EP011 幸運のゴルバチョフ?
「山崎さん、だよね?」
余市は声をかけていた。
鈍臭い身なりではあったが、不審者と思われ、凛を怖がらせるようなことはしたくなかったのだ。
ひとりのジェントルとして、己の恥ずかしさよりも、凛のメンタルの方を気にかけたのである。
だが、急に名前で声をかけられた凛は些か動揺したようだ。
「えっ!?」
掬ったばかりの糞をポロッとシャベルから落としてしまった。
更に立ち上がろうとした時に、柴犬がグイッとリードを引っ張ったせいで身体がよろめいた。
「ダメッ!ゴルバチョフ!あっ!」
凛は何かに掴まろうとしたが、手が届く範囲には余市のママチャリしかなかった。
凛の手が、旅の荷物で重くなっている錆びた前カゴに掛かったため、余市も荷重バランスを崩し、遭えなく一緒に土手の草むらに倒れ込んでしまった!
幸い、土手の下まで転がり落ちるような青春展開だけは回避した。
本来、ここで二次元であれば『待ってました!』とばかりに主人公である余市のオテテが凛のオチチにまず間違いなくヒットして然るべきだし、描写的には指が喰い込むほどフィットしている筈でもある。
お約束ってやつだ。
多少イレギュラーしたとしても、凛の大胆M字開脚が目前に展開されていなければならないし、余市とて必要悪の出血として、鼻血を30センチから50センチ程度は噴出していなければならない展開だ。
万が一そのどちらにも該当しないようなことが起きたならば、視聴者ないし読者的にも断じて許されない糞展開であり、作者も大いに猛省すべき忌々しき事態であると言えるだろう!
…しかし、ここで三次元、即ちリアルとは常に残酷無慈悲なものであるということを改めて思い知らされる。
どうやら余市は、ゴルバチョフとかいう仔犬がひり出したばかりの新鮮なブツを、あろうことか身体側面で激しく練り潰してしまったようなのだ。
重要ではないが重大なことなのでもう一度言う。
ヌルッという一瞬でそれと分かる生温かくて嫌な感触が、前触れも無く余市の左下半身を襲ったのだ!
更に簡潔に言うなら、胸ではなく糞がクリティカルヒットしてしまった!
ついでに大袈裟にも言わせて貰うならば、強姦と青姦と獣姦と黄金のカルテットの高波が、笹舟に乗っていた北与野在住の真性童貞であり仮性包茎の哀れな宮城余市(職業:浪人生 年齢:18)を無情にも四方から飲み込んだ事件だった!
ひと言で片付けるなら、そのまんま糞展開である。
「もう!」
と凛はゴルバチョフを睨むと、快便ゴルバチョフ君は『く~ん…』としおらしくなった。
そして凛は気付いたように余市の方に向き直り、
「あの、大丈夫ですか?」
と声をかけてきた。
生まれて初めて凛の方から声を掛けられた瞬間である!
「だ、大丈夫…大丈夫、急に声かけてゴメン。ははっ」
余市はゆっくりと起き上ったが、案の定、自分の左下半身から猛烈に香ばしい悪臭が立ち昇っているリアルに気付くことになる。下半身とはいえ正確には上着の裾部分ではあるが、鼻骨を抉るその魔臭気の濃度から察するに、相当な深手とみた。
「あら?確か…宮崎くん…だよね?」
ここで漸く凛は余市だと気付いたようだ。が、宮崎ではない。
「あ、うん。宮城だけど…この辺に住んでるんだね。犬の散歩?随分早いんだね。御苦労さま…なんつって!」
余市は平静を装って答えたが、久しぶりの異性との会話であり、それも相手が凛ということもあって、緊張して不必要に早口で沢山喋ってしまった。
たが、凛は質問しておいて余市の言葉を全く聞いていないのか、
「あーっ!汚れちゃってる!ゴメン。ちょっとじっとしてて!」
と、余市の上着の裾の汚れの深刻さに気付き、慌てて羽織っていたパーカーのポケットからハンカチを取り出した。
そんな凛の行動を見て、すかさず余市も反応する。
「あっ!ティッシュが確かあったはずだから」
今度は余市が慌てて上着の内ポケットをまさぐる。
ここで初めて自分の指が震えていることに気付いた。
緊張していたために、ティッシュと一緒に何かをポケットから転がり落としてしまった。
凛が先に屈んでそれを拾うと、
「コレ落ちたよ」
と余市の方に手を伸ばして差し出したが、その手に握られていたのは、青臭い匂いを放つ丸まったティッシュではなく、青白い光を放つ丸い珠の入った巾着だった。
そう。それは昨日あのフリーマーケットで老婆から貰ったブツであり、その巾着の口の部分の革紐が少し緩んで、そこから光が漏れていたという寸法である。
まだ辺りが暗かったために、その鈍い光に気付けたのかもしれない。
旅の準備をしている時に置き場に困って、ひとまず内ポケットにしまっておいたことを、今まですっかり忘れていた。
「えっ!何コレ?」
差し出した自分の手を見つめながら凛は訊いてきた。
その光に驚いたのは余市も同じだった。茫然と凛の問いにも答えず無言で巾着を受け取った。
凛は、余市が巾着と一緒に落としたポケットティッシュからティッシュを摘み出すと、余市の汚れた下半身を拭き始めた。
余市は巾着から恐る恐る珠を取り出してみた。すると更に強い光が辺りを照らした!
光っていることを除けば、珠の内部は相変わらず半透明のままで、動きのようなものは見てとれないが、直に手に握りしめた瞬間、手首が熱くなり何かが体内に勢いよく流れ込んでくるような感覚があった!
身体中が電気ショックを受けたように、ビクッ!ビクッ!と2度3度と痙攣し、よろけそうになるのを何とか堪えた。
そして次の瞬間、異変に気が付いた。
珠の異変ではなく、余市自身の異変だ!
まだ暗いはずの辺りの景色が、急に鮮明に見えてきたのだ。
草の一本一本や遠くまで続く道の輪郭、土手の遥か彼方に施設された運動場を囲う金網の針金までもが、くっきりと見えてしまっていた!
それだけではない。意識を傾けてみるとありとあらゆる香りも感じ取れた。
初めはゴルバチョフの糞の強い臭いが鼻孔を刺激したが、違うモノに意識を傾けると、例えばアスファルトや足元の草、自転車の錆に至るまでものすごい情報量が余市に押し寄せてきたのだ!
そして男とは実に業深き生き物である…。
この河川敷で勃発した桶狭間のような奇臭戦で、落馬したところを敵の放った軍用犬に左太腿四頭筋の上部を噛みつかれ、深手を負いながらも逃げ延びた勇敢な宮城伍長、そんないち兵士を懸命に治療してくれているのは、戦地に派遣されたばかりの看護班を率いる若きナース長、凛である。
そんな天使のようなナース凛に向かって、今、宮城伍長は遠慮がちとはいえ嗅覚と言う名の邪悪な意識を傾けようとしていた…否!既に堪能し始めていたのだ!
…ん!お?…っくぅ~!!ムフホォォ~!!!
と、とんでもない刺激である!
シャンプーや石鹸、衣類の洗剤などの多種多様なフレグランスは勿論、僅かな皮脂の匂いや吐息の香りなど、ナース凛本体を由来とする動物性パヒュームまでもが克明に分離されたシンフォニーを奏でながら鼻孔から脳に次々と流れ込んできたのだ!!!
ナ…ナナナース凛よ!キ、キミ素晴らしいよ!素晴らし過ぎるよおぉぉー!!!
こ…これがあの二次元や活字では決して知ることのできない女性フェロモンってやつ…なのか!?
百聞は一見に…もとい!一嗅にしかずじゃああぁぁーーー!
匂いの洪水に身を浸しながら心の底から叫ぶ!
後から思えばこの時が、余市が正式に匂いフェティシスムに目覚めし記念すべきデビューであったと言えるだろう。
それは同時に、二次元電脳世界に恋い焦がれながらも、三次元にしか存在せぬ感覚に魅了されてしまうという、何とも皮肉なパラドックスでもあったのだ…。
余市の官能を否応なしにこれでもか!と刺激してくる凛の肉体。
彼女が動く度に何度となく押し寄せて来る色欲という名の荒波に飲み込まれぬよう、理性と言う名のか細い流木に必死になってしがみつき抗って耐える余市!
一瞬、クラクラとその場に倒れこんでしまいそうになったが、ハッと意識を奮い立たせた!
また軍用犬もといゴルバチョフの糞でも踏んだら目も当てられない。フンだけに!…ちと寒いか。
そして凛ひとりに黄金プレイの戦後処理を任せていたことに気付き、慌てて一緒に拭き始めた。
「その光っているの何?」
気になるのか、再び尋ねてくる凛。
余市は動揺しつつも昨日のことを手短に、フリーマーケットで怪しい老婆に貰った珠、という主旨だけを話して聞かせた。
だが、たった今、自分の身にに起こっている異変については言及しないでおいた。
おそらくはこの珠が原因なのだろうが、確信がまだ持てていないことと、何より凛のプライベートな秘匿性の高い匂いの由来成分を、無断かつ無料で嗅いでしまったという畏れ多き背徳的なこの状況下では、とてもじゃないが切り出せない!というのが正直なところだ。
いち百姓が大奥の御化粧の間を無断で覗いたとなれば打ち首ものである!
ふーん、という表情で糞の付着した余市の下半身側面と青く光る珠を交互に見つめる凛。
態度こそ素っ気なかったが、その妖しく潤った眼光から察するに、かなりの興味を覚えた様子だった。ひょっとしたら先ほどからの余市の動揺を、その鋭い洞察力で感じ取ったのかもしれない。
「服、汚しちゃって悪かったね。…ところでこんな時間にどこ行くつもりだったの?…あ、言いたくなかったら別にいいんだけど」
「いや、オレ入試全部ダメで浪人決定したからさ…。本格的に勉強始める前に、軽く気持ち整理しよっかなって、それで数日ひとり旅でもしようと思って…あはは…変かなやっぱり?」
「ふーん。別にいいんじゃない。てか何だか意外…」
「そう…かな?」
「宮崎くんて、何て言うかそういう思い切ったことするタイプに見えなかったから」
会話をしながらも、これまでは感じることのできなかった凛の多くの悩ましい情報が、余市の五感を通じて侵入してくる…。が、宮崎ではない。
「た、確かに…自分でもちょっと驚いているよ。あ、あとオレ宮城だから…」
ミディアムショートの美しい黒髪が、サラサラと風に靡く音まで聞こえてくるようだ。会話中の口や顔の微妙な筋肉の動きなども何だかスローモーションでも見ているような感覚である。
起きてからまだそんなに時が経っていないのか、高めの体温すら感じ取れるほどだった。
オ、オレはいったいどうしちまったんだ!?
単なる思い込みか?否!否!!さっきまでは全くこんな感覚はなかった筈だ。
…やはり光った珠を握って何かが身体に流れ込んできてからとしか考えられない!
その時、何気なくゴルバチョフの方を見た。
彼は『くぅーん、くん』と鳴いていたが、何故か、余市には明らかに『早く行こうよ!早く』と言っているように思えた。おそらく気の所為だろう…。
「あっゴメン。宮城くんていうんだ。うん、覚えた」
3年間ずっと宮崎だと思われていたのかよ…。生真面目に常に名札もしていたというのにぃ!
仮初の寂寥感が心に吹いたが、気を持ち直して爽やかな笑顔を作って見せた。
「…それじゃ、オレ行くから」
倒れた衝撃で曲がってしまったカゴを直しながら、凛に背を向けゆっくりママチャリを転がし始めた。
「うん、気をつけて。良い浪人生活を。なんて冗談」
凛の声がすぐ後ろで聴こえた。顔は見ずともニヤリと笑ったのが想像できた。
皮肉かよっ!って、そういえば凛の進路はどうなったんだろうな?きっと有名な女子大かどっかの文学部だろうな…。
後ろで見つめているであろう凛に魅せつけるようにライダーマン方式で颯爽とサドルに跨る。
キ…キマった!
勿論、振り返ったりはしない。去りゆく男の美学である!
余市はギコギコとゆっくり進み始めた。
とんだアクシデントに見舞われたものの、こんなに沢山、おそらく高校生活3年間での累積会話時間よりも多く凛と話せたことは幸運であった。
今更ながらとはいえ名前も覚えて貰えたようだし…な。
ゴルバチョフ君の香ばしいウンコは幸運!なんちゃってー!
ギコギコ…ギコギコ…