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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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雨漏り宿と、台所の小さな奇跡

 雨は、止む気配を見せなかった。


 夕方をとうに過ぎ、夜の帳が落ちてもなお、屋根を叩く音は弱まるどころか、むしろ勢いを増しているように聞こえる。


 安宿の古びた天井板は、その攻撃を防ぎきれていなかった。


 ぽた、ぽた、ぽた――。


 規則的な水音が、暗い部屋の中に小さく響く。


「……やっぱり、漏れていましたのね」


 簡素なベッドの足元、その横に置いた桶の中へ、雨粒が落ちている。

 木の床にはすでに丸い染みが広がっていて、ここが初めての雨漏りではないのだと物語っていた。


 宿の主人は、「一番マシな部屋だ」と言っていたけれど。

 これで一番マシなら、他の部屋はどうなっているのか、想像するのが少し怖い。


 壁には、過去の雨漏りが刻んだかのような、茶色い筋がいくつも走っている。

 窓枠も、ところどころ塗料が剥がれて木目がむき出しになっていた。


 ――王都の屋敷では、天井から水が落ちてくることなど一度もなかった。


 当たり前のようにそういう環境で育った自分が、今こうして桶を置いて雨の位置を微調整しているのだと思うと、少しおかしくなってしまう。


「身分というのは、濡れた天井の下では、大して役に立ちませんわね」


 独り言のつもりで呟くと、部屋の入口の方から小さな笑い声がした。


「お姉ちゃん、変なこと言う」


 振り向けば、扉にもたれかかるようにして、昼間拾った子ども――あの子がこちらを覗いていた。

 今は宿の女中さんから借りたぶかぶかの寝間着を着ていて、濡れていた髪も乾いてふわふわになっている。


「変ではありませんわ。とても真面目な話ですのよ?」


「ふーん」


 子どもは、よく分からないという顔で首を傾げた。


 私のベッドは一つ。

 この子は、女中たちの部屋で休むことになっている。


「もう寝なくて大丈夫? 明日も歩くのですから」


 そう言うと、子どもは少しだけ視線を泳がせてから、小声で聞き返してきた。


「……お姉ちゃんこそ、寝ないの?」


「私はもう少し、この雨とお話ししてから休みますわ」


「雨と話すの?」


「ええ。あそこで、ちょっと騒ぎすぎている雫さんたちと」


 そう言って天井を指さすと、子どもはくすりと笑った。


「じゃあ、おやすみなさい、お姉ちゃん」


「ええ。おやすみなさい」


 小さな足音が遠ざかり、扉がそっと閉まる。


 その音が消えた途端、廊下の向こうから別の水音や人の気配が聞こえてきた。


 ぽたぽたという雨漏りの音。

 きしむベッドの音。

 誰かの、抑えた咳払い。


(……もしかしなくても、他の部屋の方が、ひどいのではなくて?)


 気になり始めると、じっとしていられない性分なのは、自覚している。


 しばらく迷った末に、私は部屋の扉を開けた。


◇ ◇ ◇


 廊下は、思った通り……いえ、想像以上に悲惨だった。


 細い廊下のあちこちに、桶や洗面器が無造作に置かれている。

 天井板の隙間からは、雨水がぽたぽたと落ち、床にはところどころ小さな水たまりができていた。


「……これは」


 足元に気をつけながら進んでいくと、半開きの部屋から、かすかな話し声が聞こえてきた。


「こっちは、もう布がもたないよ。ほら、ここからも染みてきてる」


「知ってるさ。でも、新しい板を張る金なんてないだろ……もう少し、我慢してくれよ」


 どうやら、宿の従業員たちの寝床らしい。

 覗き見るつもりはなかったけれど、視界に飛び込んできた光景に、思わず立ち止まる。


 狭い部屋に詰め込まれた粗末な寝台。

 どれもこれも、頭上の天井から水が落ちるのを防ぐために、古い布が押し込まれている。

 それでも追いつかず、布の端から水が滴って、寝台の一部がじっとりと濡れていた。


 若い女中が、濡れたシーツを触って顔をしかめている。


「風邪ひいちゃうよ、これじゃ……」


「明日は晴れるさ。そうしたらまた干せば――」


 言葉を切って、彼らは私に気づいた。


「あ……」


 女中の一人が、慌てて立ち上がる。


「リ、リヴィア様。こんなところまで……」


「失礼。物音がしたものですから」


 私は少しだけ首を傾げて、天井を見上げた。


「こちらの雨漏りも、ずいぶん……ええ、とても個性的ですわね」


 個性的、としか言いようがない。


「す、すみません。お客様のお部屋を優先してしまって……」


「当然ですわ。宿は客を泊めてこそのお仕事ですもの」


 女中がほっと息をつきかけたところで、私は続けた。


「ですから――同じ屋根の下にいる限り、ここもまた、今夜だけは私たち全員の家ですわ」


「え?」


「お客様用の部屋だけ無事で、従業員の皆さまが風邪をひいてしまっては、明日の仕事になりませんでしょう?

 結果として困るのは、宿も、旅人も、みんなですもの」


 女中たちが顔を見合わせる。


 彼女たちから見れば、「公爵令嬢」としての私と、「雨漏りを心配して廊下をうろうろしている女」は、きっとなかなか結びつかないのだろう。


「修繕の道具を、お借りできますか?」


「えっ」


「古い布や釘、木板の端切れなど。

 できる範囲で構いませんわ。少しでも、水の侵入を遅らせたいのです」


 そこへ、タイミング悪く――いえ、良く、宿の主人が通りかかった。


「おい、こんな時間に何を……って、お嬢さん?」


「ちょうどよろしかった」


 私は笑顔で主人に向き直る。


「すみませんが、雨漏りとの戦い方を少し教えていただけます?」


「戦い方……?」


「身分というのは、濡れた天井の下では本当に役に立ちませんの。

 せめて、手と足くらいは働かせたいと思いまして」


 主人は、言葉を失ったように口をぱくぱくさせてから、頭をかいた。


「……まったく。

 公爵令嬢ってのはみんな、あんたみたいなもんなのか?」


「いいえ。だいたいの場合、もっと優雅ですわ」


 そこは否定しておく。


◇ ◇ ◇


 結局、主人は渋い顔をしながらも、倉庫から古い布や板切れ、釘と金槌を持ってきてくれた。


「本当は、板から張り替えりゃいいんだがな。

 今は応急処置が精一杯だ」


「応急処置でも、しないよりはずっとましですわ」


 私は椅子を引きずって来て、ぽたぽたと音のする真下に置いた。


 脚立などという便利なものは、この宿にはない。

 椅子の上に立てば、かろうじて天井に手が届く、という高さだ。


「リヴィア様、危険です」


 案の定、レオン様が眉をひそめた。


「私がやります。

 リヴィア様は下で――」


「では、レオン様はこの部屋と向こうの部屋をお願いしますわ。

 私はここを」


「しかし――」


「同じ屋根の下にいるのですもの。役割分担は必要ですわ」


 にっこりと笑って、私は椅子に足をかけた。


 木の脚がぎし、と小さく鳴る。


(……少し、心許ないですわね)


 思わず内心でつぶやきながらも、慎重に体重をかけていく。

 ゆっくりと立ち上がり、頭上の天井に布を押し当てる。


 冷たい水が指先に触れた。

 そこへ布を押し込むようにして当て、釘を打ち込む準備をする。


「ここをふさいで……このあたりも……」


 バランスを取ろうと体を伸ばした、そのとき。


 ぐらり、と椅子が揺れた。


「あ――」


 足先が、ほんの少しだけ滑った。


 次の瞬間、体がふわりと宙に浮く。


「リヴィア様!」


 誰かの叫び声とほぼ同時に、力強い腕が腰を支えた。


 視界がくるりと回転して、私は気づけばレオン様の胸元に抱きとめられていた。


 さっきの馬車のときほど派手ではないけれど、これはこれで十分に恥ずかしい。


「……あ、ありがとうございます」


 心臓がどくどくと騒ぐ。

 顔が熱い。


「本当に、危険です。

 このような作業は――」


「申し訳ありません。

 でも、放っておくと、明日は風邪をひく人が出ますわ」


 彼の手からそっと離れ、地面に足をつける。


「私も、あなたも」


 そう付け加えると、レオン様は言葉を失ったように固まった。


 背後で、女中たちがこそこそと囁き合う気配がする。


「……あの人、本当に公爵令嬢なんだよね?」


「うん……だって敬称も何もかも、全部そうだし……でも……」


「貴族って、もっとこう、座って命令するもんじゃないの……?」


 こっそり聞こえてしまうあたり、彼女たちもまだまだ修行が必要だと思う。


「レオン様、椅子をしっかり押さえていただけます?」


「……分かりました」


 観念したように、彼は椅子の背を両手で固定する。


 私が再び上に乗ると、さっきよりも安定していた。

 釘を打つ音が、雨音に混ざって小さく響く。


(こういうことをしていると、お父様に知られたら叱られるでしょうね)


 「公爵令嬢が釘を打つものではない」と。

 けれど、今この場にいるのは、「公爵令嬢」としての私であると同時に、「一晩だけの同居人」としての私でもある。


 布を押し当て、釘を打ち、また別の部屋でも同じことを繰り返す。


 たったそれだけのことなのに、女中たちの顔色が目に見えて変わっていくのが分かった。

 驚きと、申し訳なさと、少しの安堵と――それから、うっすらとした畏れが。


(こんな人が本気を出したら、どれだけの人間を動かすのだろう)


 そんな声が、聞こえてきそうな気がした。


◇ ◇ ◇


 修繕が一段落する頃には、すっかり夜も更けていた。


 廊下の雨漏りは完全には止まらなかったけれど、水の落ちる位置を布と板でずらしたことで、少なくとも寝台の上に直接落ちてくることはなくなった。


「本当に……すまねえな」


 宿の主人が、頭をかきながらお礼を言う。


「こちらこそ、お道具を貸してくださってありがとうございます」


 私は笑って首を振った。


「さて。もう一つ、気になる場所があるのですけれど」


「まだ何か?」


 主人が目を丸くする。


「台所ですわ」


◇ ◇ ◇


 台所に足を踏み入れると、あたたかい空気と一緒に、少し物足りない匂いが鼻孔をくすぐった。


 大鍋で何かが煮えている。

 けれど、その香りは弱く、塩と水と、ほんの少しの野菜くらいしか使われていないことが容易に分かった。


「ああ、お嬢さん。もう夜食は出てるよ。あとはパンが少し――」


 女将が振り返って言いかけ、私の姿に気づいて目を見開いた。


「まさか、厨房までいらっしゃるとは……」


「お邪魔してしまってごめんなさい。

 先ほど、スープを少しいただいたのですけれど」


 私は、慎重に言葉を選ぶ。


「とても、謙虚なお味でしたわ」


「……すまねえね。

 今はこれで精一杯で――」


「事情は、分かっております」


 女将の手には、しなびかけた根菜が数本。

 肉らしいものは見えない。

 薄く切ったパンの端が、トレーに並べられている。


「少しだけ、私のわがままを混ぜてもよろしいかしら?」


「わがまま……?」


 私は自分の荷物から、小さな布袋を取り出した。


 乾燥させたハーブと、砕いた豆。

 それから、兵たちの携行食として持っていた干し肉を数切れ、彼らの許可を得て分けてもらってきた。


「このハーブは、身体を温めてくれますの。

 こちらの豆と干し肉は、スープに入れると、少しだけ味と栄養が増しますわ」


「そんな貴重な物、あんたの分が減っちまうじゃないか」


「大丈夫ですわ。

 せめて、今夜くらいは温かいスープで眠りたいでしょう? 私も、あなたも」


 そう言って、ハーブを指先でほぐしながら鍋に入れる。


 干し肉を細かく刻み、豆と一緒に放り込む。

 木のスプーンでゆっくりとかき混ぜると、次第にスープの表情が変わっていく。


 ふわり、と、先ほどとは違う香りが立ち上った。


「わあ……」


 女将が思わず声を漏らす。


 味見用の木匙で、少しだけ掬って口に含んでみる。


「……あら。

 我ながら、けっこういけますわね?」


 思わず本音がこぼれた。


 女将が、くすっと笑う。


「お嬢さん、料理もなさるのかい」


「生きていくためには、ある程度は必要ですもの。

 特に、辺境に行くのであれば」


 鍋をぐるりと混ぜ、火加減を調整する。


「これを、皆さまにも分けていただけます?」


「もちろんだとも。

 こんなうまそうな匂い、黙って独り占めできるわけがないさ」


◇ ◇ ◇


 やがて、台所から広間へと、スープの匂いが流れていった。


 兵士たちが不思議そうな顔で顔を上げる。


「さっきと匂いが違う……」


「おかわりがあるんですかね?」


「いえ、それは私が望んでしまった結果ですわ」


 女将と一緒に鍋を持って現れると、兵たちが揃って目を丸くした。


「リヴィア様?」


「夜分に失礼いたします。

 先ほどのスープを、少しだけ“増やして”しまいましたの」


 器にスープをよそいながら、一人一人に手渡していく。


 先ほど拾った子どもも、暖炉の近くで器を受け取っていた。

 湯気の向こうで、その頬が赤く染まる。


「これで明日は少しだけ、身体が楽になるはずですわ」


 そう言って笑うと、兵士の一人がぽつりと呟いた。


「……こんな領主が、本当にいるのか」


 その声には、尊敬と、戸惑いと――そして、わずかな畏怖が混ざっていた。


 女将は器を両手で抱え、半ば震えながら礼を言った。


「こんなことまでしてもらったら……

 あんたが本気になったとき、この国、どうなっちまうんだろうね」


「それは、私にも分かりませんわ」


 私は正直に答える。


「ただ――少なくとも、今夜この屋根の下で眠る人たちが、

 少しでもましな朝を迎えられるなら、それでいいのです」


 外では、まだ雨が降っている。


 けれど、広間の中は、先ほどよりずっと暖かかった。

 スープの湯気と、人の息と、ささやかな笑い声。


 濡れた天井の下で、身分はあまり役に立たない。

 でも、手を伸ばすことと、鍋をかき混ぜるくらいなら、私にもできる。


 そんな当たり前のことを噛みしめながら、私は自分の器をそっと唇に運んだ。


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