1.起床の時間です
※「 」がキャラクターのセリフで、[ ]がSOPHIAのセリフ、というように使い分けています。
User: TANAKA TORU [ID: JP-58D2Q7VA-A]
Date: 2030-04-09 (JST)
[LOG ENTRY]
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06:29:00 — SOPHIA sleep mode deactivated.
06:29:08 — Vital signs: Not detected.(Device not in contact)
06:29:59 — User wake-up protocol initiated.
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[4月9日、午前6時30分。起床の時間です。田中様]
落ち着いた女性の声で目が覚める。この声に起こされるのにもすっかり慣れてしまった。
まだ肌寒い空気とそれを遮る温かい布団の感触が二度寝に誘ってくるが、のんびりしている余裕は無い。
気合を入れて身体を起こし、あくびを噛み殺しながら音の聞こえた方向、ベッドサイドの机に手を伸ばす。
いつもの場所に変わらず置かれた”それ”を手探りで掴むと、いつものように右耳の上に掛けた。
[おはようございます、田中徹様。今日も良い天気です。バイタルサインにも異常はありませんし、ランニングに支障はありません。頑張ってください!ただし、まだ寒いので服装には注意してくださいね]
「はいはい……」
先ほど眠りから覚ましてくれた声が、今度は右耳の傍から聞こえてくる。
口やかましく言ってくる声に、つい気の無い返事を返しながら、立ち上がって運動着に着替える。
今、俺の右耳の上についているのは、『SOPHIA』という小さな機械だ。先ほどの声は、コイツが発した合成音声である。
もう6年も前だが『AZ』とか言う非営利を宣言している組織がリリースしたAI搭載デバイスで、当時は『完璧な生活を届ける』とか何とか言って胡散臭く思われていたのだが、予想に反し瞬く間に普及した。
理由は単純、あまりにも便利だったからだ。
「さてと、行くか」
[今日はいつものコースで良いですか?現在午前6時43分、普段のペースでしたら少しばかり走行距離を伸ばしても時間的な余裕はあります]
「じゃあ、ちょっとだけ伸ばしてくれ。今日は筋トレを軽めにする」
[承知しました。…路面状況を確認…最適なルートを設定しました。普段より0.7km延長、帰宅予定は午前7時20分頃です]
俺が持っているタイプは、一昔前の物で例えるならオープンイヤー型のイヤホン片耳と片眼鏡をくっつけたような形、と言えるだろうか。イヤホン部分で音声情報を、片眼鏡部分で視覚情報を、それぞれ教えてくれる。
先ほどまでは右目の前に置かれているレンズに何も映っていなかったが、今は周囲の光景に混ざりこむように表示されるナビゲーションと、小さく縮小された簡易地図が映っている。
俺は全体のルートを軽く見て把握してから、ナビゲーションに従って走り出した。
SOPHIAが圧倒的に便利だったのは、こういう所だ。
所有者の過去の行動や発言を学習し、独り言のような呟きや所有者の行動から次にやる事を先回りしてサポートしてくれる。
しかも『ちょっとだけ』というような抽象的な表現でも、過去の経験から的確に推察して対応してくれる。
完全に最適化された後では、『蕎麦屋を眺めていたらおすすめのラーメン屋を教えてくれた』なんて例すらあるらしい。それも『きっとラーメン好きってSOPHIAにバレてるんだな』と納得してしまう所まで含めて、笑い話だ。
もちろんそれが煩わしいという人もいるのだが、搭載されているAIはそれすらも学習し、会話頻度や口調、どういった事に口出ししてどういった話題には口を挟まない、なども所有者に合わせて最適化してくれる。
ランニングが始まるまでレンズに何も表示されていなかった事も、視界がゴチャゴチャしているのが嫌だ、という俺への最適化だ。人によっては天気予報やら最新ニュースやら様々な情報が踊っていた事だろう。
『まるで何でも知っている超有能専属執事が、常に一緒にいるみたい』。SOPHIAの快適さを一番端的に表したのが、この表現だろう。
[2km地点経過、11分47秒。いつもとほぼ変わらないペースです。心拍数も異常無し。
……田中様、前方72mの角、右側からランニング中と思われる方が向かってきます。このペースですと衝突の恐れがありますので、ペースを緩めるか、少し左に寄るなどしてご注意ください]
「了解」
軽く左に寄りつつ、すぐに対応できるペースに抑える。角に差し掛かると同時に同じような運動着に身を包んだ男性と目が合った。
あちらも認識していたようで、思いっきり目が合ってしまった。思わずお互い苦笑いしつつ軽く会釈してすれ違う。
もう1つ、SOPHIAが従来のデバイスと一線を画していた所が、デバイス同士がリンクしてアクション可能、という所だ。
当然匿名の位置情報のみ、それもユーザーにはわからずにAIが処理するためだけの情報取得ではあるのだが、今のようにデバイス装着者同士の位置や速度を計算し、激突しそうな場合は事前に教えてくれる。これによって道路への飛び出し事故なんてのも激減した。
しかも位置情報共有許可を与えれば同行者がはぐれる事も無く、迷子という言葉は最近では聞き覚えが無いくらいだ。
もちろん所詮デバイスである以上、人間側が無視すれば手の打ちようが無く、事故が全く無くなったというわけでは無いのだが。
[お疲れ様でした。おおよそ6.2km、平均時速10.3km、良いペースでした。身体を冷やさないように注意してください。このまま筋トレしますか?]
「ああ、一呼吸置いたら筋トレを始めるから、引き続き記録をしてくれ」
[承知しました。軽めに行うとの事ですが、痛みなどを感じるようでしたら無理はしないでください]
さすがに40歳にもなると、意識的に毎日運動をしないと、転げ落ちるかのように体力が低下していく。
そのため未だ独り身の殺風景な部屋の一角を筋トレ専用スペースに改造してあり、ダンベルやらマットやらが乱雑に置かれている。
今日は軽めにいつものメニューだけにして、高負荷メニューは避けておこう。
(しかし、いつも思うがなんでこんなに軽いんだろうな…)
当然、今手に持っているダンベルの話ではなく、SOPHIAの話だ。
常に耳の上に装着するのだから疲れるかと思ったのだが、実際に装着してみると、驚くほど軽いのだ。
バッテリーだって入っているはずなのに、ただの細身フレームの眼鏡をかけているかの如く、疲れも痛みも感じない。
一昔前の大型スマートフォンを手に持つのすら煩わしいと考えていた俺には、この軽さこそが不可思議な技術としか言いようが無い。
[田中様、ちょっとその朝食はいかがなものかと。せめて野菜を一品でも良いので加えて――]
「面倒だ。通勤途中で野菜ジュースでも買うよ」
[野菜ジュースでは補給しきれない栄養素があり、糖分も多く――]
「明日から気を付けるよ」
軽くシャワーで汗を流して朝食の準備をした所、早速小言が始まった。
SOPHIAには視界情報を共有しているおかげで、食事内容を自動把握して栄養アドバイスまでしてくれる。
これは追加機能だったのだが、職場の後輩が勝手に設定しやがったのだ。そして戻し方が俺にはわからない。
確かに納豆ご飯とゆで卵をコーヒーで流し込むという超時短メニューがあまりにも適当なのは認めるが、最近では小言が増えて来て、お前は俺の母親なのかと言いたくもなる。
だけどアイツに戻せって言っても、「先輩はもっと栄養に気を付けないとダメです」と説教が返ってくるだけだしなぁ…。
ものの5分で空になった食器をシンクに置き、SOPHIAの更なる小言([もっとよく噛んでください]、だそうだ)を聞き流しながら、服を着替える。
忘れ物が無いか、出発直前についかつての習慣でチェックしてしまうのだが、もし忘れ物があったらSOPHIAが指摘するだろう。何も言わないという事は、大丈夫という事だ。
[本日は1日中晴れの予報なので、傘の準備は不要です。通勤時間はいつものペースで歩けば20分程度、十分に間に合う時間です。道路状況には気を付けてください]
「はいはい、っと。じゃあ、行ってきます」
[はい、お気をつけて]
お前も俺の顔に乗っているんだから一緒に行くんだろ、と思ったが、持ち主によっては[いや私も一緒に行きますよ]とか返してくるような最適化がなされるのだろうか。
そんなどうでも良い事を考えながら、家を出た。




