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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第2話 実家の机と、姉の涙

 実家の門をくぐった瞬間、母が好きだった薔薇の香りがした。


 伯爵家の庭にも薔薇はあった。けれどあちらの薔薇は、いつもどこか他人の花だった。手入れをしているのは庭師で、咲いているのは義母の庭。この匂いは違う。根っこから知っている匂い。


 フローレンス男爵邸。王都の東、丘陵地帯にある小さな屋敷。ぶどう畑と薔薇の庭に囲まれた、穏やかな場所。


 父が玄関に立っていた。


 ヨハン・フローレンス男爵。書斎に篭っては文学談義を始める、穏やかで少し不器用な父。私の文才の芽を最初に見つけてくれた人。母が病で亡くなった後、私と姉を男手一つで育ててくれた。


「おかえり」


 それだけ言って、荷物を受け取ってくれた。


(泣くな。ここで泣いたら、父を心配させる)


 父は小さな鞄の軽さに何か感じたのか、一瞬だけ目を伏せた。四年間暮らした嫁ぎ先の荷物が、片手で持てる重さであることの意味を、この人は分かっている。けれど何も聞かなかった。


 代わりに、二階の廊下を歩いて、一つの部屋の前で足を止めた。


「ここを使いなさい。母さんの書斎だ」


 扉を開けた。


 日当たりのいい部屋。東向きの大きな窓。朝日がまっすぐ入る位置に、ちゃんとした机が置いてある。壁一面の本棚には母が集めた小説が並び、窓辺の花瓶に庭の薔薇が三本、無造作に生けてある。


(……広い)


 伯爵家の小部屋が三つは入る広さだった。机の上には母の万年筆が置いてある。十二年前に亡くなった母の──父はこの部屋を、そのまま残していた。本棚の本にも埃が積もっていない。定期的に掃除をしていたのだ。


「お前の部屋に使いなさい」


「……はい」


 声が震えそうになるのを、唇を噛んで止めた。


 夕食は父と二人で食べた。使用人が温かいスープを運んできてくれる。かぶと玉葱のポタージュ。


 一口含んだ瞬間、涙腺が危うくなった。


 温かい。ちゃんと温かい。舌の上で玉葱の甘みが広がって、かぶの柔らかな食感が追いかけてくる。


(こんなに美味しいスープは──四年ぶりだ)


 伯爵家では、厨房の隅で冷めかけたスープを一人で啜っていた。それでも料理長のミルダが「少しだけ多めに」盛ってくれるのが、唯一の温かさだった。


「美味しいか」


「……はい」


 父は満足そうに頷いた。


 食後に風呂に入った。お湯がたっぷりあって、しかも熱い。伯爵家では水風呂に近い湯量しかもらえなかったことを思い出して、自分の四年間がいかに異常だったかを改めて突きつけられた。





 六日後。


 玄関が急に騒がしくなった。


「リディア!」


 階段を駆け下りると、旅装のままの姉が立っていた。


 カタリーナ・アルトマン。旧姓フローレンス。隣国の子爵家に嫁いだ三つ上の姉。母が亡くなった後、私の精神的支柱だった人。


 父が魔法通信──銀貨十枚の高額な緊急連絡手段だ──で即座に知らせたらしい。姉はその日のうちに婚家を出発し、馬車を三日飛ばしてきた。


「あなた、何なのその痩せ方は」


 姉が私の頬に手を当てた。冷たい手。旅疲れの手。それから腕を掴み、手首を見て、目を見た。


 その目が、怒りで滲んでいた。


「部屋を見せなさい」


「部屋? ここの──」


「違う。伯爵家で、あなたが使っていた部屋の話よ」


 私は困った。


「もう見せようがありません。出てきましたから」


「じゃあ教えて。どんな部屋だった? 広さは? 窓の数は? 家具は?」


(なぜそんなことを聞くのだろう。普通の部屋だと思っていたのに──いや、普通ではなかったのだ、あれは)


「……窓が一つ。寝台と、机と、椅子が一つ」


「鏡は?」


「ありません」


「姿見は?」


「ありません」


「侍女は?」


「……途中から、義母様に引き抜かれました」


 カタリーナの指が、私の手首を掴む力を強くした。骨を確かめるように。


「食事は?」


「厨房の隅で──」


「月のお小遣いは」


「銀貨五枚です」


 姉が数秒、黙った。


 それから声が低くなった。


「……銀貨五枚。紙とインクを買ったら消える額よ、それは。伯爵家の嫡男の妻の小遣いが、平民の食堂で十食分とはどういうことなの」


「ええ。でも、食事は出していただけましたし──料理長のミルダさんが、いつもスープを少し多めに盛ってくださっていたんです。あの方のスープは、いつも少しだけ塩加減が違っていて──私が好きな味に、こっそり合わせてくれていた」


(ミルダさん。あの人の小さな親切が、四年間のなかで一番温かかったかもしれない)


 姉の目から涙が落ちた。


 泣いているのに、声は怒りで震えていた。


「伯爵家には抗議の手紙を送ります」


「姉さん、それは──」


「あなたが止めても私は姉よ」


 反論を許さない口調だった。二十七年間この人と一緒にいて、この口調に勝てた記憶がない。


「それと、あなたに聞きたいことがある」


「何ですか?」


「義母の名前で出版された小説は、あなたが書いたの?」


 沈黙。


「……何を──」


「私は読んだのよ、十二作品全部。三作目の『銀の月と約束の庭』で泣いた。六作目の『冬薔薇の約束』で、朝まで眠れなかった。あれを読んだ時から思っていたの。この文体は、妹の手紙に似ている、って」


 返す言葉がなかった。


「書いたのはあなたでしょう。名前が違うだけよ」


「……でも、あれは義母様の名前で──」


「名前が誰のものかと、文章が誰のものかは、別の話でしょう」


 姉の手が、私の手を握った。インクの染みだらけの、私の指を。爪の際にまでインクが沁み込んだ、書き手の手。


「あなたの文章を読んで泣いた読者がどれだけいるか、知ってるの?」


 知らない。知りようがなかった。義母の名前しか、世に出ていなかったのだから。





 その夜、父が書斎に呼んだ。


 父の机の上に、古い書類が広げてあった。万年筆と眼鏡がその横に置いてある。


「リディア。これを覚えているか」


 婚姻契約書の控え。


「写しは持ち出したと聞いた。……ここを見なさい」


 父の指──ペンだこのある、文学者の指──が、第七条の一文を指した。


 ──『婚姻中に妻が生み出した知的成果物に対する権利は、妻に帰属する』。


「この一文を入れたのは私だ」


「……知っています」


「あの時は念のためのつもりだった。お前の才能は知っていたが、まさかここまで必要になるとは思わなかった」


 父が私の目を見た。穏やかだが、揺るがない目。


「お前の才能は、お前のものだ。それだけは、誰にも渡してはいけない」


 窓の外で、夜風が薔薇を揺らしていた。


 母の書斎の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。古い紙とインクの匂い。母もまた、書くことが好きな人だった。


(名前が違うだけ──姉さんはそう言った。父は、才能はお前のものだと言った)


 四年間、「役立たず」と言われ続けて、信じかけていた。自分の文章には、義母の名前がなければ価値がないのだと。


 ──本当に、そうだろうか。


 まだ分からない。けれど、分からないと思えるようになったことが、六日前とは違う。


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