おいおいと男は女を呼ぶ
「おい」
いつものように辰蔵は不機嫌そうに自分のベッド下で眠る妻に声をかけた。小柄な妻の体は布団に隠され、もわもわとした白髪頭だけが覗いている。
「おしっこやな。はいはい」
よいしょとベッド柵に手をかけて起き上がった妻は、手慣れたしぐさで辰蔵のパジャマのズボンを脱がせた。八十五歳を超えた頃から足が萎えたように立たなくなった。民生委員さんの世話になり、車椅子を手配してもらったが、昔作りの家屋の中では使えず、トイレはもっぱらポータブルトイレに頼っている。ベッドからポータブルトイレに移る数歩でも、大柄な辰蔵を支えるのは大変で、妻はよくふらついた。そんな時も、辰蔵は一言声をかける。
「おい」
「はい。はい。しっかり支えますよ」
妻はベッド柵と辰蔵の体の両方を握りしめて答えた。それから入れ歯をいれて、後は日がなテレビを見てすごす。
「おい」
「はい、はい。おしっこやな」
「おい。メシ」
「はい。はい。蕎麦でもゆがこうかな」
小柄な妻はよいこらしょ、と億劫そうな仕草で立ち上がりながらも、辰蔵に不自由のないように世話をしてやるのだった。妻は時折家の裏手に作った野菜の世話をする。年寄り二人の生活で大変でしょうと、誰かに聞かれると
「畑で花や野菜を作っとると、気がまぎれますけん」
そう言って自分は入れ歯もいれず、歯抜けた口元を手で隠すように、恥ずかしそうに笑った。
「おい」
ある朝辰蔵が声をかけると妻からの返事がなかった。
「おい」
もう一度声をかけると
「何や頭が痛いんや」
弱々しく返事が帰った。辰蔵はトイレに行きたかった。今度はきつい口調でおい、と声をかけた。しかし、妻は起きなかった。
「こら、おい」
辰蔵は足をベット下に降ろして妻をけり上げた。妻が振り返って自分を見たような気がするが、そこから先の記憶があやふやだった。
辰蔵が妻の異変に気付いた時と、生温かい小水が股間から尻に伝わり、布団を濡らしていった時が同時であったことだけを覚えていた。
「小西辰蔵さんです。皆さん、今日から一緒に暮らす仲間ですからね。よろしくお願いします」
初めて辰蔵が施設に連れてこられた時、ちょうどお昼の時間だった。
「小西さんのお食事もすぐ持ってきますから、ここで待っていてくださいね」
施設職員は車椅子に座ったままの辰蔵を近くのテーブルにつれて行った。広いフロアで前面にはステージのような壇上もあった。ただ、そこが華やかなステージでないことは、置かれてある仏壇で分かった。どこを見ても年寄りばかりの中にピンクや水色のエプロンをつけた若い職員が、散らばって食事介護をしていた。中には車椅子ではなく、電動ベッドで寝たまま食事介護をされている年寄りもいた。何人かの女の人は会話もしながら食事をしていたが、ほとんどの人が表情に乏しく起きているのか寝ているのかわからない表情をしていた。
「はい、今日は筍ごはんに煮魚ですよ」
辰蔵は腹がすいていたので、筍ご飯を手に取った。筍は細かく小さく切られていて、味も歯ごたえもなかった。ついてきた牛乳は手にも取らなかった。
「小西さん、奥さんを亡くされて軽い痴呆が発症したのでしょうね」
職員の引き継ぎ朝礼でのことだ。
「一言も喋りませんものね。ずっと、うつむいたきりで、車椅子に座ったまま」
「私も、昨日は天気がよかったから、外の散歩に連れ出したのですけれど、うつむいたままなんですよ」
「時々、思い出したように大きな声でおいおいと叫ぶじゃないですか。女の人が怖がっていますよ」
若い女性職員は、鼻先に皺を寄せて喋った。
「心療系の治療を受けられる施設の方がいいのかもしれないわね。でも、暫くは様子を見ますのでよろしくお願いしますよ」
年配の施設長は若い職員に諭すように声をかけた。
辰蔵は紙おむつが不快だった。若い娘に寝かしつけられて、紙オムツをはかせられる。ぱさぱさとした感触も嫌だったが、大便をした時のべっちゃりとした感触が耐えられなかった。大便の時は教えてくださいねと、孫のような娘が声をかける。けれど、もう誰とも話もしたくないので、声もかけなかった。そのくせ、
「おい」
一日に何回か誰にでもなく、辰蔵は呼びかける。回りにいる年寄りは一瞬びくりとするが、誰も返事はしなかった。近くに職員がいると、
「何ですか」
と寄ってきてくれるが、今度は辰蔵が何も返事をしなかった。
「おい」
先ほどよりも大きな声で呼んでみる。職員がやってくる。何も返事をしない辰蔵の車椅子を部屋まで移動させる。
「おい、おい、おい」
力の限り叫んでみる。返事はない。職員がやってきて、今度はお茶を入れてくれる。
「おい。おい」
何故、自分が叫ぶのか、辰蔵自身にもわからない。ただ、何度呼んでも、呼び足りない気持ちがするのだった。
「また、小西さんが叫んでいるわ」
遠くで若い職員が話していた。
「おい」
「はい、はい。何でしょう」
辰蔵が叫んだ時、たまたま洗濯物を各部屋に配っていた職員が通りかかった。優しそうな年配の職員は辰蔵の車椅子の前にしゃがみこんだ。うつむいてばかりであった辰蔵はこの施設に来て初めて、人と視線を合わせた。
目じりに皺が見えた。唇には薄く桃色の口紅が引かれていた。
「ぎやっつ」
異様な叫び声にフロアにいる人が皆振り返った。辰蔵が手にした杖で職員を何度も殴りつけていた。杖は車椅子から移動する時の支えの為にいつも手にしていた。
「小西さん、どうしたんです。やめなさい」
男性職員に上半身をはがいじめにされて、辰蔵は我にかえった。自分が打ちすえた女性職員が目を覆って震えていた。辰蔵の手も足も唇も震えた。
「すまんかった」
絞り出すように呟き、辰蔵は泣きだした。
おうが、おうがとむせび泣き、むせび泣きがすすり泣きにかわり、ただ疲れ果てた時、辰蔵は小さく妻の名を呼び、がくりと頭をたれたのだった。