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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第4話 出版決定と、沈黙の書斎

「著者名はどうされますか?」


 その質問に、私は四年ぶりに旧姓を名乗った。


「リディア・フローレンスで、お願いします」


 トビアスがペンを走らせる。契約書の著者名欄に、私の名前が──本当の名前が書き込まれていく。流れるような筆跡。万年筆のペン先が紙を滑る音だけが、会議室に響いていた。


 クローネ出版の会議室。向かいに座ったトビアスの手元で、インクが載せられていくのを、私はぼんやりと見ていた。


(名前。私の名前が、本の表紙に載る。義母の名前ではなく)


「前払い金として銀貨五十枚をお支払いします。これは初版部数に基づく──」


「銀貨五十枚」


 声に出してしまった。


 月の小遣いの十倍だ。いや、「だった」。もう伯爵家の小遣いなんてものはない。銀貨五枚。紙とインクを買ったら消える額。それが四年間の私の全てだった。


「少ないですか?」


「いえ──多いです。とても。これだけあれば、紙もインクも、一年分は買えます」


 自分で言って、少し恥ずかしくなった。著者契約の前払い金を、紙代で換算する作家がどこにいるだろう。


 トビアスが少しだけ口元を緩めた。笑顔とは言えない。けれど、氷が一滴融けたような変化。


(この人は、あまり笑わないのだな。けれど、融ける時がある)





 打ち合わせは午後まで続いた。


 トビアスの校正は、丁寧だった。丁寧すぎると言ってもいい。私が一行書いたものに対して、三行のコメントが付箋に書かれている。文字は小さく整然として、けれどところどころ走り書きになっている箇所がある。興奮して書いた部分だ。


「ここは──もっと書きたいように書いていい」


「書きたいように?」


「以前の──いや、この文体で書かれた作品には、どこか抑制された部分がありました。言葉を選びすぎている、というか。『この先に行きたいのに、手前で止めている』感覚がありました。もっと自由に、感情を手放していい箇所があると思います」


(知っている。義母の名前で書く時は、義母の好みに合わせて抑えていた。「もう少し上品に」「ここは控えめに」。私の言葉を、半分だけ使っていた。残りの半分は──飲み込んでいた)


「……自由に、書いていいんですか」


「あなたの名前で出す本です。あなたの言葉で」


 その一言が、鎖が外れるような感覚を運んできた。


(この人は──前の夫とは、違う)


 けれど、別の声が頭の隅で囁いた。


(この人はまだ、私の本当の実力を知らないのでは。義母の代筆の延長だと気づいたら──「あの文体が好きだった」のは義母の本の中にいた私であって、看板を外した素の私を見たら、評価が変わるのでは)


 前の夫。そう呼ぶのはまだ慣れない。けれど、オスカーは四年間で一度も「もっと自由に」なんて言わなかった。そもそも私が何を書いているのか、興味すらなかった。


 原稿の同じ箇所を指さした時、指先が触れた。


 トビアスが一瞬、手を止めた。ほんの一拍。指先がかすかに引かれて──戻った。


(……?)


 それだけだった。トビアスはすぐにペンを取り直して、次の付箋に移った。私は特に気に留めなかった。


 打ち合わせの後、出版社の近くのカフェでお茶を奢ってもらった。


 木組みの天井が低い、こぢんまりした店。窓際の席にはクローネ出版の社員がちらほらいた。常連の店なのだろう。


「初めてなんです」


「何がですか?」


「こんな──仕事の後にお茶をいただくなんて。伯爵家では──」


 言いかけて、止めた。あの家の話をする場所ではない。


「レモンタルトが人気ですよ」


 トビアスは追及しなかった。代わりにメニューを指した。


(この人は、聞かない。踏み込まない。けれど、ちゃんと見ている。「では」じゃなくて「止めた」のを見て、話題を変えた。その加減が──なんだろう、楽だ)


 レモンタルトが来た。


 フォークを入れた瞬間、さくり、と音がした。表面の焼き目が硬すぎず柔らかすぎず、刃が通る時にほんの少し抵抗がある。中のレモンクリームは鮮やかな黄色で、口に入れると最初に酸味がきて、二拍遅れて砂糖の甘さが追いかけてくる。バターの香りが鼻に抜けて、最後に舌の上にレモンの皮の苦味がほんの少しだけ残る。


 思わず目を閉じた。


 こんなに美味しいものを食べたのはいつ以来だろう、と思った。思ったら、少し泣きそうになった。


「美味しいですか」


「……はい。とても」


 トビアスは頷いただけだった。けれど、二つ目を注文してくれた。私が何も言っていないのに。


 帰り際、出版社の廊下で同僚がトビアスに声をかけた。


「最近、朝型だね。打ち合わせの日だけ早出してない?」


「気のせいだよ」


 その会話を、私は聞いていなかった。







 ヴァルシュタイン伯爵邸。


 義母の書斎。


 マルガレーテは白紙の原稿用紙を前に、ペンを握っていた。万年筆のキャップを開けて、閉じて、また開けた。


 締め切りまで、あと三週間。月刊文芸誌の連載は──あの子が書いていた連載は、来月号の分がまだ一行も書けていない。


(構想はあるのよ。あるの。ただ、筆が──言葉が、出てこないだけ)


 嘘だ、と心の底で声がした。構想なんてない。あったのはいつも、あの子が持ってきた初稿だけ。


 扉が開いた。


「お義母様、私がお手伝いしますわ」


 カミラが微笑んで入ってきた。オスカーの愛人。若い男爵令嬢。清楚な顔に計算高い目をした娘。


「あなたに?」


「ええ。お義母様の構想を伺って、私が書き起こせばいいのです。リディアさんがやっていたことと同じですわ」


 マルガレーテは、少しだけ希望を持った。


「……そうね。構想を口述するから、書き取ってちょうだい」


 カミラはペンを取り、紙を広げた。


 だが、マルガレーテの口から出てくる「構想」は、断片的で、筋が通らず、登場人物の名前すら二転三転した。ヒロインの設定が途中で変わり、舞台が三度入れ替わり、「愛」という言葉が出てくるたびに文脈が違っていた。


 カミラのペンが止まった。


「お義母様……これは、どこから書けばよろしいのでしょう」


 マルガレーテは答えなかった。白紙の原稿用紙を、じっと見ていた。


 ペンのインクだけが、紙の上に一滴落ちた。染みが広がっていく。それだけが、今夜この書斎に残された唯一の筆跡だった。


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