第一話 少女と出会った日 2
沙遊は空いている門から中には入り、玄関のある方へ彼女を手招きする。
誘われたアンリ・マユはゆっくりと歩を進め門へ。そこで彼女は木の塀にかけられているあるものに目がつく。
それは――白黒の縞模様の布地だった。
どこかで見たことがあると思ったが、思い出せない。思い出せないのでアンリ・マユはそれ以上を考えなかった。
沙遊は傘をたたんで水気を払うと、引き戸を開け玄関に入る。そこで置いてある傘立てに傘を差し込み、靴を脱いで屋内へ。
アンリ・マユも続いて中に入るものの、玄関の前で立ち尽くした。
その様子を見ていた沙遊は不思議そうな顔をしてアンリ・マユの顔を見る。
「どうしたの?」
「えっと、この地では靴を脱いで室内に入るの?」
「そうだよ。おねえちゃん知らないの?」
「うん。初めて知った」
アンリ・マユは玄関を一瞥したあと、自らの履物を脱ぐ。と言ってもすぐに脱げたのは右足のみ。反対の左足は感覚はおろかまともに動かせないために手間取る。
それを見ていた沙遊はすぐに靴を脱がすのを手伝う。
少し時間がかかったところで二人は土間からあがり、沙遊に案内されアンリ・マユは古臭い木が敷き詰められた狭い廊下を進んでいく。
ギシギシと軋む音を立てて進んだ先で横にある一枚の襖の前に沙遊は立つ。
「ここがわたしの部屋だよ」
ゆっくりと開かれた襖の向こうには白色の世界が広がっていた。
白い化粧版で覆われた学習机。ところどころにシールの張られた木製の小さなベッド。壁面側に備え付けられているタンスも白く、その上には愛らしい動物を模したぬいぐるみが並べられている。
それは誰がどのように見てもこの少女が愛されているのが分かる状態だった。
置かれている物の殆どが真新しく、また量がある。田舎で兄弟がいて、近所との付き合いがある中でお下がりや譲受けがなく新品を与えられているということを物語っていた。
「わたしの部屋。荷物がいっぱいだよね?」
「多いと思う。多分……」
それらに圧倒されつつもアンリ・マユは室内に案内され半身を引きずりながら中に入って行く。
アンリ・マユが部屋に入ったところで沙遊は襖を閉め、彼女を部屋の端へ招き寄せる。
「おねえちゃん。こっちに来て休んでいて。ほら、枕も置いておくから」
そう言って自身のベッドから花柄の綺麗な枕を畳に置くと、アンリ・マユを優しく牽引してその場に横たわらせようとする。
しかしアンリ・マユはその場から動こうとはせず沙遊の行動に軽い拒否反応を見せる。
対する沙遊はニコッと微笑むと「大丈夫」と短く返した。それは彼女の胸中を察しての対応なのだろう。
そっと手を引かれ、自然に促される形で横になるアンリ・マユ。
「ちょっとタオル取ってくるからそこで横になっていてね」
アンリ・マユを部屋に残し沙遊は襖を開けて部屋を出て行く。
閉じ行く襖を静かに眺めながらもアンリ・マユは考える。
……何故あの子は私に優しくしてくれるのだろう? と。
世界に存在し続けてからずっと、あんな風に近づいて触れ合ってくれた者は一人も居なかった。
私の名を聞いて頭を垂れる者。または取り入ろうとする者。皆が腹の中に何かを隠して近づいてきた。それは私のためではなく、自身の望みを叶える為に。
――――いや、一人は居た。私の手を引いて導いてくれた者が。
けれどあの人はもう違う。今のあの人は私を全力で排除しようとしてきた。もうこの手を握ってくれやしない。
「……っ」
ふと、目じりが熱くなるのを感じる。そこから徐々に今まで流していた黒ではない透明な液体が溢れ出す。
それは少しが流れた瞬間、堰を切ったかのようにボロボロと零れていく。
突然の不可解な現象にアンリ・マユは困惑する。
「この透明な液体は何?」
今まで一度も流したことの無い物。何故そんなものが突然溢れ出したのか彼女には理解できなかった。
その間にも液体は目じりを伝い耳元を通過し、枕の上に流れ溜まる。
しかし、その液体は枕に吸われることなく小さなガラス玉のように球体を維持したまま留まった。
「おまたせ~……っておねえちゃん?」
再び部屋に戻ってきた沙遊は分厚めの白いタオルを片手にキョトンとし、理解した瞬間駆け出した。
「おねえちゃんどうしたの!? ケガしたところが痛いの!?」
慌てて駆け寄った沙遊はタオルをアンリ・マユの顔にあてがう。ところがそれは血を吸うことなくアンリ・マユの頬を滑った。
「あれ? どうしてふけないの?」
困惑する沙遊にアンリ・マユは右手をのばし、タオルを握っている手に自らの手を添える。
「拭くことはできない。だって私はこの世界の住人ではないから」
そう言いながらアンリ・マユは沙遊の手からタオルを抜き取る。するとタオルは徐々に色が反転していき、漆黒へと変色する。
「貴方たちの世界の物は通常触れられない。それを侵食して自分側の次元に持ってこないと使えないの」
アンリ・マユはゆっくりと半身を起こすと、右手に握った漆黒のタオルで血を拭っていく。
「わたし、何か手伝えない?」
「気持ちは感謝する。だけどこのタオルはもう私の世界側に引きこんでしまったから貴方が触れることはできない」
「……そうなんだ」
何もしてあげられない故にジッとアンリ・マユの手の動きを見続ける沙遊。そこで思い出したかのように沙遊は口を開いた。
「ところでおねえちゃんはどうして泣いていたの?」
「ないていた?」
沙遊の言葉にアンリ・マユは首をかしげた。それは本当に何も知らないと言う風に。
「なくって何?」
「泣くって言うのはおめめから涙をながすことだよ」
「鳥とか犬が声を上げる行為じゃなくて?」
「そっちの鳴くじゃないよ。悲しくておめめからながす方だよ」
子供なりに言葉を選んで必死に説明する沙遊。ところがアンリ・マユはと言うと、
「悲しいって何?」
ありえない台詞を言った。
「え?」
沙遊は目を丸くして固まる。結果、彼女は思わず言葉に詰まった。
「悲しいって分からないの? じゃ、じゃあ、嬉しいとか腹が立つとかは?」
「それは何?」
再び返される疑問符。その返答を聞いて幼い少女はある回答に行き着く。
「おねえちゃん。〝こころ〟って分かる?」
恐る恐る沙遊はアンリ・マユに尋ねた。すると意外なことに即座に返答が返される。
「心は分かる。だけど、我々センチュリオンには心なんて存在しない」
だが返された言葉の内容は冷ややかだった。
「じゃあおねえちゃんにも……こころがないの?」
「うん、私を含めて。どんなに人間のように振舞えたって結局は形だけ。我々にはそんな物持ち得ていないよ」
「そう……なんだ」
アンリ・マユの回答を聞いて沙遊は考え込む。その様子を見たアンリ・マユは「沙遊?」と声をかけると少女は慌てた様子で部屋の壁側にあるタンスから小さな箱を取り出した。
「これ、消毒薬と包帯」
沙遊はその二つを箱から取り出すと、アンリ・マユに差し出す。彼女はそれを受け取ると再び侵食して自身の次元に引き込み扱えるようにする。
消毒液のキャップを乱雑にあけるとそれを傷口に荒々しく振りかけていく。
傷口にかけるたびにブクブクと黒い泡が立ち、その都度アンリ・マユは顔を小さく歪めか細い声を漏らす。
それを見ていた沙遊は慌ててアンリ・マユから消毒薬をひったくる。