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名前のない十二冊を書いた妻の話  作者: 九葉(くずは)


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第1話 お飾り妻の最後の仕事

「お飾り妻は、もう用済みです」


 朝食の席で、夫はそう言った。


 焼きたてのパンの匂いが漂う食堂で、オスカーは紅茶のカップを置きもせずに、まるで天気の話でもするように告げた。隣に座った義母マルガレーテが、満足そうに微笑んでいるのが視界の端に映る。


(……ああ、やっと言ったのね)


 正直に言えば、驚きはなかった。


 この四年間、夫が私に向ける視線はずっと「そこにある花瓶」を見るのと同じ温度だった。飾ってあるから置いてある。用がなくなれば片づける。ただそれだけ。


「実家に戻っていただきたい。離縁の手続きは、こちらで進めます」


「承知しました」


 私は背筋を伸ばして、紅茶を一口飲んだ。


 ぬるい。この屋敷の紅茶は、いつもぬるい。伯爵家の嫡男の妻として嫁いで四年。温かい紅茶を出されたことが、一度もない。


 使用人が気を遣わないのではない。気を遣う対象として見ていないのだ。


「……では、引き継ぎ資料を作成しますね」


 オスカーが一瞬、眉を動かした。


「引き継ぎ?」


「ええ。義母様のお仕事の。構想案、登場人物の設定表、各章の初稿ノート──四年分ございますから、まとめるのに少々お時間をいただければ」


(引き継ぎ、できる人がこの屋敷にいるんですかね。いえ、いませんね。義母様はペンすら握れないし、旦那様は構想が何かもご存じないでしょうし)


 義母の目が一瞬だけ細くなった。けれどすぐに、いつもの上品な笑みに戻る。


「引き継ぎなど不要よ、リディア。あなたに引き継ぐお仕事なんて、ないでしょう?」


 その笑顔は完璧だった。テーブルの下で、義母の指先がスカートの布を巻き込んでいたことを除けば。


 四年間、この人の代わりに物語を書いた。十二作品。月刊文芸誌の連載と単行本。全部、私の指先で紡いだ。構想も、台詞も、一文字残らず。


 義母はそれを「口述を書き取らせた」と言っている。実態は違う。義母が口述したのは「次は恋愛ものがいいわ」の一行だけだ。残りの十万字は全部、私が書いた。


(四年間、あなたの代わりに十二作品を書きましたけれど──ないんですね、お仕事)


「さようでございますか。では、荷造りだけ済ませます」


 オスカーは上機嫌だった。物わかりのいい妻で助かる、とでも思っているのだろう。泣いて縋りつくと思っていたのかもしれない。


 残念ながら、四年前にその涙はとっくに枯れた。


 食堂を出る時、テーブルに残ったパンの香りが追いかけてきた。バターの匂い。焼きたての小麦の匂い。私はこの食堂で朝食を食べたことがない。いつも厨房の隅で、前日の残り物を一人で食べていた。


(パンの匂いだけは、毎朝嗅いでいたけれど)





 自室に戻ると、荷造りはあっけなく終わった。


 着替えが三着。一着は嫁入りの時に持ってきたもので、袖がほつれている。もう一着はインクの染みが取れなくなったもの。三着目はそれでも一番ましな外出着で、伯爵家にいた四年間、一度も着る機会がなかった。


 インクの染みがついたエプロンが一枚。母の形見のブローチ。紙とペンの予備。それから──


 書斎の引き出しから、一束の書類を取り出す。


 婚姻契約書。


 父上がサインの前に「念のため」と入れた一文がある。知的成果物に関する条項。当時は何のことか分からなかった。父上は「お前の文才を守るものだ」と言ったが、まさか四年後にこれが必要になるとは、あの時の私は思いもしなかった。


(今になって、ありがたみを感じるなんて)


 契約書を「実家に返す書類」の束に入れ、丁寧に包む。


 次に。


 寝台の下から、木箱を引き出した。


 中には十二冊のノート。表紙も裏表紙もインクで汚れた、ぼろぼろのノート。義母に渡す前の初稿をすべて書き写した──私の四年間が詰まった箱。


 一冊目を開くと、最初のページに日付が書いてある。四年前の秋。嫁いで三ヶ月目に義母から「書きなさい」と言われた日。あの日から毎夜、義母に渡す清書とは別に、初稿を自分のノートに書き写し続けた。


 なぜそうしたのかは、自分でも分からない。ただ──自分の書いたものが、全部他人の名前で消えていくのが怖かった。せめてノートの中だけでも、自分の言葉を残しておきたかった。


 木箱を抱え上げた時、廊下を家令のハインツが通りかかった。


「何を持ち出されるのです?」


「私物の日記帳です」


 微笑むと、ハインツは鼻を鳴らして去っていった。確認もしない。私の荷物に興味などないのだ。


(日記帳ですよ、ハインツ。中身は十二作品分の初稿だけれど)


 小さな鞄に荷物を詰めていく。伯爵家の嫡男の妻が四年暮らして、私物がこの量しかないことに、今さら何を感じるべきだろう。


 鏡もない。姿見もない。侍女もいない。


 この小部屋には窓が一つと、狭い寝台と、インクの染みだらけの机だけがあった。西棟の端の、日当たりの悪い部屋。本来なら嫡男の妻には東棟の明るい居室が用意されるはずだが、義母が「あの子は西棟で十分よ」と言って以来、一度も変わらなかった。


 机。


 この机で、十二の物語を書いた。蝋燭の灯りだけを頼りに、義母の名前で世に出た十二の恋の物語を。私の指先で紡いだ言葉が、誰かの心を動かしたと信じたかった。たとえ名前が違っても。


(けれど「用済み」なんだそうです。名前だけじゃなく、言葉ごと、なかったことにされるんですね)


 鞄を閉じた。


 ふと、机の引き出しの奥に挟んでおいた名刺が目に入った。以前、義母の書斎を掃除した時に落ちていたのを拾って、何となく自分の机に入れておいたものだ。


 ──クローネ出版 編集長 トビアス・レーヴェ。


 義母の担当編集として、何度かこの屋敷を訪ねてきた人。私は「ただの嫁」として紹介すらされず、すれ違っても視線を合わせることもなかった。一度だけ、廊下で目が合った。すぐに逸らされた。


(いつか、自分の原稿を……)


 首を振った。そんなことを考える資格は、まだ私にはない。


 名刺だけ、荷物に入れた。





 夜。


 最後の夜だった。


 明日の朝、伯爵家が形式上用意した馬車で実家に帰る。


 蝋燭の灯りだけが揺れる小部屋で、私は一冊のノートを開いた。義母の代筆ではない、自分だけのノート。構想を書き留めるために、夜のわずかな時間に少しずつ書き溜めてきたもの。


 代筆の仕事が終わった夜九時から、蝋燭が尽きるまでの一時間。それだけが、私だけの時間だった。


 ペンを取った。


 最初の一行を書く。


 ──名前を奪われた女の物語。けれどそれは、悲劇ではない。


 指先が震えていた。恐れではなかった。


(ここから、私の物語が始まる)


 ペンを置いた。インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。月は出ていなかった。


 暗い夜だった。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


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