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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第6話 文体鑑定と、崩れ始めた嘘

 書店の棚から、私の本が二冊減っていた。


 先週まで六冊あった平積みが四冊。増刷されたはずなのに。棚の端に寄せられて、隣の本に影を隠すように置かれている。


 書店の主人は目を合わせなかった。レジの奥に引っ込んで、帳簿を見るふりをしていた。


(義母の「構想メモ盗用」の噂が、ここまで──)


 二週間で、噂は文壇から社交界に広がった。文芸サロンで、夜会の席で、レストランの個室で。「あの新人は義母の書斎から構想メモを盗んだらしい」「書斎に出入りしていたのは事実だそうよ」「知的財産の盗用は、爵位剥奪にもなりかねないわ」。


 実際、私は義母の書斎に出入りしていた。代筆をしていたのだから当然だ。けれど、「代筆」という事実を知らない外部の人間から見れば、嫁が義母の知的財産を盗んだ構図になる。


(義母は、狡猾だ。嘘の中に一粒の事実を混ぜる。事実を土台にした嘘は、事実を知らない人間には見破れない)





 クローネ出版、社長室。


 トビアスが社長のカール・クローネを同席させて、私に向き合った。社長室は出版社の最上階にあり、窓から王都の街並みが見えた。棚にはクローネ出版の歴代のベストセラーが並んでいる。


「王立文芸協会に文体鑑定を依頼したいと考えています」


 カール社長──白髪の、貫禄ある老紳士。先代から出版社を受け継ぎ、五十年近くこの業界にいる人──が深く頷いた。


「クローネ出版の信用問題でもある。鑑定費用は当社が負担する。金貨二十枚は覚悟しているよ。あの嬢ちゃんの才能に賭ける価値がある」


(嬢ちゃん……カール社長に嬢ちゃんと呼ばれた。少し嬉しい。少し恥ずかしい)


「リディアさん。初稿ノートを鑑定資料として提出していただけますか。加えて──」


 トビアスが真っ直ぐこちらを見た。


「マルガレーテ夫人の『構想メモ』の提出も要求します。ノートの日付と構想メモの日付を照合すれば、どちらが先に書かれたか分かるはずです」


(日付の照合──そうだ。私の初稿ノートには全て日付を入れていた。何月何日に何ページ書いたか、几帳面に記録していた。義母の「構想メモ」がいつ書かれたものか、比べれば──)


「お願いします」


 声が震えなかったことが、自分でも不思議だった。


 ノート十二冊を提出する時、トビアスの手が一瞬、木箱に触れた。


「これが」


「四年分の初稿です。全部、日付入りです」


 トビアスは何も言わなかった。けれど、彼の指先がノートの背表紙に沿うように動いたのが見えた。ぼろぼろの表紙。インクの染み。折れた角。四年間、寝台の下に隠して書き続けたノート。


 その重さを、この人は指先で量っている気がした。


(この人は──私のために、社内の反対を押し切って鑑定を依頼してくれている。出版社の信用を賭けて。義母の担当編集だった人間が、義母の嘘を暴く側に立つ。それがどれほどの社会的リスクかは、私にも分かる)





 鑑定には十日かかった。


 その間、私は実家で次の作品の構想を書いていた。書いていないと不安で仕方なかった。食事の味が分からなくなった。父が毎朝作ってくれるスクランブルエッグの味が、三日間すっぽり抜け落ちた。


 四日目に味が戻った。塩味が少し強い。父の手が震えたんだろうか。


(父さん。心配させて、ごめんなさい)


 結果が届いた日、トビアスが出版社の応接室で封書を開いた。王立文芸協会の封蝋が押された正式な鑑定書。


「──読み上げます」


 トビアスの声が、いつもより低かった。


「『提出された全二十四点の原稿は、筆跡・文体ともに同一人物の手によるものと断定する』」


 息を吐いた。


「さらに」


 トビアスが次の頁を開いた。


「『リディア・フローレンスの初稿ノートに記録されたアイデアの日付は、マルガレーテ・ヴァルシュタインの構想メモの日付より全て先行している。同一のアイデアが双方に記録されている箇所について、初稿ノートの記録が平均して二ヶ月から四ヶ月早い。構想メモはリディアの初稿から転写されたものと推定される』」


 義母の「構想メモ」は、私の初稿ノートから写し取ったものだった。


 盗んだのは、私ではない。


 盗んでいたのは──最初から、義母の方だった。


「……これで」


「はい。マルガレーテ夫人の主張は、完全に崩壊しました」


 トビアスが鑑定書を机に置いた。その手はわずかに震えていた──いや、震えを止めようとしているのが分かった。


「公表するかどうかは、あなたが決めてください」


(またこの人は、私に決定権を渡す。奪わない。選ばせてくれる。オスカーは四年間で一度も私に何かを選ばせてくれなかった。この人は、いつも──)


「公表します」


「……いいんですか」


「もう隠れる必要はないから」


 その言葉が口から出た時、自分の声が妙に澄んでいることに気づいた。





 翌日。


 実家の書斎で執筆をしていると、窓辺に置いた魔法通信端末が光った。


 伯爵家からだった。


『妻を呼び戻せ──オスカー・ヴァルシュタイン』


 たった一行の通信文。「呼び戻せ」。人を呼び戻す言葉ではない。物を回収する言葉だ。


 私は便箋を取り出して、返信を書いた。


『離縁の手続き中ですので、もう妻ではありません。──リディア・フローレンス』


 ペンを置いた。


 実家の侍女がお茶を運んできてくれた。


「お嬢様、レモンバームのお茶をお持ちしました」


「ありがとう」


(伯爵家では、お茶を持ってきてくれる人すらいなかったな。ありがとうと言える相手がいることが、これほど嬉しいとは)


 温かいお茶を飲みながら、父からの報告を思い出した。


 離縁手続きの進捗──オスカーが離縁そのものを争わないため、「争わない離縁」の特例が適用され、通常二ヶ月の手続きが一ヶ月強に短縮される見込みだと。


(あの人は、離縁を争うつもりもないのね。「お飾り」を返品するだけだと、今でも思っている。返品した商品が品評会で一等賞を取ることもあるのだと、知る日が来るかしら)


 窓の外で、秋の風が庭の薔薇を揺らしていた。最後の一輪が、まだ咲いている。


 鑑定結果の公表は明日。


 ──もう、怖くない。


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