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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

春雷

作者: フェリシティ檸檬

夜は足元を這うように訪れる。

顔を上げると手元を照らすテーブルランプのみが部屋の中の唯一の灯りであった。

伸昭のぶあきはパソコンの表示ではなく壁に掛けられた四角い時計を仰いだ。午後八時過ぎ。しびれるような目の奥に直接触れるかのごとくまぶたの上を指で押した。

そろそろやってくるかもしれない。

薄暗い部屋の中、座布団に座ったまま玄関の方を見やった。風通しがよいのを好む伸昭は、あらゆるドアを開け放しているため、玄関の茶色い扉が今いるリビングからでも目に映った。煙草を吸いたくなった。だが手元にはない。そもそも禁煙しており、ストックを避けていた。代わりに冷え切ったコーヒーを口に含み、苦みを舌の上で転がした。

喉の底へとコーヒーと言うよりコーヒーだったものと言っていい液体を落とした瞬間、チャイムの音が、静まり返り、機械類のモーター音だけが満ちていた空間に響き渡った。

コ、とカップを置くと、伸昭はよいせと立ち上がった。座りっぱなしだったせいで足の感覚がおかしい。運動不足だ、と毎日思うことをまた思いながらもう一度鳴ったチャイムの方へと向かった。

玄関の、丸い、橙の灯りを灯す。鍵を開け、ドアを開いた。

少しだけ上に相手の目はある。心持ち上目遣いで伸昭は来訪者を見た。

「毎日くんなよ」

 ドアノブを掴んだ男は、既に中に入り姿を消しかけている伸昭の後ろから滑り込むようにして部屋へ侵入した。がさりがさりと音を立てて。

裸足でフローリングをぺたぺたいわせ、元いたところへ戻ろうとしていた伸昭は、背後から聞こえるビニール袋の音に振り向いた。

オレンジ色の光の下で、紺の細身のスーツを着た男は靴を脱ぎながら自分の手からぶら下がっている仕事用の鞄と白い袋に目を落とす伸昭を見た。

「これ?」

 部屋に上がり、大きな足音を立てつつ伸昭に近付く。下にまで聞こえる、と何度目かの注意を伸昭は相手に伝えながらも、視線は目の高さに掲げられたビニール袋に注いでいた。

「なんだと思う?」

 にっこり微笑み、スポーツマン然とした色黒の顔を崩す博喜ひろきを伸昭は見上げた。

こうしてここにこの男が訪れるようになってから、ひと月が経っていた。



そこは居心地のいい飲み屋だった。

ほとんどバーと言ってよかったが、つまみが豊富で、バー特有の気取りがなかった。

しかしきちんと清潔でほどよく洗練されており、正体をなくした酔っ払いでも二軒目や三軒目などに来るにはさすがに及び腰になるようなたたずまいがあった。

伸昭は常連だった。

仕事に疲れ、食事の準備をするのも億劫だと、シャワーを軽く浴びましな格好に着替えるとマンションを出、よくそこに行った。眼精疲労から来る頭痛と肩凝りがうまい酒と肴で多少ほぐされた。

春、真夜中、雷が遠くで鳴っていた。

春雷か、と伸昭はひとりごちた。

長野の日本酒を飲んでいた。雷のせいでよけい辛く、うまかった。

烏賊の刺身を大葉でくるんで口に運んでいると、隣の席の男の靴が目に入った。

その男はサラリーマンらしい風体で、ふたり連れ、同僚と思しき男相手に一生懸命身振りを交えて話していた。

まだ若く、二十代半ばから後半と伸昭は判断した。

しかし靴は若さを感じさせるそれではなかった。

その日は締め切りを終え、疲れが尋常でなかったせいもあり、酔いが回るのが早かった。構わず小さなグラスに升の分を空け、喉を焼く酒をこくこくと干した。そうしながら鈍く光る男の靴からは目を離さなかった。

男の連れが手洗いに立ったらしかった。伸昭はすっかりアルコールに浸った頭で、赤茶に光る先の尖ったビジネスシューズを眺めながら、口の片端をくいと上げた。

「鰐皮か…」

 心のうちだけでなく、ほんとうに声に出していた。

ふい、と男が伸昭を向いた。

カウンターに並んだふたりは、お互いの顔を見合った。

スポーツマン風サラリーマンは自分の足に目を向け、また顔を上げて伸昭を見た。

「そうです。鰐皮です」

 かすかに赤みを持った、しかし地の色のせいで茶色みが増したようにしか見えぬ顔を緩ませて男は言った。

呆気に取られ、伸昭は口に隙間をこしらえたまま男の淡い笑顔を見るのみだった。

「はい、舞茸のてんぷらー」

 店主の太い腕が伸昭の前に伸びてきた。ほぼ反射的にその皿を受け取ると、かりっと揚がった黄色い衣を見つめて男は呟いた。

「わ、うまそー」

 そして伸昭に、ね?と言うように視線を戻した。目に柔らかな照明が反射してビー玉のようだった。髪も眉も瞳も黒く、濁りがなかった。

 連れが戻り、そろそろ行こう、と男に告げた。ああ、うん、と言って立ち上がり、ジャケットに袖を通して鞄を手にすると、座った伸昭に男は目を落とした。

ぱちぱちと瞬いて伸昭は男に顔を仰向けた。

「ここ、よく来るんですか?」

「…え?……ああ、まあ」

「そうですか」

 じゃあ、と言い残すと、不審げな表情の連れの方へと体の向きを変え、ゆっくりと歩き去った。

一連のできごとに虚を突かれ、伸昭は狐につままれたような心地で箸を手に取り、冷めないうちにとてんぷらを齧った。常と変わらず、ここの店主はてんぷらを揚げる腕もなかなかだった。



その後何度か足を運んだのち、あるとき再び店の引き戸を開けると、あの男がカウンターにいた。まったく同じ席に。

以前隣り合った際腰掛けていた席が伸昭の定位置だった。店はかなり混んでいたし、他の席に行くのはなんだかしゃくだった。

しかたなく男の隣に腰を下ろすと、つい、と男はなんのためらいもなく伸昭を向いた。伸昭と分かると、前回見せたのと同じ笑顔をまた作り、あ、来ましたねえ、と言った。

 当然戸惑いながら、伸昭はほとんど無意識に、店主に向かっていつもと同じ注文をした。

「今日も履いてますよ」

 ビールがカウンターに置かれると、男はほら、と言って視線を下げ、椅子の下の自分の爪先を上げた。

こいつ何か勘違いしてるらしいな、と伸昭は考えた。面倒臭くて盛大なため息を漏らしそうになる。

「鰐皮、好きなんですか?」

 グラスに手を伸ばしながらしぶしぶ伸昭は問うた。

「うーん、そういうわけでもないんです」

 芳ばしい香りと味が伸昭の鼻と口を通った。

「これ、なんとなく気に入って」

 趣味悪いな、ともう少しで言いそうになるのをビールの力で押しとどめた。

「でも初めてこないだそれを言われて。なんか嬉しかったんです」

 男は食べかけのごま油のかかったサラダをむしゃむしゃと口に入れた。食べることの似合う男だと伸昭はぼんやり思う。

 グラスの底近くを掴んでいた指を離し、お通しに手をつけようと箸を取ったとき、

「爪」

と、男が魅入られたような黒目で伸昭の手を見ながら言葉を発したのを聞いた。

「え?」

 箸を持った手を宙に浮かせていると、声は続いた。

「爪、すごくきれいですよね」

 箸の挟まった右手の爪を上に向け、伸昭はまじまじとおのれの指の先についた硬い部分に視線を落とした。

「そう、ですか?」

「はい」頬杖をついた男はやはりビー玉のようなまなこであった。「前舞茸を取った手を見て、にせものみたいにきれいだと思ったんです」

 夢でも見ているかのような声音と顔のさまで、伸昭はまた、なんと言ったらよいか分からなくなった。言葉を扱う仕事に就いているというのに。



何か、ふたりの間にあったわけではない。

ただ、再会した夜、男は伸昭の家についてきた。そして泊まり、朝仕事にそのまま行った。

繰り返すが、何もふたりには起きてはいない。具体的、肉体的な行動では。

そして幾度も同じことが繰り返された。

男の名は、小林博喜。不動産業。二十九歳。

みずからそう名乗ってくるので、伸昭もしょうがなく返した。

平田伸昭。翻訳家。三十七歳。

博喜が自分の後ろをてくてく辿ってくるのを、伸昭は止める手立てがなかった。彼に相対すると、何故か毒気が抜かれ、怒るのが馬鹿馬鹿しくなった。だから放っておき、好きにさせた。

きれいな爪だ。

口癖のように博喜は言った。ほとんどひとりごとだった。

資料が詰まれた伸昭の住むマンションの一室は、他人が訪れることなど稀で、久々に自分以外の人間がいることに伸昭も部屋も慣れるまで時間を要した。

だいたいどうして、この若造は、俺と差し向かいで酒を飲んだり、食べ物をつまんだり、うちのシャワーを借りたり、ソファで眠りこけたりしているのか。

眠りから覚めベッドを抜け出すと、出社した男の走り書きと、彼の作った朝ごはんがテーブルに置いてあった。

よくしゃべる男だった。

仕事にも有効だろう、きっと向いた職なのだろうとひとり得心するほど、男らしい朗らかさが全身から溢れていた。自分にはないものだと伸昭は博喜の姿や声や話すことにさらされるたびどこか恥ずかしくなった。学生時代、似たような気持ちを抱えたことがあったような気がした。

この訪問はいったいなんなのか。

質問を投げかけたい思いと、それをするのが怖いという思いが伸昭の中で相克していた。

酒が少し入り、伸昭の爪から始まり、伸びた癖毛や生っ白い肌、垂れた目尻やぼこりと浮き出た鎖骨、裸足のかかとなどをあのビー玉の目玉に博喜が映し出すと、伸昭は金縛りにあったようになった。虎に目をつけられた小鹿が震えてその場に一瞬立ち尽くすテレビの映像が毎回頭をよぎった。俺はバンビかよ、とその都度自分に突っ込みを入れた。

しかし視線だけで、言葉では決して何も、博喜は語ってこなかった。お互いの間も一定の距離が必ずあった。

だから逆に、伸昭には何もなすすべがなかった。博喜のビー玉に吸い込まれながら、彼の話に耳を傾け、思うところをぽつぽつと話すだけだった。



玄関に通じる廊下にふたりは棒立ちになったまま、ビニール袋を挟んで視線が絡んでいた。

「当ててよ」

 まだにこにこと博喜は笑みを浮かべていた。

「わかんねえよ」

「駄目だな。直感で勝負しないと」

「いいから教えろよ」

 いらいらした。

こんなしようもないやりとり自体にも、毎夜のように通ってくる、平安時代の男にも似たふるまいをしている自分より年下のサラリーマンとそれに振り回される自分自身にも、伸昭はいらいらした。裸足の足の裏が床の表面にぺとりと接着されたようだった。

「分かったよ」

 さ、と袋を持った筋肉質な黒い腕を伸昭の方に差し出し、見てみなよ、と博喜は言った。

不承不承指に輪の部分を引っ掛け、伸昭は中を覗いた。

「……舞茸のてんぷら」

「じゃーん」

 声が降ってくると同時に、頭のあたりに何かが掲げられた気配を感じ、伸昭は目を上げた。

顔の一寸先に、黄色い粉の塊ようなものが先にたくさんついた植物の束が、あった。

さわやかなにおいが鼻を抜けた。

「ミモザ」

 それは光を飛ばしていた。

太陽のかけらをぱらぱらと全身から。

「駅で売ってたから、どっちも。てんぷらはあの店みたいなきれいなきつね色じゃないから、なんか物足りなくてこの花見て、思わず買った」

 花の向こうにいる博喜を呆けた顔で伸昭は見た。

「……お前」

 上下の唇が擦れる音まで聞こえてきそうであった。

「…お前、何したいんだよ」

 腕を放るように博喜は花を持った手を下げた。笑いは一掃されていた。

「……爪」

 また、目はただのガラスでできた潤んだ玉になった。

「爪、触りたい」

 首から耳にかけておそろしい速さで熱が駆け巡るのを伸昭は感じた。そんなことは久々で、突然風邪をひいたかのような錯覚すら覚えた。

 ひた、と靴下の足を博喜は一歩伸昭に寄せた。

花束とビニール袋と仕事鞄を片手に持ち、もう一歩、足を進めた。

伸昭が相手の忍び寄る足を俯瞰すると、その奥にある光るあの靴が目に入った。

濃い毛の生えた指が伸昭に向かって伸びた。

「代わりに」

 人差し指を握られながら、伸昭は顔を落とした状態で弱弱しく言い放つ。

「代わりにあの靴、もう履くな」

え、と零し、博喜は四角い溝のたくさん走ったお気に入りの靴を一瞥する。

彼の苦悩を体現したようなわしゃわしゃの頭を向ける伸昭を向き、あれ、嫌いなの、と尋ねながらくっと掴んだ指に力をこめた。

びくりと体を震わせ、

「……うん、嫌いだ」

と駄々をこねる子供のように伸昭は答えた。

「…分かったよ」

 でもそれじゃあ、と続けた博喜に、伸昭はおそるおそる顎を上げた。

爪だけじゃ足りないな。

そう博喜が宣言し、ほんとうの夜は始まった。



                 おわり






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