第二話 痛みを超えて…… 2
「沙遊」
その様子を少し後ろから見ていたアンリ・マユが沙遊の元へ歩を進め耳元で名前を呼ぶ。「なぁに、おねえちゃん?」
それに対して沙遊は体を動かさず目だけをアンリ・マユに向け、周囲に聞こえないように小声で尋ねた。
「沙遊のお父さんはお母さんのことを好きだったの?」
「好きだったよ。ううん、好きっていうよりも愛しているの」
〝好き〟というよりも〝愛していた〟。子供の口からは出るはずのない言葉。更に沙遊はその言葉の意味を理解しているように彼女は思えた。
いつもならこの状況アンリ・マユは「どういうこと?」と尋ねるのだが、何故か今この瞬間だけはそれがなかった。
……なんとなくだけど分かる気がする。好きと愛しているの違い。好きはきっと一緒に居たいと思うもの。愛しているは一生を共に過ごしたいと思えるもの。そんな風な違いだと私には思える。
「沙遊は?」
アンリ・マユが尋ねた。
「わたしもおかあさんのことは愛しているよ」
その問いに対して沙遊は考えることなくすぐ言葉を返した。
「そうなんだ。愛していたんだね」
・・・・・・・ ・・・・・
「愛していたんだ、じゃないよ。愛しているの」
「ごめん。そうだったね」
幼き少女に語意の訂正を受けたあと、アンリ・マユは墓石に向かって歩き出す。
ゆっくりと、着実に右足のみで歩いたところで彼女は膝を崩した。そこで右手を差し出し優しく手を置く。
「貴方のような人に想われたのなら、きっと彼女も幸せだったと思います」
手の置かれた場所。それは啓造の手の上だった。
アンリ・マユには啓造の手の熱を感じることができた。しかし、啓造は自身の手の上に彼女の手が置かれているとは露知らず、ただ墓石の上に添えたままだ。
「ううん、貴方だけじゃない」
すっと、半身を捻り後方を見る。失明している左目ではなく、視ることのできる右目で少年少女を視界に留める。
「沙遊も、伸一も彼女のことを愛している。結はまだ小さいから分からないけど大きくなったらきっと愛しているって言うと思うよ。
だって、こんなにも命に対して真っ直ぐな子供達が育っているのだから不幸な訳がない。早くお別れの日がやってきてしまったけれど、それでも裕子は幸せだったと私は信じるよ」
撫でるように、愛でるように啓造の手に自身の指を絡ませるアンリ・マユ。
その行為は純粋な優しさから生まれでた行動であった。
伸一が青ざめ、泣き崩れるのを何度も見た。沙遊が一緒に居たいはずの母親に対して一生懸命見送ろうとしていた。
そしてなによりもそんな子供達を不安にさせないように堂々たる姿勢で弔いに挑んだ啓造へアンリ・マユは敬意を抱いていた。
言葉が通じなくても構わない。互いに触れ合えなくてもいい。せめて貴方達に抱くこの思い、悼む気持ちだけ伝わってくれればいい。
その思いが原動力となり、動かしにくい体を墓前の前まで運び啓造の手に自身の手を置くことをさせた。
「私は知らなさ過ぎた。そのせいでこの体に傷を負った」
知らなかったからこそ全てを知っているあの人に敗北した。
「だから私は知らなくてはいけない。命の重さを。人の想いを」
アンリ・マユは知識を欲した。書物や文面では手に入らない知識。生の知識を……。
……だけどそれだけじゃない。せめてもう少しこの場に居たい。この家族を観察していたい。
私が彼らをつまらないと思ったことに関して答えを得られるかもしれない。この家族と――沙遊と触れ合えば。
アンリ・マユは当初移動できるならすぐに新たな地に移ろうと思っていた。しかし肉体が想像以上のダメージを受けていたために断念。
現状沙遊の元で治癒に時間を当てることにしていたが、それでも多少傷が癒え動けるようになったらすぐにでも移動するつもりであった。
が、今日この日、一人の人間の最後――鞍馬 裕子の弔いを見て考えが変わった。
……沙遊、もう少しだけここに居させて。もしかしたら私が知りたかった何かが見つかるかもしれないから。
胸の中で一人、彼女は決意する。その選択が正しいかは分からないが、その先には何らかの解があると信じて。
* *
裕子の葬式から二週間が経った。
啓造は誰よりも早く仕事に復帰し、沙遊も家事の出来ない父を支えるべく学校以外の時間を全て家事に割いた。
結も近所の人が昼間は預かることになり何とか鞍馬家は立ち直っていく。
しかし、伸一だけは違った。
伸一は裕子が死んでから一度も外に出ることなく部屋にこもり、腐りきった表情のまま畳の上に崩れていた。
学校からも担任がやってくるも会おうとせず、啓造が声をかけても反応せず、沙遊が食事を運んでもあまり食べようとはしなかった。
人として死んだ状態。伸一の心は完全に折れていた。
それは彼がどれだけ裕子を愛し、彼の生活の中心にあったのかの表れでもあった。
そのため時折思い出したかのように泣き出し、いつの間にか眠る生活。それが悪いことに数日続いていた。
尋常ではない様子に啓造は伸一がこのまま死んでしまうのではという不安に駆られるものの、ここまで精神的に病んでいる相手にどう接すればいいか分からないために直接的な行動に出られなかった。
ただ、啓蔵には一つだけ理解は出来た。絶対に叱ってはいけない。そんなことをしたら、息子はどこか遠くへ行ってしまうのではと。
また啓造は恐れていた。もし何かの弾みに彼が死する日が来てしまったらと。立ち直って欲しいと思ってやったことが引き金となって伸一が死んでしまうのを恐れたのだ。
必要最低限の接触をし部屋から去る日々。その様子を彼女は――アンリ・マユは見続けていた。
「大切な人が死んだ時の反応は人それぞれ。中でも一番酷いのは伸一か」
僅かに空いている襖の隙間から伸一の姿を覗く。
二週間も経っていたために伸一の顔からは完全に生気が消え、頬はおろか手足の根元から先まで細くなっていた。
その姿にアンリ・マユはあることを感じていた。そのあることとは、
「もうじき、死ぬんだろうな。伸一は」
――死の感覚だった。
かつて多くの人の死を見た彼女はそれを感じ取ることができた。それは特異な力ではない。ただ積み重ねてきた記憶と経験による勘。
伸一が確実にそこへ向かっていると彼女は判断した。
判断したからこそ、アンリ・マユは行動する。




