第10話 最初の読者
「──この物語は、名前を持てなかった書き手の、最初の一歩です」
壇上。授賞式の会場。百を超える人の前で、新人賞のトロフィーを握る手が少しだけ汗ばんでいた。
トロフィーは思ったより重い。木と真鍮でできた小さな盾。けれど、四年間の重さに比べれば、何でもない。
「四年間、私は他人の名前で物語を書きました。自分の言葉が世に出ていると信じていた。けれどそれは、名前のない声と同じでした。誰にも届かない声」
会場は静かだった。咳払い一つ聞こえない。
「この作品を読んでくださった全ての方に、感謝します。私の言葉を見つけてくださったことに。そして──」
トビアスを見た。会場の三列目、通路側の席。付箋を貼りすぎて膨らんだ原稿を膝に置いたまま、真っ直ぐこちらを見ている。その目が、いつもの氷ではなくて、少しだけ融けていた。
「──私の言葉を最初に見つけてくれた人に、感謝します」
復讐の言葉は、一つも入れなかった。入れる必要がなかった。
私が幸福であることが、全てだ。
*
授賞式の後。
王立文芸協会から正式な処分が下った。
マルガレーテ・ヴァルシュタイン──偽作家として永久除名。出版物は全て回収。慈善活動の名目で横領した印税については、別途法的追及の見込み。
文壇から、マルガレーテの名前が消えた。
消えたのは名前だけではない。サロンは解散。スポンサーは全員撤退。茶葉の納入業者も去った。花屋も去った。社交界での居場所も──誰も、偽物と一緒に茶を飲みたいとは思わない。
カミラは、最初に去った。
「もう伯爵家の正妻の座に価値がないものですから」
オスカーに向けた別れの言葉は、それだけだったと聞いた。
伯爵家の食堂。
テーブルに並ぶのは一人分の食器。
オスカーは黙ってスプーンを持ち上げ──それから、食堂の隅を見た。
厨房に続く小さな通路。リディアが四年間、一人で食事をしていた場所。
(あそこにいたのか。毎日、あそこに)
知っていたはずだ。知っていたのに、見ていなかった。
スープは熱かった。ちゃんと温かかった。ミルダが作ったかぶのポタージュ。
なのに、味がしなかった。
*
翌朝。クローネ出版。
トビアスの書斎で、受賞スピーチの原稿を推敲していた。──すでに読み終わったスピーチの推敲、というのもおかしな話だが、記録用に文字に起こしたいとトビアスが言ったのだ。
「この一行は、僕の意見は入れない」
トビアスが原稿の一節を指さした。
「あなたの言葉だけで完成しているから」
──『私の言葉を最初に見つけてくれた人に、感謝します』。
「でも」
私はペンを置いた。
「あなたがいなければ、この物語は世に出なかった。クローネ出版に原稿を持ち込まなければ。あなたが『この文体には覚えがある』と言ってくれなければ。三年間付箋を貼り続けてくれなければ」
トビアスは机の上の原稿を見ていた。付箋が何枚も貼られた、私の言葉。
「……一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「これからも、あなたの最初の読者でいさせてほしい」
静かな声だった。編集長の声ではなかった。もっと柔らかくて、もっと確かな声。
心臓が指先まで脈打った。
「それは──編集長として、ですか」
トビアスが少しだけ笑った。氷ではなく、陽だまりのような。初めて見る笑顔だった。
「両方です」
(──ああ)
言葉が出なかった。
私は物語を書く人間だ。言葉で生きている。その私が、この瞬間だけ、言葉を見つけられなかった。
だから、代わりに──
テーブルの上で、トビアスの手に自分の手を重ねた。
インクの染みだらけの、私の指。校正メモを書き続けてペンだこが硬くなった、トビアスの指。爪の際にまでインクが沁み込んだ、二人分の書き手の手。
二人分のインク染みが、重なった。
「……はい」
それだけ言えた。それだけで、十分だった。
*
エピローグ。
フローレンス男爵邸。母の書斎。
窓から冬の陽が差している。花瓶には父が切ってきた最後の薔薇が一輪。もう今年は咲かないだろうから、と父は言ったが、この一輪が一番きれいだった。
机の上にトビアスからの校正メモ。次回作の長編第一章。付箋の量は相変わらず多い。走り書きの箇所が三箇所。興奮して書いたことが分かる。
傍らではエルザが淹れたカモミールのお茶が湯気を立てている。カタリーナが隣国から送ってきた焼き菓子──アーモンドのクッキー──が小皿に三枚。
一枚取って噛んだ。さくり。バターの香りが口いっぱいに広がる。アーモンドの粉が舌触りを滑らかにして、噛むほどに甘みが増す。最後に塩が一粒、味を引き締める。
(美味しい。美味しいものが、ちゃんと美味しい。それがどれほど幸せなことか、四年前の私は知らなかった。厨房の隅で冷めたスープを啜っていた私には、想像もできなかった)
ペンを取った。
次の物語の最初の一行を書く。
今度は、名前を奪われた女の話ではない。
名前を取り戻した女が、次に何を書くのか。その物語。
母の万年筆。父が残してくれた書斎。姉が送ってくれた焼き菓子。エルザが淹れてくれたお茶。ミルダのスープの記憶。
そして──最初の読者が、待っている。
最後の一行を書いた。
──この物語を、自分の名前に。
インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。冬の空は高く、澄んでいた。
陽の光が原稿用紙の端を温めていた。
怖くない。もう、怖くない。
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