第二話 痛みを超えて…… 3
「……入るね」
沙遊以外に聞こえるはずがないと分かっていながらも断りを入れて襖に手を触れた。触れた箇所は色が反転し黒ずんでいく。
触れれるようになった部分に手をかけ襖を静かに開ける。
人一人が十分に入れるほど開くと手を離し、左半身を引きずりながら中へ。その際最初に侵食して触れれるようになった部分の色は映像をまき戻したかのように元に戻った。
「……だれ?」
伸一は横になったまま口を開いた。それもそのはず、突然襖が開いたら誰だって不審に思う。
訪ねたものの返事はなかった。物音に対してならさほど気にしないが伸一は襖が勝手に開くという明らかすぎる異変に対しさすがに体を起こす。
「私だよ。アンリ・マユ」
聞こえない相手に彼女は名乗る。その行為にきっと意味はない。形式だけの会話。
ズリズリと半身を引きずりながら進むアンリ・マユ。彼女は伸一の元へ――行くと思いきや彼の横を通り過ぎ机へ。
そこであるものに触れると侵食して手に持ち、今度こそ伸一のもとへ向かう。
アンリ・マユは彼の正面に立つと手に持っていたものの一つを静かに畳の上に置く。
「……え? なんでこんなところにノートが?」
ところが伸一には突然目の前にノートが現れたように見えた。それは侵食していたために認識できなかったためだ。
驚く伸一をよそにアンリ・マユは右手に持っているもう一つの物をノートの上に走らせた。
「文字が……勝手に……」
ノートに浮かび上がる文字。それを見た伸一は更に驚愕する。
「お母さん?」
そしてそんな言葉が出た。
『そうだよ。しんちゃん』
ノートに新たな文字が浮かび上がる。そこに書かれている文字は異国の文字ではなく日本語で、平仮名ではあったがとても汚かった。
「嘘でしょ? だってお母さんは死んだんじゃ……」
『そう。わたしはしんだよ』
文字は伸一の問いに対して残酷な現実を伝えた。再び突きつけられた事実に対し伸一は崩れ落ちそうになる。
『ありがとうしんちゃん』
次に書かれた文字を読んで伸一はその場にとどまり、文字相手に口を開いた。
「ありがとう? ありがとうってどういうことなの?」
『ありがとうはありがとうだよ。だってしんちゃんはわたしのことをおもってずっとないてくれているんだもの。
だから、ありがとうなんだよ』
少しずつ浮かび上がる文字を読み、伸一は目元を潤ませた。
「そんなことないよ。大好きなお母さんのために泣くのは当然のことじゃないか」
『それでも、なきつづけることができるひとはいない』
その一文を読んで伸一は黙ってしまった。アンリ・マユはそれを見て慎重に文字を紡いていく。
『たしかにたいせつなひとやちかしいひとがいなくなってしまったらひとはなくよ。けれどそれはすぐにとまってしまう。りゆうは、なれてしまうから。
だけどしんちゃんはちがう。わたしがしんでからもうずいぶんひがたっているのにまだないてくれている。それはきっとしんちゃんがだれよりもやさしいこだから』
「僕は優しい子なんかなじゃないよ」
『ううん。やさしいこ。よのなかにはひとのしをおもしろがったりなんともおもわないひとがいる。でもしんちゃんはちがう。あなたはだれよりもひとのいのちをよくみていて、いたむことができるひとなの』
次々と現れる文字。それはいつの間にかノートの一面を埋め尽くし、新たなページがめくられる。
『わたしはしんちゃんがそんなふうにそだってくれているのがとてもうれしい。そして、ほこりにおもう。だけどね……』
そこでアンリ・マユの手が一度止まった。ゆっくりを息を吸い込み、少しずつ吐き出してから再び手を動かす。
『いつまでもわたしのことでかなしみ、なくすがたをわたしはみたくない。わたしにしあわせをくれたこがくるしむすがたをみたくないの』
「……お母さん」
『だからしんちゃ』
書いている途中でアンリ・マユの手に雫が落ちた。その雫の出処はもちろん伸一の両の瞳からだ。
『だからしんちゃん。わたしのことでかなしみつづけないで。たちあがってまえをむいてほしいの。それがわたしがさいごにねがうこうふくだから』
雫が落ちるのは止まることなく徐々に量を増やしていく。そして伸一は気づいてしまった。
「そこに居るの? お母さん?」
――アンリ・マユの手に。
本来センチュリオンが人に見えることはない。けれど体の表面に何かが覆えば形を認識することはできる。
今の場合、伸一のこぼした涙がアンリ・マユの手を伝いその輪郭を表したために認識された。
「僕の前に居るんだよねおかあさん」
すっと手が伸びた。しかしそれは何かをつかむことなく涙だけを触れてすり抜けていく。
「そっか。そうだよね。幽霊に触れることなんてできないんだよね」
力なくて手を下ろす伸一。
『しんちゃん』
それに対してアンリ・マユは手に持っていた鉛筆を一度畳の上において真一の手の上にそっと手を添えた。
しばしの沈黙。まるで時間が静止したかのように二人はぴくりとも動かない。だが、
「僕の手を……触ってくれているんだね。お母さん」
伸一の言葉が静止した時間を再び動かした。
彼は自身の手にアンリ・マユの手が乗っている感触はなかった。されど手を重ねられているとは実感できた。
涙によって形状があらわになった手は伸一の手から離れ、頬をなぞり、目元の涙を拭う。
伸一は再び手を伸ばし、目元にあるであろう手に触れられないと分かっていながらも形だけでいいから握るフリをした。
その行為にアンリ・マユは戸惑った。自分は彼を騙しているのではないか? と。
そんな考えが浮かび上がるも即座に振り払い、最初に予定した通りの行動に移る。
『もう、だいじょうぶだよね』
再び鉛筆を握るアンリ・マユ。一度も書いたことのない日本語を汚いながらも書き続け、裕子のフリをして伸一との会話を続ける。
『しんちゃんはやさしいこだからわたしがいなくたっていきていける』
紡がれる文章。励ましの言葉。幾度か繰り返されたやりとりにようやく伸一の顔に生気が灯りはじめる。
「うん。もう大丈夫だよお母さん。僕はもう大丈夫。それに、僕はお兄ちゃんだから。これ以上泣いてはいられないよね」
そう言って伸一は笑った。その笑顔を見てアンリ・マユは気持ちが浮き立つ。
『もう、いくね』
短く書かれた言葉。伸一は無言で頷いた。
その態度にアンリ・マユはこの偽善とも思えるやり取りの終着点を見る。そして、最後の一文を書いた。
『あいしてくれてありがとう。そして、うまれてきてくれてありがとう』
書き終わったところでアンリ・マユは鉛筆を畳においた。
ゆっくりと立ち上がり、部屋の外へ。
移動する途中伸一の顔は見なかった。いや、もう見る必要はなかった。なぜなら彼は大きな声で幸せそうに笑ったのだから。
* *
伸一の部屋でことを済ましたアンリ・マユは半身を引きずりながら寝泊まりしている沙遊の部屋に戻った。
畳の上に体を転がし天井を仰ぎ見る。
「何故、私はあんなことをしたんだろう?」
――あんなこと。それは伸一に語りかけ立ち直らせたことである。