プロローグ
星。
子供の頃によく見ていたのは、地平線の彼方へ流れていく星を、夕暮れどきの果てしない平原の上で息が切れるまで夢中に追いかけていく夢だった。
地平線はどこまでも続いていた。
空は、どこまでも遠かった。
太陽が沈みきる直前の世界は、燃え残った火のような橙色と夜が忍び寄る藍色とのあいだでゆっくり揺れていて、その境目に立つ私は、自分の影が長く長く伸びていくのを見ながら、どこまで走ればあの星に追いつけるのだろうと考えていた。子供らしい無邪気さではなく、もっと切実で、もっと飢えたような気持ちの中で。
光が届かないほど黒く遠ざかっていく世界の果てに、目では数えきれないほどの無数の星が音もなく静かに線を引いていた。
それは誰かが夜空の上に銀色の糸を張り、その一本一本を指先で弾いているようにも見えた。
まるで古いギターの音色を奏でるように、きらきらと星が舞っていた。
落ちていくその軌跡は、空一面に埋まった何億光年先の銀河星団から旅立った小さな旅人たちが帰る場所も知らないまま、ひらひらと闇夜を漂っているようだった。
私はその光を追いかけていた。
裸足の足裏に草の湿り気を感じ、膝のあたりに夜露を含んだ風を受け、胸の奥で何かが破裂しそうになるほど強く息を吸いながら、それでも立ち止まることだけはできなかった。
なぜなら立ち止まれば、星は二度と見えなくなる気がしたから。
なぜなら、振り返れば、そこにあるはずの私の家も私の名前を呼んでくれる誰かの声も、最初から何一つ存在しなかったことに気づいてしまう気がしたから。
空。
私は世界がどこに続いていくのかを、美しい緑に覆われた平原の地面を蹴りながら何度も考えていた。
けれどそれは本当は考えていたというより、どこかで知っていたのだと思う。
世界の果ては、遠くにあるものではない。
地平線の向こうでも、星の流れる先でも、海の終わる場所でもない。
世界の果ては、いつだって人のすぐ隣にある。
閉じた瞼の裏側にあり、聞こえなくなった声の残響にあり、二度と開かない扉の前にあり、まだ温かい手を離した瞬間にある。
だから私は子供の頃からずっと、世界の終わりに近い場所で生きていたのかもしれない。
自分が何者であるかも、わからなかった。
自分がどこから来たのかも、知らなかった。
誰かに愛されて生まれたのか、誰かに捨てられて生き残ったのか、あるいは最初から名前も過去も持たない道具として拾われたのか、そのどれが真実なのかを知る機会は、ついに訪れなかった。
子供の頃から、遠ざかる街の音を感じていた。
人々が暮らす場所には、朝を知らせるアラームがあり、焼けたパンの匂いがあり、誰かが誰かに文句を言う声があり、玄関の扉が閉まる音があり、学校へ向かう子供たちの足音があるのだと、私は何度も教えられた。
けれど、私の朝にはアラームがなかった。
私の朝には、母親がカーテンを開ける音も、父親が新聞をめくる音も、食卓に置かれた皿の触れ合う音もなかった。
代わりにあったのは、冷たい床の感触と、起床を命じる短い声と、今日覚えなければならない言語と、今日撃たなければならない的と、今日殺されないために覚えるべき姿勢だけだった。
私は、ずっと心のどこかで感じていた。
「明日」は来ないのだと、思っていた。
夜が明ければ朝になることは知っていた。
時計の針が進めば日付が変わることも、カレンダーの数字がひとつずつ剥がれていくことも、季節が巡れば雪が溶け、花が咲き、また枯れることも、知識としては知っていた。
それでも私には、明日というものに実感が持てなかった。
明日とは今日を生き延びた者だけに与えられる、ひどく贅沢な“余白”だった。
私に与えられていたのは、次の命令までの時間だけだった。
次の食事までの時間。
次の訓練までの時間。
次の移動までの時間。
次の標的が示されるまでの時間。
そして、次に誰かを殺すまでの時間。
何もかもが、白黒に見えていた。
空の青さも血の赤さも、草原の緑も夕暮れの金色も、誰かの瞳に宿る恐怖も、すべてが薄い膜の向こう側にあるようで、私の心まで届くことはなかった。
肌の温もりでさえ、知らなかった。
抱きしめられるということが何なのか、頭を撫でられるという行為が何を意味するのか、誰かの体温に触れたとき人は安心するものなのか、それとも警戒すべきなのか、私は長い間、判断できなかった。
人の身体に触れる理由は、関節を折るためか、脈を止めるためか、口を塞ぐためか、あるいは刃を深く入れる角度を確かめるためだけだった。
そう。
たとえ、手に持った一本のナイフが、誰かの心臓を貫いたとしても。
刃が肋骨の隙間を抜ける感触を、私は知っている。
呼吸が途切れる直前の喉の震えを、私は知っている。
人間の瞳から光が消える瞬間が、思っているよりも静かで、思っているよりも軽く、思っているよりも日常の延長にあることを、私は知っている。
人は物語の中で死ぬときのように、長い言葉を残さない。
多くの場合、何も言えない。
言えたとしてもそれは意味のある遺言ではなく、母親の名前だったり、神の名だったり、なぜ、という短い疑問だったり、息と血が混ざっただけの音だったりする。
そして私は、そのすべてを覚えていないふりをしてきた。
覚えてしまえば、次の任務で手が鈍るから。
手が鈍れば、私が死ぬから。
私が死ねば、私という存在は最初から世界にいなかったものとして処理されるから。
だから私は、覚えなかった。
覚えないように訓練された。
人の顔も、名前も、声も、最後に掴んだ袖の感触も、床に落ちた指輪の音も、血の中に沈んだ家族写真も、何一つとして私のものではないのだと自分に言い聞かせた。
けれど、星だけは忘れられなかった。
星の流れる場所に行こう。
いつか、誰かがそう言った。
それが誰だったのか、今ではもうはっきりと思い出せない。
少年だったのか、少女だったのか。
仲間だったのか、標的だったのか。
私を救おうとした人だったのか、私に殺されることを知っていた人だったのか。
声は遠く、輪郭は霞み、顔は逆光の中で塗り潰されている。
それでもその言葉だけは、今も私の胸の奥に残っている。
星の流れる場所に行こう。
そこには、名前を変えなくてもいい夜があるのだと。
銃を持たなくても眠れる朝があるのだと。
誰かの背後に立つとき、殺し方ではなく、ただ声のかけ方だけを考えればいい日々があるのだと。
そんな馬鹿げた約束を、私は今も抱きしめている。
遠ざかっていく声の色が、形が、日に日に薄く霞んでいったとしても、どこからか聴こえてくるその言葉を、私は“いつか”の向こうで待っている。
いつか。
その言葉ほど、私に似合わない言葉はなかった。
殺し屋に、いつかなど必要ない。
必要なのは今日の標的と、今日の弾数と、今日の天候と、今日の逃走経路と、今日の死亡推定時刻だけだ。
未来を夢見る者は足を止める。
足を止めた者は、撃たれる。
だから私は、未来を見ないようにしてきた。
恋も、幸福も、家庭も、穏やかな老後も、誰かと笑い合う夕食も、雨の日に同じ傘を差して歩く帰り道も、眠る前におやすみと言われることも、私とは関係のない世界の出来事として、遠ざけてきた。
それなのに。
それでも。
私は時々、どうしようもなく考えてしまう。
もしも私が、ただの女だったなら。
もしも私の手が、誰かの命を奪うためではなく、温かいカップを包むためにあったなら。
もしも私の耳が、銃声や足音や呼吸の乱れを拾うためではなく、好きな人のくだらない話を聞くためにあったなら。
もしも私の唇が、偽名を名乗るためではなく本当の名前で誰かを呼ぶためにあったなら。
私は、恋をすることができたのだろうか。
人を好きになっても、よかったのだろうか。
自分の過去を隠したまま、誰かの未来に触れても、許されたのだろうか。
答えは、いつも出なかった。
答えが出ないまま、私は息を吐いて、吸った。
今夜も、私は屋上にいた。
街は眠っているようで、眠っていなかった。
遠くの幹線道路を走る車の低い音、非常階段の鉄が冷えて軋む音、隣のビルの室外機が震える音、どこかの部屋で水道の蛇口が閉まる音、酔った男が路地で笑う声、そのすべてが夜の底で細い糸のように絡まり合っていた。
私は黒いコートの袖口から手首を出し、冷えた空気の中で指先の感覚を確かめた。
標的は、向かいのホテルの十七階にいた。
窓際のソファに腰掛け、グラスを片手に誰かと電話で話している。
距離は問題ない。
風も弱い。
警備は二名。
廊下に一人、地下駐車場に一人。
ホテルの裏口には監視カメラが三台あり、そのうち一台は七分前から映像が固定されている。
逃走経路は二つ。
予定通りなら、発砲後三十秒以内に非常階段を降り、二分以内に清掃業者用の車両へ乗り込む。
失敗した場合は北側の雑居ビルへ飛び移り、配管を伝って三階まで降りる。
その場合、左足首を痛める可能性が高い。
それも許容範囲内だった。
私は、ライフルの照準器を覗き込んだ。
丸い視界の中に、男の顔が収まる。
知らない顔だった。
名前は知らされていない。
罪も知らされていない。
誰に恨まれ、誰に恐れられ、誰に消されようとしているのかも知らない。
命令書には、ただ短く記されていた。
lost memory.
それだけだった。
殺しの対象者。
消すべき記憶。
世界から失われるべき痕跡。
私は、その言葉の意味を知っていた。
知りすぎるほどに、知っていた。
息を吐く。
吸う。
心拍を落とす。
指先から余計な力を抜く。
引き金にかけた指の腹だけに、意識を集める。
この瞬間、私は人間ではなくなる。
私は弾道になる。
思考ではなく、角度になる。
感情ではなく、距離になる。
過去ではなく、命令になる。
けれど、照準の向こうで男がふと笑った。
電話の相手に向けた、短く、やわらかい笑みだった。
それは、死を前にした人間の顔ではなかった。
誰かに帰ると告げている顔だった。
誰かの明日を信じている顔だった。
その瞬間、私の脳裏に、平原の星が流れた。
銀色の線が、黒い空を横切る。
遠くで、誰かが言う。
星の流れる場所に行こう。
私は、引き金にかけた指を止めた。
ほんの一秒にも満たない、わずかな遅れだった。
けれど、殺し屋にとって、その一秒は致命的だった。
耳元の通信機が、小さく震える。
命令を待つ声はない。
催促もない。
ただ、沈黙だけがあった。
その沈黙の奥に、私は組織の気配を感じた。
どこにも属さず、どこにでも通過する銀の弾丸。
世界の境界に立ち、過去と未来を仲介すると称しながら、現在を生きる誰かの心臓を正確に撃ち抜くもの。
シルバー・ブレット。
私を育てたもの。
私を壊したもの。
私から、明日という感覚を奪ったもの。
私はもう一度、息を吐いた。
そして、吸った。
標的の胸に照準を合わせながら、私は初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
それは恐怖ではなかった。
迷いでもなかった。
もっと名付けようのない、ずっと遠くに置き去りにしてきたものが、夜の底から私の名前を呼んでいるような感覚だった。
私は、星の流れる場所に行きたかった。
誰も殺さずに朝を迎えられる場所へ。
誰かの体温を、警戒ではなく安心として受け取れる場所へ。
好きだと言われたとき、まず逃げ道を探さなくてもいい場所へ。
愛されたいと願うことが、罪にならない場所へ。
けれど、その場所が本当に存在するのかどうかを、私はまだ知らない。
だから今も、息を潜めている。
ピストルの引き金を引く、その間際のように。
星が流れる空の下で。
明日が来ることを、信じられないまま。




