第7話 離別と、去っていく影
離縁の書類に署名した瞬間、ペンは驚くほど軽かった。
裁判所の小さな部屋。石壁に囲まれた、飾り気のない空間。長机の向こうに裁定官。隣に父と、代理人の法務官。オスカー側の代理人は家令のハインツが務めていた。
オスカー本人は来なかった。
最後の最後まで──私のことは、どうでもよかったらしい。
署名欄に「リディア・フローレンス」と書いた。旧姓。本当の名前。万年筆のペン先が紙を滑る感覚が、契約書の署名よりもずっと自然だった。
ヴァルシュタインの姓が消えた。
四年間、名乗り続けた姓。けれど、一度も自分のものではなかった。何か重いものが肩から落ちた──いや、肩にずっと乗っていたものが、最初からなかったように消えた。
証拠書類が揃っていたこと、そしてオスカーが離縁を争わなかったこと。その二つが重なって、通常二ヶ月の手続きが一ヶ月と少しで終わった。
(終わった。四年間が、これで)
裁判所を出た後、父と二人で近くの食堂に入った。昼食。玉葱のグラタンスープとパンを頼んだ。
グラタンスープの上に載ったチーズが、スプーンで引くと糸を引いて伸びた。下からは玉葱の甘みが詰まった琥珀色のスープ。一口含むと、舌の上で玉葱がとろける。
「美味しい」
父は黙って頷いた。
(この味を覚えておこう。私が自分の名前を取り戻した日の味を)
*
残りの私物を引き取るため、最後に伯爵家を訪れた。
玄関で迎えたのは家令のハインツだった。相変わらず不愛想。それでも今日は何も言わなかった。用が済めば永遠にいなくなる人間に、嫌味すら言う価値がないのだろう。
自室──もう元自室だ──に入った。窓からの光は相変わらず弱い。小さな寝台。机の上は空。ノートはもうない。インクの染みだけが残っている。四年分のインクが、木の繊維に沁み込んでいる。
(この寝台で四年間眠った。この机で十二の物語を書いた。そして、この部屋を思い出すことは、もうないだろう)
荷造りは五分で終わった。元から物がないのだから、当然。
厨房に最後の挨拶に寄った。
ミルダが待っていた。
料理長ミルダ。先代の伯爵の頃からこの厨房を守る四十八歳の女性。大きな手。小麦粉で白くなった指先。義母に逆らう勇気はなくても、四年間ひそかに昼食のスープを多めに盛ってくれた人。
「奥様」
ミルダの声が震えていた。
「お昼のスープは、いつも特別にお作りしていたんです。塩加減を少しだけ変えて──奥様がお好きな味に。かぶの時は少し薄めに、玉葱の時は少し甘めに」
(知っていた。あのスープだけが、いつも少しだけ温かかった。四年間で一番嬉しかった食事は、あの厨房の隅で食べたスープだった)
「ミルダさん。ありがとう──本当に」
ミルダの目から涙がこぼれた。エプロンで拭おうとして、拭いきれなくて、結局両手で顔を覆った。小麦粉で白くなった手が、涙で湿って斑になった。
「奥様がこんな扱いを受けるのは──先代様がお優しい方でしたから──先代様が見たら、きっと」
それ以上は声にならなかった。
ミルダが最後に作ってくれたスープを受け取った。小さな壺に入った、温かいスープ。かぶと玉葱のポタージュ。私が一番好きな組み合わせ。
一口飲んだ。
いつもより塩味が少し強い。ミルダの涙のせいかもしれない。
*
廊下で、エルザと会った。
本来私付きの侍女。義母に引き抜かれて以来、顔を合わせるのも気まずそうにしていた二十二歳の少女。
「リディア様」
エルザが深く頭を下げた。栗色の髪が肩から流れ落ちた。
「お荷物は──本来、私がお手伝いすべきでした。四年間、ずっとそう思っていました。義母様にお仕え替えを命じられた時、断れませんでした。でも──ずっと」
指先が震えている。スカートの裾を握りしめている。白くなるほど。
「エルザ」
「はい」
「あなたのせいではないわ」
エルザは顔を上げなかった。けれど、小さな声で聞いた。
「もし──もしよろしければ、お嬢様の新しいお住まいで──お仕えさせていただけませんか」
(この子は──四年間、ずっと罪悪感を抱えていたのか。義母の命令に逆らえなくて、けれど私のことをずっと気にしていた)
「……いいの? 義母様のお屋敷を離れて」
「リディア様は──唯一、『ありがとう』と言ってくださった方です。この屋敷で、その言葉をくださったのは、リディア様だけでした」
ありがとう。
たった一言が、人を繋ぎ止めることがある。
*
クローネ出版を訪ねた。
トビアスが打ち合わせ室で待っていた。机の上にはいつもの付箋の束と、コーヒーが二つ。一つは砂糖入り。私が砂糖を入れることを、いつの間にか覚えていた。
「離縁が成立しました。──正式にリディア・フローレンスに戻りました」
「おめでとうございます」
おめでとう、と言われて戸惑った。けれど、離縁に「おめでとう」が似合うこともあるのだと知った。
「次回作の打ち合わせに入りたいのですが──まだ書けますか? 色々なことがあって」
トビアスがコーヒーカップを置いた。
「書かない理由があるんですか?」
不意打ちだった。
──書かない理由が、あるんですか。
(ない。ないのだ、そんなもの。名前を取り戻して、義母の嘘は崩れて、書く場所があって、読者がいて──書かない理由が、どこにある)
笑った。
声を出して笑った。この人の前で声を出して笑うのは、初めてだった。
「ありません」
トビアスが少しだけ目を見張った。それから、氷が融けるみたいに、口元が緩んだ。
「では、始めましょう」
*
◇
ヴァルシュタイン伯爵邸。夕食。
サロンの席が、また一つ空いていた。
先週は十二の椅子が埋まっていた。今週は七つ。来週は──いくつ残るだろう。
カミラは向かいの席で微笑んでいる。だが彼女が書いた原稿は、クローネ出版から「出版に値しない」と突き返された。母も、一行も書けないまま三ヶ月が経つ。
書評会で、母に野次が飛んだと聞いた。「その本、本当にあなたが書いたの?」と。
出版収入の月十五枚の金貨はゼロになった。サロンの維持費が赤字。花の費用。茶葉の費用。招待状の印刷費。全部、出版収入で賄っていたものだ。
「お義母様」
カミラが控えめに言った。
「授賞式が来月ございますわ。王立文芸協会の年間行事。社交界の重鎮が集まる場で──直接、訴えたらいかがですか。文体鑑定は編集長の陰謀だと」
母の目が光った。
「……そうね。先に攻撃した方が有利よ」
俺は空のスープ皿を見ていた。皿の底に薄く残ったスープの膜。
昨日、王都の書店の前を通りかかった。ショーウィンドウに、あの女の──リディアの本が平積みになっていた。背表紙に「リディア・フローレンス」と書いてあった。
知らない名前だった。
四年間、同じ屋根の下にいた女の旧姓を、俺は知らなかった。何を書いているかも知らなかった。何が好きで、何が嫌いかも。あの小さな部屋で毎晩何時間も机に向かっていたことすら──いや、そもそも、あの部屋に机があったことを、今初めて意識している。
(俺は──四年間、何を見ていたんだ)
答えは分かっている。何も見ていなかった。何も生み出していなかった。サロンの席順を決め、社交辞令を交わし、カミラと夕食をとる。それが俺の四年間の全てだ。
(なのに、あの女は──)
スープは熱かった。ちゃんと温かかった。ミルダが作ったかぶのポタージュ。
なのに、味がしなかった。
厨房から聞こえていたスプーンの音が、今夜はしないことに、ようやく気づいた。




