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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 授賞式前夜

 授賞式の前夜祭は、華やかな笑顔と毒の言葉で満ちていた。


 王都の大広間。シャンデリアの魔法灯が金色の光を散らし、百人を超える文壇と社交界の人々が集まっている。壁際にはワインと軽食が並び、給仕がグラスを運んでいく。


 カタリーナが用意してくれたドレスに袖を通した時、鏡に映った自分に少し驚いた。四年間で初めて、きちんとした晴れ着を着ている。淡い水色のドレス。母の形見のブローチが胸元で光を受けて、小さく瞬いた。


(似合っているのかどうか分からない。四年間、鏡すらなかった部屋で暮らしていたのだから。……母が生きていたら──今日を見届けてくれただろうか)





 三日前のこと。


 トビアスがクローネ出版の応接室で告げた。


「あなたの次回作が、王立文芸協会の新人賞にノミネートされました」


「──まさか」


「当然の結果です」


 トビアスは微笑んだ。氷が融けるあの表情。この人が笑うと、目元にだけ温度が出る。口元ではなく目で笑う人なのだ。


 嬉しかった。嬉しかったけれど、同時に怖かった。


「義母がこの知らせを聞いたら──」


「何をしても、鑑定結果は変わりません」


 トビアスの声は静かだった。けれど、その静かさの奥に、鋼のような硬さがあった。





 前夜祭の会場で、それは起きた。


 歓談の最中。ワインを片手に著名な評論家と話していた時。


「皆様、お聞きください!」


 甲高い声が大広間に響いた。


 義母マルガレーテが、会場の中央に立っていた。隣にはオスカーとカミラ。義母はゴールドの刺繍が入ったドレスを着ていた。眼差しは涙で潤んでいる。


 計算された涙だ。


「リディア・フローレンスは、私の作品を盗み、自分の名前で出版した詐欺師です!」


 ざわめきが広がった。百の視線が私に集まる。


 足が冷たくなった。喉がきつく締まる。持っていたワイングラスの脚を、指が白くなるほど握った。


(また──また名前を奪われる。こんな場所で、こんな大勢の前で)


「この女は私の書斎に出入りし、未発表の構想メモを盗み見て、その内容を自分の作品として世に出しました。文体が似ているのではない、私のアイデアを盗んだのです! 文体鑑定は、編集長と示し合わせた虚偽の結果です!」


 義母の声は完璧にコントロールされていた。涙すら浮かべている。声の震えまで計算されている。四年間見続けた、義母の完璧な演技。


 周囲がざわめく中、私は何も言えなかった。言葉が出てこない。


 その時。


「失礼します」


 静かな声が、ざわめきを切った。


 トビアスが一歩前に出た。


「クローネ出版の編集長、トビアス・レーヴェです。マルガレーテ夫人の担当編集を三年間務めました」


 会場が静まった。義母の担当編集が──義母の側にいた人間が、口を開いた。


「マルガレーテ夫人の十二作品は、全て別の人物の代筆であったことが、王立文芸協会の文体鑑定で証明されています」


 トビアスが懐から封書を取り出した。王立文芸協会の封蝋。


「リディア・フローレンスこそが、十二作品の真の著者です。また、マルガレーテ夫人が主張する『構想メモの盗用』についても、初稿ノートの日付がメモよりも先行していることが鑑定で確認済みです。盗用していたのは、リディア・フローレンスではありません」


 義母の顔から血の気が引いていくのが、この距離からでも見えた。唇が動くけれど、声が追いつかない。


 会場の視線が、義母に向いた。


 けれど私が見ていたのは、トビアスの手だった。封書を持つ指先が、わずかに震えている。





 前夜祭が終わり、人波が引いた大広間の隅。


 片付けの給仕たちがグラスを集める音が、遠くに聞こえる。


「……なぜ、そこまで」


 声を絞り出した。


 トビアスは少し考えた。壁際に寄りかかり、空になったワイングラスを回しながら。


「あなたの物語に、僕は編集者として救われたことがある」


「救われた?」


「三年前。『銀の月と約束の庭』のあの一節を読んだ夜、僕は──辞表を書きかけていた」


 息を呑んだ。


「担当作家の不正に見て見ぬふりをしている自分に、嫌気がさしていた。マルガレーテ夫人の原稿に覚える違和感──あの文体は口述からは生まれない、誰か別の人間が書いている。そう感じていたのに、証拠がないからと黙っていた。編集者として最も卑怯なことをしていた」


 トビアスの声が、初めて揺れた。


「あの一行が──『やっと自分の足で立てるという、途方もない喜びだった』が、僕に踏みとどまらせた。自分の足で立つ、と。だから僕もまだ、辞めずにいい。探し続けていい。あの言葉を書いた人間に会える日まで──そう思った」


(──語弊がある。それは「編集者として救われた」というか──もう──)


 涙を堪えた。堪えきれなかった。


 これが、この物語の中で二回目の涙だった。


「すみません。泣く予定ではなかったのですが」


「謝らなくていいです」


 トビアスが目を伏せた。


「明日、授賞式で全ての証拠を公開します。異議申し立ての審議を、協会に正式に申請済みです」


 義母が遠くの柱の影から、こちらを見ていた。


 明日。全てが決まる。


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