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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 クローネ出版の編集長

 原稿用紙の最後にペンを置いた時、指先が震えていた。


 恐れではない。


 母の書斎で二週間。朝起きて、父と朝食を食べて、机に向かって、書く。夕食まで書く。それだけの日々だった。四年間を取り戻すように指が動いた。


 最初の三日は何も書けなかった。夜のノートに書き溜めた構想を開いても、義母の名前で書いていた癖が抜けない。「これは義母に見せて通る文章か」と無意識に検閲している自分がいた。


 四日目の朝。目が覚めた瞬間、一行だけ浮かんだ。


 ──名前を奪われた女が、自分の声を取り戻す物語。


 自分の体験をそのまま書くのは怖かった。けれど嘘を混ぜると、指が止まった。結局、自分の痛みをそのまま差し出すことでしか、この物語は動かなかった。五日目から、指が追いつかないほど言葉が溢れた。


 焼きたてのパンと目玉焼き。バターが溶ける音。湯気が立つ紅茶。こんな当たり前の朝食がどれほど贅沢かは、伯爵家の厨房の隅で冷めたスープを啜っていた頃の私しか知らない。


 毎朝の食卓が嬉しくて、少しだけ食べ過ぎている気がする。父は何も言わないが、パンの皿が三枚目になった時だけ、少し嬉しそうに眉を上げる。


 短編、一本。


 題名は『声をなくした語り部』。名前を奪われた女が、自分の声を取り戻す物語。


(要するに私の話だ。少し恥ずかしい。けれど、これ以外のものは書けなかった。義母の名前で書いていた時には絶対に書けなかった物語だ)


「出版社に持ち込みなさい」


 原稿を読んだカタリーナが、一読して言い切った。


「姉さん──」


「読んだ。泣いた。はい、決まり」


 姉の論法は昔からこうだ。反証の余地がない。裁判官より強い。


「……出版社なんて、知り合いが」


 言いかけて、思い出した。荷物の底に入れた名刺を。


 ──クローネ出版 編集長 トビアス・レーヴェ。


(義母の担当出版社。王都最大手。無謀すぎるかしら。……いえ、どうせ無謀なら、一番高い壁に当たりましょう。低い壁に断られるより、高い壁に断られる方が、諦めがつく)





 王都の出版社は、石造りの三階建てだった。正面の扉は重く、取っ手の真鍮が年月で黒ずんでいる。


 受付の女性に原稿を差し出すと、困った顔をされた。


「新人の持ち込みは月に一回の選考会でして……次は三週間後になります」


「そうですか。では──」


「その原稿、見せていただけますか」


 横から声がした。


 振り向くと、背の高い男が立っていた。焦げ茶の髪、落ち着いた目。外套を脱ぎかけたまま──ちょうど外から戻ったところらしい。手にはクローネ出版の紙袋。他社の書籍が何冊か入っているのが見えた。


 受付の女性が姿勢を正した。


「編集長」


 トビアス・レーヴェ。名刺の名前と目の前の人物が、一致した。


「新人の方の持ち込みですか」


「はい……リディア・フローレンスと申します。短編を一本、読んでいただければと──」


「フローレンス」


 トビアスが一瞬だけ、奇妙な間を置いた。何かを飲み込むような間。唇が動きかけて、戻った。


「原稿をお預かりします。こちらへどうぞ」


 応接室に通された。壁に歴代のベストセラー作品のポスターが飾ってある。その中に義母の名前もあった。見ない振りをした。


 トビアスは向かいの椅子に座り、原稿を開いた。


 読む。


 最初の一枚、二枚。頁を繰る指が止まらない。ペンだこのある指。インクが爪の際に沁み込んだ、校正を日課にしている人の手。


 私は紅茶を一口飲んだ。──温かい。ちゃんと温かい紅茶が出てくる場所は、それだけで信用できる気がした。


(馬鹿みたいなことを考えている。紅茶の温度と出版社の誠実さに相関はない。でも、伯爵家の紅茶は四年間ずっとぬるかった。この推論には少なくとも帰納法的な根拠がある)


 五分。十分。


 トビアスの指が頁の端を折りかけて、慌てて戻すのが見えた。読者が気に入った箇所で無意識にやる癖。


 十五分。最後の頁を閉じた。


 長い沈黙。


「……この文体には、どこかで出会ったことがある気がします」


 心臓が一拍、跳ねた。


 けれどトビアスはそれ以上追及しなかった。原稿を机に置いて、静かに言った。


「この原稿を、あなたの名前で出版させてください」


(──あなたの名前で)


 その言葉が、胸の真ん中に落ちた。石を水面に投げた時のように、波紋が広がる。


 四年間、誰にも言われなかった言葉。あなたの名前で。あなたの。


「……はい」


 それだけ答えるのが精一杯だった。みっともなく声が揺れた。


 トビアスはそれに気づいたのか、少し目を伏せて、原稿の角を丁寧に揃えた。指先で紙の端を整える動作が、この人の性格をそのまま映していた。


(この人は──優れた編集者なのだ。たくさんの本を読んでいるうちに「どこかで出会った」と感じたのだろう。文体の視野が広い人なのだから、当然のことだ)


 そう思った。それ以上は考えなかった。





 応接室を出た後。


 トビアスは自分の机に戻り、原稿に付箋を貼り始めた。一枚、二枚、三枚。次の頁にも。さらに次の頁にも。黄色い付箋が原稿の端からはみ出して、小さな旗が林立するように見えた。


 横を通りかかった部下が足を止めた。


「編集長、それ新人の持ち込みですよね。そこまで付箋を貼るんですか?」


「校正の指示を出しておきたいんだ」


「新人にそこまでする編集長は初めてです」


 トビアスは答えなかった。付箋を貼る手を止めず、原稿の一節に目を落とした。


 ──『指先が震えていた。恐れではなかった。』


 三年前、『銀の月と約束の庭』で出会った一節と、同じ呼吸をしている。同じ温度で、同じ場所を叩いてくる文章。あの本を書いた人間と、この原稿を書いた人間は──


 考えを打ち切るように、ペンを取った。証拠がない段階で確信を口にするのは、編集者として最もやってはいけないことだ。


 校正メモを書き始める。いつもの三倍の量で。


 部下は首を傾げながら離れていった。





 帰り道。夕暮れの王都を歩く。


 書店の前を通った。


 ショーウィンドウに、義母の名義の最新刊が平積みになっている。


 ──『マルガレーテ・ヴァルシュタイン最新作』。


 あの本に書かれた一字一句を、書いたのは私だ。けれど表紙に刷られた名前は「マルガレーテ」。それを見るのは、今まで何度もあった。何度見ても慣れなかった。


 今日は、少し違った。


(次は。次は──私の名前がここに並ぶ)


 そう思えたことが、二週間前の自分との、たった一つの違いだった。







 ヴァルシュタイン伯爵邸。


 夕食の席に、妻の姿がなくなって二週間が経つ。


 もっとも、いた頃も食堂にはいなかった。厨房の隅で食べていたのだから、俺の目に映る風景は何も変わっていない。


 変わったのは、母の様子だ。


「母上。今日は書斎に篭りきりでしたが、原稿は進みましたか」


「……構想を練っているのよ。筆が進まない日もあるわ」


 母は紅茶のカップを傾けたが、中身をほとんど飲まなかった。唇をつけるだけで、戻す。


 書斎を覗いた時、机の上に白紙の原稿用紙が積まれているのが見えた。一枚もインクが載っていない。万年筆のキャップが閉まったままだ。


(母上なら書けるだろう。今まで十二作も書いてきたのだから)


 俺はポークソテーを切り分けながら、他のことを考えた。明日のサロンの席順と、カミラとの夕食の予定。


 妻がいなくなって静かになった。それだけのことだ。


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