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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第5話 初版完売と、偽物の狼煙

 書店の棚に並んだ背表紙に、「リディア・フローレンス」の名前が印刷されていた。


 三度、目を擦った。


 消えない。本物だ。


『声をなくした語り部』──リディア・フローレンス著。


 指先で背表紙に触れた。インクの凹凸がある。印刷された私の名前。紙の手触り。装丁は落ち着いた藍色で、タイトルの文字が銀箔で押されている。


(ここにある。私の言葉が、私の名前で、ここに──)


 書店の店員がこちらを見ている気がして、慌てて手を引っ込めた。


 帰り際に一冊買った。自分の本を自分で買うなんて滑稽だけれど、手元に一冊欲しかった。実家に持ち帰って、父の書斎の本棚の一番端に、母の蔵書と並べて置いた。





 三日で初版が完売した。


「増刷です。二千部」


 トビアスがそう告げた時、私は自分の耳を疑った。


「新人の短編で初週完売は珍しい。書評誌にも取り上げられています」


 トビアスが卓上に広げた書評誌の切り抜きを指さした。その横に、封書の束が置いてあった。


「読者からの手紙です。書店経由で届いたものが十二通」


 十二通。一通を開いた。


 ──『あなたの本を読んで、朝まで眠れませんでした。語り部が声を取り戻す場面で、自分のことのように泣きました。次の本を、待っています。』


 知らない人の筆跡。知らない人の涙。私の言葉が、知らない誰かの夜を変えた。


(……本当に? これは、義母の十二作品で積み上げた読者が、文体の類似に引かれて買っただけではないのか。義母の名前がなくても、この物語は──私の名前だけで、読まれたのか)


 疑いが消えない。四年間「義母の代筆」として価値を認められてきたのだから。義母の名前という看板がなければ、私の文章は書店の棚にすら並ばなかったかもしれない。


 ──『マルガレーテ・ヴァルシュタイン初期作品と同じ空気を持つ新人が現れた。この文体はどこかで読んだことがある気がする。語り部の声は枯れることのない泉のように透明で、読者の胸を直に叩く力がある』


 読んで、二つのことが同時に起きた。書評の言葉が嬉しくて、背筋が冷たくなった。


「……似ている、と」


「文壇はそう評価しています」


 トビアスは冷静だった。いつものように背筋が伸びた姿勢で、書評誌を畳んでいる。けれど、次の言葉は冷静ではなかった。


「三年前、『銀の月と約束の庭』を読んだ時から、この文体の本当の持ち主を探していました」


 呼吸が止まった。


「あの作品の中に一節があった。『指先が震えたのは、恐れではなかった。やっと自分の足で立てるという、途方もない喜びだった』──あの一行を読んだ時から、この文章を書いた人間に会いたかった。ずっと」


(三年前。三年前から、この人は──)


 あの日言われた「この文体には覚えがある」の意味が、今やっと分かった。覚えがあるのではない。探していたのだ。三年間。


「なぜ……なぜそこまで」


「マルガレーテ夫人の口述と、出版物の文体には、以前から乖離を感じていました。打ち合わせで口述される内容と、実際の原稿の品質が合わなかった。けれど証拠がなかった。あなたの原稿を読んだ時、確信に変わった」


 トビアスの目が、真っ直ぐこちらを見ていた。


(この人は──編集者としての知的好奇心で、文体を追っていたのだ。三年間も。文体に惚れ込んだ、と言っていい。その文体が正当に評価される場所を、この人は作ろうとしている)


 そう解釈した。それ以外の可能性は、考えなかった。


 考える余裕がなかった。


「あの……ありがとうございます。私の文章を──三年も探していてくださって」


 トビアスが少しだけ目を伏せた。何かを飲み込むように。机の上の書評誌を整える指先が、わずかに止まった。


「礼を言われることではありません。僕は、読みたい文章を読みたかっただけです」





 その日の夕方。


 別の出版社の編集者が、カフェで私に接触してきた。名刺にはベルク書房と書いてあった。


「フローレンスさん。うちで単独契約しませんか。クローネさんを離れれば、今後起き得るスキャンダルも気にならないでしょう。印税率も上乗せします」


(スキャンダル? 何のことだろう)


「申し訳ありません。クローネ出版さんにお世話になっていますので」


 後ろのテーブルに座っていたトビアスが、コーヒーカップを持つ手を止めたことに、私は気づかなかった。ベルク書房の編集者が笑顔で去った後、トビアスは何事もなかったようにカップを口に運んだが、中身をほとんど飲んでいなかった。


 その夜。実家に届いた手紙で、事態を知った。


 ──義母が文壇の知人を通じ、「リディア・フローレンスは私の書斎にあった未発表の構想メモを盗み見て、それを自分の作品にした」と主張し始めている、という噂。


 手紙を読む指先が冷たくなった。


(構想メモ──? 義母の書斎に出入りしていたのは事実だ。代筆をしていたのだから、当然。毎日あの書斎で原稿を書いていた。けれどそれを、「構想メモを盗んだ」と──)


 嘘だ。全て嘘だ。構想も物語も台詞も、全部私が書いた。義母は一行たりとも書いていない。


 けれど、知らない人から見れば。


 書斎に出入りしていた嫁が、義母の構想を盗んだ──確かに、一定の筋は通って見える。書斎への出入りは事実。構想メモの存在を否定する材料は、私の側にはない。義母が「構想メモを作っていた」と言えば、それを覆すのは容易ではない。


(巧い。義母は巧い。嘘の中に一粒の事実を混ぜる。だから信じられる)


(また、名前を奪われるのかもしれない)


 その恐怖が、喉の奥にせり上がってきた。


 印税の初入金──金貨三枚。伯爵家にいた四年分の小遣いを全部足した額に匹敵する。これだけあれば一年は暮らせる。生活の不安はない。けれど──


(私の言葉が、また誰かのものにされるなら。お金なんて、何の意味もない。四年間で一番怖かったのは、空腹ではなかった。自分の名前が消えることだった)


 机の上に、トビアスの校正メモが置いてある。


 丁寧な文字。付箋の端が少し折れている。何度も読み返した跡。三年間探し続けてくれたこの人の信頼を、義母の嘘で──


(嫌だ)


 静かに、けれど確かに、怒りが灯った。


 ペンを握りしめた。指先が白くなるほど、強く。


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