とりあえず清泉の泉まで行こう。ここは危険だ!」
「…」
「何だ?…変態の背中では不服だと言いたいのか?」
「…」
ガーネットは無言のまま長い髪で顔を隠すようにして余市の背中にしがみ付いた。
余市は下から手を回すと、彼女の傷口と尻に触れないように気を遣いながら立ち上がった。
流石にこんな局面で尻など揉んでは致命的だ!
オレとて最低限のエア・リーディング・スキルは持ち合わせているつもりだ。
そのまま余市は姿勢を低く保ちながら歩き出した。
走るのも可能だが、傷口に響きかねないと思ったのだ。
「余市…」
「何だ?」
「…少しなら…その…少しぐらいなら触れてもいいのだ…ぞ」
「んなっ!なな何を馬鹿なことを!」
「昼間…私の尻をずっと見ていただろ?」
「…」
「今回のことで、私はお前に何も返してやれん。男の兵士を束ねる身として、彼らの視線や欲求は日頃、目にしてもいる…つまり…」
「何が言いたいんだ?」
「それなりの理解はある…多少のことなら我慢する!そ…そういうことだ」
「本当に…触ってもいいのか?」
「…ああ。少しだぞ」
「響には言うなよ」
「勿論だ」
まさかこんな展開が…。
まさか!こんなスペ丸もとい!スペシャルなボーナスステージが用意されていようとわっ!!!
余市はガーネットの魅惑の尻を思いっきり両手で鷲掴みした!!!
むにぃ!!!
ガーネットは驚いたように、ビクンッ!と反応し、
「おいっ!!少しと言った筈だぞ!」
「つい…その…あまりにも嬉しくて」
「余り調子に乗るなよ」
「す、すまん…」
「その代わり…」
「その代わり?」
「私と共に村の窮地を救ったら…」
「救ったら?」
「もう少しだけ…」
「もう少しだけ?」
「その…我慢してやらないことも…ないぞ」
「約束だぞ!」
「…ああ」
こうして余市はガーネットと魅惑の約束を結んだのである。
それはこの旅に於ける変態のモチベーションが、大幅に高まった瞬間でもあった!
清泉の泉に到着し、ガーネットを降ろした。
流石に余市のように傷は治っていなかったが、出血はかなり治まっていた。
丁子のお陰なのだろうが、ダミーパンティの活躍も侮れないだろう。
余市は軽く身体を流そうと、シャツとズボンを脱いだが、その瞬間、しまったっ!と思った。
「やっぱり履いていたのだな…」
「ま…まあな」
そう!ダミーパンティを履いていたのを失念していたのだ!
何しろダミーパンティを履き始めたのは昨日からなのだから無理もない。うっかりしていた。
それに今回の旅も突然に決定したため、履き替える余裕がなかったのである。
それにしても、何が『まあな』だよ!!
己の台詞に急に恥ずかしくなり、泉に飛び込んだ。
泉から上がると、ここで少し休憩を入れようとガーネットに提案した。
本来であれば、村から出たばかりのこんな場所で休憩を挟むつもりなど無かったのだが、ガーネットの傷がある程度、癒えるまでは動けない。
それにオレが飛ばし過ぎたせいで、予想以上にガーネットの体力も損耗してしまっている筈だ。
最悪、オレがおぶってダッシュすれば、遅れた時間も挽回できるだろう。
休憩の間は、ひとりのジェントルとして、ガーネットに隠れ笠を貸してやったのは言うまでもない。
この異世界にも似たような効果のモノが幾つかあると聞くが、ガーネット自身は初めての体験だったらしく、金嚢の時ほどではなかったが、瞬く間に適温となったことに少なからず驚いている様子だった。
傷の痛みも弱まってきたのか、ガーネットはヨノ村について色々と話し始めた。
場所はトゥーレ12の中にあるという。
その一帯は、出没する昆虫の種類も個体数も増え、トゥーレ9周辺よりも数倍は危険とのことだった。
ただしその反面、それだけ獲物の種類も多いことから、村の財政は悪くないのだそうだ。
聞いた感じだと、ハイリスク・ハイリターンな環境と言えそうである。
村のシンボルは時計塔で、かなり大きな建造物らしい。
今回、族が占拠して籠っているのが、まさにその時計塔なのだ。
クンニスキー村にあるものよりもひと回りほども大きいという。
敵の正体や人質の数などは到着してみなければ分からないため、作戦を事前に立てることは難しい。
村に到着したら、真っ先にガーネットの妹から詳しい情報を仕入れるのが先決だろう。
横たわり、洞窟の天井を見上げていると、ふと響にスク水越しに匂いを嗅がせて貰った時の記憶が蘇ってきた。あの時は、まさかこんな理由で再びここに来るなどとは思ってもみなかった…。
そう言えば、この先の大地でオレと響は目覚めたのだったな…。
朧は転送の業を二度に分けざるを得なくなった時、できる限りそれぞれが近くに転移されるよう努力するというようなことを言っていたが、そう考えると、竹鶴や角瓶、マリカは、これから向かうトゥーレ12方面に転移した可能性が高いのではあるまいか?
あいつらには宝珠もなく、ゼノグロッシアや運動能力も覚醒していない筈…。
この旅が終わったら、武道大会予選までの間、響と本格的に捜索を開始しよう!
そう決意した余市だった。




