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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 最初の読者

「──この物語は、名前を持てなかった書き手の、最初の一歩です」


 壇上。授賞式の会場。百を超える人の前で、新人賞のトロフィーを握る手が少しだけ汗ばんでいた。


 トロフィーは思ったより重い。木と真鍮でできた小さな盾。けれど、四年間の重さに比べれば、何でもない。


「四年間、私は他人の名前で物語を書きました。自分の言葉が世に出ていると信じていた。けれどそれは、名前のない声と同じでした。誰にも届かない声」


 会場は静かだった。咳払い一つ聞こえない。


「この作品を読んでくださった全ての方に、感謝します。私の言葉を見つけてくださったことに。そして──」


 トビアスを見た。会場の三列目、通路側の席。付箋を貼りすぎて膨らんだ原稿を膝に置いたまま、真っ直ぐこちらを見ている。その目が、いつもの氷ではなくて、少しだけ融けていた。


「──私の言葉を最初に見つけてくれた人に、感謝します」


 復讐の言葉は、一つも入れなかった。入れる必要がなかった。


 私が幸福であることが、全てだ。





 授賞式の後。


 王立文芸協会から正式な処分が下った。


 マルガレーテ・ヴァルシュタイン──偽作家として永久除名。出版物は全て回収。慈善活動の名目で横領した印税については、別途法的追及の見込み。


 文壇から、マルガレーテの名前が消えた。


 消えたのは名前だけではない。サロンは解散。スポンサーは全員撤退。茶葉の納入業者も去った。花屋も去った。社交界での居場所も──誰も、偽物と一緒に茶を飲みたいとは思わない。


 カミラは、最初に去った。


「もう伯爵家の正妻の座に価値がないものですから」


 オスカーに向けた別れの言葉は、それだけだったと聞いた。


 伯爵家の食堂。


 テーブルに並ぶのは一人分の食器。


 オスカーは黙ってスプーンを持ち上げ──それから、食堂の隅を見た。


 厨房に続く小さな通路。リディアが四年間、一人で食事をしていた場所。


(あそこにいたのか。毎日、あそこに)


 知っていたはずだ。知っていたのに、見ていなかった。


 スープは熱かった。ちゃんと温かかった。ミルダが作ったかぶのポタージュ。


 なのに、味がしなかった。





 翌朝。クローネ出版。


 トビアスの書斎で、受賞スピーチの原稿を推敲していた。──すでに読み終わったスピーチの推敲、というのもおかしな話だが、記録用に文字に起こしたいとトビアスが言ったのだ。


「この一行は、僕の意見は入れない」


 トビアスが原稿の一節を指さした。


「あなたの言葉だけで完成しているから」


 ──『私の言葉を最初に見つけてくれた人に、感謝します』。


「でも」


 私はペンを置いた。


「あなたがいなければ、この物語は世に出なかった。クローネ出版に原稿を持ち込まなければ。あなたが『この文体には覚えがある』と言ってくれなければ。三年間付箋を貼り続けてくれなければ」


 トビアスは机の上の原稿を見ていた。付箋が何枚も貼られた、私の言葉。


「……一つ、お願いがあります」


「何ですか」


「これからも、あなたの最初の読者でいさせてほしい」


 静かな声だった。編集長の声ではなかった。もっと柔らかくて、もっと確かな声。


 心臓が指先まで脈打った。


「それは──編集長として、ですか」


 トビアスが少しだけ笑った。氷ではなく、陽だまりのような。初めて見る笑顔だった。


「両方です」


(──ああ)


 言葉が出なかった。


 私は物語を書く人間だ。言葉で生きている。その私が、この瞬間だけ、言葉を見つけられなかった。


 だから、代わりに──


 テーブルの上で、トビアスの手に自分の手を重ねた。


 インクの染みだらけの、私の指。校正メモを書き続けてペンだこが硬くなった、トビアスの指。爪の際にまでインクが沁み込んだ、二人分の書き手の手。


 二人分のインク染みが、重なった。


「……はい」


 それだけ言えた。それだけで、十分だった。





 エピローグ。


 フローレンス男爵邸。母の書斎。


 窓から冬の陽が差している。花瓶には父が切ってきた最後の薔薇が一輪。もう今年は咲かないだろうから、と父は言ったが、この一輪が一番きれいだった。


 机の上にトビアスからの校正メモ。次回作の長編第一章。付箋の量は相変わらず多い。走り書きの箇所が三箇所。興奮して書いたことが分かる。


 傍らではエルザが淹れたカモミールのお茶が湯気を立てている。カタリーナが隣国から送ってきた焼き菓子──アーモンドのクッキー──が小皿に三枚。


 一枚取って噛んだ。さくり。バターの香りが口いっぱいに広がる。アーモンドの粉が舌触りを滑らかにして、噛むほどに甘みが増す。最後に塩が一粒、味を引き締める。


(美味しい。美味しいものが、ちゃんと美味しい。それがどれほど幸せなことか、四年前の私は知らなかった。厨房の隅で冷めたスープを啜っていた私には、想像もできなかった)


 ペンを取った。


 次の物語の最初の一行を書く。


 今度は、名前を奪われた女の話ではない。


 名前を取り戻した女が、次に何を書くのか。その物語。


 母の万年筆。父が残してくれた書斎。姉が送ってくれた焼き菓子。エルザが淹れてくれたお茶。ミルダのスープの記憶。


 そして──最初の読者が、待っている。


 最後の一行を書いた。


 ──この物語を、自分の名前に。


 インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。冬の空は高く、澄んでいた。


 陽の光が原稿用紙の端を温めていた。


 怖くない。もう、怖くない。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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