第三話 おねえちゃん 3
「まゆちゃんおはよ~」
――はずなのだが、結相手に彼女は捕縛陣を解かなかった。
幼い足に力を込めて体を動かす結。そのまま勢いをつけてアンリ・マユに飛びついた。
「まゆちゃん♪」
「ふふ、なあに?」
「まゆちゃ~ん♪」
顔を押し付けアンリ・マユに甘える結。それに対して彼女は右手で幼女の髪を整える。
「朝ごはんがもうすぐできるから着替えて茶の間に行こうか」
「うん!」
結は元気よく返事をすると共に捕縛陣内に引きずり込まれている服に手を伸ばし、いそいそと着替え始める。
しかし二歳の子供であるためにうまく着替えることができず、アンリ・マユが手を貸しながら服を着替えさせる。
「できた?」
「できたー」
両手を広げて着替え終わったことをアピールする結。アンリ・マユは小さく笑うと結の頭を撫でながら「えらいえらい」と褒めた。
「じゃあ、まゆちゃんは先に行っているから唯ちゃんはパパを起こして、パパと一緒に茶の間に来てね」
「うん!」
元気な返事を返す結。それを見たアンリ・マユは静かに腰を上げ捕縛陣を閉じようとする。そこであることを思いだした。
「それと結ちゃん。パパとおにいちゃんにはまゆちゃんのことは秘密にしておいてね」
「だいじょ~ぶ~」
親指を立てて問題ないと表現する結。やや男臭い表現に小さく苦笑しながらもアンリ・マユは捕縛陣を解いた。
――そう。これが今の鞍馬家の朝の風景。
沙遊とアンリ・マユがともに協力して食事を作り、アンリ・マユが兄妹を起こしに行く。
そのような日々を既に一月ほど過ごしていた。
結果、伸一は言い知れぬ心地よさで朝目覚め、結は白い少女に見守られながら一日を始める。
また啓造は幸せそうな三人の笑顔を見て仕事へ発つようになっていた。
* *
平日の昼間、啓造が働き沙遊と伸一が学校に居る間、結は一人家に居た。
それこそ裕子が死んでからの二週間は近所の人が代わる代わる結の面倒を見ていた。それは田舎ならではの光景。
また啓造の同僚である灰田が「付き合いの長い先輩のため」にと自分の休みの日には結の相手をし、近所の人達が苦にならないようにと他の人が来れない時には家に居てくれた。
近所と職場の双方の助けによって幼い結は何とか毎日を安全に過ごす。
されど沙遊はその状況をいつまでも続ける訳には行かないと案じる。
親切は親切であるが、その親切に返す親切は今の自分達には持ち得ていない。そうなると今は親切が続いてもいつかは親切ではなくなり作業に変わるかもしれない。そんなことを懸念していた。
決して近所の人や父の同僚を疑った訳ではない。けれど、絶対ではない。また啓造自身もそれを危惧していた。
……このままではいけない。でも現状どうすることもできない。
そこで多少仕事しづらくなるものの自分の職場に結を連れて行こうかと彼は考えた。ところが沙遊はそれを良しとしなかった。
啓造の仕事は工芸品である簪を作る仕事。多少の危険が有り、細やかな作業が多い故に集中できずに仕事にならないかもしれない。
――ならどうすればいい? 悩む二人。その様子を見守る一つの影。
そしてその影は決意し提案する。「私が結を見ようか?」と。
それを言ったのはもちろんアンリ・マユ。沙遊は僅かに躊躇ったが、結のこれからを考え決断した。この人に任せてみようと。
ある日の休み、啓造が働き伸一が出かけている中で二人は初めての出会いを果たす。
発生させられた捕縛陣内、結は沙遊の手に引かれながら黒い空の空間を歩く。そこで一人の包帯まみれの少女と邂逅した。
胸中アンリ・マユは怯えられるのではないかと思っていた。自分で立案したものの上手くいくとは考えていなかった。
だけどせめて、少しの希望があればこの子達の生活を楽にしてあげれる。そんな風に彼女は考えていた。
ところがその不安はもろくも崩れ去る。結は急に走り出したのだ。――彼女の方へ。
そして飛びついた。そのまましがみつき無邪気な顔で笑い出す。
その姿を見たアンリ・マユも沙遊も安心した。きっと上手くいくと。
また結は笑いながら言う。「まっしろしろすけ~」と無邪気そうに。それは結なりの友好の証たる言葉だった。
結衣とアンリ・マユが問題なく触れ合えるのを確認した沙遊は父に話し、私の友達が結を見てくれるそうだけどどうする? と尋ねた。
啓造は最初は渋ったが沙遊が熱心に話し、結の楽しげな姿にしばし考え決断した。その人に頼んでみようと。
程なくしてアンリ・マユと結の奇妙な共同生活が始まった。
慌ただしい朝の時間、啓造が出勤、沙遊と伸一が学校に行ったあと取り残される結。
機を見計らってアンリ・マユが捕縛陣を開き自らの世界へ幼女を案内する。
果は無いけど限り有る空間。その場所を結は力の限り縦横無尽に走り回る。
完全に外界から遮断された世界。外に出れば何かしらの危険が存在するのだがここには一切それがなかった。
車は通らない。怪しい人も現れない。毒を持った生物も存在しない。
唯一存在するのは包帯だらけの白い少女のみ。またその少女は幼女が怪我しないように自身が作り上げた空間から危険物を一切排除し、無邪気に走るその姿を見守っていた。
「結ちゃん。そろそろお勉強にしようか」
結がひとしきり走ったところで声をかけるアンリ・マユ。呼ばれた結は満面の笑みで彼女の元へ行き――盛大にこけた。しかも頭から。
慌てて近寄ろうとするアンリ・マユ。しかし半身を引きずりながらのために緩やかな速度でしか移動できない。
「大丈夫結ちゃん?」
ズリズリと近寄るアンリ・マユ。突如結は起き上がった。
「だーじょーぶ!!」
顔や頭に花びらと葉を付けた状態で結は言う。ちなみにその目に涙は流れていなかった。
頭からこけた割には元気そうな結を見て、アンリ・マユは胸をなでおろす。
「頭痛くない?」
「じょーぶ!」
親指を立てて満面の笑みを返す結。若干男の子臭い挙動にアンリ・マユもくすりと笑みをこぼした。
「じゃあこっちに来て」
案内する彼女。その先には花が存在しておらず、代わりに石畳の敷かれたテラスが存在していた。
そこには真っ白なロココ調の椅子とテーブルが存在しており、石畳に比べて異彩を放っていた。
アンリ・マユは椅子を引き結を座らせると自らも椅子に座る。
「さ、まゆちゃんといっしょにお勉強しようか」
「うん」
そこで沙遊からあらかじめ貰っているテキストを使い結に勉強を教え始める。
簡単な脳育。パズルやブロックを使って考える力を養っていく。いずれは一人で生きていけるように……。
現在啓造というシングルファザーの元で暮らしている結。育たないことはないが彼の力では導ききれない。
男には子を育てる甲斐性を持ち合わせていないことのほうが多い。また啓造の様な何かに打ち込んできた種類の人物は高い確率で子供を育てられない。
そうなるとやはり母親が必要になる。けれど、鞍馬家にはその役割を果たす人間はもう居ないのだ。
故にアンリ・マユは選んだ。そして自分で幼き結を導いていこうと思った。
別に彼女がやる必要はない。何もしなくても、たとえ彼女がここに来なかった場合でも沙遊は自ら進んで母親の役を演じただろう。
……でも、私は知ってしまった。あの子が年相応の少女だと言うことを。誰かが支えてあげないとあの子は無理をして倒れてしまう。
だからこの役は私が引き受けた。私一人では何もできない。また沙遊一人でも何もできない。でも、二人で協力すればできるはず。
アンリ・マユには一つの確信があった。二人で協力すればいくらでも上手くいくと。




