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どうやら僕は命の危機にあるようだ。絶えず止むことのない悲鳴が空間を支配する中、他人事のようにそう思った。握り締めたバットの固くて冷たい感触がこれが夢ではないことを唯一証明してくれているようだった。空は雲一つない青空だというのに、視界は赤一色で染まっていた。むせ返るような濃厚な鉄錆の匂いが鼻腔を刺激し、現実を見ろと攻め立ててくるようだった。いや、既に現実とは向き合っているつもりだ。
その証拠に僕の前には『ソレ』がいた。白く濁ったその瞳はどこを見ているのかも分からない。血と脂で妙に光っているその口からは低い唸り声と黄ばんだ歯、そして床と同様の赤色で染まった歯茎を覗かせている。皮膚は腐り落ち、えぐり取られたように肉と骨をむき出しにしてもなおソレは動きを止めることはなかった。致命傷、死んでいることが当たり前のその状態がソレらの普通であるかのように闇の底から這い上がってくる。血で汚れてしまっているがその制服は間違いなく、僕と同じ高校の生徒であると同時にかつては人間であったということを認めざるおえないものだった。
この光景が映画の撮影なら、近年のメイク技術の進歩に僕は立ち上がり惜しみない賞賛の拍手を贈るだろう。そう、まるでソレは映画なんかでよく見る、いや、映画よりリアルなゾンビを見ているようだった。偽物より、本物で下劣で醜悪で気持ちの悪いものであった。だが、完全に否定するつもりもなかった。恐怖と混乱に乱されている僕の心の隙間に僅かな喜びがあった。それはゾンビなんかよりも醜悪なものだった。
『ソレ』はゆっくりとだが確実に僕に近づいてきた。僕はその時どんな顔をしていたのだろう。恐怖に歪んだ顔か、涙をこらえていたのか、戦う決意をした強い意志を持つ表情か、それとも笑っていたのだろうか。分からない。けれど振りかぶったバットはやけに重くて、ソレの頭を潰した感触は一瞬なのに生々しかった。命の重さは軽いのか重いのかそんな事を考えるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいあっさりとしていた。
世界はもう壊れてしまっていた。
***
世界が壊れたその日を語る前に、まずは僕という人間を語る必要があるだろう。僕の名前は卯ノ花咲夜。女みたいな名前だがこれでも男だ。都市部にある私立高校に通う普通の高校2年生だ。
成績は中の中、運動能力も普通、もちろんこれといった目立つ才能もないごくごく普通の高校生だ。生活態度も優等生というわけでもないが、かと言って不良や問題児というわけでもない。学校という集団の中では空気のような存在感だ。皆を引っ張っていこうというリーダーシップもないし、かと言って目立ちたがりでもない。根暗と思われることもなければ、いじめの対象になることもない。教室にいて、会話の中で適度に相槌を打ち、一定以上の友好関係を作らないクラスに一人はいる影の薄いやつ、そんな人間だ。いてもいなくても問題ない、そんな風に周りから思われているだろうし僕自身もそうあろうと努力してきた。
目立つことなく平穏な学校生活を過ごす、僕がこの高校に入学した時に立てた目標だ。そんな僕が授業をサボって屋上にいるなんて教師に目をつけられるような愚行を犯すのは、幸か不幸か世界が壊れたその日だった。晴れ渡った青空を見上げた僕の脳内は後悔で渦巻いて、そのうっすらと空いた口からはため息が漏れる。進級してまだ一ヶ月しか経っていないというのに、そんな思いを込めて目の前の女に恨みがましい視線を送るが、彼女は涼しい顔で僕の視線を受け流していた。
「何の用ですか?生徒会長さん」
授業をサボらせ、屋上へと無理矢理連れ出した張本人へぶっきら棒に言った。この女、船津千景は生徒会長であるにも関わらず僕を呼び出したようだ。僕の一つ上の先輩にあたる高校三年生の彼女は切れ長の瞳で僕を見あげた。男子の平均的な身長よりやや小さい僕より頭一つ分小さい彼女は校則に従い、染めていない長い黒髪をサイドで結んでいた。制服も改造する事なく、キチンと着こなし優等生という雰囲気を醸し出していた。
「暇だったから。卯ノ花君を呼んだの」
表情を変える事なく真顔でそう言い切る彼女を僕は馬鹿なんじゃないか、と思った。3年生は大学受験のために、この時期から勉強に集中しなければならないはずだ。いや、より難関な大学を目指すならもっと早くから勉強しても間に合わないだろう。だが、そこまで考えて船津千景は特別だという事を思い出した。
特別優遇生徒、彼女は教師達からそう呼ばれている。全国模試では常に5位以内に入るほど成績優秀、運動部からの勧誘が後を絶たないほど運動神経抜群、その小柄ながらも大和撫子を体現したかのような容姿を持つ才色兼備な彼女は学校公認で授業を免除されていた。彼女は余りに天才すぎて、教師よりも知識があるため授業が成立しないと言うのが現実だ。そのため、彼女は僕ら一般生徒がつまらない授業を聞いている時間、学校の何処かで自由を謳歌しているのだろう。
「そんな事で僕を呼ばないで下さいよ」
僕は迷惑そうに言う。少々きつく感じる発音になってしまった。そんな彼女の我が儘で僕の平穏を壊されてたまるか。一刻も早く教室に戻らないと僕は全校生徒から目をつけられてしまう。その理由としては、相手が船津千景であることだろう。僕だって相手が彼女でなければ、穏やかに事を収めようとするだろう。前述でも述べたように彼女は類稀なる才能とその容姿、そして何より他人を見下すことなく、誰にでも優しいその性格からこの学校の全校生徒や教師たちの信頼を獲得している。その人望の凄まじさは去年の生徒会選挙ではもう一人の候補者に票を一割も与えずに圧勝するという快挙を成し遂げるほどだ。また、彼女の人気は男女問わずあり、非公式のファンクラブが出来るほどで、授業をサボって彼女と密会していたなどと噂が広まれば僕はこの学校での居場所がなくなる。そのため、僕は急ぎ教室へ戻り何事もなかったことを証明することが最善手なのだ。
「失礼しますね」
僕は逃げるように屋上を後にする。冷たい鉄のドアを押し開けた。グラウンドから体力測定を行っている他クラスの生徒たちの声が聞こえる中、それに混じって、待って、という彼女の声がしたが僕は無視してドアを閉じる。一瞬見えた彼女の顔は悲しそうだった。
***
教室へと戻るため、足早に廊下を進んでいると見知った顔のやつが窓際の壁に背を預け佇んでいた。髪は金髪に染め、眼光は鋭い鷹のような男だった。制服は改造されており、そいつの左腕には木刀がにぎられている。船津千景とは真逆の彼は不良と呼ばれる学生だ。その中でも彼、近藤克己はこの周辺の高校の不良達の頂点に立っていたヤンキーだ。彼は僕の姿を見つけるとその厳つい顔を柔らかくし、筋肉質な右腕を挙げ、手を振ってきた。
「お勤めご苦労様です。お兄さん」
丁寧にお辞儀をした彼の野太い声が廊下に響く。僕が屋上に言ってたのを知ってて待ち伏せしていたようだ。僕は他の人間に聞かれていないかビクビクしながら彼の次の言葉を予想した。
「ところで、お嬢はお元気でしょうか?お兄さん」
やけに気持ちの悪い笑みを浮かべて近藤克己は言った。不良のくせにゴマすりなんかして似合わない。傍から見たらただのチャラ男だが彼は間違いなく不良の中の不良だ。
性格は残忍で病院送りにした人の数は数十を軽く超える。また彼の父親は暴力団の組長をやっており、銃器の類も使うとの噂だ。そんな彼が僕のような普通をこよなく愛する凡人なんかに媚びるのは、彼の会話に出ていたお嬢に関係する。近藤克己がこの世の誰よりも尊敬しているお嬢とは僕の妹のことだ。
公立の春日第二中学校に通う中学3年生の妹はごくごく普通の中学生を演じている。そう、演じているのだ。僕の妹、卯ノ花紗綾は少々やんちゃが過ぎる中学生だ。上級生と喧嘩をしてくるのはザラで、その戦闘力はここいら周辺の不良たちを屈服させるレベルである。目の前の近藤克己もその例に漏れることなく、妹の餌食になった一人だ。更に怖いのは妹の持つカリスマ性と呼んでいいのか怪しいが、屈服させた相手を調教し、自分の従順な手駒にしてしまうところだろう。
「あぁ、元気だよ。これで満足でしょ?じゃあ、僕は教室に戻らないといけないんで」
授業の開始のチャイムが鳴って10分を過ぎようとしている。授業開始から15分を過ぎると欠席扱いになるので自然と廊下を早歩きで移動する。彼は後ろを付いてくることはない。あまり僕の機嫌を損ねたくないのだ。僕の機嫌を損ねるということは、超絶ブラコンな妹のお仕置きという名の死刑が行使されることを意味する。だから、僕なんかよりも強い彼は頭を低くして僕のご機嫌取りをとろうとする。最も彼の場合は妹への畏怖というよりもそれ以外の感情が強いみたいだけど。
それにしても何やら校門の方が騒がしい。窓から外の様子を窺うと、不審者らしき男が閉ざされた門を叩いていた。ガタンガタンとただひたすらに鉄の柱を叩くその様子は暴徒のようだ。だが、急いでいる僕には関係の無い事だ。既に数名の先生達が騒ぎを聞きつけ、校門前に集まっている。中にはゴリラのような風貌の体育教師の姿もあるからすぐに静かになるだろう。
僕は窓から目を離し、授業を受ける2-2の教室のドアを開けた。皆の視線が僕に集まるのをひしひしと感じながら、僕は皆の顔を見ずに逃げるように自分の席、グラウンド側の後ろから二番目、に座る。
「トイレに行ってて遅れました」
静まり返っていた教室は、僕の下手くそな言い訳を受けた教師が次からは気をつけろ、という事務的な会話をして授業が再開された。黒板にチョークで書く音のみが響く。いつも通りの授業風景、いつもの日常。たが、それは一瞬で崩れ去った。
耳をつんざく様な女の悲鳴が校門の方から上がったのだ。チョークを動かす教師の腕は止まり、数名の生徒が野次馬の様に窓に群がり外の様子を覗く。僕は、校門前での騒ぎを見てきたので教師の誰かにハプニングが起こったのだろう程度にしか思わず、机の上にだらっと体を預けた。相変わらず外は照りつける太陽で眩しく、快晴だった。教師は複数名校門にいたのだ。すぐに自体は沈静化するだろう、そう思っていた。
「...先生たちが殺し合いをしている」
野次馬に行っていた生徒の誰かが言った。 教室内がざわざわとし始める。教師の落ち着きなさい、という声が聞こえるがそれをかき消すように校内放送のアナウンスが流れた。
『...校内に不審者が侵入しています。生徒の皆さんは落ち着いて避難を...後藤先生、あなたがどうしてここに...やめっ...あぁ...あぁぁぁぁぁぁ...痛い、いた...』
それっきりアナウンスの声が無くなり、くちゃくちゃという咀嚼音と低い呻き声のみがスピーカーから漏れ出した。その状況は明らかに異常で、あまりのことに誰も声を上げられず、一瞬の静寂が訪れる。
だが、それはすぐに崩壊し教室から出ようと一斉に皆は出口へ向かった。悲鳴と怒声が入り混じったそこには既に秩序というものは無く、我先に外へ出ようと他人を押したり、髪を引張たりしている。本来ならこういう時、生徒を落ち着かせるべき教師も、突然の事態に対応できず、出口へ向かう集団の一人になっていた。廊下や階段はもっとひどい状況になっているはずだ。なんせ1学年5クラスの全校生徒600人近い人間が安全な場所を求めて、鉢合わせになるのだ。大惨事は避けようがないだろう。なんてことを僕は未だに席に座ったまま、ぼんやりと考えていた。突然の事態に脳が追いついていないというか、そこから行動できるような度胸がないというか、ともかく僕は次にする行動が頭に思い浮かんでいなかった。
「あ、あのぉ、逃げなくていいんですか?」
真っ白になった思考を呼び戻すされるように僕は声をかけられた。恐る恐るこちらの様子を伺うようにしているのは確か同じクラスの佐藤舞さんだ。くせっ毛のセミロングでいつもおどおどとしている気弱な少女というのが僕がもっていた彼女の印象であり、おそらくこの争いと化した避難の輪から追い出されてしまったのだろう。いつもはしわ一つない制服が乱れている。
「あぁ、そうだね。僕たちも逃げないとね」
苦笑いを浮かべながら、僕は席を立った。相変わらず廊下からは悲鳴や怒声が上がっている。佐藤さんが声をかけてくれたおかげで頭に血が回ってきたのか、パニックになることはなく冷静に物事を考えられそうな気がする。教室内をくまなく見渡すと、掃除用具のロッカーの側に金属バットが転がっていた。おそらく野球部の誰かの私物だろう。外からやってきた不審者とやらは人を襲うため、武器として金属バットを持っていくのは間違いではないだろうと思い、僕はそれを手にした。重さが妙な安心感を与えてくれる。
「佐藤さん、カバンを持って行くなら背負えるリュックタイプがいいよ」
何やら教室の真ん中に数人のカバンを集め、中身を漁っていた彼女に声をかける。彼女の手には、防犯ブザーやスタンガンらしきものが握られていた。他にもそれらが机の上に並べられている。よく見てみるとどの鞄も女子のもののようだ。最近このへんでは変質者が出ると注意が呼びかけられていたのでその対策として女生徒が用意していたものだろう。数が多いので手に抱えていくよりは両手を自由に使えるリュックがいいだろう。
「ふ、不審者が襲ってきたら、や、役に立つかもしれないです...多分」
自信なさげに言うが、彼女なりに考えたことなのだろう。気弱で、臆病でも生きるためには必死ということなのか。僕は彼女を後ろに立たせ教室の扉から顔だけをそっと出して廊下を確認した。幸い廊下には人影が見当たらない。ただ、下の階からはうめき声のようなものが聞こえてくるので下に降りるのはよしたほうがいいだろう。
「卯ノ花君、どこに行く?」
廊下に出た僕に佐藤さんは言った。彼女の手にはスタンガンが握られており、残りの物品は僕の行った通りリュックサックの中に入れられていた。
「旧校舎、向こうの方が人の数は少ないでしょ。人が多いと収拾がつかなくなるし、僕の耳が正しければ呻き声の数は一つ二つじゃなかった。それに先生たちも殺し合いを始めたって言ってた。あまり集団で行動するのは良くないと思うよ。もしかしたら、突然、味方に殺されるかもしれないしね」
僕の言葉を受け、佐藤さんの顔が若干こわばったのを感じた。僕に対して警戒心を持ったということだろう。だからと言って、何か言うつもりはない。今は一刻の猶予もない。まずは旧校舎から外の様子を確認する必要がある。何が起きているのか、情報が早く欲しかった。