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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第9話 名前を取り戻す日

 授賞式の朝、窓から差し込む光はどこか澄んでいた。


 秋の終わりの、透明な光。母の書斎の窓ガラスが少し結露していて、指で拭うと庭の薔薇が見えた。もう枯れかけている。最後の一輪が、冷たい空気の中でまだ咲いている。


 母の形見のブローチを胸元に留める。姉が用意してくれた薄青のドレス。靴は実家にあった母のもの。少しだけ大きいけれど、歩けないほどではない。


(母の靴で、母の宝石で、自分の名前を取り戻しに行く。……母さん、似合ってますか。鏡がなかった四年間の分、今朝は三回も鏡を見ました)





 授賞式の前に、クローネ出版に寄った。最終打ち合わせのため。


 トビアスの書斎に通された。


 狭い部屋だった。机と椅子と、壁一面の本棚。編集長の部屋とは思えない質素さ。机の上には校正中の原稿が何冊も積まれ、赤ペンが三本転がっている。使い込まれた万年筆が一本、ペン立てに。


 けれど本棚だけは──本だけは──ぎっしりと詰まっている。


 何の気なしに本棚を見た。


 目が止まった。


 棚の一角に、見覚えのある背表紙が並んでいた。


 ──マルガレーテ・ヴァルシュタイン著。全十二作品。初版本。


 その全てに、付箋が貼られていた。


 一冊目。二冊目。三冊目。


 どの背表紙からも付箋がはみ出している。黄色、青、赤。色分けされた付箋がページの端から飛び出して、背表紙が見えないほどになっている。


 三冊目──『銀の月と約束の庭』──の付箋が、特に多い。本の厚みが三割増しになっているように見える。


 手を伸ばして、一冊を棚から引き出した。


 開くと、付箋の横にびっしりとメモが書いてある。トビアスの筆跡。小さく几帳面な文字。ところどころ走り書きになっている箇所は、興奮して書いた部分だ。


 ──『この一節、著者の実体験か。呼吸が違う。口述では出ない文体。手で書いている人の文体だ』


 ──『6章のラスト。マルガレーテ夫人の性格と合致しない。「芯の強さ」は口述では生まれない。この文を書いた人間は、夫人ではない。確信』


 ──『既視感。5作目のp.72と同じ癖。「けれど」の使い方、「──」の後の一拍。同一人物。だが名前は──? 3年目。まだ見つけられない』


 十二冊。全て。三年分のメモ。


 付箋の色は時系列で変わっていた。最初は黄色──疑問。次に青──確信。最後に赤──このため息は文字にできない。赤い付箋にはメモが少なかった。その代わり、文中の一行に下線だけが引いてあった。


 ──『指先が震えたのは、恐れではなかった。やっと自分の足で立てるという、途方もない喜びだった。』


 下線が二重になっていた。


「……見ましたか」


 トビアスが入口に立っていた。


「ずっと──ずっと探していたんですね」


「文体が最初から好きだった」


 トビアスの声は静かだった。


「口述の形式で抑え込まれていても、行間から漏れ出す文体があった。言葉に釘を打つような強さと、けれど柔らかい場所を壊さないように回り道する繊細さ。その文体を書く人間の名前を、僕はずっと知らなかった」


 一歩近づいた。


「やっと見つけた」


(この人は──私の才能が目的ではない。出版の契約が目的ではない。私の言葉そのものを、三年間、ずっと──)


 涙が出た。三回目で、最後の涙だった。


「すみません。また泣いて──」


「泣いていいですよ。僕は原稿を濡らされなければ構いません」


 トビアスらしい冗談だった。笑えるのに泣けた。





 授賞式会場。石造りのホール。


 壇上に王太子フリードリヒ殿下。文壇の重鎮たち。審査員。そして──義母マルガレーテ、オスカー、カミラ。


 義母の顔は青白かった。昨夜の前夜祭から、一晩で十歳は老けたように見えた。けれどその目だけが、まだ光を失っていなかった。


 義母が立ち上がった。


「異議を申し立てます!」


 会場がざわめく。昨夜の前夜祭の続きだ。


「クローネ出版の編集長と新人作家の間には、不正な関係があります! 鑑定結果は癒着の産物です! 公正な審査を要求します!」


 最後の切り札。スキャンダル。


 会場の空気が変わる。噂は噂を呼び、事実よりも匂いの方が人を動かす。


 トビアスが静かに立った。


「それなら、リディアさんの担当を外れます。今後の編集は別の者が引き継ぎます」


 会場が静まった。


「ただし──証拠は事実です。担当であろうとなかろうと、文体鑑定の結果は変わりません。鑑定を依頼したのは僕ですが、鑑定をしたのは王立文芸協会の専門家です。癒着の余地はありません」


 義母の顔が歪んだ。最後の武器が折れた顔だった。


 私は立ち上がった。


「証拠を提示します」


 声は震えなかった。


 一つ目。婚姻契約書。第七条──『妻の知的成果物の権利は妻に帰属する』。


 二つ目。初稿ノート十二冊。四年分の全初稿。日付入り。


 三つ目。王立文芸協会の文体鑑定結果。『全二十四点は同一人物の手による作品。初稿ノートの日付は構想メモに先行している』。


 四つ目。マルガレーテの「慈善活動」の会計記録。印税を慈善に回したと公言していたが、慈善に支出した記録はゼロ。全額が個人口座に。


 四つの証拠が壇上に並んだ。


 王太子フリードリヒ殿下が鑑定書を受け取り、目を通した。ゆっくりと、全ての頁を。


「……文芸協会名誉顧問として、この鑑定結果を承認する。異議申し立ては棄却とする」


 義母が声を失った。


 文字通り、声が出なくなった。口を開くのに、音にならない。隣のオスカーが義母を見た。


「母上。──全て、嘘だったのですか」


 初めて、あの男の目から余裕が消えた。


 私は会場を見渡した。


 百を超える視線が、私に集まっている。


「……私はもう、誰かの影で書くことはしません」


 怒りでも、嘲りでもなかった。ただの宣言。


 四年間言えなかった、たった一行。


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