EP073 鎌と斧
ユキエと余市は桟道の板に尻をついて声も出せずに固まっていた。
その目の前で響は姿勢を低く構えたまま静止しているが、よく見ると脚が僅かに震えている。
あの響ですら恐怖しているのだ!
響の目の前、約5メートルの距離には、トゥーレの樹表を逆さまの体勢で下りようとしている巨大な緑色の肉食昆虫の顔があった。
その1メートルはあろうかという逆三角形の頭部は、響のを真正面に見据えていた。
巨大な複眼と口で占められたその顔は、眼鏡を掛けた竹鶴にソックリである!
それは日本最大級の肉食昆虫、オオカマキリ!!!
元の世界では、農作物を喰い荒らすイナゴやバッタらを捕食する益虫と見なされることが多いが、この異世界の10メートルはあろうかというその禍々しい肢体では、人間など恰好の餌でしかないだろう!
巨大な鎌を構えた特有のファイティングポーズこそとっていないが、黙ってこちらを見つめたまま静止している様はこの上なく不気味だ!
確実にその複眼は我ら3人を捕捉しており、表情は無いが捕食してしまおうかと考えている風だ!
あのスズメバチすら捕縛する鋭利なトゲトゲの鎌足で挟まれたらと思うと、あまりの恐ろしさにチビりそうになってしまう!!
どうするっ!?どうすればいい!?
気付けばユキエは余市の臭い身体にしがみ付いて震えていた。
くっ!やつがこのまま素通りしてくれるのを神に祈るしかないのか!?
そんな極限の緊張のさなか、響がすっと身体を起こして振り向いた。
ど、どうしたんだ響?
「見逃してくれるそうよ」
へ…?今何と?
顎が硬直していて声が出せない。
「気が変わらないうちにさっさと行けと言っているわ」
思念通話…か?
響はオオカマキリと心で会話したっていうのか!?
いや、今はそんなことを考えている場合ではない!
余市はユキエと共に何とか立ち上がると、響に向かって頷いた。
オオカマキリの巨大な首の下を静かに忍び足で通過する。まるで生きた心地がしない!
が、響の言ったことを信じるしかない。
いつの間にか余市の方がユキエに強くしがみ付いていた。
オオカマキリの首の下を通過すると直ぐに階段があった。
無言でその階段も下りて、再び桟道を進む。後ろは振り向かないし怖くて振り返れない。
オオカマキリから大分離れたところで、響にやっと声を掛ける。
「はぁ…はぁ…。やつの…やつの心が読めたのですか?」
響は歩いたまま振り返りもせずに答えた。
「逆よ」
「えっ!?」
「私の脅えた心を先に読まれたのよ…そして見逃してやるから行け、と…」
「何とっ!」
「どうやら複眼を持つ相手には思考透視は通じないみたいね。逆に読まれてしまったわ…ふふ」
響の話では、あのオオカマキリは食後の休憩中だったそうだ。だが邪魔をしたり騒ぐようなら人間の3人くらいなら喰らってしまうぞ!と思念を飛ばしてきたらしい…。
昆虫にそんな思考能力や通話能力があるとは考え難い。
寧ろ対象である昆虫の飛ばした意思をゼノグロッシアで響が理解したとみるのが自然か?
「あ、あのオオカマキリは大蟷螂です…」
「ダイトウロウ?」
独り言を言うように喋ったユキエに反射的に訊き返す。
「トゥーレ9の絶対的王者で、古より『鎌の化身』として恐れられているカマキリです…」
「古よりって…?」
「はい。何でもクンニスキー村ができる前からこのトゥーレ9に住んでいたそうです。ウチも生まれて初めて見ましたが、古くからの伝承の通りに首に大きな十文字の古傷もありましたし…間違いないと思います」
ユキエは脅えながらもやつの下を潜る時に、そんなところをチェックしていたというのか!?
オレは目を閉じて歩いていたというのに!!
にしても、このトゥーレ9の絶対的王者って…大蟷螂ならぬ一国を統治する大統領みたいジャマイカ?
「ところで余市、臭いわよ。離れなさい」
「あ、ハイ…」
再び数メートル後方に下がって歩き始める。
この匂いで大蟷螂の機嫌を損ねていたら喰われていたかもしれないと思うと同時に、逆に臭いから喰うに値しないと見逃してくれていたかもしれないとも思ったのだった。
その後は大きな事件もなく、何とか地上に降り立つことができたのである。
桟道の終わりには誰も立っては居なかった。
村を出てから実に30分ほどもかかったことを考えると、ユキエのあの秘密の抜け道のエレベータを使った方が圧倒的に早かったのは間違いない。何故、あのエレベータの技術をここでも活用しないのだろうかと疑問に思わずにはいられなかった…。
さて、いよいよ薪を拾いに行くのだが、こんなに大きなトゥーレの下に、コキオと共にくべたようなサイズの薪があるとは思えなかった。てか、そもそも薪って落ちてるものだっけ?
変な先入観で、薪は森などで拾ってくるイメージが強かったが、よくよくアニメなどのシーンを思い返してみると、確か斧で材木を割って細かくしていた筈じゃあ…。
「こっちです!」
そんな余市の薪に対する考察を打ち消すように、ユキエは先頭に立って歩き始めた。
ユキエは隠れ笠を被っていないので、既に汗だくである。何だか自分たちだけ涼しい顔をしているのが申し訳なく思えてくる。水分も小刻みに摂っていた。
錬金術をマスターすれば、ユキエにも似たような効果のものを与えてやれるのに…隠れ笠だけでなく隠れ蓑もあれば、3人揃って保護色効果を享受できるようになる。そうなれば、村の外での行動に於ける危険度もかなり下げられるに違いない。まあ、互いに見失ってしまうという欠点もありそうだが…。
ユキエだけでなく響も金嚢から水筒を取り出して水を飲んでいた。
知らぬ間に水筒も購入していたようだ。確かに村の外に出ることを考えれば必需品である。
そういえばオレも少し喉が渇いてきた。しかし水筒など持ってはいない…。
何だか小腹も空いてきた。
だが、堂々と『ここらで昼食にすんべ!』などとは言えない。全ては響頼みなのだ。
「あのさ、そろそろ昼時だと思うんだけど…」、
「だけど何かしら?」
「つまりその…」
「はっきり言いなさい」
「お腹が空いちゃったなぁ…なんて、アハ」
「…」
響たんの冷たい視線が痛い。
糞を漏らした臭い男が何だって!?というような表情である。
そんなふたりのやり取りを聞いていたユキエが、
「斧の小町に着けば店が出ている筈よ。余市、あと少し我慢してね!」
年下のユキエに励まされてしまった…。これでは駄々を捏ねる末っ子みたいジャマイカ…。
っていうか、
「オノノコマチって何?」
「ウチらが向かっているところよ。そこでは皆、薪をとるために斧をかついで歩いているの。だからいつからか斧の小町と呼ばれるようになったそうよ」
「な、なるほど」
「ほら!見えてきた!」
ユキエの指差した遥か前方に、巨大な壁のようなものが横たわっている。
「だいぶ前にトゥーレが雷に打たれて枝が折れたの。その大きな枝を薪として近隣の村同士で使っているのよ」
この異世界にもやはり雷はあるようだな。
ってか!トゥーレの巨大な枝が折れるほどの雷って…ヤバ過ぎるだろ!!
斧の小町では、ユキエの言うように体格の良い男たちが大勢、斧をかついで闊歩していた。
出店もちらほらと見掛ける。
オニギリや弁当を売っている香具師から、本場ドイツのプレッツェルのような形状の焼き菓子を売っている店もある。幸いなことに井戸もあり、そこには数人が列を作っていた。
壁のように横たわったトゥーレの巨枝は、勝手気ままに無計画のままあちこちが削られていた。
ユキエに尋ねたところ、どこを切ってもいいらしい。村や集落毎に配分やエリアを決めたところで、どうせ守られないからだという…。
クンニスキー村でも薪は売っているが、ここまで来ればタダなので、貧しい家や若者の居る家庭では皆、アボニムを節約するために定期的に斧の小町まで足繁く通っているのだそうだ。
比較的空いている場所を見つけると、響は金嚢から斧をふたつ取り出した。
斧まで買っていたのかよ!?とツッコミそうになったが、どうやらユキエの所有物らしい。
かなり重いので、響が金嚢に入れて持ってきただけに過ぎないようだ。
そのうちの1本の斧を、響は余市の方に投げつけた!
うわぉっ!!!
木製の把手部分を何とか掴めたからいいものの、ひとつ間違えれば大怪我をしてもおかしくはなかった!
だが、今までのオレなら避けるのが精いっぱいで、回転しながら飛んできた斧をキャッチするなどという芸当は絶対にできなかった筈である!
「さ、流石!余市!」
一瞬、肝を冷やしたに違いないユキエも、その余市の華麗なるキャッチを目撃して感心していた。
フフフ…オレはタダのその辺の糞漏らしとはひと味違うのだよ!フフフ…って!オレは漏らしてない!
「ユキエ、申し訳ないのだけれど、この男に薪割りを教えて貰えるかしら?」
「勿論です!響お姉さん!」
少し離れた場所では、ロースの親戚のような屈強な男たちが薪を割っている。巨枝本体からある程度の塊を削り出し、地面に降りて割ってを繰り返しているのである。
彼らの傍にはうず高く薪が積まれていた。各々がそれぞれの村で薪を売っているのだろう。
「余市、ぼんやりしてないで、ユキエから技を盗みなさい」
「あっ!ハイッ」
響はそのままどこかに歩いていってしまった。
ぐぬうぅ…仕方無いのだ!我が主、マイロードなのだからっ!自分に言い聞かせる。
ユキエは巨枝に攀じ登り、頑張って木を削ろうとしているが、小柄な少女である。周囲の男たちのようにはいかない。相当、苦労している様子だ。
余市もユキエのところまで登る。
「余市、斧はね、真っ直ぐにこう構えるのよ」
「お、おう。こうかな?」
「そう!そして真っ直ぐに振り下ろすの!こんな風にっ!」
「こうか?」
バキイイイィィィッ!!!
余市が見よう見真似で斧を振り下ろすと、何とその刺さった部位から真下に向かって数メートルの亀裂が走ったのである!!その音は周囲にも響き渡った!!
「す…すすす凄いわ!!!凄いわ!余市ぃーっ!!!」
その台詞に、余市の中で何かが弾けた!
それからは薪割りが楽しくて仕方が無かった。
生まれて初めて味わうガテン系肉体労働の悦びを知ったのである!
勿論、この驚異的なパワーが無ければ、数分で音を上げて大の字になって空を見上げていたであろう。
貧弱な体躯に秘められし余市の凄まじいパワーに、気付けば人だかりができていた。
ユキエは既に薪割りをしておらず、破片を積んだり塊を余市に渡したりと、サポートに徹している。
ドヤ顔で斧を振り下ろす余市の勇姿に見とれていたある老人は、
「こ…この、薪を割るために生まれてきたような男は、いったいどこの村の青年じゃ!?」
と、ユキエに尋ねたりもしていた。
こんなに凄い男の知り合いという気持ちからか、ユキエは照れながらも、
「クンニです…」
と答えていた。
そんなやりとりが、余市のデビルイヤーにも当然、入ってくる。
そして、更に余市を熱くさせるのだ!
桟道の上で大蟷螂に出くわし、その巨大で邪悪な鎌に脅えていた余市が、今は斧によって自信を取り戻したのである!
「もういいよ、余市。このくらいで…」
ユキエの声に振り返ると、そこには山のように薪が高く積まれていた。
響もいつの間にか戻って来て、余市の働きを見ていた様子だ。
鼻翼を膨らませて、ドヤ顔で主たる響のもとに戻った余市に、
「その斧を貸しなさい」
「ハイッ!」
王に献上するかのように片膝をつき、両手で斧を差し出す。
響は何を思ったのか、斧を手に取ると素早くトゥーレの上にジャンプをした。
その動きはクノイチのようで、あまりの身軽さに周囲がどよめいた。
余市の集めたギャラリーがそのまま残っていたのである。
そして次の瞬間、
バァキイイイィィィーーーーーーッ!!!
響が振り下ろした一撃によって、何と!トゥーレの巨枝は薪のように真っ二つに割れてしまったのである!!!
そして振り返る。
その目は、イイ気になっていた余市に対して、上には上が居るということを知らしめるかのような眼差しだった。
周囲はしーんと水を打ったかのように静まり返ってしまっていた。
想像の追いつかないあまりのもの凄さに、誰も声を発せなかったのである。
隣で薪割りをしていた屈強な男などは、その場でヘナヘナと鳶座りをしてしまっていたし、先ほどの老人に至っては泡を吹いてひっくり返ってしまっていた。
だが、それは余市やユキエも同様だった。
まさか…まさか!ここまでとわっ!!!
これまで響のパワーは自分に向けられたもの以外ではハサミムシへの踵落としが唯一であり、第三者視点ではっきりと見たのは、余市にとっても今回が初めてだったのだ。
そして余市に一時向けられていたユキエの憧憬の眼差しは、今、根こそぎ響に奪われてしまったのである。
「ひ、響お姉さん!!!凄過ぎるうぅぅーーー!!!」
折れたトゥーレの巨枝から飛び降りた響にユキエは駆け寄っていた。
だが不思議とジェラシー風味のパトスは芽生えなかった。何故なら、余市とて許されることなら響に走り寄って抱き付きたい気持ちでいっぱいだったからである。
その後、3人は響が調達してきた昼食を摂った。
斧の小町の出店で買ったものではあるが、肉体労働をした後だったので、結構、美味しく感じられた。
そうこうしているうちに、漸くギャラリーも居なくなり、余市たちは山のような薪をこっそりと金嚢に詰めたのである。金嚢の特殊性をあまりひとに知られたくはなかったのだ。
そして響にタオルを借りて、井戸の傍で身体を拭き終え、斧の小町を後にしたのである。
ユキエは終始、笑顔だった。
どうして響や余市がそんなに凄いのかをしつこく訊いてはきたが、響は一貫して、
「ユキエも修行すれば余市程度にはなれる」
と言っていた…。
やや複雑な心境ではあるが、余市のこのパワーは99パーセントが宝珠によって授かったものなのだ。
ここは謙虚にならねばならぬ。響はもともと相当強かったのだし…。
予想以上に早く薪割りミッションが終わってしまったが、さてこの後はどうするのだろう?
折角、30分もかけてあの桟道を下りて来たのだ。このまま帰るには何だか惜しい気がする。




