EP013 声の主
ギコギコ…ギコギコ…
新しいブリーフで、気分も新たに旅をリスタートした余市。
右側の景色は、既に畑ではなく野球などを目的とした運動場である。そしてそれらも過ぎ、気付けば荒川の真上を朝陽を浴びながら走っていた。
遥か前方の峰々に目を向ければ、美しいモルゲンロートが余市のウイニングランを称えてくれているかのように輝いていた。
フフフ…何てことはない。
生まれ変わったオレの辞書に不可能の文字はない。ビブラートも卒業したぜ!ハハハハハ!!!
ブリーフという名の古い布を脱ぎ捨てた行為が、恰も脱皮でもしてひと回り大きな成長を遂げたかのようなクレイジーな錯覚を呼び起こしていた。
だが、その錯覚は、新大宮バイパスを越えた時に感じた同様の錯覚とは多少異なっていた。
ある意味、余市は本当に生まれ変わっていたからである。
荒川を難なく制覇し、下界にはゴルフ場が広がっていた。
そして、そのゴルフ場のグリーンエッジの微妙な傾斜や目土を被せたと思しきディボット跡までもが、驚くほど鮮明に見えていたのである!
もはやオレにキャディの助言は要らぬし聞かぬ!
既にあの糞展開直後より、その嗅覚や視力には驚かされていたが、見晴らしの良い橋の上から俯瞰することで、改めてその凄さが実感できたのである。
余市は視力が良い方ではなかった。
というかもともとは良かったのだが、暗い部屋で毎晩モニタを至近距離で見つめ続けていたせいで、最近になって急激に視力が落ち始め、本来ならとっくに眼鏡をかけていてもおかしくないレベルであったのだ。
それが、今や劇的に視界が拓かれ、別世界のような光景が広がっているのである!
コレが鷹の目ってやつなのか!?
視力同様、嗅覚も犬並み?に研ぎ澄まされている。
排気ガスの臭いやオイルの臭い、タイヤのゴムの焼ける臭いなど、様々な臭いが鼻孔を刺激し続ける。
意識を向けなければ、どうということはないが、ついつい気にして意識を傾けてしまっていた。
聴覚も同様だった。
意識を集中させると、前方の土手の遥か右舷を歩いている通学中の生徒達の会話まで聞こえてくる。
「今日の給食って確か揚げパンだよな?だよな!?」
「お前、本当に揚げパン好きだよな…」
うんうん、確かに揚げパンは美味いよな…。
懐かしくて、つい同調してしまった。
それにしてもこの地獄耳…否!デビルイヤー!オレは某デビルマンにすら追い付いたのか?ふふふ。
少なくとも現時点で、視覚、聴覚、嗅覚の三つが、ドラキュラ伯爵が如く研ぎ澄まされた事実が判明したのだから、生まれ変わったと言っても過言ではないだろう。
我ながら末恐ろしいわい!
ギコギコ…ギィ…
荒川を越えて、土手に差し掛かったところで再び地図を広げた。
現在走っている県道56号から川越街道を潜って道なりに県道163を進み、そして県道126を右折、そのまま県道397、347を経て国道299に合流するのが無駄が無さそうに見える。
とりあえずの目標は、自転車の小回りの利く機動力を活かしてショートカットを駆使しながら、無駄なく最短距離で県道126号に到達することだ。
少し迂回すれば、江戸情緒豊かな観光地でもある川越の市街地があるが、今回はパスしておこう。もともとひと目を極力避けて山に侵入するミッションなのだし、そもそもこの旅は観光などではないのだ。
土手から続くなだらかな坂道を気持ちよく下って行く。
片道1車線の県道の両端は、家屋よりも畑の方が目立つ。
そして、丁度、桜の時期ということもあり、所々に満開の染井吉野が花を咲かせていた。
染井吉野は江戸彼岸系の桜と日本固有種の大島桜の交配で生まれた、接木によって増やされた桜で、ほぼ全てがクローンである。人工的に生みだされたとはいえ、やはり美しい。
そして、これまでは桜を見たことはあっても、匂いに気付いたことはなかったが、今は杏仁豆腐のような甘い香りすらも感じとることができた。感動である!
先ほどの寂しいギョニソー花見とは美しさはもとより匂いに至っても段違いである!
てか、比較すること自体が初めから間違っている。
暫く進み、ふたつほど橋を越えた辺りから、急に市街地の様相を呈してきた。
市街地とは言っても、まだ早朝なので人も疎らで、バス停に並ぶサラリーマンも少ない。
市街地をそのまま突っ切ってひたすら進むと、再び畑が多くなってきた。
そして片道2車線の道に突き当たった。
地図を広げると、何と県道126号だった。知らぬ間に県道56号が163号へと道が変わり、そのまま進んで来ていたようだ。何だか得をした気分である。
そろそろ腹が空いてきた。どこかで朝食を摂っておきたい。
今思えば、朝食は敢えて地図を購入したコンビニで調達しなくても良かったということに気付く。
既に何件ものコンビニを目撃していたからだ。重量や食材の鮮度などを考えた時、腹が空いてから調達した方が全てに於いて得なのだ。ぎりぎりになって購入することで、最も食べたいモノをチョイスできるというメリットだってある。
ギコギコギコ…ギコギコギコ…
先ほどから茶畑がちらほら目に入るようになってきた。確か地図で見たところ、県道126号から397、347号辺りは、狭山市であるとのこと。狭山市と言えば、狭山茶で有名である。なるほど…。
そんなことを思いながら、県道126号を1キロほど進んだところで、道沿いにテニスコートが並んでいる場所に差し掛かった。奥には野球グラウンドもあるようだ。
ひょっとしたら公園なのでは?
スピードを緩め進んでいると、直ぐに公園入口を発見。
ここで朝食を摂ると同時に、ゴルバチョフ君の乾いた糞も洗い落とすことに決めた。
ウンを落として運が落ちなければ良いが…。
そのまま中に入って行くと、まるで林の中に運動施設を刳り抜いて造ったかのような、樹木の多い落ち付いた自然派公園だった。目の前にクラブハウスと思しき建物が現れた。早朝ということもあり閉まってはいるが、お誂え向きにベンチはある。
引いていたママチャリを停めてベンチに腰を下ろした。
背負っていたリュックを隣に置き、汚れた上着は少し離して背もたれに掛ける。
リュックから缶コーヒーとサンドウィッチ、そして地図を取り出す。
地図をパラパラと眺めながら、何気なくコーヒーを一口飲んだが、ビックリしてその場に吐き出してしまった!
「ぐえぇ!ゴホッゴホ…」
マズイとかウマイとか以前の問題だった。
香りと味が強烈過ぎてビックリしてしまったのだ!
グリップ感の良いこの缶だったから零さずに済んだものの、普通の缶コーヒーだったら間違いなくやらかしていたであろう。上着だけでなくズボンまで手揉み洗いしなければならなくなるところだった。
不良品か!?おいおいここは日本だぞ!
大事な旅の初日で腹でも下したら、善良なるひとりの日本人として、このメーカーに盛大にクレームの電話を入れると同時に、その録音内容をネットにうpしなければならないジャマイカ!!
一瞬そんな怒りが脊髄反射的に湧いて出たが、直ぐに気付く。
「ま…まさか、味覚もかよ!!!」
こ、これがデ…デビルテイスト、否!悪魔の舌、デビル・タンなのか?
って!そんなのねーよ!
普段よく買って飲む馴染みのコーヒーなのに、いつもと全く味が違っていた。
それに色々な人工的な成分が混ざっているのが分かる。
それでも2口、3口と少量ずつ徐々に喉に流し込んでいく。あからさまに意識を集中しなければそれほど飲み難くもなさそうだ。
今度は震える指でサンドウィッチの袋を剥いて、まずはゆっくりと匂いを嗅いでみる。
クッサーーーッ!!!クサクサクサ臭いいぃぃーーー!!!
強烈である!!!
卵とツナの匂いがあまりにも生々しい!!
嗅ぎ馴れたスペ丸君の匂いの方が何倍も可愛く感じられるほどの臭気である!
小麦粉に混じったイースト菌の匂いは不快と言うほどではなかったものの、やはり強い匂いを放っていた。
缶コーヒーを飲むよりも先に、このサンドウィッチの匂いを嗅いでいたら、百パー腐っているものと勘違いして、間違いなくコンビニのカスタマーサポートセンターに苦情の電話を入れていたに違いない。
しかし、これまでの人生、普通に飲み食いしてきた食事である。
そう強く自分に言い聞かせ、少しずつ咀嚼し飲み込んでいく。
この程度のものが食べられなくては今後が思いやられる。
サンドウィッチでこんな状態なら、カップラーメンやカレーやピザ、ハンバーガーは一体どんなレベルになってしまうのだろうと考え、梅干しまで考えたところで大量の唾が込み上げてきて青褪めた。
慣れるんだ!いつも通り、いつも通りだ!と当分の間、自分を洗脳しつつ己の舌を馴致させていくトレーニングが必要になりそうだ。
考え方にもよるが、味覚がここまで鋭敏になっているのであれば、世界一の料理人やパティシエも夢ではないだろう。そんな風に肯定的に思ったりもした。
白い厨房服で勢いよくフランベする勇姿が脳裏に浮かぶ。
視覚、聴覚、嗅覚までは良かったが、味覚までとは…益々自分が恐ろしくなってくる。
少ない食糧を長時間かけて食べていると、近くで話し声が聞こえてきた。
「腹減った。食い物!食い物!」
そんな声が聴こえてくる。
浮浪者でも居るのかな?
しかし、周囲を見渡しても人は居なかった。
デビルイヤーの能力で、すごく遠くの会話が聴こえてきているのかな?とも思ったが、そうでもないようだ。
空耳か?気の所為か…?
そして何の気なしに視線を落としてその正体に気が付いた。
ん?なんだ、ハトか。
気にせずチビチビとサンドウィッチを咀嚼するが…徐々に背中に寒気が襲ってきた。
んんんなぁあああぁぁ!!ハトだとゥ!!??
5羽ほどのハトたちが口々に喋っていた!
「食い物くれ!食い物くれ!」
「腹減った!腹減った!」
リズミカルに首を振りながら余市の足もとに近付いていた!
半分思考停止しながらも、反射的に残り少ないサンドウィッチの切れ端を細かく千切って投げる。
「オレが先!オレが先!」
「もっとくれ!もっとくれ!」
足もとのハト達は紛れもなくそう言っている。
意識を切り離せば『ポッポッ…』としか聞こえないが、少しでもハトに意識を向けた途端に、確実にその鳴き声が意思となって伝わってくるのだ。
試しに『一列に並べ!』とか『もうやらない!』など声に発したり、こっちから意識を飛ばすよう試みたが全く通じなかった。一方通行である。
こいつらの言っているコトは分かるが、こっちが言っていることは全く伝わらないのだ。
ハトの真似をして『ポッポッ…ポッポッ』と発しながら意識を投げかけたりもしたがダメだった。
流石にそれはないよな。
てかハトの会話が理解できること自体、とんでもなく異様なことで、現時点で既にどんな動物学者や獣医よりも秀でていると言っても過言ではないだろう。医療知識は無いにしても途方もないアドバンテージである!
地べたに仰向けに寝転がって『よーし!ヨシヨシ!』とライオンたちと戯れる勇姿が脳裏に浮かぶ。
動物を沢山集めて余市王国!なんてのも実現できそうだ…やらんけどな。
今後はあらゆる動物の鳴き声に注意を傾けてみよう。
知能の高い哺乳類や霊長類なら面白い会話が聞けるかもしれない…。
山に着いたらターザン状態かも!
ア~アア~ァァ~!!!
ってか!この能力も青い珠によるものなのだろうな!
これまでは感覚的要素だったが、動物の会話まで理解できてしまうなんて…。
マジで自分が怖い!
と…とにかく、やることを済ませてしまおう。
立ち上がってトイレに向かう。言うまでも無くトイレの匂いも強烈である!
正直、少し糞もしたかったのだが、匂いに怖気付いて却下した…。
さっさと放尿を済ますと、今度は蛇口で上着の裾を洗う。
ゴルバチョフの糞とはいえ、彼に対してはそんなに怒りは感じていない。寧ろ凛とのふれあいを天秤に掛ければ猛烈に感謝しているくらいだ。
「もう終わりか?もう終わりか?」
「もっとくれ!もっとくれ!」
相変わらず後ろから数羽のハトがついて来るが、余市は無視して歩いていった。
上着を洗い終え、公園の自動販売機で口直しにと水を買い、再びカステラの飛び出たサドルに跨る。
水は味覚を集中させると僅かに石のような風味としょっぱさが感じとれた。それとは別にペットボトルのプラスチックの匂いの方が何気に気になる。
ギコギコ…ギコギコ…
公園を出てから国道16号を越え、狭山市街地も抜けて飯能市街地に入っていた。既に国道299号である。
そしてこの市街地を抜けた先は、もうほとんど山となる!
飯能の山を抜けた先に秩父市街地があり、目指す秩父の峰々はその先に聳えているのだ!
さっき公園で地図を見て知ったばかりではあるが、秩父市街地に辿り着くには、その手前で全長2キロにも及ぶ正丸峠の長いトンネルもクリアしなければならないらしい…。
と、とにかく進めるところまで進むしかない!
まずは秩父市街地だ!




