第9話 名前を取り戻す日
授賞式の朝、窓から差し込む光はどこか澄んでいた。
秋の終わりの、透明な光。母の書斎の窓ガラスが少し結露していて、指で拭うと庭の薔薇が見えた。もう枯れかけている。最後の一輪が、冷たい空気の中でまだ咲いている。
母の形見のブローチを胸元に留める。姉が用意してくれた薄青のドレス。靴は実家にあった母のもの。少しだけ大きいけれど、歩けないほどではない。
(母の靴で、母の宝石で、自分の名前を取り戻しに行く。……母さん、似合ってますか。鏡がなかった四年間の分、今朝は三回も鏡を見ました)
*
授賞式の前に、クローネ出版に寄った。最終打ち合わせのため。
トビアスの書斎に通された。
狭い部屋だった。机と椅子と、壁一面の本棚。編集長の部屋とは思えない質素さ。机の上には校正中の原稿が何冊も積まれ、赤ペンが三本転がっている。使い込まれた万年筆が一本、ペン立てに。
けれど本棚だけは──本だけは──ぎっしりと詰まっている。
何の気なしに本棚を見た。
目が止まった。
棚の一角に、見覚えのある背表紙が並んでいた。
──マルガレーテ・ヴァルシュタイン著。全十二作品。初版本。
その全てに、付箋が貼られていた。
一冊目。二冊目。三冊目。
どの背表紙からも付箋がはみ出している。黄色、青、赤。色分けされた付箋がページの端から飛び出して、背表紙が見えないほどになっている。
三冊目──『銀の月と約束の庭』──の付箋が、特に多い。本の厚みが三割増しになっているように見える。
手を伸ばして、一冊を棚から引き出した。
開くと、付箋の横にびっしりとメモが書いてある。トビアスの筆跡。小さく几帳面な文字。ところどころ走り書きになっている箇所は、興奮して書いた部分だ。
──『この一節、著者の実体験か。呼吸が違う。口述では出ない文体。手で書いている人の文体だ』
──『6章のラスト。マルガレーテ夫人の性格と合致しない。「芯の強さ」は口述では生まれない。この文を書いた人間は、夫人ではない。確信』
──『既視感。5作目のp.72と同じ癖。「けれど」の使い方、「──」の後の一拍。同一人物。だが名前は──? 3年目。まだ見つけられない』
十二冊。全て。三年分のメモ。
付箋の色は時系列で変わっていた。最初は黄色──疑問。次に青──確信。最後に赤──このため息は文字にできない。赤い付箋にはメモが少なかった。その代わり、文中の一行に下線だけが引いてあった。
──『指先が震えたのは、恐れではなかった。やっと自分の足で立てるという、途方もない喜びだった。』
下線が二重になっていた。
「……見ましたか」
トビアスが入口に立っていた。
「ずっと──ずっと探していたんですね」
「文体が最初から好きだった」
トビアスの声は静かだった。
「口述の形式で抑え込まれていても、行間から漏れ出す文体があった。言葉に釘を打つような強さと、けれど柔らかい場所を壊さないように回り道する繊細さ。その文体を書く人間の名前を、僕はずっと知らなかった」
一歩近づいた。
「やっと見つけた」
(この人は──私の才能が目的ではない。出版の契約が目的ではない。私の言葉そのものを、三年間、ずっと──)
涙が出た。三回目で、最後の涙だった。
「すみません。また泣いて──」
「泣いていいですよ。僕は原稿を濡らされなければ構いません」
トビアスらしい冗談だった。笑えるのに泣けた。
*
授賞式会場。石造りのホール。
壇上に王太子フリードリヒ殿下。文壇の重鎮たち。審査員。そして──義母マルガレーテ、オスカー、カミラ。
義母の顔は青白かった。昨夜の前夜祭から、一晩で十歳は老けたように見えた。けれどその目だけが、まだ光を失っていなかった。
義母が立ち上がった。
「異議を申し立てます!」
会場がざわめく。昨夜の前夜祭の続きだ。
「クローネ出版の編集長と新人作家の間には、不正な関係があります! 鑑定結果は癒着の産物です! 公正な審査を要求します!」
最後の切り札。スキャンダル。
会場の空気が変わる。噂は噂を呼び、事実よりも匂いの方が人を動かす。
トビアスが静かに立った。
「それなら、リディアさんの担当を外れます。今後の編集は別の者が引き継ぎます」
会場が静まった。
「ただし──証拠は事実です。担当であろうとなかろうと、文体鑑定の結果は変わりません。鑑定を依頼したのは僕ですが、鑑定をしたのは王立文芸協会の専門家です。癒着の余地はありません」
義母の顔が歪んだ。最後の武器が折れた顔だった。
私は立ち上がった。
「証拠を提示します」
声は震えなかった。
一つ目。婚姻契約書。第七条──『妻の知的成果物の権利は妻に帰属する』。
二つ目。初稿ノート十二冊。四年分の全初稿。日付入り。
三つ目。王立文芸協会の文体鑑定結果。『全二十四点は同一人物の手による作品。初稿ノートの日付は構想メモに先行している』。
四つ目。マルガレーテの「慈善活動」の会計記録。印税を慈善に回したと公言していたが、慈善に支出した記録はゼロ。全額が個人口座に。
四つの証拠が壇上に並んだ。
王太子フリードリヒ殿下が鑑定書を受け取り、目を通した。ゆっくりと、全ての頁を。
「……文芸協会名誉顧問として、この鑑定結果を承認する。異議申し立ては棄却とする」
義母が声を失った。
文字通り、声が出なくなった。口を開くのに、音にならない。隣のオスカーが義母を見た。
「母上。──全て、嘘だったのですか」
初めて、あの男の目から余裕が消えた。
私は会場を見渡した。
百を超える視線が、私に集まっている。
「……私はもう、誰かの影で書くことはしません」
怒りでも、嘲りでもなかった。ただの宣言。
四年間言えなかった、たった一行。




