32話
夏の間、トムとエダと共におこなったハーブの勉強は、それはとても楽しいものだった。トムは知識も豊富で、アリシアに様々な効能や使い方を教えてくれた。それを実際にヒナに食べさせてみる。鳥は育成期間が短く、食用の鳥の場合、ヒナからかえって50日ほどで出荷されることもあり、すぐに結果が分かることもアリシアにとっては良かった。
「トムさん、次はこのシナモンを加えてみたいのですが」
「そうか、では明日かえるヒナからはシナモンを加えてみよう」
「はい。ところでトムさん、先日お話ししたのですが、ハーブ鳥はトムさんとエダさんのお名前を付けてブランド鶏肉として売り出すつもりです。どのような名前が宜しいですか?トムとエダのハーブ鳥、という名前はいかがです?」
「そのことだが……わしらは名前を付ける権利はいらないよ」
トムは申し訳なさそうにアリシアに告げる。エダも横で深く頷いていた。
「え?ですが……高品質のものは高く売れますし、商品名を付けることでブランドとして売り出したいのです。もちろんその分お支払いさせていただきますし……」
――お金にはあまり執着せずに、名前を付けたくない、だなんて……。……もしかして……そうよ!やはり!実家に追われているんだわ!愛の逃避行!
アリシアはつい手を握りしめてしまう。アリシアの頭の中でトムとエダの愛の劇場が開催されていた。
「アリシア様?」
「え?えーっと、こほんこほん。では、ご自身のお名前ではなくても良いので、何か良いお名前を考えていただけますか?」
アリシアはトムの言葉で我に返り、同時に恥ずかしくなった。顔が赤くなってしまったかもしれない。
「そうか、それならキルスハーブ鳥でどうじゃ?」
「え?そんな……普通の名前でよろしいのですか?」
「あぁ」
トムの言葉に、横でエナもにこにこしながら頷いている。キルスハーブ鳥、まさにキルス領で飼育されているハーブ鳥、ということでわかりやすいネーミングだ。
――それもそれで……ありかもしれないわ。
「わかりましたわ。そう致します。ありがとうございます」
キルスハーブ鳥は従来までの鶏肉と違い、臭いも少ないため、繊細な料理を提供する高級レストランに売り込むことにした。これが思いのほか上手くいった。料理人は喜んだし、試験的な提供ということもあり比較的安値で提供したため、店の経営者も喜んだ。たちまちキルス領の金持ちの間では評判になり、直接キルス伯爵家にキルスハーブ鳥の肉を買いたいという問い合わせまで来るようになった。
これに気を良くしたアリシアは、将来的には首都オルカーの店、そしてオルカンド王国全体へと広げていく予定を立てることにした。
「トムさん、エダさん、キルスハーブ鳥がとても評判が良いのです。生産量を増やしたいので、何人か従業員を入れたいと思います」
「わかった。従業員についてはアリシア様にお任せするよ」
「ありがとうございます。それと――」
アリシアがトム、エダと今後の規模拡大について打ち合わせをしていると、エナが手紙を持って姿を現した。
「エナ?」
「はい。アリシア様。どうやらミリー様が牧場を見に来たいとおっしゃっているようです」
「まぁミリー様が?」
――ハーブ鳥のことかしら?それとも……
「トムさん、エダさん、こちらに――」
トムとエダにミリーの視察については話をしようと振り返ったアリシアは、トムとエダの顔を見て驚いた。トムは無表情になり、エダは顔が青白くなっていた。
「トムさん?エダさん?」
「あ、あぁ。……もしかしてコーエン伯爵のミリー様が来られるのかな?」
トムの声は若干震えているような気がする。エダも手をぎゅっと握りしめている。無意識だろうか?
――コーエン伯爵家と何かあるのかしら?お父様からは何も聞いていないけど
アリシアはトムとエダのあからさまな態度に不審に思う。
「えぇ、牧場の視察に来たいとおっしゃられているのですが」
「あ、あぁ、そうか」
「案内は私の方でしますけれども、キルスハーブ鳥について説明が必要な時はお願いしたいのですが」
「あぁ……わかった」
トムはしぶしぶ頷いてくれた。アリシアは二人の態度の意味が分からなかった。
その夜、アリシアはキルス伯爵の部屋に呼ばれた。
「お父様、お呼びでしょうか」
「アリシア、最近はハーブ鳥が好調のようだね」
キルス伯爵は相変わらず笑顔でアリシアを迎える。
「はい。トムさんとエダさんのおかげですわ」
「そうか。良かった。そのことについて呼んだのだ」
「何かございましたか?」
アリシアは昼間のトムとエダの不審な態度について思い出していた。
「今度コーエン伯爵令嬢が牧場に視察に来るだろう?」
「はい。」
「その時にトムとエダは顔を出すことはできない」
キルス伯爵は真剣な顔をしている。アリシアは口をかしげてしまった。
「……何かご事情がおありですか?」
「そういうことだ」
キルス伯爵はそれっきり口をつぐんでしまった。事情についてはアリシアに語る気はないらしい。
「わかりました」
「あぁ、よろしく頼む」
「それでは失礼いたします」
アリシアはキルス伯爵家の部屋を出ると、手で胸を抑えた。
――もう間違いないわ!愛の逃避行なのよ!やっぱり!コーエン伯爵家の出身なのかしら?もしかして……エダさんが、という可能性もあるわね。知りたいわ!
アリシアは歌劇で見たような愛の物語が間近にあることに胸を躍らせながら、自室へと戻った。
「エナ、コーエン伯爵には兄弟はいらしたかしら?」
「そうですね。弟さんと妹さんがいらっしゃいます」
「その中で行方不明の方は?」
「……」
エナは黙り込んでしまう。
「どうなの?」
「いらっしゃいません」
「え?」
「何かございましたか?」
――おかしいわね。トムさんかエダさんのどちらかがコーエン伯爵家出身だと思ったのだけれど。
「アリシア様、なにかまた勝手な物語を妄想してらっしゃいますね?」
「え?」
アリシアはエナに見つめられてドキッとしてしまった。
――エナ、するどいわ
「妄想ではないのよ。現実になってしまったみたいなの」
「……」
「お父様から、ミリー様とトムさんとエダさんを会せないように言われたのよ」
アリシアはエナに対して事情を説明する。
「確かにそれは変ですね」
エナは首を傾げた。
「絶対に関係者だわ」
「しかし……コーエン伯爵家に本当に行方不明の方はいないと思います。コーエン伯爵のご兄弟もそうですし、コーエン伯爵のご両親にも行方不明の兄弟がいるとは聞きません」
「そうなの?おかしいわね……」
アリシアは自分の推理通りでないことに首をかしげてしまった。
「考えすぎではないですか?」
「そうかしら?」
――考えすぎ?でも納得できないわ
「昔コーエン伯爵家の領地で働いていただけかもしれませんよ」
「う……言われてみるとその可能性もあるわね」
「はい」
「でも……愛の逃避行だったら、なんてロマンチックなの!」
「……」
アリシアは心の中で期待していた。二人の愛の逃避行を。そしてトムとエダの愛のために、ミリーには会せないように協力しようと心に固く誓ったのだった。




